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1巻
1-1
プロローグ
東京下町の一角。昔ながらの商店街の裏手に、その小さな公園はあった。
遊具はなく、錆びたベンチがひとつ置かれているだけの、閑散とした場所である。
初夏のぎらつく太陽が傾いた頃、その公園に、背広を着た恰幅のいい男性が現れた。
厳めしい面持ちの初老の男で、手には赤い薔薇の花束がある。
男はベンチに座って大きな身体を丸めると、頭を垂らしてため息をついた。三十分あまり嘆息を繰り返した後、おもむろに歩き出し、公園の脇に停めてある黒塗りの車に乗って去っていく。
それが、ここ一ヶ月における男の日課だった。
その様子を同じベンチの端から見ているのは、赤いランドセルを背負う十歳の少女――北村藍。
商店街が見渡せるこの場所で、熱々のたこ焼きを食べることに幸せを感じていた藍にとって、毎日黄昏に現れるこの辛気くさい男の存在は、たこ焼きの美味しさを半減させる。
藍はこの悩みの種をなんとかするため、男になにかあったのか尋ねてみた。
「実は、おじさんには好きな女性がいてな……」
ぽつりぽつりと語り出した男曰く、彼には意中の女性がいるようで、彼女に求婚したいが、その勇気が出ないらしい。毎日花束を買っても渡すことができず、ここでずっと煩悶しているのだとか。
「完全におじさんのひと目惚れでな。毎日通った甲斐あって、それなりにいい雰囲気になったんだが、プライベートでは会ってくれないんだ。シングルマザーだからと、遠回しに客と店員以上の関係にならないよう一線を引いてくる。子供がなんだというんだ。おじさんは真剣なんだ。だからいっそのこと、子供ごと彼女をもらい受けようと求婚することにした。だが、もし断られたらと思うと、こう……勇気が出なくなってしまってな」
男は肩を落としながら続ける。
「それに子供の意志も無視はできん。彼女は子供のことを詳しく言いたがらない。許可されていないのに勝手に調べて、子供に接触するわけにもいかんだろう? ……なあ嬢ちゃん。子供の立場からすると、新しい父親が突然できるのはいやか? 母親の結婚の後押しはしにくいものか? ここに私の欄を埋めた婚姻届も用意しているんだが、どうすれば子供にも祝福されて、彼女にサインしてもらえると思う?」
藍は話を聞いてイライラしていた。小学生の自分よりはるかに大人のくせして、自ら動いてもみないで、なぜ憶測だけでグジグジと悩んでいるのだろう。
懐から出したその紙切れがなんなのかはわからないが、書いてもらいたいなら、書いてと言えばいいだけだ。花束だって受け取ってほしいなら、そう言って渡せばいい。家族になりたいのなら、彼女にも子供にもそう言えばいいだけだ。
遠くから眺めているだけでは結婚できるはずがないことくらい、子供だってわかる。
「ああ……どうすればいいんだ」
男は頭を抱えた。それを見た藍は自分の中で、なにかがぶちっと切れた音を聞いた。
彼女は呻くような低い声で言う。
「……おっちゃん。ぐだぐだ言わず、行け」
完全に頭にきていた。
こんな腰抜け男のせいで、至高のたこ焼きの味が損なわれるなど、たまったものじゃない。
勝手に尋ねてなんだが、男の恋愛事情なんて知ったことか。
大事なのは、たこ焼きだ。なんといってもこのたこ焼きは、商店街にある人気店『たこちゅう』で働く母が作っているもの。藍は学校帰りに母の仕事場に近いこの公園でたこ焼きを食べつつ、母の仕事が終わるのを待つのがこの上ない幸せなのだ。
「女はフヌケに用はない。自分について来いと言うくらいの、男のカイショー見せてみろ!」
それは最近見たドラマでの台詞だ。意味がよくわからないところはあったが、背を向ける男を女が叱る場面だったから、たぶん使い方は間違っていないだろう。
藍は据わった目のまま続ける。
「父親になりたいなら、母親の幸せな顔を子供に見せてみろ。悩む前に、まず動け!」
「――わかった」
その迫力に押されたのか、男はごくりと唾を呑み込んで頷くと、その場から立ち去った。
たこ焼きの味を守った――正義のヒーローの如き満足感を得た藍が、満面の笑みでたこ焼きを食べ始めて二十分後。去ったはずの男が戻ってきた。
「ありがとうな、嬢ちゃん。嬢ちゃんが背中を押してくれたおかげで、うまくいったよ。子供ごと必ず幸せにすると強気で求婚したら、彼女……泣いて喜んでくれたんだ。嬢ちゃんはおじさんの恩人だ。まさか嬢ちゃんが……」
藍は律儀な男の報告など聞いておらず、男の隣にはにかんで立つ女性を凝視していた。
『たこちゅう』と書かれた法被を着た女性。それはどう見ても――
「お母さん……?」
藍が呟いた途端、強面の黒服の男たちがわらわらと湧いて出てくる。
何ごとかとびっくりする藍の前で、彼らは左右一列に並び、泣きながら一斉に拍手をした。
「組長、ご成婚、おめでとうございます!」
……叶うなら、藍は二十分前の自分に言いたかった。
情けは自分のためならず。見知らぬ男に声をかけるな、と。
声をかければ最後、母の再婚を後押しした上、ヤクザの……しかも組長の娘になるよ――と。
第一章 再会は突然に
時は移り変わり、東京――
文教地区と呼ばれる静謐な地域に、五階建ての『アークロジック』本社ビルはあった。
関東圏を中心とした都市再生整備をメインとする、老舗の総合コンサルタント企業である。
八月上旬の早朝、『まちづくり推進プロジェクト』と札が掲げられた四階の会議室で、快活な女性の声が響いた。
「さあ、梅雨明けのじめっとした暑さに負けず、今日も元気に下っ端OLは、働きます!」
誰もいない室内で、雑巾を片手に高らかに宣言したのは――入社二年目、今年二十五歳になる北村藍である。
肩にかかる柔らかな黒髪。目鼻立ちが大きく整った顔。
意志の強そうな黒目がちの目が和らぐと、少しあどけない印象を周囲に与える。
藍はいつも始業の一時間前には会社にいるが、ここ数日は特に出社時間が早い。
理由は至極簡単。家のエアコンが故障し、扇風機だけでは暑さに耐えられなくなったからだ。
「あの蒸し風呂地獄に比べると、なんてここはパラダイス! 冷風に当たれるのなら、いくらでも早く来てお掃除しちゃうわ。……あ、コピー用紙切れてる! よかった、確認しておいて」
たとえ社員といえども、冷房の恩恵をただで受ける性分ではない。経費がかかる分、きちんと労働力で支払っている。
始業四十分前。コーヒーメーカーにセットした珈琲ができ上がる頃になると、ドアが開く。
入って来たのは、藍より五歳上で、有能と名高い美男美女の同期コンビだ。
恋人同士でもなければ、示し合わせているわけでもないらしいが、大体ふたりは一緒に出勤してきて、朝から仲良く口喧嘩をしている。
肉感的で華やかな女性は、藤倉香菜。彼女の辛辣な言葉に負けじと声をあげるのは、爽やかスポーツマンタイプのイケメン、南沢愼也である。
「文句があるのなら、私より多く表彰されるか、難航不落な西条社長を陥落させてから言いなさいよ。チームリーダーの威信にかけて!」
「アポすら取れない厄介な相手だということは、お前も知っているだろうが。俺だって色々と考えているんだよ!」
ヒートアップするふたりの言葉が、ふと止まる。藍がにこにこと笑顔で立っていたからだ。藍の両手には、湯気がたちのぼる珈琲が入ったマグカップがある。
「おはようございます、リーダー、藤倉さん。まずは涼しい風に当たって珈琲をどうぞ。それと昨夜、今日のおやつ用におからクッキー作ったんです。よければ味見でご一緒に」
ふたりは、邪気のない藍の雰囲気のおかげでクールダウンすると、いつも通りの穏やかな顔に戻った。
「美味しい。北村ちゃん……、私の嫁に欲しいわ」
「北村は嫁というより、妙に所帯じみてオカン……を通り越して、ばあちゃん臭いところがあるよな。田舎のジジババのところへ行ったような、ほのぼの感というか……」
「南沢! あんた、私たちより五つも若い北村ちゃんに、なんて失礼な……」
「いいんですよ。わたし下町生まれのひとりっ子で、年配の方に囲まれて育ちました。彼女たちから、シンママの母に代わって家事を教えてもらいましたし。母が再婚してからは、田舎のおじいちゃんと長く暮らして、高校からは独り暮らしを始めたので、ひとより生活臭が漂っているんだと思います」
笑って答えると、ふたりが妙にしんみりとしてしまった。
藍が慌てて弁解しようとした時、ピッと機械音がして冷風が止まる。
「黒鉄、お前……エアコンを消すな!」
南沢が文句を言った先には、ひょろひょろとして青白い顔をした男性が立っていた。黒鉄豊――藍より三歳年上の彼は、壁にあるリモコンをいじっている。
「現在、室温は二十二度。冷房は二十六度を保つために使用してください。経費の無駄遣いです」
悪びれた様子もなく、彼は席につく。背広を脱いでも長袖のワイシャツである。
どこぞの妖怪物語の主人公のように、顔の半分が長い前髪で隠れており、その不気味さが冷涼感を醸し出す。
黒鉄は、藍と同じ時期に中途採用枠でシステム開発部へ入社したらしい。ITスキルがかなり高く、分析能力に優れているためか、多少コミュ障で神経質気味でも周囲は目を瞑っているのである。
(うう、せっかくのエアコンなのに、使わないなんてもったいない……)
黒鉄に砂糖山盛りカフェオレを出すと、今度はふたりの男性社員が現れた。
学生時代にアメフト部だったという山田剛と、柔道をしていたという太田清志だ。今年二十七歳のふたりは体格がいい上に暑がりで汗っかきのため、すぐに冷房を入れてしまい、ひと回り小さい黒鉄に叱られている。
藍は簡易冷蔵庫に用意していた珈琲に氷を入れて、しょげるふたりに差し出した。
最後に現れたのは、チームの指揮官である八城翔だ。
三十三歳の八城は、鷲の如き鋭い目をした、野性味に溢れたイケメンである。
伝説級の営業力を誇り、最年少で営業部長職についた彼は、出世間違いなしと言われている。
藍が慌てて氷なしの冷たい珈琲を用意して八城に差し出すと、彼は喜んで一気に飲み干す。
「サンキュ。下で専務に会ったら専務室に連行されてな。北村のおかげで生き返った」
八城は一見近寄りがたい印象があるが、実際はよく笑い、人懐っこい笑みを見せる。
三年前、文学部の大学生だった藍は、就活をするも全滅。就職浪人を覚悟した時、就職課の担当から面接を受けてみないかと勧められたのが、アークロジックだった。
八城は面接官のひとりであり、最初は怖いと思っていたが、入社後も顔を合わせれば気さくに声をかけてくれた。同じチームにいる今では、気軽に雑談もできる尊敬すべき上司だ。
すべてのメンバーが自席につき、各自が担当する外部団体との進捗状況を報告しあった。
(わたしもこうやって、活き活きと担当のお仕事がしてみたいなあ)
藍は羨望の眼差しで、メンバーたちの言葉を聞く。
ここはアークロジックの各部署から選抜された、七名の精鋭社員が集うプロジェクト本部だ。
東京の下町をターゲットに、自治体や組合などと連携しつつ、出店したい店主、土地活用をしたい地権者、施設を作りたい建設業者をとりまとめ、中心となって事業を進めている。
プロジェクトの総責任者は大江専務だ。八城のコネと手腕により可能となった管理事業なのに、重役会議で自らの手柄のように報告して鼻高々らしい。
八城は昨年末、メンバーを選出するため、部課や肩書きを問わずに企画レポートを募った。
題目は『東京下町の再開発』。
藍は、最初はこの新プロジェクトを他人事と思っていたが、下町が舞台だと知り、小学生の時まで母と住んでいた懐かしい場所を思い浮かべた。
人情味溢れた良いところだったが、その後に藍の黒歴史となったある理由から、冷たく手のひらを返された場所でもあった。
ノスタルジックな感傷に浸りながら、いつまでも温かく笑顔に満ちた町でいてほしかった……そんな思いをこめて、こっそり応募してみたところ、なんと採用されたのだ。
それまで先輩の補助や雑用しかしていなかった新米が、プロジェクトチームに抜擢されたのは異例のこと。一番驚いたのは藍だった。優秀な社員として常に名があがる、錚々たるメンバーに自分は未熟すぎるからと、辞退を申し出た。
しかし八城曰く、藍の企画書が一番具体的で住民目線に立っており、並々ならぬ熱を感じたとか。想定場所もちょうど、八城が狙っていた土地候補のひとつだったらしい。
『就職面接の時、お前は度胸と根性だけは自信があると豪語した。プレッシャーに負けず、企画書に込めた情熱を形にし、フレッシュな風を入れてくれ』
それを聞いて、藍は八城に、その下町は亡き母との思い出の故郷であると同時に、悪い思い出もあることを話した。正直、心の傷になっている場所と関わるのは複雑なのだと。
『お前の時間は止まったままなんだな。だったらこれから下町へ行くぞ。お前の時間を現実のものに合わせるために』
十五年ぶりに見る故郷は、老朽化が進み空き家ばかり。記憶より廃れて精彩さがない。
藍はかつての住居付近を巡り、名を名乗ったが、覚えている住民はひと握りだった。
母とここで生きてきた証が薄れている様は、母の死を二度受け入れるようで苦しかった。
『お前にとって特別な場所を、お前の手で守ってみたいと思わないか?』
自分に守れるだろうか。いや、自分が守りたい――
そうして藍は、下町改革プロジェクトの一員になる決心をしたのだった。
藍の願いから生まれた小さな企画は、八城を始めとした専門家の手で素晴らしい構想となった。これは話題になると誰もが確信し、順調にプロジェクトは進められていったが、ただひとつ問題があった。……土地だ。
プロジェクトでは、イベントも開催できる公園を併設した、巨大複合施設が目玉だ。
今は工場跡になっているその土地を、地権者がGOサインはおろか、話し合いの席にもついてくれないのだ。
旨味がある事業なのだから、必ず食いついてくる――そんな目論見を崩した地権者は、都心にある、創立七年目の不動産会社『カルブサイド』。西条グループの御曹司が社長を務めている会社だ。
西条は歴史ある巨大グループであり、各界に影響力がある。その御曹司がずっとOKを出さない事業に参加していいものかと、せっかく決まりかけている施工業者も、入店希望者も渋り出す始末だ。
早急になんとかしてほしいと外部団体からも訴えられ、今はメンバーが一丸となって、どうすれば西条社長と交渉できるのかを模索していた。
そんなある日の午後、南沢が外から戻り、シュークリームが入った箱を机に置いてぼやいた。
「アポなし突撃も、強行突破もだめ。しかもあそこの社員、やけに強面で威圧的な男ばっかりだから、社員と仲良くして……という懐柔案も無理。手土産にするつもりで買ったシュークリームは、後で皆で食べようぜ。そっちは?」
すると、藤倉が目元を押さえながら答える。
「コールセンターも含め、西条社長へのアポ、今日も全滅よ。山田と太田から連絡はなし」
体力に自信がある山田と太田は、交代で西条社長の動向を見張っている。車移動でもしてくれれば、そこに突撃できるのだが、社長は今日も動く様子がないようだ。夜遅くまで交代で見張っているのに、何時に帰宅しているかすらわからないという。
(見張り場所は毎回変えていると言っていたけれど、それでも捕まらないなんて、社長……会社を住居にして引き籠もっているのかしら)
黒鉄は得意のコンピューターを駆使して西条社長の情報を集めるが、どれもこれもが謎に包まれ、めぼしい情報はない。写真も顔がよくわからないほど小さかった。
大きなため息をついた南沢は、ふと思い出したようにして藍に振り向く。
「なあ、北村。この前、郵送してもらった資料や書状に対する返事は?」
「一切、連絡ありません。見てくれたのかも謎です。メールも同様です」
「となれば、後は……自治体に協力要請に行っている部長に賭けるしか……」
しばらくして八城が戻り、メンバーたちは期待の目を向けたが、八城は首を横に振った。
「西条グループの力を怖がった自治体に、社長の父親である当主を動かすことを拒まれた。もしも土地問題が難航するようなら、別の下町に舞台を移した方がいいと言われたよ。それをなんとか保留にしてきた。せめて西条社長が、気乗りしない理由がわかれば、手を打てるんだが……」
藍は疲れた顔をした八城に淹れ立ての珈琲を差し出し、恐縮して言った。
「お疲れ様です、部長。お帰り早々で申し訳ありませんが、専務よりお電話が欲しいと……」
「早く結果を出したくて仕方がないんだろうな。これはまた専務のお説教コースだな」
片手で頭を抱えつつ専務と電話をしている八城を見て、藍もなにか協力できないかと考えた。
しかし、経験豊富な他のメンバーですら、どんな方法をとっても社長と会えないのだ。新米がアポなど取れるはずがないからと、電話がけを求められたことはないが、こうなればものは試しだ。
「これより北村、電話にて初アポ取り、行かせてもらいます」
メンバーたちは無駄だからやめておけと笑ったが、「新米でも女は度胸です」とガッツポーズで挑戦の意思を伝え、電話をかけてみた。緊張しすぎて、社名の次にフルネームを名乗ってしまったが、笑われることも断られることもなく、保留音に切り替わる。
しばらくして社長秘書だという男が電話に出て、社長の言葉を告げた。
明日の午後二時はどうか、と。
「あ、会ってくださるんですか⁉」
藍は声を裏返らせ、電話の声がメンバーにも聞こえるように、スピーカー状態にした。
『はい。明日午後二時、少しだけなら我が社でお会いしてもいいと、社長の西条が言っております』
藍は電話を切ると、ちょうど専務との電話を終わらせた八城に、弾んだ声で報告した。
「部長、奇跡が起きました! ビギナーズラックです! なぜか西条社長のアポ、取れました!」
「本当か⁉ 北村、偉いぞ。よくやった!」
八城が喜ぶ隣で、他のメンバーは信じられないと、ただ口と目を大きく開けて固まっていたのだった。
◆・━・◆・━・◆
打ち合わせ当日、午後二時前――
都心にある『カルブサイド』は、周囲に建ち並ぶ大手企業の本社ビルに引けをとらないほどの存在感を示していた。さすがは西条グループの御曹司に相応しい居城である。
(初めての打ち合わせ……緊張する。でも昨日メンバーの皆と事業計画書は作り直して、終電ぎりぎりまで策は練ったし、部長がいるんだし。なにより、あの時の恐怖に比べたら……)
脳裏に大広間に集うヤクザたちの姿が蘇り、藍はぶんぶんと首を横に振ってそれを振り払った。
「大丈夫か?」
八城が心配げに声をかけてくる。藍は大丈夫だと笑ってみせた。
「北村。母親との思い出の場所を、喜びに満ちたものにしたいんだろう? たとえ社長になにを聞かれても、俺の時と同じようにあの情熱を語ればいい。難しいことは俺がすべて引き受けるから」
「部長……。なんだか後光が差してます」
「なんだ? 俺に惚れたって?」
八城がにやりと笑って冗談を言うと、藍はすっと笑みを引かせて即答する。
「いいえ、それはありません」
「秒殺かよ。ささいなことでも意識をされたら、それはそれで面倒だが、ここまで平然とぶった斬られると、男としての自信が……」
「モテる男性の自信回復は、他の女性でなさってください。……あ、誰か来ました」
オフィスのドアが開き、受付嬢から連絡を受けたと思われる男性が現れた。
社長秘書の安田と名乗った彼は、上等なスーツを着て、黒々とした髪をオールバックにしている。
「いらっしゃいませ! 社長室へご案内します!」
電話の声より、えらく威勢がいい。
(歓迎されているみたいだけど……これはいい兆しだわ)
安田はやけにちらちらと藍を見て饒舌に話しかけてくるが、八城には愛想がほとんどない。藍はそんな安田の態度を訝しがりながら、妙な既視感を覚えた。しかし今は記憶を辿るよりも、ひとりでも多く味方を増やそうと、愛想笑いをして安田の雑談に乗じる。
安田は最上階にある社長室のドアをノックして、ドアを開く。
「社長。アークロジックのお……いや、く……?」
藍の苗字が出てこないらしい。藍はこほんと咳払いをして小声で援護する。
「北村と、営業部長の八城です」
「北村さん方が見えられました。さささ、お……北村さん。社長のそばまでどうぞ! 社長が、首を長くしてお待ちしています。では私はこれで」
社長室の奥に広がるのは、東京を一望できる大きな窓。
その前に、こちらに背を向けて立つ黒い背広姿の長身の男が、壮大な景色を見下ろしていた。
これが、難攻不落と言われる西条社長だろう。藍は名刺を用意して、元気よく挨拶をする。
「西条社長。アークロジックの北村と申します。本日は営業部長の八城とともにお伺いしました。お忙しい中、お時間を取っていただき、誠にありがとうござ……」
藍の言葉が切れたのは、黒髪の男がこちらを向いたからだ。
陽光が、男のシャープな頬を柔らかく照らす。
秀麗に整った顔、それは――
「社長の西条瑛です」
どくん。
藍の心臓が、大きく跳ねた。
(まさか……)
艶やかな声。
光を浴びて金に輝く、琥珀色の瞳。
「お久しぶりですね、北村さん」
冷ややかな美貌を魅せるのは、どう見ても――六年前に捨ててきたはずの男。
藍の初恋を踏みにじった、非情な男。
(どうして彼が、西条の御曹司になっているの?)
藍が警戒に顔を強張らせると、目の前の男は口端を吊り上げた。
頭の中で、六年前の彼の声がリフレインする。
『いい夢を見れましたか?』
……そう言っているのだろうか、今もなお。
ぎりりと、蝉の羽音のような音を響かせたのは、歯軋りなのか、それとも心の悲鳴か。
(逃げ切れたと思っていたのに……!)
藍は唇を噛みしめながら、六年前の出来事を回想した――
※ ※ ※
『北村さん母子に声をかけたら、ヤクザに半殺しにされるんですって』
『草薙組組長の娘と話すのは、すぐにやめなさい』
ねぇ、わたしがなにをしたの。どうしてわたしを嫌うの。
『藍、お引っ越ししよう。新しいパパのおうちに。今まで、パパがいなくて寂しい思いをさせてごめんね。これからは藍がお食事作ったり、洗濯をしたり、家のことをいろいろしなくてもいいのよ。新しいパパ、藍が欲しいもの買ってあげるって言ってたわよ~。なにを買ってもらおうか』
わたし……お父さんがいなくて寂しいとか、家のことをするのがいやだとか、贅沢したいとか、そんなことを思ったことはないの。頑張るお母さんの力になりたかっただけ。
『藍、幸せになろうね』
わたし、今までも幸せだったよ。お母さんが笑顔でいてくれれば、貧乏だってよかった。
わたし……ヤクザのおうちに行きたくない。ヤクザの子供になりたくない。
お母さんだけの子供でいい。それが叶わないのなら――
『ぎっくり腰になったおじいちゃんと暮らす? あんな田舎の山奥に⁉ お母さんは許さないわ! 藍がそんなに草薙組をいやがるのなら、お母さん、結婚を諦める……』
お母さんを悲しませたいわけじゃないの。大好きなお母さんは、笑顔で幸せになってほしい。
お母さんの結婚を反対しないから、独りで暮らしているおじいちゃんのところに行かせて。わたし家事はできるし、ちゃんとおじいちゃんの看病をする。おじいちゃん、心配だもの。
『どうしても……行ってしまうのか? ヤクザのおじさんは嫌いか。家族になったのに、同じ家に住んでお父さんと呼んではくれないのか。そこまでヤクザを嫌うのは、なにか怖い目にでも遭ったのか?』
前にヤクザが、近所の駄菓子屋のおばあちゃんとお店に、ひどいことをしていたの。だからわたし、おばあちゃんを守ろうと噛みついたら、たくさん叩かれて。
ワンワンが助けてくれなかったら、わたし……死んじゃっていたかもしれなかったんだって。
だからヤクザは嫌い。大嫌い――
「ん……」
そこで藍は目を覚ました。
東京下町の一角。昔ながらの商店街の裏手に、その小さな公園はあった。
遊具はなく、錆びたベンチがひとつ置かれているだけの、閑散とした場所である。
初夏のぎらつく太陽が傾いた頃、その公園に、背広を着た恰幅のいい男性が現れた。
厳めしい面持ちの初老の男で、手には赤い薔薇の花束がある。
男はベンチに座って大きな身体を丸めると、頭を垂らしてため息をついた。三十分あまり嘆息を繰り返した後、おもむろに歩き出し、公園の脇に停めてある黒塗りの車に乗って去っていく。
それが、ここ一ヶ月における男の日課だった。
その様子を同じベンチの端から見ているのは、赤いランドセルを背負う十歳の少女――北村藍。
商店街が見渡せるこの場所で、熱々のたこ焼きを食べることに幸せを感じていた藍にとって、毎日黄昏に現れるこの辛気くさい男の存在は、たこ焼きの美味しさを半減させる。
藍はこの悩みの種をなんとかするため、男になにかあったのか尋ねてみた。
「実は、おじさんには好きな女性がいてな……」
ぽつりぽつりと語り出した男曰く、彼には意中の女性がいるようで、彼女に求婚したいが、その勇気が出ないらしい。毎日花束を買っても渡すことができず、ここでずっと煩悶しているのだとか。
「完全におじさんのひと目惚れでな。毎日通った甲斐あって、それなりにいい雰囲気になったんだが、プライベートでは会ってくれないんだ。シングルマザーだからと、遠回しに客と店員以上の関係にならないよう一線を引いてくる。子供がなんだというんだ。おじさんは真剣なんだ。だからいっそのこと、子供ごと彼女をもらい受けようと求婚することにした。だが、もし断られたらと思うと、こう……勇気が出なくなってしまってな」
男は肩を落としながら続ける。
「それに子供の意志も無視はできん。彼女は子供のことを詳しく言いたがらない。許可されていないのに勝手に調べて、子供に接触するわけにもいかんだろう? ……なあ嬢ちゃん。子供の立場からすると、新しい父親が突然できるのはいやか? 母親の結婚の後押しはしにくいものか? ここに私の欄を埋めた婚姻届も用意しているんだが、どうすれば子供にも祝福されて、彼女にサインしてもらえると思う?」
藍は話を聞いてイライラしていた。小学生の自分よりはるかに大人のくせして、自ら動いてもみないで、なぜ憶測だけでグジグジと悩んでいるのだろう。
懐から出したその紙切れがなんなのかはわからないが、書いてもらいたいなら、書いてと言えばいいだけだ。花束だって受け取ってほしいなら、そう言って渡せばいい。家族になりたいのなら、彼女にも子供にもそう言えばいいだけだ。
遠くから眺めているだけでは結婚できるはずがないことくらい、子供だってわかる。
「ああ……どうすればいいんだ」
男は頭を抱えた。それを見た藍は自分の中で、なにかがぶちっと切れた音を聞いた。
彼女は呻くような低い声で言う。
「……おっちゃん。ぐだぐだ言わず、行け」
完全に頭にきていた。
こんな腰抜け男のせいで、至高のたこ焼きの味が損なわれるなど、たまったものじゃない。
勝手に尋ねてなんだが、男の恋愛事情なんて知ったことか。
大事なのは、たこ焼きだ。なんといってもこのたこ焼きは、商店街にある人気店『たこちゅう』で働く母が作っているもの。藍は学校帰りに母の仕事場に近いこの公園でたこ焼きを食べつつ、母の仕事が終わるのを待つのがこの上ない幸せなのだ。
「女はフヌケに用はない。自分について来いと言うくらいの、男のカイショー見せてみろ!」
それは最近見たドラマでの台詞だ。意味がよくわからないところはあったが、背を向ける男を女が叱る場面だったから、たぶん使い方は間違っていないだろう。
藍は据わった目のまま続ける。
「父親になりたいなら、母親の幸せな顔を子供に見せてみろ。悩む前に、まず動け!」
「――わかった」
その迫力に押されたのか、男はごくりと唾を呑み込んで頷くと、その場から立ち去った。
たこ焼きの味を守った――正義のヒーローの如き満足感を得た藍が、満面の笑みでたこ焼きを食べ始めて二十分後。去ったはずの男が戻ってきた。
「ありがとうな、嬢ちゃん。嬢ちゃんが背中を押してくれたおかげで、うまくいったよ。子供ごと必ず幸せにすると強気で求婚したら、彼女……泣いて喜んでくれたんだ。嬢ちゃんはおじさんの恩人だ。まさか嬢ちゃんが……」
藍は律儀な男の報告など聞いておらず、男の隣にはにかんで立つ女性を凝視していた。
『たこちゅう』と書かれた法被を着た女性。それはどう見ても――
「お母さん……?」
藍が呟いた途端、強面の黒服の男たちがわらわらと湧いて出てくる。
何ごとかとびっくりする藍の前で、彼らは左右一列に並び、泣きながら一斉に拍手をした。
「組長、ご成婚、おめでとうございます!」
……叶うなら、藍は二十分前の自分に言いたかった。
情けは自分のためならず。見知らぬ男に声をかけるな、と。
声をかければ最後、母の再婚を後押しした上、ヤクザの……しかも組長の娘になるよ――と。
第一章 再会は突然に
時は移り変わり、東京――
文教地区と呼ばれる静謐な地域に、五階建ての『アークロジック』本社ビルはあった。
関東圏を中心とした都市再生整備をメインとする、老舗の総合コンサルタント企業である。
八月上旬の早朝、『まちづくり推進プロジェクト』と札が掲げられた四階の会議室で、快活な女性の声が響いた。
「さあ、梅雨明けのじめっとした暑さに負けず、今日も元気に下っ端OLは、働きます!」
誰もいない室内で、雑巾を片手に高らかに宣言したのは――入社二年目、今年二十五歳になる北村藍である。
肩にかかる柔らかな黒髪。目鼻立ちが大きく整った顔。
意志の強そうな黒目がちの目が和らぐと、少しあどけない印象を周囲に与える。
藍はいつも始業の一時間前には会社にいるが、ここ数日は特に出社時間が早い。
理由は至極簡単。家のエアコンが故障し、扇風機だけでは暑さに耐えられなくなったからだ。
「あの蒸し風呂地獄に比べると、なんてここはパラダイス! 冷風に当たれるのなら、いくらでも早く来てお掃除しちゃうわ。……あ、コピー用紙切れてる! よかった、確認しておいて」
たとえ社員といえども、冷房の恩恵をただで受ける性分ではない。経費がかかる分、きちんと労働力で支払っている。
始業四十分前。コーヒーメーカーにセットした珈琲ができ上がる頃になると、ドアが開く。
入って来たのは、藍より五歳上で、有能と名高い美男美女の同期コンビだ。
恋人同士でもなければ、示し合わせているわけでもないらしいが、大体ふたりは一緒に出勤してきて、朝から仲良く口喧嘩をしている。
肉感的で華やかな女性は、藤倉香菜。彼女の辛辣な言葉に負けじと声をあげるのは、爽やかスポーツマンタイプのイケメン、南沢愼也である。
「文句があるのなら、私より多く表彰されるか、難航不落な西条社長を陥落させてから言いなさいよ。チームリーダーの威信にかけて!」
「アポすら取れない厄介な相手だということは、お前も知っているだろうが。俺だって色々と考えているんだよ!」
ヒートアップするふたりの言葉が、ふと止まる。藍がにこにこと笑顔で立っていたからだ。藍の両手には、湯気がたちのぼる珈琲が入ったマグカップがある。
「おはようございます、リーダー、藤倉さん。まずは涼しい風に当たって珈琲をどうぞ。それと昨夜、今日のおやつ用におからクッキー作ったんです。よければ味見でご一緒に」
ふたりは、邪気のない藍の雰囲気のおかげでクールダウンすると、いつも通りの穏やかな顔に戻った。
「美味しい。北村ちゃん……、私の嫁に欲しいわ」
「北村は嫁というより、妙に所帯じみてオカン……を通り越して、ばあちゃん臭いところがあるよな。田舎のジジババのところへ行ったような、ほのぼの感というか……」
「南沢! あんた、私たちより五つも若い北村ちゃんに、なんて失礼な……」
「いいんですよ。わたし下町生まれのひとりっ子で、年配の方に囲まれて育ちました。彼女たちから、シンママの母に代わって家事を教えてもらいましたし。母が再婚してからは、田舎のおじいちゃんと長く暮らして、高校からは独り暮らしを始めたので、ひとより生活臭が漂っているんだと思います」
笑って答えると、ふたりが妙にしんみりとしてしまった。
藍が慌てて弁解しようとした時、ピッと機械音がして冷風が止まる。
「黒鉄、お前……エアコンを消すな!」
南沢が文句を言った先には、ひょろひょろとして青白い顔をした男性が立っていた。黒鉄豊――藍より三歳年上の彼は、壁にあるリモコンをいじっている。
「現在、室温は二十二度。冷房は二十六度を保つために使用してください。経費の無駄遣いです」
悪びれた様子もなく、彼は席につく。背広を脱いでも長袖のワイシャツである。
どこぞの妖怪物語の主人公のように、顔の半分が長い前髪で隠れており、その不気味さが冷涼感を醸し出す。
黒鉄は、藍と同じ時期に中途採用枠でシステム開発部へ入社したらしい。ITスキルがかなり高く、分析能力に優れているためか、多少コミュ障で神経質気味でも周囲は目を瞑っているのである。
(うう、せっかくのエアコンなのに、使わないなんてもったいない……)
黒鉄に砂糖山盛りカフェオレを出すと、今度はふたりの男性社員が現れた。
学生時代にアメフト部だったという山田剛と、柔道をしていたという太田清志だ。今年二十七歳のふたりは体格がいい上に暑がりで汗っかきのため、すぐに冷房を入れてしまい、ひと回り小さい黒鉄に叱られている。
藍は簡易冷蔵庫に用意していた珈琲に氷を入れて、しょげるふたりに差し出した。
最後に現れたのは、チームの指揮官である八城翔だ。
三十三歳の八城は、鷲の如き鋭い目をした、野性味に溢れたイケメンである。
伝説級の営業力を誇り、最年少で営業部長職についた彼は、出世間違いなしと言われている。
藍が慌てて氷なしの冷たい珈琲を用意して八城に差し出すと、彼は喜んで一気に飲み干す。
「サンキュ。下で専務に会ったら専務室に連行されてな。北村のおかげで生き返った」
八城は一見近寄りがたい印象があるが、実際はよく笑い、人懐っこい笑みを見せる。
三年前、文学部の大学生だった藍は、就活をするも全滅。就職浪人を覚悟した時、就職課の担当から面接を受けてみないかと勧められたのが、アークロジックだった。
八城は面接官のひとりであり、最初は怖いと思っていたが、入社後も顔を合わせれば気さくに声をかけてくれた。同じチームにいる今では、気軽に雑談もできる尊敬すべき上司だ。
すべてのメンバーが自席につき、各自が担当する外部団体との進捗状況を報告しあった。
(わたしもこうやって、活き活きと担当のお仕事がしてみたいなあ)
藍は羨望の眼差しで、メンバーたちの言葉を聞く。
ここはアークロジックの各部署から選抜された、七名の精鋭社員が集うプロジェクト本部だ。
東京の下町をターゲットに、自治体や組合などと連携しつつ、出店したい店主、土地活用をしたい地権者、施設を作りたい建設業者をとりまとめ、中心となって事業を進めている。
プロジェクトの総責任者は大江専務だ。八城のコネと手腕により可能となった管理事業なのに、重役会議で自らの手柄のように報告して鼻高々らしい。
八城は昨年末、メンバーを選出するため、部課や肩書きを問わずに企画レポートを募った。
題目は『東京下町の再開発』。
藍は、最初はこの新プロジェクトを他人事と思っていたが、下町が舞台だと知り、小学生の時まで母と住んでいた懐かしい場所を思い浮かべた。
人情味溢れた良いところだったが、その後に藍の黒歴史となったある理由から、冷たく手のひらを返された場所でもあった。
ノスタルジックな感傷に浸りながら、いつまでも温かく笑顔に満ちた町でいてほしかった……そんな思いをこめて、こっそり応募してみたところ、なんと採用されたのだ。
それまで先輩の補助や雑用しかしていなかった新米が、プロジェクトチームに抜擢されたのは異例のこと。一番驚いたのは藍だった。優秀な社員として常に名があがる、錚々たるメンバーに自分は未熟すぎるからと、辞退を申し出た。
しかし八城曰く、藍の企画書が一番具体的で住民目線に立っており、並々ならぬ熱を感じたとか。想定場所もちょうど、八城が狙っていた土地候補のひとつだったらしい。
『就職面接の時、お前は度胸と根性だけは自信があると豪語した。プレッシャーに負けず、企画書に込めた情熱を形にし、フレッシュな風を入れてくれ』
それを聞いて、藍は八城に、その下町は亡き母との思い出の故郷であると同時に、悪い思い出もあることを話した。正直、心の傷になっている場所と関わるのは複雑なのだと。
『お前の時間は止まったままなんだな。だったらこれから下町へ行くぞ。お前の時間を現実のものに合わせるために』
十五年ぶりに見る故郷は、老朽化が進み空き家ばかり。記憶より廃れて精彩さがない。
藍はかつての住居付近を巡り、名を名乗ったが、覚えている住民はひと握りだった。
母とここで生きてきた証が薄れている様は、母の死を二度受け入れるようで苦しかった。
『お前にとって特別な場所を、お前の手で守ってみたいと思わないか?』
自分に守れるだろうか。いや、自分が守りたい――
そうして藍は、下町改革プロジェクトの一員になる決心をしたのだった。
藍の願いから生まれた小さな企画は、八城を始めとした専門家の手で素晴らしい構想となった。これは話題になると誰もが確信し、順調にプロジェクトは進められていったが、ただひとつ問題があった。……土地だ。
プロジェクトでは、イベントも開催できる公園を併設した、巨大複合施設が目玉だ。
今は工場跡になっているその土地を、地権者がGOサインはおろか、話し合いの席にもついてくれないのだ。
旨味がある事業なのだから、必ず食いついてくる――そんな目論見を崩した地権者は、都心にある、創立七年目の不動産会社『カルブサイド』。西条グループの御曹司が社長を務めている会社だ。
西条は歴史ある巨大グループであり、各界に影響力がある。その御曹司がずっとOKを出さない事業に参加していいものかと、せっかく決まりかけている施工業者も、入店希望者も渋り出す始末だ。
早急になんとかしてほしいと外部団体からも訴えられ、今はメンバーが一丸となって、どうすれば西条社長と交渉できるのかを模索していた。
そんなある日の午後、南沢が外から戻り、シュークリームが入った箱を机に置いてぼやいた。
「アポなし突撃も、強行突破もだめ。しかもあそこの社員、やけに強面で威圧的な男ばっかりだから、社員と仲良くして……という懐柔案も無理。手土産にするつもりで買ったシュークリームは、後で皆で食べようぜ。そっちは?」
すると、藤倉が目元を押さえながら答える。
「コールセンターも含め、西条社長へのアポ、今日も全滅よ。山田と太田から連絡はなし」
体力に自信がある山田と太田は、交代で西条社長の動向を見張っている。車移動でもしてくれれば、そこに突撃できるのだが、社長は今日も動く様子がないようだ。夜遅くまで交代で見張っているのに、何時に帰宅しているかすらわからないという。
(見張り場所は毎回変えていると言っていたけれど、それでも捕まらないなんて、社長……会社を住居にして引き籠もっているのかしら)
黒鉄は得意のコンピューターを駆使して西条社長の情報を集めるが、どれもこれもが謎に包まれ、めぼしい情報はない。写真も顔がよくわからないほど小さかった。
大きなため息をついた南沢は、ふと思い出したようにして藍に振り向く。
「なあ、北村。この前、郵送してもらった資料や書状に対する返事は?」
「一切、連絡ありません。見てくれたのかも謎です。メールも同様です」
「となれば、後は……自治体に協力要請に行っている部長に賭けるしか……」
しばらくして八城が戻り、メンバーたちは期待の目を向けたが、八城は首を横に振った。
「西条グループの力を怖がった自治体に、社長の父親である当主を動かすことを拒まれた。もしも土地問題が難航するようなら、別の下町に舞台を移した方がいいと言われたよ。それをなんとか保留にしてきた。せめて西条社長が、気乗りしない理由がわかれば、手を打てるんだが……」
藍は疲れた顔をした八城に淹れ立ての珈琲を差し出し、恐縮して言った。
「お疲れ様です、部長。お帰り早々で申し訳ありませんが、専務よりお電話が欲しいと……」
「早く結果を出したくて仕方がないんだろうな。これはまた専務のお説教コースだな」
片手で頭を抱えつつ専務と電話をしている八城を見て、藍もなにか協力できないかと考えた。
しかし、経験豊富な他のメンバーですら、どんな方法をとっても社長と会えないのだ。新米がアポなど取れるはずがないからと、電話がけを求められたことはないが、こうなればものは試しだ。
「これより北村、電話にて初アポ取り、行かせてもらいます」
メンバーたちは無駄だからやめておけと笑ったが、「新米でも女は度胸です」とガッツポーズで挑戦の意思を伝え、電話をかけてみた。緊張しすぎて、社名の次にフルネームを名乗ってしまったが、笑われることも断られることもなく、保留音に切り替わる。
しばらくして社長秘書だという男が電話に出て、社長の言葉を告げた。
明日の午後二時はどうか、と。
「あ、会ってくださるんですか⁉」
藍は声を裏返らせ、電話の声がメンバーにも聞こえるように、スピーカー状態にした。
『はい。明日午後二時、少しだけなら我が社でお会いしてもいいと、社長の西条が言っております』
藍は電話を切ると、ちょうど専務との電話を終わらせた八城に、弾んだ声で報告した。
「部長、奇跡が起きました! ビギナーズラックです! なぜか西条社長のアポ、取れました!」
「本当か⁉ 北村、偉いぞ。よくやった!」
八城が喜ぶ隣で、他のメンバーは信じられないと、ただ口と目を大きく開けて固まっていたのだった。
◆・━・◆・━・◆
打ち合わせ当日、午後二時前――
都心にある『カルブサイド』は、周囲に建ち並ぶ大手企業の本社ビルに引けをとらないほどの存在感を示していた。さすがは西条グループの御曹司に相応しい居城である。
(初めての打ち合わせ……緊張する。でも昨日メンバーの皆と事業計画書は作り直して、終電ぎりぎりまで策は練ったし、部長がいるんだし。なにより、あの時の恐怖に比べたら……)
脳裏に大広間に集うヤクザたちの姿が蘇り、藍はぶんぶんと首を横に振ってそれを振り払った。
「大丈夫か?」
八城が心配げに声をかけてくる。藍は大丈夫だと笑ってみせた。
「北村。母親との思い出の場所を、喜びに満ちたものにしたいんだろう? たとえ社長になにを聞かれても、俺の時と同じようにあの情熱を語ればいい。難しいことは俺がすべて引き受けるから」
「部長……。なんだか後光が差してます」
「なんだ? 俺に惚れたって?」
八城がにやりと笑って冗談を言うと、藍はすっと笑みを引かせて即答する。
「いいえ、それはありません」
「秒殺かよ。ささいなことでも意識をされたら、それはそれで面倒だが、ここまで平然とぶった斬られると、男としての自信が……」
「モテる男性の自信回復は、他の女性でなさってください。……あ、誰か来ました」
オフィスのドアが開き、受付嬢から連絡を受けたと思われる男性が現れた。
社長秘書の安田と名乗った彼は、上等なスーツを着て、黒々とした髪をオールバックにしている。
「いらっしゃいませ! 社長室へご案内します!」
電話の声より、えらく威勢がいい。
(歓迎されているみたいだけど……これはいい兆しだわ)
安田はやけにちらちらと藍を見て饒舌に話しかけてくるが、八城には愛想がほとんどない。藍はそんな安田の態度を訝しがりながら、妙な既視感を覚えた。しかし今は記憶を辿るよりも、ひとりでも多く味方を増やそうと、愛想笑いをして安田の雑談に乗じる。
安田は最上階にある社長室のドアをノックして、ドアを開く。
「社長。アークロジックのお……いや、く……?」
藍の苗字が出てこないらしい。藍はこほんと咳払いをして小声で援護する。
「北村と、営業部長の八城です」
「北村さん方が見えられました。さささ、お……北村さん。社長のそばまでどうぞ! 社長が、首を長くしてお待ちしています。では私はこれで」
社長室の奥に広がるのは、東京を一望できる大きな窓。
その前に、こちらに背を向けて立つ黒い背広姿の長身の男が、壮大な景色を見下ろしていた。
これが、難攻不落と言われる西条社長だろう。藍は名刺を用意して、元気よく挨拶をする。
「西条社長。アークロジックの北村と申します。本日は営業部長の八城とともにお伺いしました。お忙しい中、お時間を取っていただき、誠にありがとうござ……」
藍の言葉が切れたのは、黒髪の男がこちらを向いたからだ。
陽光が、男のシャープな頬を柔らかく照らす。
秀麗に整った顔、それは――
「社長の西条瑛です」
どくん。
藍の心臓が、大きく跳ねた。
(まさか……)
艶やかな声。
光を浴びて金に輝く、琥珀色の瞳。
「お久しぶりですね、北村さん」
冷ややかな美貌を魅せるのは、どう見ても――六年前に捨ててきたはずの男。
藍の初恋を踏みにじった、非情な男。
(どうして彼が、西条の御曹司になっているの?)
藍が警戒に顔を強張らせると、目の前の男は口端を吊り上げた。
頭の中で、六年前の彼の声がリフレインする。
『いい夢を見れましたか?』
……そう言っているのだろうか、今もなお。
ぎりりと、蝉の羽音のような音を響かせたのは、歯軋りなのか、それとも心の悲鳴か。
(逃げ切れたと思っていたのに……!)
藍は唇を噛みしめながら、六年前の出来事を回想した――
※ ※ ※
『北村さん母子に声をかけたら、ヤクザに半殺しにされるんですって』
『草薙組組長の娘と話すのは、すぐにやめなさい』
ねぇ、わたしがなにをしたの。どうしてわたしを嫌うの。
『藍、お引っ越ししよう。新しいパパのおうちに。今まで、パパがいなくて寂しい思いをさせてごめんね。これからは藍がお食事作ったり、洗濯をしたり、家のことをいろいろしなくてもいいのよ。新しいパパ、藍が欲しいもの買ってあげるって言ってたわよ~。なにを買ってもらおうか』
わたし……お父さんがいなくて寂しいとか、家のことをするのがいやだとか、贅沢したいとか、そんなことを思ったことはないの。頑張るお母さんの力になりたかっただけ。
『藍、幸せになろうね』
わたし、今までも幸せだったよ。お母さんが笑顔でいてくれれば、貧乏だってよかった。
わたし……ヤクザのおうちに行きたくない。ヤクザの子供になりたくない。
お母さんだけの子供でいい。それが叶わないのなら――
『ぎっくり腰になったおじいちゃんと暮らす? あんな田舎の山奥に⁉ お母さんは許さないわ! 藍がそんなに草薙組をいやがるのなら、お母さん、結婚を諦める……』
お母さんを悲しませたいわけじゃないの。大好きなお母さんは、笑顔で幸せになってほしい。
お母さんの結婚を反対しないから、独りで暮らしているおじいちゃんのところに行かせて。わたし家事はできるし、ちゃんとおじいちゃんの看病をする。おじいちゃん、心配だもの。
『どうしても……行ってしまうのか? ヤクザのおじさんは嫌いか。家族になったのに、同じ家に住んでお父さんと呼んではくれないのか。そこまでヤクザを嫌うのは、なにか怖い目にでも遭ったのか?』
前にヤクザが、近所の駄菓子屋のおばあちゃんとお店に、ひどいことをしていたの。だからわたし、おばあちゃんを守ろうと噛みついたら、たくさん叩かれて。
ワンワンが助けてくれなかったら、わたし……死んじゃっていたかもしれなかったんだって。
だからヤクザは嫌い。大嫌い――
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そこで藍は目を覚ました。
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