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1巻
1-2
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築三十年の古ぼけたアパートの一室に、じりじりと喧しい蝉の声が響いている。
テーブルにあるのは書きかけのレポートと、積まれた本。
隣には――テーブルに片肘をつき、こちらを涼しげに見ている美貌の青年がいた。
さらさらとした黒髪に、上品に整った秀麗な顔だち。
「おはよう、藍」
彼の美しさを際立たせるのは、魅惑的な琥珀色の瞳だ。
蜂蜜のような甘さを滲ませていて、ついつい吸い込まれそうになる。しかし安易に近づこうものなら、ばっさり切られてしまうような剣呑さも併せ持っていた。
彼は隣室に住んでいる、一ノ瀬瑛。
藍より三歳年上で、都内にある大学の四年生だ。今年二流大学にぎりぎり合格した藍など足元にも及ばない、難関大学に通っている。
瑛は、高校生だった藍がこのアパートでひとり暮らしをする前からの住民で、雨漏りをしたり台風で窓が割れたりして心細い時、力になってくれた。藍が進路や成績不振に悩んでいる時も親身になり、夕食のご馳走という報酬だけで家庭教師までしてくれた。そのおかげで、藍は志望大学に現役合格できたのである。
卒論で忙しくても、今もこうして藍のSOSに駆けつけてくれる彼には足を向けて寝られない。
「これは、そこにある洋書の要約。レポート残り九枚、頑張れ」
「ごめんなさい! 瑛を働かせておいて、わたしは寝ちゃうなんて……」
「いいよ、おかげで藍の寝顔が見られたし。涎を垂らして大いびき。十九歳の女子大生とは思えないほど豪快だったけど。写メ、見たい?」
藍の顔から血の気が引いた。
「……なんてね、嘘だよ。あはははは」
「もう! 意地悪なんだから!」
涙目で瑛をぽかぽか叩くと、彼は笑ってその手を受ける。そして顔を背けて、湿った咳をした。
「ただの夏風邪だ。少し前に薬を飲んだから、大丈夫。俺は元気だから、そんな顔をしないで」
(体調不良なのに悪かったわ。……瑛を看病したい女性、たくさんいるんだろうな……)
瑛には不思議と女性の影がない。女嫌いではないようだが、色目を使う女たちに辟易しているらしく、今は学業に集中したいとのこと。
しかし、藍だけは特別だよと、瑛はいつも笑う。妹みたいなものだから、と。
だから藍は言えなかった。いつしか瑛に向ける情は、頼り甲斐がある兄への思慕から、異性に対する恋情へと変化していることを。
女性として意識されたいと、化粧をして肩までの黒髪を巻いてみても、瑛と同じ甘いムスクの香水をつけてみても、瑛は出会った時のまま。三歳の年の差は、思った以上に距離があった。
ならば、誰よりも近くにいたい。妹ポジションでもいいから、一番に理解し合える近しい関係でいたい――それが藍の現在の願いだった。
「そういえば、藍、うたた寝で時折うなされていたようだったけど……」
「ん……。昔のことを夢見ていたの。お母さんの再婚で、草薙組組長の娘になった途端、腫れ物を通り越して罪人扱いした下町の皆のことや、その後のこと」
藍が今まで、自分から家庭環境について話したのは、瑛ただひとりだ。
恋する相手に隠し事をしたくなかった藍は、ありのままの自分を愛してほしくて、ありったけの勇気を振り絞り、身の上話をしたのだ。
その結果、彼は変わらずそばにいてくれている。たとえそれが兄としての立場であろうとも。
藍が瑛を異性として欲しながらも、今の関係をあえて崩そうとしないのは、今まで通り差別なく接してくれるだけで嬉しいからというのもある。
「おじいちゃんがぎっくり腰にならなかったら。おじいちゃんと暮らすことに反対したお母さんを、組長さんが説得してくれなかったら。ぎっくり腰が治ったおじいちゃんが、帰りたくないと泣いたわたしに味方してくれなかったら――わたしは大嫌いなヤクザの本家で暮らしていたのよね」
藍が高校に入った時、祖父が亡くなった。再び母に呼び戻されそうになったが、親の庇護が必要な子供ではないと拒んだ。長い話し合いの末、渋々出された条件は、母のいる東京に戻ること、社会人になるまでは今まで通り生活にかかる一切の援助を受けることのふたつ。
どうしても娘のためになにかしたいと泣く母に折れ、藍の独り暮らしが始まった。
そして母が用意した住まいが、最寄りの駅から遠い、この築三十年のアパートだったのだ。
母はなぜか、かなりここを気に入っているらしかった。確かにスーパーが近くにあるのは便利だし、長く親しんだ下町の住まいによく似ている。賑やかな地域ではないが、居心地がよかった。
「早くから親元を離れたけれど、お母さんは過保護なほどいつも気に掛けてくれて、組長さんとよく会いに来てくれた。そばで甘えられないのは寂しかったけれど、捨てられたわけじゃないし、不幸だと思ったことはないわ。綺麗になっていくお母さんを見るのは複雑だったけど、わたしを養うために色々我慢してきたお母さんに、新婚生活をプレゼントできたのはよかったと思ってる」
藍が笑うと、眼鏡を外した瑛の目が柔らかく細められた。
琥珀色の瞳が、光に反射して金色に輝いて見える。
「瑛の瞳って、本当に綺麗だよね。わたしなんかの野暮ったい黒とは違って」
まるで蜂蜜や、飴細工のような黄褐色――
「そんなことを言うのは藍くらいだ。この瞳、獣じみているって、気持ち悪がる奴も多いから」
「こんなに素敵な瞳を気持ち悪いなんて言うひとの気持ち、全然わからないや」
この琥珀色の瞳が熱で蕩けたら、彼の香りのように甘くなるのだろうか。
それとも獣のように、野生の男らしさを引き立てるのだろうか。
……そんな彼を間近で見ることができる女性は、どんなひとなんだろう。
つらつらと考えていると、いつの間にか至近距離に瑛の顔があることに気づき、慌てて離れた。
「藍。きみは大学やサークルでも、そうやって男に無防備に近づくのか? 警戒せず」
瑛の声は、どこか怒っているような、不機嫌なものだった。
「ちゃんとしているわ。瑛相手には、警戒なんてする必要がないだけよ」
藍は、彼を男として意識していることを悟られまいと笑った。ばれてしまえば、彼が厭う女のひとりにされて煙たがられてしまう。こんな風に、そばにいられなくなってしまうかもしれない。
「……警戒、しろよ」
ふと投げかけられた声は、恐ろしく低いものだった。
ぞくりとしたものを感じた瞬間、藍は仰向けになり、ラグの上に押し倒されていた。
「瑛?」
真上から見下ろす琥珀色の瞳には日頃の穏やかさはなく、熱を滾らせている。
藍が今まで見たこともない、獰猛ななにかを秘めているようで――
「俺を警戒しろよ。俺が、きみを騙している悪いヤクザだったらどうするんだ」
双眸の強さとは相反して、実に弱々しく絞り出された声だった。
「瑛がヤクザ? ありえないよ。それにわたし……瑛を信頼しているから。瑛はヤクザのように、わたしの嫌がることをして怖がらせたりしないって」
絶大なる信頼があることを迷いなく告げた藍に、瑛の目がぎゅっと苦しげに細められる。
そして、形いい瑛の口から苦しげな声が漏れた。
「……っくしょう」
次の瞬間、藍は両手首を頭上で縫い止められ、瑛に強引に唇を奪われた。
「……っ⁉」
唇に感じる熱と柔らかさ。噎せ返るようなムスクの香り。
今、一体なにが起きているのだろうか。
驚きのあまりパニックになった藍の呼吸が止まる。それでも口づけは荒々しく、角度を変えて何度も繰り返された。やがて息苦しくて薄く開いた藍の唇から、瑛の舌が捻り込まれる。
それは獰猛に暴れ、藍の舌にねっとりと絡みついた。
(なにこれ……)
瑛の舌で弄られ、輪郭を持たないもどかしい痺れが身体に走る。この微弱な電流のようなものは次第にぞくぞくとした気持ちよさに変わり、藍は甘い声を漏らさずにはいられなかった。
好きな男にキスされている――その歓喜が藍を昂らせた。こんな大人のキスは、兄と妹ではしない。……欲情、してくれたのだ。女として意識してくれたに違いない。
藍は瑛に誘導されるがまま、ぎこちなく舌を動かす。すると悦んでいるみたいに濃厚に舌を搦めとられ、口づけが深まっていく。
(ああ、わたしのすべてをあげるから、もっとその灼熱で溶かしてほしい……)
そこで藍ははたと我に返る。
(……灼熱?)
瑛の身体があまりにも熱すぎる。男は欲情すると、こんなに発熱するものなのだろうか。
まさか、と訝った藍が、瑛の額に手を置いた瞬間、瑛がげほげほと湿った咳をする。
ああ、これは間違いなく熱がある。瑛がおかしいのもこのせいだ。
現実なんて、こんなものだ――泣き出したい心地になりながらも、藍は自分のベッドに彼を寝かせようとした。だが、またもや力尽くでその場で組み伏せられ、唇を奪われてしまった。
陶然とした至福感を強制的に与えられる中、行為はさらに進む。瑛の片手がキャミソールごと藍のチュニックを捲り上げ、レースがついたピンク色の下着ごと胸を揉みしだいていく。
やがて下着がずり下げられ、瑛の唇が尖りかけている胸の蕾にちゅうと吸いついた。
「ひゃ……っ」
ぴりっと痛いような、それでいて甘美な痺れが全身に広がり、藍の身体が跳ねた。
瑛のくねらせた舌で愛でられた蕾は、赤くぷくりと膨れ上がり、舌先で揺らされたかと思うと、唇で引っ張られ強く吸われる。その愛撫は未知なる快感を生み、藍をぞくぞくさせる。
「ああぁぁっ」
瑛の吐く息が熱く荒い。普段見せない瑛の〝男〟を感じて、藍は悦びに弾けそうになる。
ずっと待っていたのだ。彼に女として愛される日を。
しかし、これはきっと……刹那のひととき。一過性の熱とともに忘れられてしまうだろう。
そう思うとひどくやるせなく、少しくらい思い出を残したいと願った。
瑛の記憶に留まらなくても、この気持ちだけは偽りや幻で終わらせないために――
「好き……」
藍が気持ちを吐露した途端、瑛の目が大きく見開かれた。
ぶれていた焦点が定まり、熱に浮かされた自分がなにをしていたのか悟ったようだ。
後悔、罪悪感、恐怖……様々な感情をない交ぜにした顔をして、瑛は藍から飛び退いた。
「藍、ごめん。俺……どうかしていた。藍に手を出すなんて……」
藍を女として扱うことは、瑛にとっては〝どうかしていた〟こと。
生まれて初めての愛の告白は、皮肉にも瑛を瞬時に正気に戻すほどの威力――愛などはそこにないと突き放されたのだ。
わかってはいたのだ。完全に一方通行なのだと。それでも予想以上に拒絶されたのはショックで、藍は嗚咽が漏れそうになる唇を噛みしめ、服を整えることしかできなかった。
そんな藍の横で、瑛は苦しげに天井を振り仰ぐと、小さく呟いた。
「ごめん。――……から」
最後、なにを言ったのかよくわからない。だがきっと、すべてなかったことにしたいと告げたのだろう。藍が告白したこともすべて。
藍の目に涙が溢れる。それを隠そうと俯いていたら、ドアが閉まる無情な音がした。
ひとり残されたことを悟ると、藍の目から涙がとめどなくこぼれ落ちる。
告白などしなければよかった。ただ心のない人形のように、瑛に抱かれていればよかった。
たとえすぐに終わりを迎えるものでも、ひとときぐらい、幸せな夢を見られたのに。
じりじりと聞こえる蝉の声。それはまるで藍を嘲笑っているかのようだ。
その不快な音は藍の身体を蝕み、ぎりぎりと胸を締め上げてくる。
たまらず藍は、その場で膝を抱えて小さく丸まった。
「大丈夫。いつもこうやって自分を励ましたら、ひとりでもなんとか頑張ってこられたじゃない」
流れ続ける涙を手で拭いながら、藍は痛々しく笑い、己に言い聞かせた。
「明日、瑛になんでもなかったような顔をすれば、また妹としてそばに置いてもらえる。瑛の熱が下がったら、きっといつもの瑛に……いつもの関係が戻ってくる……」
この時の藍は信じていたのだ。明日になれば、瑛に会えると。
まさか藍が大学でレポートを提出している間に彼が引っ越し、連絡がつかなくなるとは予想だにしていなかったのである。
※ ※ ※
瑛がいなくなってから、一ヶ月が過ぎた。
蒸し暑さを増長させていた蝉はいなくなったが、依然酷暑は続いている。
隣室は今日、新たな住人を迎えた。
瑛が消えた現実が耐えきれず、藍は思わず外に飛び出し、涙で滲んだ空を見上げた。
どこまでも澄み渡ったスカイブルーが、眩しかった瑛の笑顔に重なる。
好きだった。本当に好きでたまらなかった。
たとえ熱のせいでも、消え去らないといけないほど、自分は触れる価値のない女だったのだろうか。
それとも、絶縁するのが彼なりの責任の取り方なのだろうか。
あれが最後とは、あまりにつらすぎる――
涙がひとしずく頬を伝い落ちた時、キキーッと急ブレーキの音がした。
何ごとかと振り返れば、背後に黒塗りの車が停まり、中から黒服の男たちが降りてきた。
「自分たちについてきてください」
問答無用で腕を掴んでくる男たちに、藍は恐怖を感じて抗った。
「な、なにするんですか! 大声を出してひとを呼びますよ!」
それでも退こうとはせず、じりじりと壁際に追い詰めてくる。藍が助けを求めようと声をあげると、男たちは顔を見合わせて藍に飛びかかってきた。そして強い力でひとりが藍の口を手で塞ぎ、もうひとりの男が藍の身体を抱えて後部座席に押し込めた。
慌てて逃げようとしたが、両横に座ってくる男たちに阻まれたまま車が発進してしまう。
藍が青ざめていると、助手席から声がした。つるりとした丸刈り頭の男だ。
「お嬢、手荒な真似をしてすみません。黙って自分たちについてきてください」
〝お嬢〟――そう呼ぶ相手は限られている。
「自分らは草薙組の者。昨日、お嬢の義父君である草薙組組長と、お嬢の母君である姐さんが……事故に遭い、お亡くなりになりました」
……なにを言われたのかわからなかった。
「なんの冗談……」
「冗談でも虚言でもありません。これは事実です」
瑛を失ったショックで朦朧としていた頭が、途端にしっかりする。
「誰かに殺されたということ?」
「いいえ。事件性はなにもないとのこと。おふたりでドライブをお楽しみ中、土砂降りに遭い、崖から転落したということです」
藍はスマホを取り出し、慌てて母親に電話した。だが、何度かけても通じない。
「――これから、おふたりが眠る草薙組にお連れします。お気をしっかりお持ちください。お嬢」
どうしっかり持てばいいというのか、突然の母親の訃報に。
車は、藍が生まれ育った懐かしの下町を横切り、隣町へ向かった。
やがて城壁の如き高い石垣が現れ、それを横目にしばし進むと、『草薙組』の看板がかけられた物々しい正門が出てくる。
横にあるシャッターが自動で開いた後、車はその中を進んでいった。
草薙組の本拠地は、日本庭園を有した平屋造りの純和風の屋敷だ。
凶悪な風格をした男たちがずらりと並び、一斉に頭を下げて出迎える中、車を降りた藍は丸刈り頭の男の後について、砂利を踏みしめて進んでいく。
やがて丸刈り頭の男が、開け放たれたままの入り口の横で頭を下げ、中に入るよう促した。
重厚な鎧兜が鎮座したエントランスホール。
そこで待ち構えていたのは――濃藍色の着物を着た男。
笑みを湛えたその整った顔には、見覚えがある。
「……瑛⁉」
その男は藍の呼びかけには答えず、恭しくその場で片膝をつくと、頭を垂らして言う。
「――俺の名前は草薙瑛。組長と養子縁組をした、お嬢の義兄。組長……親父さんに命じられた、お嬢の目付役であり、草薙組若頭をしています。以後、お見知りおきを」
「な……」
『俺を警戒しろよ。俺が、きみを騙している悪いヤクザだったらどうするんだ』
「若頭、目付……ヤクザ……」
しかもチンピラではなく、生粋のヤクザで、存在すら知らなかった義兄だという。
「わたしが、組長の娘だと知っていたからなの? ずっと隣にいて、優しくしてくれたのは」
すると瑛は顔だけを上げて、藍を見た。
そこには穏やかさもなにもない、底冷えしそうな金の瞳を光らせた、冷淡な顔がある。
「俺はお嬢の目付役兼若頭として、組長の愛娘であり我が義妹が不自由ないよう、命を受けて近くでお守りしていただけです」
組長命令――
藍の全身から、血の気がさぁぁと引いていく。
すべてが演技。すべてが命令。彼は任務遂行のために、優しいふりをしていただけ。
「……守る? 勝手にいなくなったのに?」
藍の喉奥から、掠れた声が吐き出される。
瑛は悪びれた様子もなく、淡々と答えた。
「時期が来たので、家に戻っただけのこと」
瑛は無表情のまま、口端だけを吊り上げた。
「……お嬢。大人流のお別れの挨拶で、いい夢を見れましたか?」
『藍、合格おめでとう!』
『藍の料理は、癒やされるよ』
瑛に恋したすべての思い出にぴしりぴしりと音を立ててヒビが入り、ガラガラと崩れていく。
そして残ったのは――自分に傅く見知らぬ男。
コノオトコハダレ――?
……いなかったのだ、自分が慕った男など最初から。
冷たく凍ったものが、心に空いていた穴を埋めていく。
さすがは凶悪なヤクザだ。こうも簡単にひとを騙し、恋心すら蹂躙するとは。
ヤクザ嫌いを公言する女が自分に懐く様を、どんな気持ちで見ていたのだろう。
……ああ、もう散々だ。でも、誰が泣いてやるものか。
彼に片想いをしていた分だけ、裏切られた悲しみと憎しみが募る。
(そりゃあ熱を出したりして正気を失わない限り、監視対象に手は出さないわよね)
勝手にのぼせたのは、自分の方――
だとすれば、この恋心を凍りつかせればすべてが終わり。
「ええ、いい夢を見せてもらったわ。お役目ご苦労様」
わざと微笑んで言うと、わずかに琥珀色の瞳が剣呑に細められる。
「――任務は終了よ。わたしの前から消えて」
藍は怒りを込めて、瑛を睨みつけた。
それは藍からの絶縁状でもあった。
監視しているヤクザに恋をしていたなど、虫唾が走る。
もう二度と、心を揺り動かされるな。
……どんなに心が痛くて、壊れそうに軋んだ音を立てていても。
「消えて、と言うのもおかしいわね。ここはあなたの本拠地。消えるのはわたしだわ。……帰る。ここはわたしのいるべき……いいえ、いたいと思える場所じゃない」
妙な静けさに包まれた中、他の組員たちはなにを思い、若頭に突っかかる藍を見ているのか。
藍はヤクザの世界など知らない、素人の小娘だ。
けれど、素人の小娘なりの許せないものがある。穢されたくないプライドがある。
瑛に背を向けた藍が静かに歩き出す。瑛への未練を切り捨て、颯爽と。
「お嬢」
瑛が呼んだが、藍は振り向かなかった。
『お嬢』なんて知らない。自分の名前は北村藍。ただのしがない女子大生だ。
もう、その声に惑わされない――
そう強く決意する藍に、冷ややかな声で瑛が続けた。
「お母様が、この奥で眠られています。荼毘に付す前にお会いください。最後ですから」
ぴたり、と藍の足が止まる。
瑛は、自分にとって大切なものがなにかを把握している。効果的なものがなにかをわかっている。……それなのに、この恋心は完全無視して。
『いい夢を見れましたか?』
(なんて……非情い男)
冷房の効いた大広間には、母親と義父がふたり、ドライアイス入りの布団に安置されていた。
白い布を捲ると、薄化粧をして眠ったままの母が、うっすらと笑みを浮かべている。
『はい、藍。幸せのたこ焼きひとつ!』
『藍、元気にしていた? 藍に似合うと思って、可愛い洋服買ったの』
一緒に暮らしていなくても、ずっと愛情を注いでくれた母。
こんなに早くこの世からいなくなるとわかっていたら、親孝行をたくさんしたのに。
「お母さん……」
母の顔は冷たく、呼びかけに応えてくれない。優しい声は、もう返ってこない。
「お母さん……目を開けて」
それが死というものだと理解した途端、藍の背中に冷たいものが走る。
「わたしをひとりにしないでよ! お母さん……お母さあああん!」
寒気と窒息感が藍を襲う。氷でできた、孤独の檻に閉じ込められたかのようだった。
藍はひとしきり泣きじゃくった後、今度はゆっくりと組長の白布をとった。
下町の公園で初めて会った時より、痩せて皺が増えていた。
『……なあ嬢ちゃん。子供の立場からすると、新しい父親が突然できるのはいやか?』
藍は震える唇を噛みしめると、居住まいを正して組長に語りかける。
「……腰抜けだって思ってしまってごめんなさい。ヤクザが嫌いだと言ってしまってごめんなさい。おじいちゃんとの暮らしを後押ししてくれて、感謝しています」
藍は呟いた後、組長に向けて深々と頭を下げた。
「長い間、母を幸せにしていただき、ありがとうございました。そして――お疲れ様でした。ゆっくりおやすみください。……お義父さん、お母さん」
初めて口にする義娘としての言葉。生前に伝えられなかったことを悔やみながら。
藍の気持ちも落ち着いてきた頃、見計らったかのように瑛の艶あるバリトンの声が聞こえた。
「お嬢、よろしいでしょうか」
返事をする前に襖は開く。瑛を先頭に、背広を着たインテリ風の男、そして丸刈り頭の男を含めて五人の組員が、物々しく入ってくる。
インテリ風の男は、組長の横に正座して言う。
「草薙組顧問弁護士で、組長付の御子神と申します。本日は組長の遺言状をお持ちしました」
御子神は手にしていたトランクケースを開けると、中に入っていた紙を巻物のように広げる。
「組長はこう遺言されました。もしも自分に万が一のことがあれば、草薙組は――お嬢様であられる藍様に任せたいと」
藍は、なにを言われたのか理解ができず、目を瞬かせた。
すると腕組みをしていた瑛が、藍に説明する。
「つまり――次期草薙組組長は、お嬢だということです」
「はいいいいい⁉」
藍は正座をしたまま、その場で跳び上がる。
「なんでそうなるの! それ、偽物よ。ただの女子大生に組の命運賭けるなんて、そんなこと組長がするわけないじゃない!」
そう叫んだ藍に、御子神が無表情のままで言う。
「これは組長の直筆の遺言状であり、正式なものです。組長は、藍様を次期組長に任命されました。なお、遺産相続については、藍様が組長になられた時に手続きするようにと言われております」
淡々と語られるが、藍からすると簡単に受け入れられるはずがない。
義父は、藍がヤクザを嫌っていることを知っていた。それなのに、そんな遺言を残したというのなら、それは嫌がらせの域を超えている。なぜ組長などしなければいけないのか。
「いやよ、絶対いや! わたしは遺産なんていらないし、若頭がいるんだから、彼が組長になればいいじゃないの。そのための肩書きと序列でしょう⁉ その方が組も安泰だし、外に示しもつくし……」
「お嬢。組長の命令は絶対です。それが遺志であるのなら尚更」
瑛は、表情を崩さず抑えた声でそう言い切り、続けた。
「俺は賛成です。組長があなたを次期組長だと言うのなら、任せたいと思えるほどのものがあったからでしょう。我ら組員は、組長に服従を誓っております。……お前ら、異存はないな⁉」
すると組員たちは「ありません!」と声を揃える。
「おかしいわよ!」
「なにもおかしくなどありません。……大丈夫、俺があなたを支えます。あなたはなにひとつ不安に思うことはない。そのままのお嬢でいてください」
にこりと笑った顔は、藍がよく知る優しい隣人の顔をしていたが、藍は真っ青な顔で首を横に振り続ける。……ありえない。組長をするなど。
「それと、お嬢には申し訳ないですが、組長が亡くなった事実は隠し通せませんので、五日後の大安に、組の襲名式を行います。それまで、この屋敷にいてもらいますので」
事実上の監禁宣言。しかも瑛は、五日後に地獄の宴が催されることを宣言したのだ。
「冗談じゃないわ! わたし、帰る!」
「だめです」
「だめと言われても帰るから!」
帰る場所などない。それでもここから出たい。
だが――
「だめだと言っているだろう! お嬢が帰るのは、俺がいるこの組だ!」
畳をバアンと叩き、爆ぜたように叫んだ瑛に、藍は怯んでしまう。
ああ、やはり彼はヤクザなんだと、藍は失望と諦観する気持ちを持つしかなかった。
テーブルにあるのは書きかけのレポートと、積まれた本。
隣には――テーブルに片肘をつき、こちらを涼しげに見ている美貌の青年がいた。
さらさらとした黒髪に、上品に整った秀麗な顔だち。
「おはよう、藍」
彼の美しさを際立たせるのは、魅惑的な琥珀色の瞳だ。
蜂蜜のような甘さを滲ませていて、ついつい吸い込まれそうになる。しかし安易に近づこうものなら、ばっさり切られてしまうような剣呑さも併せ持っていた。
彼は隣室に住んでいる、一ノ瀬瑛。
藍より三歳年上で、都内にある大学の四年生だ。今年二流大学にぎりぎり合格した藍など足元にも及ばない、難関大学に通っている。
瑛は、高校生だった藍がこのアパートでひとり暮らしをする前からの住民で、雨漏りをしたり台風で窓が割れたりして心細い時、力になってくれた。藍が進路や成績不振に悩んでいる時も親身になり、夕食のご馳走という報酬だけで家庭教師までしてくれた。そのおかげで、藍は志望大学に現役合格できたのである。
卒論で忙しくても、今もこうして藍のSOSに駆けつけてくれる彼には足を向けて寝られない。
「これは、そこにある洋書の要約。レポート残り九枚、頑張れ」
「ごめんなさい! 瑛を働かせておいて、わたしは寝ちゃうなんて……」
「いいよ、おかげで藍の寝顔が見られたし。涎を垂らして大いびき。十九歳の女子大生とは思えないほど豪快だったけど。写メ、見たい?」
藍の顔から血の気が引いた。
「……なんてね、嘘だよ。あはははは」
「もう! 意地悪なんだから!」
涙目で瑛をぽかぽか叩くと、彼は笑ってその手を受ける。そして顔を背けて、湿った咳をした。
「ただの夏風邪だ。少し前に薬を飲んだから、大丈夫。俺は元気だから、そんな顔をしないで」
(体調不良なのに悪かったわ。……瑛を看病したい女性、たくさんいるんだろうな……)
瑛には不思議と女性の影がない。女嫌いではないようだが、色目を使う女たちに辟易しているらしく、今は学業に集中したいとのこと。
しかし、藍だけは特別だよと、瑛はいつも笑う。妹みたいなものだから、と。
だから藍は言えなかった。いつしか瑛に向ける情は、頼り甲斐がある兄への思慕から、異性に対する恋情へと変化していることを。
女性として意識されたいと、化粧をして肩までの黒髪を巻いてみても、瑛と同じ甘いムスクの香水をつけてみても、瑛は出会った時のまま。三歳の年の差は、思った以上に距離があった。
ならば、誰よりも近くにいたい。妹ポジションでもいいから、一番に理解し合える近しい関係でいたい――それが藍の現在の願いだった。
「そういえば、藍、うたた寝で時折うなされていたようだったけど……」
「ん……。昔のことを夢見ていたの。お母さんの再婚で、草薙組組長の娘になった途端、腫れ物を通り越して罪人扱いした下町の皆のことや、その後のこと」
藍が今まで、自分から家庭環境について話したのは、瑛ただひとりだ。
恋する相手に隠し事をしたくなかった藍は、ありのままの自分を愛してほしくて、ありったけの勇気を振り絞り、身の上話をしたのだ。
その結果、彼は変わらずそばにいてくれている。たとえそれが兄としての立場であろうとも。
藍が瑛を異性として欲しながらも、今の関係をあえて崩そうとしないのは、今まで通り差別なく接してくれるだけで嬉しいからというのもある。
「おじいちゃんがぎっくり腰にならなかったら。おじいちゃんと暮らすことに反対したお母さんを、組長さんが説得してくれなかったら。ぎっくり腰が治ったおじいちゃんが、帰りたくないと泣いたわたしに味方してくれなかったら――わたしは大嫌いなヤクザの本家で暮らしていたのよね」
藍が高校に入った時、祖父が亡くなった。再び母に呼び戻されそうになったが、親の庇護が必要な子供ではないと拒んだ。長い話し合いの末、渋々出された条件は、母のいる東京に戻ること、社会人になるまでは今まで通り生活にかかる一切の援助を受けることのふたつ。
どうしても娘のためになにかしたいと泣く母に折れ、藍の独り暮らしが始まった。
そして母が用意した住まいが、最寄りの駅から遠い、この築三十年のアパートだったのだ。
母はなぜか、かなりここを気に入っているらしかった。確かにスーパーが近くにあるのは便利だし、長く親しんだ下町の住まいによく似ている。賑やかな地域ではないが、居心地がよかった。
「早くから親元を離れたけれど、お母さんは過保護なほどいつも気に掛けてくれて、組長さんとよく会いに来てくれた。そばで甘えられないのは寂しかったけれど、捨てられたわけじゃないし、不幸だと思ったことはないわ。綺麗になっていくお母さんを見るのは複雑だったけど、わたしを養うために色々我慢してきたお母さんに、新婚生活をプレゼントできたのはよかったと思ってる」
藍が笑うと、眼鏡を外した瑛の目が柔らかく細められた。
琥珀色の瞳が、光に反射して金色に輝いて見える。
「瑛の瞳って、本当に綺麗だよね。わたしなんかの野暮ったい黒とは違って」
まるで蜂蜜や、飴細工のような黄褐色――
「そんなことを言うのは藍くらいだ。この瞳、獣じみているって、気持ち悪がる奴も多いから」
「こんなに素敵な瞳を気持ち悪いなんて言うひとの気持ち、全然わからないや」
この琥珀色の瞳が熱で蕩けたら、彼の香りのように甘くなるのだろうか。
それとも獣のように、野生の男らしさを引き立てるのだろうか。
……そんな彼を間近で見ることができる女性は、どんなひとなんだろう。
つらつらと考えていると、いつの間にか至近距離に瑛の顔があることに気づき、慌てて離れた。
「藍。きみは大学やサークルでも、そうやって男に無防備に近づくのか? 警戒せず」
瑛の声は、どこか怒っているような、不機嫌なものだった。
「ちゃんとしているわ。瑛相手には、警戒なんてする必要がないだけよ」
藍は、彼を男として意識していることを悟られまいと笑った。ばれてしまえば、彼が厭う女のひとりにされて煙たがられてしまう。こんな風に、そばにいられなくなってしまうかもしれない。
「……警戒、しろよ」
ふと投げかけられた声は、恐ろしく低いものだった。
ぞくりとしたものを感じた瞬間、藍は仰向けになり、ラグの上に押し倒されていた。
「瑛?」
真上から見下ろす琥珀色の瞳には日頃の穏やかさはなく、熱を滾らせている。
藍が今まで見たこともない、獰猛ななにかを秘めているようで――
「俺を警戒しろよ。俺が、きみを騙している悪いヤクザだったらどうするんだ」
双眸の強さとは相反して、実に弱々しく絞り出された声だった。
「瑛がヤクザ? ありえないよ。それにわたし……瑛を信頼しているから。瑛はヤクザのように、わたしの嫌がることをして怖がらせたりしないって」
絶大なる信頼があることを迷いなく告げた藍に、瑛の目がぎゅっと苦しげに細められる。
そして、形いい瑛の口から苦しげな声が漏れた。
「……っくしょう」
次の瞬間、藍は両手首を頭上で縫い止められ、瑛に強引に唇を奪われた。
「……っ⁉」
唇に感じる熱と柔らかさ。噎せ返るようなムスクの香り。
今、一体なにが起きているのだろうか。
驚きのあまりパニックになった藍の呼吸が止まる。それでも口づけは荒々しく、角度を変えて何度も繰り返された。やがて息苦しくて薄く開いた藍の唇から、瑛の舌が捻り込まれる。
それは獰猛に暴れ、藍の舌にねっとりと絡みついた。
(なにこれ……)
瑛の舌で弄られ、輪郭を持たないもどかしい痺れが身体に走る。この微弱な電流のようなものは次第にぞくぞくとした気持ちよさに変わり、藍は甘い声を漏らさずにはいられなかった。
好きな男にキスされている――その歓喜が藍を昂らせた。こんな大人のキスは、兄と妹ではしない。……欲情、してくれたのだ。女として意識してくれたに違いない。
藍は瑛に誘導されるがまま、ぎこちなく舌を動かす。すると悦んでいるみたいに濃厚に舌を搦めとられ、口づけが深まっていく。
(ああ、わたしのすべてをあげるから、もっとその灼熱で溶かしてほしい……)
そこで藍ははたと我に返る。
(……灼熱?)
瑛の身体があまりにも熱すぎる。男は欲情すると、こんなに発熱するものなのだろうか。
まさか、と訝った藍が、瑛の額に手を置いた瞬間、瑛がげほげほと湿った咳をする。
ああ、これは間違いなく熱がある。瑛がおかしいのもこのせいだ。
現実なんて、こんなものだ――泣き出したい心地になりながらも、藍は自分のベッドに彼を寝かせようとした。だが、またもや力尽くでその場で組み伏せられ、唇を奪われてしまった。
陶然とした至福感を強制的に与えられる中、行為はさらに進む。瑛の片手がキャミソールごと藍のチュニックを捲り上げ、レースがついたピンク色の下着ごと胸を揉みしだいていく。
やがて下着がずり下げられ、瑛の唇が尖りかけている胸の蕾にちゅうと吸いついた。
「ひゃ……っ」
ぴりっと痛いような、それでいて甘美な痺れが全身に広がり、藍の身体が跳ねた。
瑛のくねらせた舌で愛でられた蕾は、赤くぷくりと膨れ上がり、舌先で揺らされたかと思うと、唇で引っ張られ強く吸われる。その愛撫は未知なる快感を生み、藍をぞくぞくさせる。
「ああぁぁっ」
瑛の吐く息が熱く荒い。普段見せない瑛の〝男〟を感じて、藍は悦びに弾けそうになる。
ずっと待っていたのだ。彼に女として愛される日を。
しかし、これはきっと……刹那のひととき。一過性の熱とともに忘れられてしまうだろう。
そう思うとひどくやるせなく、少しくらい思い出を残したいと願った。
瑛の記憶に留まらなくても、この気持ちだけは偽りや幻で終わらせないために――
「好き……」
藍が気持ちを吐露した途端、瑛の目が大きく見開かれた。
ぶれていた焦点が定まり、熱に浮かされた自分がなにをしていたのか悟ったようだ。
後悔、罪悪感、恐怖……様々な感情をない交ぜにした顔をして、瑛は藍から飛び退いた。
「藍、ごめん。俺……どうかしていた。藍に手を出すなんて……」
藍を女として扱うことは、瑛にとっては〝どうかしていた〟こと。
生まれて初めての愛の告白は、皮肉にも瑛を瞬時に正気に戻すほどの威力――愛などはそこにないと突き放されたのだ。
わかってはいたのだ。完全に一方通行なのだと。それでも予想以上に拒絶されたのはショックで、藍は嗚咽が漏れそうになる唇を噛みしめ、服を整えることしかできなかった。
そんな藍の横で、瑛は苦しげに天井を振り仰ぐと、小さく呟いた。
「ごめん。――……から」
最後、なにを言ったのかよくわからない。だがきっと、すべてなかったことにしたいと告げたのだろう。藍が告白したこともすべて。
藍の目に涙が溢れる。それを隠そうと俯いていたら、ドアが閉まる無情な音がした。
ひとり残されたことを悟ると、藍の目から涙がとめどなくこぼれ落ちる。
告白などしなければよかった。ただ心のない人形のように、瑛に抱かれていればよかった。
たとえすぐに終わりを迎えるものでも、ひとときぐらい、幸せな夢を見られたのに。
じりじりと聞こえる蝉の声。それはまるで藍を嘲笑っているかのようだ。
その不快な音は藍の身体を蝕み、ぎりぎりと胸を締め上げてくる。
たまらず藍は、その場で膝を抱えて小さく丸まった。
「大丈夫。いつもこうやって自分を励ましたら、ひとりでもなんとか頑張ってこられたじゃない」
流れ続ける涙を手で拭いながら、藍は痛々しく笑い、己に言い聞かせた。
「明日、瑛になんでもなかったような顔をすれば、また妹としてそばに置いてもらえる。瑛の熱が下がったら、きっといつもの瑛に……いつもの関係が戻ってくる……」
この時の藍は信じていたのだ。明日になれば、瑛に会えると。
まさか藍が大学でレポートを提出している間に彼が引っ越し、連絡がつかなくなるとは予想だにしていなかったのである。
※ ※ ※
瑛がいなくなってから、一ヶ月が過ぎた。
蒸し暑さを増長させていた蝉はいなくなったが、依然酷暑は続いている。
隣室は今日、新たな住人を迎えた。
瑛が消えた現実が耐えきれず、藍は思わず外に飛び出し、涙で滲んだ空を見上げた。
どこまでも澄み渡ったスカイブルーが、眩しかった瑛の笑顔に重なる。
好きだった。本当に好きでたまらなかった。
たとえ熱のせいでも、消え去らないといけないほど、自分は触れる価値のない女だったのだろうか。
それとも、絶縁するのが彼なりの責任の取り方なのだろうか。
あれが最後とは、あまりにつらすぎる――
涙がひとしずく頬を伝い落ちた時、キキーッと急ブレーキの音がした。
何ごとかと振り返れば、背後に黒塗りの車が停まり、中から黒服の男たちが降りてきた。
「自分たちについてきてください」
問答無用で腕を掴んでくる男たちに、藍は恐怖を感じて抗った。
「な、なにするんですか! 大声を出してひとを呼びますよ!」
それでも退こうとはせず、じりじりと壁際に追い詰めてくる。藍が助けを求めようと声をあげると、男たちは顔を見合わせて藍に飛びかかってきた。そして強い力でひとりが藍の口を手で塞ぎ、もうひとりの男が藍の身体を抱えて後部座席に押し込めた。
慌てて逃げようとしたが、両横に座ってくる男たちに阻まれたまま車が発進してしまう。
藍が青ざめていると、助手席から声がした。つるりとした丸刈り頭の男だ。
「お嬢、手荒な真似をしてすみません。黙って自分たちについてきてください」
〝お嬢〟――そう呼ぶ相手は限られている。
「自分らは草薙組の者。昨日、お嬢の義父君である草薙組組長と、お嬢の母君である姐さんが……事故に遭い、お亡くなりになりました」
……なにを言われたのかわからなかった。
「なんの冗談……」
「冗談でも虚言でもありません。これは事実です」
瑛を失ったショックで朦朧としていた頭が、途端にしっかりする。
「誰かに殺されたということ?」
「いいえ。事件性はなにもないとのこと。おふたりでドライブをお楽しみ中、土砂降りに遭い、崖から転落したということです」
藍はスマホを取り出し、慌てて母親に電話した。だが、何度かけても通じない。
「――これから、おふたりが眠る草薙組にお連れします。お気をしっかりお持ちください。お嬢」
どうしっかり持てばいいというのか、突然の母親の訃報に。
車は、藍が生まれ育った懐かしの下町を横切り、隣町へ向かった。
やがて城壁の如き高い石垣が現れ、それを横目にしばし進むと、『草薙組』の看板がかけられた物々しい正門が出てくる。
横にあるシャッターが自動で開いた後、車はその中を進んでいった。
草薙組の本拠地は、日本庭園を有した平屋造りの純和風の屋敷だ。
凶悪な風格をした男たちがずらりと並び、一斉に頭を下げて出迎える中、車を降りた藍は丸刈り頭の男の後について、砂利を踏みしめて進んでいく。
やがて丸刈り頭の男が、開け放たれたままの入り口の横で頭を下げ、中に入るよう促した。
重厚な鎧兜が鎮座したエントランスホール。
そこで待ち構えていたのは――濃藍色の着物を着た男。
笑みを湛えたその整った顔には、見覚えがある。
「……瑛⁉」
その男は藍の呼びかけには答えず、恭しくその場で片膝をつくと、頭を垂らして言う。
「――俺の名前は草薙瑛。組長と養子縁組をした、お嬢の義兄。組長……親父さんに命じられた、お嬢の目付役であり、草薙組若頭をしています。以後、お見知りおきを」
「な……」
『俺を警戒しろよ。俺が、きみを騙している悪いヤクザだったらどうするんだ』
「若頭、目付……ヤクザ……」
しかもチンピラではなく、生粋のヤクザで、存在すら知らなかった義兄だという。
「わたしが、組長の娘だと知っていたからなの? ずっと隣にいて、優しくしてくれたのは」
すると瑛は顔だけを上げて、藍を見た。
そこには穏やかさもなにもない、底冷えしそうな金の瞳を光らせた、冷淡な顔がある。
「俺はお嬢の目付役兼若頭として、組長の愛娘であり我が義妹が不自由ないよう、命を受けて近くでお守りしていただけです」
組長命令――
藍の全身から、血の気がさぁぁと引いていく。
すべてが演技。すべてが命令。彼は任務遂行のために、優しいふりをしていただけ。
「……守る? 勝手にいなくなったのに?」
藍の喉奥から、掠れた声が吐き出される。
瑛は悪びれた様子もなく、淡々と答えた。
「時期が来たので、家に戻っただけのこと」
瑛は無表情のまま、口端だけを吊り上げた。
「……お嬢。大人流のお別れの挨拶で、いい夢を見れましたか?」
『藍、合格おめでとう!』
『藍の料理は、癒やされるよ』
瑛に恋したすべての思い出にぴしりぴしりと音を立ててヒビが入り、ガラガラと崩れていく。
そして残ったのは――自分に傅く見知らぬ男。
コノオトコハダレ――?
……いなかったのだ、自分が慕った男など最初から。
冷たく凍ったものが、心に空いていた穴を埋めていく。
さすがは凶悪なヤクザだ。こうも簡単にひとを騙し、恋心すら蹂躙するとは。
ヤクザ嫌いを公言する女が自分に懐く様を、どんな気持ちで見ていたのだろう。
……ああ、もう散々だ。でも、誰が泣いてやるものか。
彼に片想いをしていた分だけ、裏切られた悲しみと憎しみが募る。
(そりゃあ熱を出したりして正気を失わない限り、監視対象に手は出さないわよね)
勝手にのぼせたのは、自分の方――
だとすれば、この恋心を凍りつかせればすべてが終わり。
「ええ、いい夢を見せてもらったわ。お役目ご苦労様」
わざと微笑んで言うと、わずかに琥珀色の瞳が剣呑に細められる。
「――任務は終了よ。わたしの前から消えて」
藍は怒りを込めて、瑛を睨みつけた。
それは藍からの絶縁状でもあった。
監視しているヤクザに恋をしていたなど、虫唾が走る。
もう二度と、心を揺り動かされるな。
……どんなに心が痛くて、壊れそうに軋んだ音を立てていても。
「消えて、と言うのもおかしいわね。ここはあなたの本拠地。消えるのはわたしだわ。……帰る。ここはわたしのいるべき……いいえ、いたいと思える場所じゃない」
妙な静けさに包まれた中、他の組員たちはなにを思い、若頭に突っかかる藍を見ているのか。
藍はヤクザの世界など知らない、素人の小娘だ。
けれど、素人の小娘なりの許せないものがある。穢されたくないプライドがある。
瑛に背を向けた藍が静かに歩き出す。瑛への未練を切り捨て、颯爽と。
「お嬢」
瑛が呼んだが、藍は振り向かなかった。
『お嬢』なんて知らない。自分の名前は北村藍。ただのしがない女子大生だ。
もう、その声に惑わされない――
そう強く決意する藍に、冷ややかな声で瑛が続けた。
「お母様が、この奥で眠られています。荼毘に付す前にお会いください。最後ですから」
ぴたり、と藍の足が止まる。
瑛は、自分にとって大切なものがなにかを把握している。効果的なものがなにかをわかっている。……それなのに、この恋心は完全無視して。
『いい夢を見れましたか?』
(なんて……非情い男)
冷房の効いた大広間には、母親と義父がふたり、ドライアイス入りの布団に安置されていた。
白い布を捲ると、薄化粧をして眠ったままの母が、うっすらと笑みを浮かべている。
『はい、藍。幸せのたこ焼きひとつ!』
『藍、元気にしていた? 藍に似合うと思って、可愛い洋服買ったの』
一緒に暮らしていなくても、ずっと愛情を注いでくれた母。
こんなに早くこの世からいなくなるとわかっていたら、親孝行をたくさんしたのに。
「お母さん……」
母の顔は冷たく、呼びかけに応えてくれない。優しい声は、もう返ってこない。
「お母さん……目を開けて」
それが死というものだと理解した途端、藍の背中に冷たいものが走る。
「わたしをひとりにしないでよ! お母さん……お母さあああん!」
寒気と窒息感が藍を襲う。氷でできた、孤独の檻に閉じ込められたかのようだった。
藍はひとしきり泣きじゃくった後、今度はゆっくりと組長の白布をとった。
下町の公園で初めて会った時より、痩せて皺が増えていた。
『……なあ嬢ちゃん。子供の立場からすると、新しい父親が突然できるのはいやか?』
藍は震える唇を噛みしめると、居住まいを正して組長に語りかける。
「……腰抜けだって思ってしまってごめんなさい。ヤクザが嫌いだと言ってしまってごめんなさい。おじいちゃんとの暮らしを後押ししてくれて、感謝しています」
藍は呟いた後、組長に向けて深々と頭を下げた。
「長い間、母を幸せにしていただき、ありがとうございました。そして――お疲れ様でした。ゆっくりおやすみください。……お義父さん、お母さん」
初めて口にする義娘としての言葉。生前に伝えられなかったことを悔やみながら。
藍の気持ちも落ち着いてきた頃、見計らったかのように瑛の艶あるバリトンの声が聞こえた。
「お嬢、よろしいでしょうか」
返事をする前に襖は開く。瑛を先頭に、背広を着たインテリ風の男、そして丸刈り頭の男を含めて五人の組員が、物々しく入ってくる。
インテリ風の男は、組長の横に正座して言う。
「草薙組顧問弁護士で、組長付の御子神と申します。本日は組長の遺言状をお持ちしました」
御子神は手にしていたトランクケースを開けると、中に入っていた紙を巻物のように広げる。
「組長はこう遺言されました。もしも自分に万が一のことがあれば、草薙組は――お嬢様であられる藍様に任せたいと」
藍は、なにを言われたのか理解ができず、目を瞬かせた。
すると腕組みをしていた瑛が、藍に説明する。
「つまり――次期草薙組組長は、お嬢だということです」
「はいいいいい⁉」
藍は正座をしたまま、その場で跳び上がる。
「なんでそうなるの! それ、偽物よ。ただの女子大生に組の命運賭けるなんて、そんなこと組長がするわけないじゃない!」
そう叫んだ藍に、御子神が無表情のままで言う。
「これは組長の直筆の遺言状であり、正式なものです。組長は、藍様を次期組長に任命されました。なお、遺産相続については、藍様が組長になられた時に手続きするようにと言われております」
淡々と語られるが、藍からすると簡単に受け入れられるはずがない。
義父は、藍がヤクザを嫌っていることを知っていた。それなのに、そんな遺言を残したというのなら、それは嫌がらせの域を超えている。なぜ組長などしなければいけないのか。
「いやよ、絶対いや! わたしは遺産なんていらないし、若頭がいるんだから、彼が組長になればいいじゃないの。そのための肩書きと序列でしょう⁉ その方が組も安泰だし、外に示しもつくし……」
「お嬢。組長の命令は絶対です。それが遺志であるのなら尚更」
瑛は、表情を崩さず抑えた声でそう言い切り、続けた。
「俺は賛成です。組長があなたを次期組長だと言うのなら、任せたいと思えるほどのものがあったからでしょう。我ら組員は、組長に服従を誓っております。……お前ら、異存はないな⁉」
すると組員たちは「ありません!」と声を揃える。
「おかしいわよ!」
「なにもおかしくなどありません。……大丈夫、俺があなたを支えます。あなたはなにひとつ不安に思うことはない。そのままのお嬢でいてください」
にこりと笑った顔は、藍がよく知る優しい隣人の顔をしていたが、藍は真っ青な顔で首を横に振り続ける。……ありえない。組長をするなど。
「それと、お嬢には申し訳ないですが、組長が亡くなった事実は隠し通せませんので、五日後の大安に、組の襲名式を行います。それまで、この屋敷にいてもらいますので」
事実上の監禁宣言。しかも瑛は、五日後に地獄の宴が催されることを宣言したのだ。
「冗談じゃないわ! わたし、帰る!」
「だめです」
「だめと言われても帰るから!」
帰る場所などない。それでもここから出たい。
だが――
「だめだと言っているだろう! お嬢が帰るのは、俺がいるこの組だ!」
畳をバアンと叩き、爆ぜたように叫んだ瑛に、藍は怯んでしまう。
ああ、やはり彼はヤクザなんだと、藍は失望と諦観する気持ちを持つしかなかった。
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