ハニーラビットは、今日もつかまらない

奏多

文字の大きさ
2 / 17
1巻

1-2

しおりを挟む

「今日は……あれしか仕事を作れなかったんだ。忙しく社内を駆け回っている彼女は疲れている。彼女の負担にならないよう、準備をきちんとしたつもりだったんだが……」
「そのいたわりが彼女に伝わっていればいいけれどさ。せめてもう少し仕事をためてから呼べよ」
「それまで彼女に会わずにいろと? 無理だ。仕事を口実にして呼び出さないと、話すこともできないのだから。それでなくともウサギは警戒心が強い。俺は敵ではないのだと、辛抱しんぼう強く教えてやらないと。そう、辛抱しんぼう強く……」
「で、お前が辛抱しんぼうした成果は出ているか?」
「……見ての通りだ」

 鷹宮はうれい顔で、嘆息した。それを見て鷲塚は苦笑する。

「誰もが畏怖いふする冷徹れいてつな鷹の王様が、いつも捕まえ損ねている子ウサギに恋患いをしているなんてな。しかも入社面接時にひと目惚れとは、泣ける話だね」
「……言ってろ」

 鷹宮は、昔からさほど苦労せず、なんでもこなしてきた。
 女性に関しても、黙っていてもそばに寄ってくるため、手に入れる努力をしたことがない。
 その時の気分で肌を重ねることもあったが、あくまでそれは一夜限り。
 のめり込めるほどの快楽や愛を味わったこともなく、わずらわしい現実からの逃避手段として女を利用していたにすぎなかったのだ。社会人となってからは、仕事の方が面白くて、びてくる女への興味をさらに失った。

『今、商談より大切なのは、あなたの体です!』

 ふと、初めて会った日の月海の言葉を思い出す。
 彼女は忘れているだろう。なぜ入社面接に遅れてきたのか。
 宇佐木月海には、最初から目を奪われた。
 彼女は気弱そうでいて、勝ち気で頑固な面もある。
 空気を読むことにけ、危険を察知すればひと跳ねでいなくなる……まさしくウサギ。
 なにより彼女は俊足なのだ。捕まえようと伸ばした手は、いつもむなしく宙を切る。彼女が逃走のスタートを切ると、もうお手上げだ。
 計算高くて情が薄いと言われやすい自分が、本命相手にはいかに不器用で、諦めの悪い男なのか、初めて知った。
 なにせ初めてなのだ。欲しくてたまらないといういとおしさも、自分から攻めるということも。
 四歳も年下相手に、まごつく自分に苛立いらだって立ち去ることしかできなかった昔に比べれば、専務室に呼べるだけ、いくらかましになってはいる。だがいまだ、上司と部下の関係を崩せない。
 頻繁ひんぱんに顔を合わせていれば、なにかしら親近感を持って貰えると考えていた。しかし現実は、少しでも長く一緒にいたいと思っているのは自分ばかり。彼女の警戒心は解けない。
 せめて彼女の興味を引けるほど気の利いた台詞せりふが出てくればいいものの、早くしないと逃げられると焦るあまりに、口を開くたび裏目に出ている気がする。
 今回だって喜ばせたいとプレゼントを贈ったら、泣かれる始末。距離の詰め方がわからない。

「……千颯がうらやましいよ。怖がられず、笑顔のままで足を止めて貰えるんだから」

 きっと鷲塚からの贈り物なら、彼女は喜んで受け取っただろう。どんなものでも。
 そう思うと、ただでさえ切ない心が嫉妬しっとげついてくるようだ。

「僕をにらむな。お前のにらみは怖いんだよ。玄関ホールでも、にらまれているのは自分だと勘違いした子ウサギちゃんが、びびって逃げたじゃないか」
「お前がこれみよがしに、やたら彼女に笑いかけるからだ。それでなくとも、彼女にでれでれして近づく男が多い。そんな男どもをにらんで牽制けんせいしないと、もっていかれるじゃないか」

 彼女が皆から好かれるのは、いつも笑顔で気立てがいいからだけではないと鷹宮は思っている。庇護欲をそそる愛らしい顔立ちや、こちらの心もぽかぽかと温かくさせてくれるあの雰囲気。もし色香も出るようになったら、いつどこの略奪者が彼女に手を伸ばすかわからない。

「だったら、お前がにらんでいるのは彼女ではないことをわかって貰うために、彼女に笑顔を見せろよ。僕みたいに、にっこりと」

 すると鷹宮は遠い目をして、乾いた笑いをこぼす。

「……笑ってみせたら、真っ青になって震え上がり、速攻で逃げられた」
「どんな笑顔を見せたんだ?」
「こんな感じだが……」

 鷹宮の作り笑いを見て、鷲塚は首をひねる。

「普通の笑みだよな。それがどうして逃げられる?」
「そんなの、俺が聞きたいよ」
「だったら物言いを優しくしてやれば? 口下手なりにも、誠意というものが伝われば……」

 鷹宮は琥珀色こはくいろの瞳を、鷲塚に向けた。

「話そうと思ってもいないんだよ、相手が」
「だったら電話! 直通の内線でフレンドリーに話しかけてみろ!」
「とうに試してみた。穏やかな口調を心がけ、少しでも警戒心を解くきっかけになるよう、世間話もり交ぜて。そして思い切って食事に誘ったら……」
「誘ったら?」
「受話器から聞こえたのは猪狩の笑い声だった。どうやら俺が語りかけていた相手は、早々に凍りついてしまい、不審に思って電話を代わった猪狩が、ずっと聞いていたらしい。そしてひと言」
『キモ!』
「それが胸に突き刺さり、以来、宇佐木を呼び出す電話は、猪狩避けのために端的な言葉のみにするようにした。電話を使えばフレンドリーになれるなど、甘い夢だった」
「……ご愁傷しゅうしょう様」
「俺にはなにが足りないのかと考えていたら、後日、猪狩から専務室に本が郵送されてきた。『女心を掴むノウハウ』と『鷹匠が教える百中の鷹狩り』いうタイトルの。わざわざ下の階の総務課から、受取人払いで。本代の請求書も入っていてな。さすがは元秘書課の同期だ」
「……あいつは、お前に秘書課から総務課へ異動させられたことを根に持っているしな。猪狩くらいだよ、お前にそんなことができる、怖い物知らずの女は」

 鷲塚から同情の眼差まなざしを受けながら、鷹宮は淡々と言葉を続けた。

「……せっかくだから読んでみた。だけどさっぱり理解できん。なぜ好きな女を相手に、引くテクニックとやらをとらねばいけないんだ。引いたら、これ幸いと逃げられるだろうが」
「お前は、引く引かない以前の問題だしな。鷹の本はどうだった?」
「あれは中々に興味深かった。鷹を飼ってみたくなったよ」
「お前が飼うのかよ。自分の狩猟スキルを上げろよ!」

 鷲塚はツッコミを入れた後、努力が報われない友人に提案をする。

「なぁ。一流大学を卒業したわけでも、コネがあるわけでもない子ウサギちゃんが、体力と足の速さだけでTTICに就職できるはずがない。御曹司おんぞうしが暗躍し、代償を差し出したっていう事実も知らずに、お前から逃げようとしているんだ。事情を告げれば、状況は変わると思うぞ」

 代償――それは、月海を入社させる条件として、鷹宮が社長である父親から求められたものだ。
 TTICの後継者として正式な名乗りを上げるため、専務に昇進できるだけの成果を短期間で出すこと。当時、営業促進課で課長をしていた鷹宮は、その約束を果たし、海外進出という大プロジェクトを成功させたのだった。

「……言わない。代償の結果がこの地位で、当初の予定通り、お前と猪狩を総務にえられたんだ。俺も恩恵を受けている。それに俺の私情で勝手にしたこと。そんなことで彼女を縛りたくもないし、彼女は総務課でよくやってくれている。彼女が入りたいと願った会社が、いい人材を公平な目で見抜くいい会社だったと思われたい」

 穏やかに笑う鷹宮に、鷲塚は苦笑いを浮かべた。

生真面目きまじめというかストイックというか。鷹の王様は怖いだけじゃく、恋愛には不器用な健気けなげい奴だって、子ウサギちゃんに教えてやりたいよ」
「余計なことをするなよ。これは俺が自分でなんとかしないといけないんだから」
「はいはい。僕は今まで通り、傍観者ぼうかんしゃでいさせて貰いますよ。だけど榊。年末までには勝負をつけろよ? そうじゃなければ僕の財産は、がめついイノシシに根こそぎ持っていかれるんだ」

 切実な訴えに、鷹宮はため息をついた。

「今まで順調に人生を歩んできた俺が、同期に賭けの対象にされているとは……」

 しかしそんな鷹宮の呟きは鷲塚には届かず、彼は震えるスマホを取り出していた。

「……うわさをすればなんとやら、猪狩からメッセージがきた。子ウサギちゃんが十分以内に総務課へ戻ったので、僕の負けだと。今晩もおごり決定だ」
「お前、俺を使って猪狩といくつ賭けをしているんだよ……」
「それは秘密。そうだ、とっておきの情報があったんだ。『ウサギの日』がいつかわかった。三月三日。ミミの日。来週の金曜日だ」

『ウサギの日』――月海の誕生日のことだ。鷹宮はそれがいつなのか探りつつ、今年こそ彼女と過ごすための計画を立てていたが、判明した日付は結衣のヒントから推測した誕生日より大分早かった。

「子ウサギちゃんの誕生日は、既に猪狩が予約している。猪狩を出し抜いて子ウサギちゃんを独占し、今度こそ彼女を喜ばせるんだ。そしてお持ち帰りして、骨まで美味おいしく頂いちまえ! これはお前の、重大なミッションだ」

 すると鷹宮は微妙な顔をした。

「……その日、俺、横浜でパーティーがあるんだが。みささぎ建設の」
「そんなもん後回しにしろよ、僕の財産がかかっているんだぞ。お前の不器用さを、頭のよさでカバーしろ。彼女からお前に会いに来る策を考えろ、なんとしても!」

 鷲塚の言葉に呼応するように、鷹宮の目が鋭く光る。
 鷹宮も、もういい加減にこの状況から抜け出したかった。
 怖がらせたいわけではなく、自分の前で笑顔になって欲しいのだ。

「わかった。まずは猪狩をなんとかしよう。猪狩を暴れさせず味方にする方法は……」

 策を巡らせる鷹宮は、狩りをする鷹のごとく好戦的に笑った。


  ◆ ◆ ◆


 月海がウサギ好きなのは、亡き父方の祖母がウサギ好きだったからだ。
 大正時代に生まれた祖母は、華族の身分を捨て、平民だった祖父と駆け落ちしたらしい。祖母は物腰が上品であったが、平凡に生まれ育った月海の父も月海も、極々ごくごく普通の一般人である。
 母は月海が幼い頃に病死し、彼女が七歳の頃、新たな母ができた。義母は月海よりひとつ年下の義妹を連れて来たが、この母子はプライドが高い支配者タイプで、月海は家に居づらくなり、しばしば祖母のもとに逃げ込んだ。
 祖母は月海に優しく、よくリンゴのウサギを作り、泣きじゃくる孫をなぐさめてくれた。
 祖母は義母から邪魔者扱いをされても、文句を言わずに質素な暮らしをしていた。その祖母が、笑みをこぼしながら願いを口にしたのはたった一度きり。たまたま月海と見に行った、TTICの展示会にあったリクライニングチェアに座って、編み物をしてみたいということだった。
 だがそのチェアは非売品で、生産予定もなかった。そこで月海がアルバイトをしながら、似たようなチェアを探している間に祖母が急逝きゅうせい。孝行できなかった月海の心残りは大きく、祖母と縁があったTTICで働くことで、せめて思い出の中の祖母を大切にしようとしていた。……それなのに。

(ウサギの足なんて、おばあちゃんが見たら、絶対ショックで心臓発作起こすわ)

 平然と、あんな残酷なものを渡そうとしてきた鷹宮。これはもう、嫌がらせのいきだ。
 しかしあの後、事情を聞いた結衣はひーひーと笑い転げながら、こう言った。

『鷹のセンスが悪いのは確かだけど、それ、有名な幸運のお守りよ?』

 初耳だったが、業務後に慌ててネットで検索してみると、結衣の言う通りだった。

「え……本当にウサギの後ろ足を使った、幸運のお守りがあるの?」

 古来よりウサギは、繁殖力が高いため神聖視されていたようだ。特にウサギの後ろ足は、走ると前足よりも前に出て地面を叩くという他の動物には見られない動きをすることから、不思議な力が宿るとされ、ラビットフットは幸運のお守りとなったのだとか。

(そんなものがあるなんて知らなかった……。もしやわたし、自分の無知さを棚に上げて、純粋な贈りものをこばんで、泣いちゃったの?)

 醜態しゅうたいさらしたことを思い出すと、胃がキリキリする。最悪だったのは自分だ。
 次に呼び出された時に、失礼な態度をとったことを謝ろう。そう考えていた月海だったが、なぜかあれ以降、鷹宮からの呼び出しがない。
 体調不良なのかと思いながら、営業一課に不備の書類を返却した帰り、同じフロアの会議室から出てきたばかりの鷹宮を見かけた。いつも通り悠然ゆうぜんとしており、特に具合が悪そうな気配はない。
 突如、彼の背後に常務が現れ、鷹宮に声をかけた。なにやら激高しているみたいだ。
 月海はひっそりと柱の陰に身を隠した。

「鷹宮専務、勝手をされては困りますよ。総務……特に総務課は私が統括とうかつしているんです。会社のためを思ってしていることを、横から口出ししないでください」
統括とうかつ? 会社のため? ほう、それが稟議りんぎ書を却下している理由だと?」

 鷹宮が目を細めて不敵に笑うと、常務はひるんだ様子を見せ、どもりながら答える。

「そ、そうです。楽をしたいために予算を使おうとする、我儘わがままな社員たちを正しく導くのが、上の者の仕事。きちんと組織のルールをわからせねば」
(楽をしたいための我儘わがままって……。総務課がどれだけ大変なのか、わかっていないのね)

 すると鷹宮はくつくつと笑った。しかし、その目は笑っていない。

「確かに上に立つ者は、下の者を導く義務がある。ならば常務。あなたの上役として言いましょう。総務は奴隷どれい養成機関ではない。社員の意見も尊重すべきだ。不当な圧力をかけるのはおやめ頂きたい」

 聞いている月海の体が跳ねる。まさか鷹宮からそんな言葉が出るとは思わなかったからだ。
 同時に感動もした。ないがしろにされがちな総務課社員を、鷹宮は認めてくれていたのだと。

「な、なにを根拠に……。そ、そうか、鷲塚部長ですね。彼はTTICの伝統を乱そうとしている。それは、TTICに長くいる私がたしなめねばならないのです。専務が彼と仲がよろしいことは承知しておりますが、私情に目をくもらせるのはいかがなものかと……」
「これは社内全体に言えますが、総務を軽視する風潮が伝統だというのなら、それは優先的に改革すべき重要懸案事項。長く続いてきたしき因習は、これからのTTICに必要ない。TTICは総務によって支えられている事実を再認識すべきだ。鷲塚部長には公正な監督を命じています。たとえば総務課の予算を、個人で使おうとしている不届き者がいないように」

 ぎらりと琥珀色こはくいろの瞳が光る。すると常務は大仰おおぎょうなほど飛び跳ねた。

「まさか、会社の伝統をお守りくださろうとしている常務が、そんなことをしているとは思いませんがね。……納得がいかないようでしたら、いつでも専務室にいらしてください。では」

 鷹宮は不敵に笑うと、泰然たいぜんとした態度のまま去っていった。

「……こっちには副社長がいるんだ。すべてが思い通りにできると思うなよ、若造が!」

 鷹宮がいなくなった途端に悪態をつく常務。それを眺めながら、月海は思った。

(専務は、総務を馬鹿にしているわけではないの?)

 総務は出来損ない集団だから、鷹宮が排除したがっているといううわさは、本当ではないのだろうか。会話を聞く限りにおいては、彼は誰よりも総務に理解を示してくれていた。
 ここで耳にした彼の言葉が本心であるのなら、鷹宮は、信頼にあたいする公明正大で温情ある人物だったということになる。月海が今まで彼に抱いていたイメージとは真逆の。
 自分は二年も勝手に彼を誤解して、苦手意識を強めてしまっていたのだろうか。そう思うと戸惑いを隠せないが、そう信じてきたのは、彼の一方的な冷たい態度が原因でもある。
 どう考えてみても、あの不条理な態度が、公正さと思いやりに満ちたものとは思えない。
 歩き始めた月海は、しかめっ面をしていたことに気づき、ハッとする。

「いけない。笑顔、笑顔。よくわからない専務のことではなく、金曜日のことを考えていよう」

 四日後の金曜日は、月海の誕生日だ。その日は、仕事帰りに結衣が高級レストランに連れていってくれる。結衣が知る店はどこも洒落しゃれていて、驚くほど美味おいしい料理ばかり出てくるのだ。
 その下調べの犠牲ぎせいになっているのが、鷲塚の財布だとは気づいてもいなかったが、月海にとって結衣は真似まねすることのできない都会の華。ああいう大人の女性になりたいと憧れていた。

(まあ、素材からしてまったく違うけれどね)

 自虐的に笑う月海は、昔のことまで思い出し、ずぅんと沈み込んだ。
 高校時代、陸上部に青春を捧げてきた月海だが、つきあった彼氏はいた。ところがある日、彼に『あまりにも幼すぎて欲情できない』と陰で笑われていることを知ったのだ。そのショックで走行中のバイクに気づかずはねられ、靱帯じんたいを損傷。短距離人生に幕を下ろすことになってしまった。
 結果、大学のスポーツ推薦が絶望的になったため、なんとか自力で二流大学に滑り込んだ。そこでやりたいことを探そうと思っていた矢先、バイト先の先輩に押し切られてつきあうことになった。
 彼は月海に欲情してくれたため、トラウマが薄れかけていたのに、二股が発覚。自分は最初から彼の浮気相手だったと知った。
 彼らはふたりとも素敵な容姿の持ち主だったが、所詮しょせんイケメンなんて二枚舌。己に釣り合う美女でなければ、本気にならない。よくて中の中あたりの、さして特徴もない童顔女は、もてあそばれ捨てられるのがオチだ。
 そう思うからこそ、月海はイケメンという人種を敬遠している。
 上司として尊敬する鷲塚だって、プライベートで関わりを持ちたいとは思わない。
 特別は望まないから、平凡な男性と普通の恋愛をしてみたい……そう願うけれど、低身長と童顔がたたって、妹的なポジションにされやすいのが現実だ。

「まあ今のわたしは、恋愛より仕事だけど」

 笑いながら総務課に戻ると、誰もいなかった。電話番もいないことを奇妙に感じ、怪訝けげんな顔で席に戻ると、机の上に付箋ふせんが貼ってある。『戻ったらDM作業部屋に来て』――結衣の文字だ。なにかあったのだろうかと、月海はその部屋に向かった。
 部屋には総務課社員が集合し、感動に打ち震えていた。驚いた月海が声をかけると、皆が一斉にある方向を指さす。そこにあったのは、初めて見る大型機械だ。
 一体なんの機械なのかわからず首をひねっているうちに、結衣と鷲塚がやって来て、興奮した声を響かせた。

「宇佐木、見てよ! ようやく総務課念願の機械が入ったの。DM用の高性能の機械が! 紙折り機能もコレーター機能もついて、名刺やタックシールも作れる優れものよ」
「えええ!? じゃあ常務が、やっと許可してくれたんですか?」
「常務じゃないわ、鷹よ。鷹が強行してくれたの! 借りを作ってしまったわ」
「専務が……」

 月海は盗み聞きした鷹宮と常務の会話を思い出す。もしかすると常務は機械納入の件で、鷹宮にみついていたのかもしれない。
 結衣と同じく、上気した顔で鷲塚が言った。

「総務は旧体質の常務の統括とうかつだ。ここだけの話、僕も結構常務にみついてきたけれど、総務に新たな風を入れるのは、大変なことなんだよ。きっと常務が越権行為だとあいつを責めるだろうけど、あいつならきっと容易たやすく制圧するだろう。どんなに不可能に思える案件でも、あいつは可能にする。有言実行のあいつには、友ながら感服するよ」

 結衣も、珍しく素直に同意する。ふたりの目に宿っているのは純粋な敬意だった。このふたりをここまで魅了できるほど、鷹宮は有能でカリスマ性があるのだ。
 月海は、いまだ歓喜に沸き続ける同僚の声を聞きつつ、機械を眺めた。総務課待望のこの機械によって、どれだけの時間が短縮され、どれだけ多くのDM発送ができることだろう。
 総務の生産性などたかがしれているからと却下されていた現場の声を、鷹宮が取り入れてくれただけでも、ありがたいことだった。

『総務は奴隷どれい養成機関ではない。社員の意見も尊重すべきだ』

 彼はその言葉を、行動で示してくれた。鷲塚の言う通り、有言実行してくれたのだ。

(やはり、専務は総務課社員の味方になってくれようとしているとしか思えない)

 同僚の喜びは、仕事が楽になる機械が入ったからだけではない。自分たちの存在を認めてもらえたことが嬉しいのだ。この会社で自分たちは見捨てられていたわけではない――そんな希望に満ち溢れていた。月海自身もそう感じている。
 鷹宮のことを見直した……と言うのはおこがましい気もするが、末端にまで目を向けてくれる彼は、必ずTTICのトップに立って貰いたい人物だ。彼ならば皆が従うだろう。

(わたし、専務に対して、偏見を持ちすぎていたのかもしれないわ)

 彼の眼差まなざしを思い出せば、やはり嫌われているという疑念はぬぐえないし、苦手意識は簡単に消えるものではない。それを抑えてでも今、感謝の気持ちを伝えたい――
 礼を述べに、専務室に行こう。そしてラビットフットのことも、謝りたい。

「あれ、宇佐木、どこか行くの? これから業者が来て、使い方を説明するんだけど」
「説明は途中参加します。わたし、鷹宮専務のところに行って来ます」

 すると結衣も鷲塚も大仰おおぎょうなほど驚いたが、月海は気にせずその場を離れた。


「総務課の宇佐木です。少々お話があってお伺いしました。今、よろしいですか?」

 ノックをした後にそう言うと、専務室の中からなにかが落ちる音が聞こえた。
 まさか鷹宮が倒れたのでは……月海はそんな一抹いちまつの不安を覚えたが、三秒後に中に入るようにと返事があった。

「ええと……どうした? なにかあったのか?」

 鷹宮は落ち着きのない声を響かせ、机から落ちた電話機を拾っている。

「お忙しいようでしたら、また改めますが……」
「いや、いいんだ。さあ、ソファにでも……」
「いえ、すぐにすみますので、立ったままで結構です」
「すぐにすまさなくてもいいだろう」
「いえいえ。本当にすぐ終わりますので。専務はどうぞお座りください」
「ちょうど立ちたいところだったから俺も立っていよう。で、話とは?」

 机に片手をついて、鷹宮は斜め上から月海を見つめてくる。
 その眼差まなざしは穏やかで、突然の訪問を怒ってはいないようだ。月海はほっとして言った。

「まずは、先日のラビットフットの件です。わたし、ウサギの足を幸運のお守りにしたものがあるということを知らなくて、せっかくのお心遣いを邪推し、専務に失礼な態度をとってしまい、大変申し訳ありませんでした」
「いや。無粋ぶすいで説明不足だった俺が悪かったんだ。きみを泣かせるなど」

 鷹宮が謝ったことに、月海は驚愕きょうがくすると同時に、申し訳なくなる。
 泣かせたということに罪悪感を覚えているのだろう。だからきっと、いつもの怖さが影をひそめているのだ。彼も同じ人間なのだと思うと、警戒心が薄れてくる。

「ただ……他意はなかったことだけは、きみに信じて貰えると嬉しい」

 その言葉を、今の月海はすんなりと受け止められた。たとえ自分を嫌っているにしても、彼は嫌がらせをするような陰湿で卑怯な男ではないと思うからだ。なぜ贈り物をしてきたのかは依然不明だが、プレゼントしたいと思ってくれたことに対しては否定する気はない。

「勿論です。わたしの誤解のせいで、せっかくのお気持ちを踏みにじってしまい、すみませんでした」
「いや、いいんだ。誤解が解けたのならそれで。伝えに来てくれてありがとう」

 鷹宮の顔が嬉しそうにほころんだ。それは常の笑みではなく、初めて見る優しい笑みだった。どくりと心臓が跳ねた月海は、こそばゆい空気に居たたまれない心地になる。戸惑う彼女に気づかず、鷹宮は胸ポケットの中にあるウサギの足を取り出すと、月海に渡した。

「ちゃんと幸運の効果があるのは実証済だ。使ってくれ」
(いや、別に……欲しいわけではないんだけど)

 月海にとっては、残酷な代物しろものには変わりがない。だが、鷹宮はどうしてもプレゼントしたい様子だ。拒絶したことを謝罪している以上、断る理由が見つからない。

「あ、ありがとうございます……」
「そうだ。イギリスから持ち帰った紅茶があるから、飲んでいけ。貰った菓子もある」

 小腹がいていた月海にとって、魅力的な誘いであった。だが、鷹宮への認識を改めても苦手意識を克服したわけではない。また今の鷹宮は上機嫌らしく穏やかなものの、自分を嫌っている相手だ。それにただの社交辞令だろうと思い、月海は断る。

「仕事中なので、お気持ちだけ頂戴します。あの、実は……もうひとつお話がありまして。このたびは総務課へのDM用の機械導入をご指示頂き、本当にありがとうございました。わたしを含め総務課一同、専務にとても感謝しております。現場は狂喜乱舞の状態でした」

 すると鷹宮は、小さく笑った。

「総務課社員に負担がかかりすぎるのをとする今の体制は、おかしいと思っている。必ず正していく。きみたちに、もっと心にゆとりをもって、楽しんで仕事をして貰いたい」

 総務課社員にそんな優しい言葉をかけてくれたのは、鷲塚以外では鷹宮だけだ。上滑りの言葉には聞こえない。末端にまで気遣ってくれる素晴らしい上司だと、感動した月海は目をうるませる。

(上司としてはこんなにいいひとなのに、どうしていつもにらみつけてくるんだろう)

 そんなことを思っていた月海に、コホンと咳払いをした鷹宮が言う。

「時間ができた分、よければ、もっとここに来てくれれば……」
(時間に余裕ができるのだから、もっとバリバリと仕事をしろということね。やはり仕事ができる専務には、わたしはのろのろしているように思えていたんだわ)
「はい、専務からのお仕事も、より一層励み、スピーディーに終えるように頑張ります」

 熱意のこもった元気のいい返事に、わずかに鷹宮の顔がった。だが月海はそれに気づかず、笑顔のままで話を切り上げる。

「ではこれにて失礼します。本当にありがとうございました」
「ちょっと待て!」

 鷹宮は慌てたような声を響かせた。既にドアの前に移動していた月海は足を止め、振り返る。
 彼の手は、またもや不可解に宙へ伸ばされていた。

(本当にあの手はなんだろう。でも聞いちゃいけない気もするし……)

 鷹宮からは一向に言葉が出てこない。呼びとめられたと思ったのは勘違いだったのかもしれないと、月海が再度頭を下げてドアノブを回したところ、どこか切実な声がした。

「待て。こちらからの話は終わっていない」
「なにかご用でもありましたか?」
「……きみには、仕事以外の話はないんだな」

 自嘲じちょう気味な声が聞こえ、月海は首をひねる。

「ええと……?」

 逆に鷹宮へ聞きたい。専務と総務課のヒラ社員が、仕事について以外になにを話すことがあるのかと。
 そう思って彼を見た月海は、すぐに出ていかなかったことを後悔する。

「……だったら、仕事の話をしようか」

 鷹宮がまとう空気が、なぜか鋭いものに変わっていたからだ。
 いつも以上に研ぎ澄まされた捕食者の眼差まなざしを向けられ、月海の本能が警鐘けいしょうを鳴らす。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

娼館で元夫と再会しました

無味無臭(不定期更新)
恋愛
公爵家に嫁いですぐ、寡黙な夫と厳格な義父母との関係に悩みホームシックにもなった私は、ついに耐えきれず離縁状を机に置いて嫁ぎ先から逃げ出した。 しかし実家に帰っても、そこに私の居場所はない。 連れ戻されてしまうと危惧した私は、自らの体を売って生計を立てることにした。 「シーク様…」 どうして貴方がここに? 元夫と娼館で再会してしまうなんて、なんという不運なの!

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。

Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。 そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。 そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。 これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。 (1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)

私の息子を“愛人の子の下”にすると言った夫へ──その瞬間、正妻の役目は終わりました

放浪人
恋愛
政略結婚で伯爵家に嫁いだ侯爵令嬢リディアは、愛のない夫婦関係を「正妻の務め」と割り切り、赤字だらけの領地を立て直してきた。帳簿を整え、税の徴収を正し、交易路を広げ、収穫が不安定な年には備蓄を回す――伯爵家の体裁を保ってきたのは、いつも彼女の実務だった。 だがある日、夫オスヴァルドが屋敷に連れ帰ったのは“幼馴染”の女とその息子。 「彼女は可哀想なんだ」 「この子を跡取りにする」 そして人前で、平然と言い放つ。 ――「君の息子は、愛人の子の“下”で学べばいい」 その瞬間、リディアの中で何かが静かに終わった。怒鳴らない。泣かない。微笑みすら崩さない。 「承知しました。では――正妻の役目は終わりましたね」

王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る

家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。 しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。 仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。 そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。

もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?

冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。 オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。 だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。 その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・ 「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」 「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」

初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。 だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。 しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。 王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。 そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。 地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。 ⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。