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Final Moon 9
しおりを挟む涙目で怒っていた騒々しい人物がいなくなり、部屋の中が静まる。
「沙紀さんね、秘書やってるから勉強して、語学は堪能なんだ」
「へぇぇぇ。それは凄いね」
純粋に驚いた。
美幸夫人曰く、沙紀さんもあたしと同じ"下民"出ながら、教養はきちんとついている。
「……ということで」
朱羽は身体をあたしの方に向けた。
「陽菜は、まず英語をマスターしようね」
眼鏡をかけた顔が冷ややかだ。
「いや、でも、その……」
専務と沙紀さんはわかる。
ふたりは結婚するだろうことは、専務だって公言しているし、沙紀さんもちゃんと自覚しているようだ。
だけどあたしと朱羽は、確約したものはなにもない。
ずっと一緒に居られたらいいね……くらいなもの。
今まであたしは、朱羽が忍月の次期当主にならないと思って動いてきたけど、朱羽が自分の意志でいずれ忍月財閥当主になろうと思いを変えたのなら、隣に立つのがあたしでは身分違いで、朱羽の足を引っ張ることになるのではないだろうか。
いいんだろうか、あたしが朱羽の隣に居て。
そんな心の揺れを見透かしたように、朱羽が言う。
「皆の前で、あんなに俺を失いたくない、あんなに愛してると言っておいて、逃げる気?」
「に、逃げるわけじゃないけど……」
朱羽はあたしの脇の下に両手を差し込み、またいつものように持ち上げて彼の膝の上にあたしを後ろ向きに乗せ、あたしを逃がさないというように抱きしめてきた。
着物姿だから、裾がはだけるのが無性に恥ずかしい。
「恥じらうあなたも可愛いけれど、俺達はもっと恥ずかしいことしてるから。いまさらだ」
「……っ」
首を擽る朱羽の息が熱い。
髪をまとめ上げているから、余計に朱羽の熱を感じて、ぞくぞくする。
「……渉さんの言ったこと、意味わかった?」
どきっとした。
「……うん、一応は……」
朱羽と結婚する――。
その位置に在るのだと思い知らされた。
「あなたは、どう? 俺と結婚することが、現実になったら」
朱羽と結婚……、確かにそこには朱羽の相手としての不安はあるけれど、その一方で、身分違いとなった恋愛がそんな形で終着するのだと思ったら、すごくドキドキして高揚感に胸が苦しくなってくる。
愛するひとと名実ともに一緒にいられる……その方法に心がときめくなんて、あたしも女だったんだと改めて思う。
だけど、あたしは穢れている――。
変えようもない満月に関した過去がある限り、どうしても諸手を挙げては喜べない。
朱羽の隣に居ることに、不安が重なっていくんだ。
本当にあたしでいいの?
だけど、あたし以外が朱羽の隣に立つのは嫌。
そんな出口のない煩悶とした思いに、朱羽から尋ねられたことに答えられなかった。
朱羽は答えないあたしに焦れたように、あたしを抱きしめる腕に力を込めた。
「俺は……俺の横に立つのは、陽菜しかいない。それは昔から思っていた」
真剣さを帯びるゆえに、その声音は固く緊張しているように震えている。
「ひとに言われたからとか、そうならないといけない環境だったから、仕方がなく……というのではなく、あなたの意志が欲しい」
朱羽の甘くも切ない声が、あたしの心までを震わす。
「俺はいつまでもあなたを待つつもりだった。俺の相手はあなたしか考えられないから。あなたが嫌だというのなら、俺はずっと独り身でも構わないと思っていた」
「……っ」
「だけど……状況が変わり、正直俺は、俺のために奮闘してくれるあなたの姿を見て、そんなあなたが愛おしく、今すぐにでもあなたを妻にしたいくらいなのを必死に我慢している。わかる? どれくらい、またあなたを好きになったか」
熱い言葉に、身悶える。
「あなたを名実ともに俺ひとりのものにして、もう誰にも文句を言わせたくない。俺が将来忍月を継ぐにしても、継がないにしても、シークレットムーンであなたと働き、あなたと結婚することは、今からの決定事項だ、俺の中では。仕事だけではなく、人生においてもパートナーにしたい、あなたを」
歓喜に身体が震える。
……心が熱い。
「こんな不安定な状態で、渉さんに乗せられた形で、結婚についての会話をすることになったのは、正直癪だ。これは俺と陽菜の問題で、もっと落ち着いてきちんとしてから言おうと思っていたから。だけど、無意識で俺を溺れさせながら、忍月に入って来たその意味に、自覚が足りなさそうなあなたと、ちゃんと意志を通わしたくなった。俺の環境が不安定な今は、口約束だけしか出来ないけど、だけどわかってて欲しい」
朱羽の手があたしの手の指に絡む。
「俺の環境を整えてから、あなたを貰いに行く」
「……っ」
「俺はあなたと結婚したい」
ぎゅっと握られる。
「俺のすべてをあなたにあげたい。そしてあなたのすべてを俺が貰いたい。あなたに、俺の本当の家族になって欲しい。俺をあなたの家族して欲しい」
「……っ」
「……あなたを俺のものだと、俺の妻だと皆に言いたい。死ぬ時まで、俺の愛する妻として傍にいて欲しい」
唇が震える。
「俺と引き合わせてくれた、あなたの過去ごと……俺が貰いたい。ちゃんとしたら、名取川さんにも言いに行くつもりだ。あのひとは陽菜のお母さんだから」
「朱羽……」
「これが俺の気持ち。ずっとずっとあなたとは結婚を前提の付き合いと思っていた。だけど忍月があるから、きちんと地盤を立て直して、それからあなたに正式にプロポーズしようと思ってた。だから今はプレだけど、あなたの今の気持ちを聞かせて?」
嬉しい……その心が肥大しすぎて涙になる。
ぼたぼた零れるあたしの涙は、あたしの歓喜。
「やっぱり俺との結婚は、まだ現実的に考えられない? 愛を確かめ合った後の、ピロートークの延長?」
声が出てこないから、そのまま頭を横に振った。
「じゃあ……」
朱羽の声が震えた。
「俺の……お嫁さんになってくれる?」
朱羽はあたしの身体を捻るようにして、至近距離からあたしの返答を待つ。真剣で不安そうなその顔で、あたしの顔を覗き込む。
いいのかな。
あたしが朱羽の人生を縛っていいのかな。
そう思えども、朱羽がこうして言葉に出してくれたことが嬉しくて。
朱羽とこの先も生きていきたい思いを強めている中で、こうやってそれを現実にするために、あたしを縛ってくれたのが嬉しくて。
どうしよう、嬉しい。
正式じゃないとしても、ただの口約束でも嬉しい。
選り取り見取りの中からあたしを選んでくれたという、幸せな夢を見てもいいのかな。
人並みの、いや最高の喜びを夢見ても。
落ちる涙が止まらない。
「泣くほど……嫌?」
あたしの涙を、悲しげな声を出す朱羽の指が拭ってくれる。
あたしは頭を横に振って、歓喜に震えて声にならない声で、だけどしっかりと言った。
「よろしく、お願いします」
こういう時、なんと返事をしていいのかよくわからない。
あたしは泣きながら、朱羽の手をぎゅっと握った。
伝わって欲しい。
どうか、あたしのこの感動を。
反対の手で目を擦り、精一杯の笑顔を見せた。
「あたしをお嫁さんにして下さい。朱羽が旦那さまになってくれるの、すごく……嬉しい」
あたしの返事など予想していただろうに、朱羽は少し大きく見開かせたその目に透明な膜を張らせたままぎゅっと細めたから、雫となって朱羽の目からこぼれ落ちた。
「なんで泣くの……」
まるであたしの涙が朱羽に伝染したみたい。
泣きながら朱羽は、微笑んでいた。
「ありがとう」
あたしと心を繋げた時のように、ふわりと。
もうなにも憂い事がなくなったかのように。
それでもまだ、美幸夫人の件が残っている。
それはわかっているのに、あたし達はその後の幸せを夢見る。
一番難問だからこそ、その現実を見ないふりをする。
「よかった……。陽菜に拒まれないでよかった!」
朱羽は震える声を、次第に明瞭にさせた。
「あなたから返答がなかったから、ドキドキが止まらなかった。俺が正直な気持ちを話して、それでも結婚することはまた別の話とか、考えさせてとか言われたり、困った顔されたら、俺……かなり落ち込んだ。渉さんに煽られた感が強くてタイミングを間違えているかも、しか、結婚に至る愛し方がまだまだ足りないかも、とか、色々反省点はあったから、余計」
安堵に頬を紅潮させる朱羽が可愛くて、あたしは思わず笑ってしまう。
「大丈夫。あたしは、愛されていると思ってるよ。十分すぎるほど」
「でもあなたは、同棲すら賛同してくれなかったし。あなたは結婚願望が俺より、かなり薄かったし……。あなたは本当に俺の想定外な動きを見せるし、俺もうまくリード出来るほどの経験値がないし。……両想いになって、俺ひとりで舞い上がっちゃっているのは否めないし」
服を着ていても伝わる、早い朱羽の鼓動。
……あたしの鼓動の速さと重なっている。
「ごめんね。元々結婚願望がない女だったの。仕事が大好きで、仕事さえしていればいいと。朱羽を初めて男として、恋愛として好きになったけど、朱羽の人生まで縛りたくないと思った。朱羽を自由にしたいと思ったけど……でも朱羽が他のひとと結婚をするのが嫌で。全力で取り戻そうと思って。矛盾してるよね」
「結婚願望がないあなたに、OK貰えたぐらいには、あなたを変えられたのかな、俺」
「うん。あたしを変えた責任をとって貰わなきゃ。朱羽以外には、恋愛をしたいとも思わないもの」
朱羽の頬があたたしの首筋に擦りつけられる。
「同棲する?」
「まだ問題が終わってないでしょ?」
「終わったらしよう? 俺、忍月の手から逃れられるのなら、あのマンションを引き払おうと思ってた。あなたも未来を感じないというし。だけどあなたがいいのなら、俺あそこで住めるように交渉して、未来をちゃんと変えるから。勿論、今度はちゃんと俺が家賃を払う」
「家賃ってどれくらいかかるのよ!?」
「百万はいかないんじゃない?」
このボンボンめ!
シークレットムーンがそこまで給料は払えないよ。
「忍月財閥からも給料貰うつもり?」
「あ……どうなるんだろう。後で渉さんに聞いてみる」
「シークレットムーンだけで、あそこの家賃払えないでしょう」
「俺、アメリカで大学行きながら、FXやネット株でかなり儲けたんだ。こっち戻ってきた時、渉さんに言われて税金対策で土地も買った。忍月コーポレーションに居た時も、給料だけではなくボーナスも使ってないし。毎月家賃出すのが心配なら、あそこ買っちゃうのもいいね」
「買うって、どれくらいするのよ、あそこ」
「億はしないんじゃない? あ、そうだ。あそこのマンションひと棟買って、それで家賃収入をとるようにすれば? 税金対策にもなるし」
このひと、どれくらいため込んでいるんだろう。
なんだか聞くのが怖い。
「それとも都心にする? 駅から数分で眺めがいい場所はどこかな。……はあ、早く来ないかな陽菜と同棲したり、結婚したりする未来」
嬉しそうに、朱羽はあたしの頭の上に頬をつけた。
「今は口約束でごめんね。だけどちゃんとするから、その時まで待っててくれる? 誰のものにもならないで待っててくれる?」
「あたしは、朱羽だけだよ。どこにも行かない。ずっとずっと朱羽の横にいる。結婚という形じゃなくても、朱羽とずっと一緒にいれるのなら、それでもいいから」
「俺が嫌だ。こんなに愛してるひとを、俺の妻と呼べないなんて。そんなの俺が耐えきれない。どれだけあなたが好きなのか、いい加減わかれよ」
朱羽が頭の上にちゅっちゅっと音を立ててキスをしてくる。
甘い朱羽の声に、心身ともに蕩けそうになるる
「……なぁ、陽菜。俺のために、身体を張った陽菜を俺は忘れない。こんなに綺麗な着物姿で、名取川さんの元でも頑張って、俺や渉さんですら怖いと思うひとに立ち向かったこと、俺は死ぬまで忘れない」
「朱羽……」
「正直、真下さんが霞んだ」
「言い過ぎだって。それにあたし、まだ解決していないんだし」
朱羽は静かに頭を横に振った。
「……俺が感動したのは、結果じゃない。俺のために頑張ってくれてありがとう。俺をそこまで愛してくれてありがとう。言葉に言い表せないほど、本当に嬉しかった」
「……っ」
「……あなたを愛してよかった。あなたを諦めずにいてよかった」
そして綺麗に微笑む。
「この恩は、ちゃんと身体で返すよ」
「か、身体?」
「そう。陽菜が悦ぶことを、陽菜が死ぬまでしてあげる」
「ちょ……っ」
朱羽の甘美な匂いが濃厚になった。
とろりとした瞳。
まさか発情!?
「陽菜に頑張ってくれたご褒美上げなきゃ」
朱羽は両腕であたしを横抱きする。
「な……っ」
「あのひとと対決するのに、エールを注いであげる」
朱羽は歩き出す。
「ちょっと、朱羽!」
そして、出入り口ではない側面についているドアを開ける。
そこは寝室だった。
帝王ホテル並のキングサイズのベッドの上にあたしを下ろすと、あたしの顔の両側に手をついて、上からあたしを覗き込む。
「あなたのいないベッドで、ひとりで寝ていたのが辛かった」
「朱羽……」
朱羽の辛そうな表情に切なくなってくる。
「お見合いの後、あなたと愛し合えると思ったのに、この部屋に閉じ込められて、スマホまで取り上げられて、あなたが恋しくてたまらなかった」
「……っ」
「わかってる? 陽菜。俺は毎日あなたに恋をして、胸の奥があなたの愛おしさに膨らんで破裂しそうで、苦しい。それくらい、あなたを愛してる」
あたしの心臓がドクンと脈打った。
「あなたが額に怪我をしたのを庇ってやれなくてごめん。あんな立ち話やLINEではなく、もっとゆっくりとちゃんと言いたかった。それでも俺のために戦ってくれたこと、俺は感動して、何度も惚れ直したよ。こんなに好きなのに、あなたを抱きしめられなくて、どれだけ泣きたくなっただろう。どれだけただ座っているだけの自分の不甲斐なさを嘆いただろう」
「朱羽……」
「凄く会いたかったよ。あなたを少しでも感じたくて、あなたにあげたネックレスに何度もキスをしてた」
朱羽は背広を脱ぎ、ネクタイをしゅるしゅると音をたてて取る。
目だけはあたしを捕えたまま、誘惑するようにシャツのボタンをふたつ取った。
首元に煌めくのは、あたしが貰い、そしてお守り代わりに渡したネックレス。
朱羽はネックレスを手にして、妖艶に口づけた。
まるであたしがキスをされているように。
思わずこくりと唾を飲み込んだあたしを見て、艶美な目が細められる。
「ここで、あなたを抱くよ」
ぞくりとした。
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