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第4章 代償
呑み込まないといけない心
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厨房――。
そこでシェンウ邸の女主人自らが作った、大量の皿に乗せた色とりどりの料理を、大広間に用意した大きな卓に、ユウナがせっせと運んでいた。
本来この家では、料理を作る下女達がいたのだが、サラが屋敷にいる下人全てに暇を出してしまい、今この屋敷で料理を作れるのは、サラしかいなかった。
結婚前は、大食漢のハンに色々な手料理を振るっており、料理の心得は十分にある。かなり本格的な腕前で、鶏も魚も捌け、この屋敷においても、サクやハンの祝い事がある時には自らが馳走を作っていた。
料理の腕はあるとはいえ、これから街長家族を招待しようとすれば、全員が満腹感を味わうためには、ゆうに十人分は作る必要があり、それを卓に並べるだけでも手が足りない。
そこに、湯浴みが終わり銀髪をどう染めたらいいのか聞きに来たユウナが、戦闘状態のように目まぐるしく動くサラを見て、自ら手伝いを申し出たのだった。
体力自慢の夫と息子はまだ街長宅から帰らず、正直使えるものは使いたい心地のサラであったが、さすがに姫に、体を使う雑務はさせられない。
――サラ。あたし……お手伝いしたいの、少しでも!
姫の必死さに心動かされ、ユウナの髪を手早く染めた後、ユウナが厨房から動かずに済む手伝いを頼むことにした。
米の水洗い、皮を剥いた大根を縦に四つに切るだけという、子供でもできる手伝いだったが、ユウナは実に嬉しそうに喜んだ。
その間に、サラは両手に大皿を持って隣室と厨房を往復していたのだが、ふと首を傾げて固まっているユウナが気になり、遠目で様子を窺ってみた。
ユウナは、ぼそぼそと独りごちている。
――何度も何度も水洗いしてもしても、お米が黄ばんで見えるわ。洗い方が間違っているのかしら? そうだ、真っ白になる洗濯糊を……。
慌てたサラが言う。
――姫様、お米を洗濯したら、食べられなくなっちゃいます! いいんですよ、炊けば白くふっくらになりますから! もう十分です!
そしてまたある時は、
――大根の縦切りって、切りにくいわね。きっとあたしの気合いが足りないのね、気合い気合い……。……ふぅ……はっ!!
――姫様! 縦切りというのは、大根を垂直にして〝立て〟て飛び跳ねながら上から切ることじゃありません!! 野菜を切るのに気合いは不要です!!
温室育ちのユウナには、街の子供ほどの知識はなかった。そこでサラは仕方が無く、自分がしていた単純作業を頼むことにすれば、今度はみるみると有能さを発揮したのだった。
――さあ、サラ。じゃんじゃん寄越して!
元々ユウナは、身体を動かすことが好きなお転婆な姫なのだ。ユウナは、下女のようなことをしていることに不満がるどころか、鬱的な表情が緩和して見えるほど、活き活きとした生彩さを戻しつつあった。
その姿を、我が子のように微笑ましく思いながら、明日には息子と共にもう旅立ってしまうのかと思えば、サラは無性に寂しくなった
。
もしもユウナが、リュカではなくサクを伴侶に選んでくれていたら。
そして今日サクとの婚礼が行われ、息子の心からの笑顔を見ることが出来ていたのなら。
どんなに喜ばしいことだったろう。
息子の嫁として、自分の義娘として、こうして無邪気に屈託なく笑うユウナが、シェンウ家の一員となってくれるのなら、どんなによかっただろう――。
〝ユマとユウナ姫はそっくりだ〟
それは、誰が言い出したことだったのか。
確かに造形は似てはいるが、近くに並んで立てば、その凜とした気高さに開きがある。
育った環境の影響は多少あるだろうが、それよりは生来の個性に違いがあるようサラには思えた。
ユウナには、ユマには持ち得ない、燃えるような激情を内包している。他者を従える直情的な勇ましさがある。論破出来ない強さがある。
まるでハンのような武神将のように、父である祠官よりも雄々しく――。
ああ、サクは……この姫から逃れられない。
そう思ったのは母の直感。
サクは、生涯をかけてこの姫だけを追いかけ、求め続けるだろう。
直感は、確信へと変わっていった。
傷心で苦しむサクに、姫の代償など必要はなかったのかもしれない。
サクの心は、痛いほど姫に向かってまっすぐだ。
……それはきっと、ユマもわかっただろう。
ユマは健気な子だ。サクがユウナを想い続けるように、ユマもまたサクに一途で、サクのために内面も磨き上げようと必死でいじらしい。
そうしたユマに絆され、ユウナとそっくりな顔立ちもなにかの縁かもしれないと、それがサクの救いになればと、ユマとの婚礼話を街長と共に進めてはいたけれど、最初からサクは乗り気でなかった。
そして今、こんな事態なら、この縁談話もご破算になるだろう。
聡いユマも、きっと納得してくれるはずだ。
ふたりの旅立ちは命がけ。サクは仕官している身、ユマとの幸せな結婚が叶わないのは、致し方がないことなのだと。
それに、あれだけはっきりとサクの想いが示されてしまえば、いつか振り向いて貰えるという、些細な希望も打ち砕かれたかもしれない。
ユウナに庇われたあの時のサクは、ユウナしか見ていなかった。
ユマもまた、サクを護ろうと捨て身で止めに入ったというのに、ユウナが現れた時点で、ユマの姿はサクの視界から消えていたことだろう。
ユマには辛いことだろうが、あれこそがサクの真情なのだ。
他人が踏み込んでも、決して揺るがないサクの心。
ユウナが愛おしくてたまらないというサクの顔。
……たとえ、諦めようとしている恋であろうと、サクの中ではユウナしか見えないという結論が、はっきりと出ているのだ。
だとしたら――。
ユウナがリュカに裏切られた現実であるならば、それがどんなにユウナにとって耐えがたい苦しみ伴う現実であろうとも、その苦痛の元凶であるリュカともう婚礼をあげることがないのであれば、この先、息子を選んではくれないだろうか。
今はまだ深く抉られた傷は癒えぬかもしれない。
だが、遠い未来になったとしても、将来的にはサクを。あそこまで姫を溺愛するサクを。母親ですら今までも見たことがなかった、愛しさ募らせる〝男〟の顔をしたサクを。
主従関係を抜きにして、ただの女として、サクを愛してはくれないだろうか。
ユウナと共にいるサクを間近で見続けてきたからこそ、ハンだけは……、ユマとの縁談に快い返事をしなかったのだと、今さらながら気づく。
――サクの幸せは、サクだけが感じるものだ。
ハンはよくそう言っていた。
ならば――。
サクを嫌いではないのなら、一心にユウナを求め続けるサクを、選んで貰えないだろうか。
親馬鹿と言われるかも知れないが、少しでも可能性があるのなら、哀れなサクに希望をもたせてやって貰えないだろうか。
浴室で吼えるように泣いていたサク。
強がって想いを飲み込んでいるサク。
この先、ふたりで生きるというのなら、どうかサクに救いを――。
……喉元まで込み上がっている願いを、サラは口に出来ない。
サクがユウナに想いを伝えていないのなら。
伝えたいと思っていないのなら。
……まさか街長宅で、サクがあと六日で消えゆく命なのだと、ハンと話しているとは気づかずに――。
サラの忙しさもユウナの奮闘も虚しく、晩餐の支度は整ったというのに、サクとハンが戻ってこない。
「おかしいわね、晩餐だと言った本人が夕餉を忘れているわけではないでしょうに。ちょっと私、街長宅で様子を見てきます。一家をご招待したいし」
痺れを切らせたサラが、街長の屋敷に再訪した時、廊に駆け回る下人達と、五子目を身籠もっている街長夫人のマヤまでもが、茶の支度をして動き回っていた。
「マヤ様、なになさっているんです!? お子に障ったら!!」
マヤは大きなお腹をさすり、ふぅふぅいいながらにっこりと笑う。
「街の民がもっと話し合いの場を設けたいと中庭で解散しないから、せめてお茶の用意くらいなら私もと思って…。私が身籠もってから、使用人達が働き詰めなのが可哀想で……」
「使用人は、働くのがお仕事なんです。貴方が動くだけで使用人達がさらに動くことに……ああっ、ほら言わんこっちゃない!」
躓いて転びそうになったのを、サラが滑り込んで受け止めれば、それをハラハラして見ていた下人達から、安堵のため息をつく音が聞こえた。
「いけない、いけない。私ったらそそっかしいから……」
程度を越えた、そそっかしい逸話は数知れず。笑い話にも出来ないその過去幾多の場面を思い返せばこそ、この家の使用人は、女主人の分もきびきびと動き回るようになった。
なにひとつ自分で出来ないという自覚がないマヤは、なにかする度に、マヤにも想定外なことを引き起こす。
結局使用人は、マヤが動き始めると彼女から目が離せなくなり、集中してしようとする仕事の妨げとなるどころか、余計な仕事が増える羽目になっている。
だがマヤの善意がわかればこそに、邪険に突き放すことも出来ない……マヤは、困った女主人なのである。
このままだと、マヤが派手に転んで大惨事となる――。
「マヤ様、そうだわ。丁度今、一家を夕餉にご招待に参ったんですが、うちで使用人達への労いのおにぎり作りましょう! だからお茶は使用人にまかせて。それがいいわ!」
とにかく下人達からしばらく離した方がいい。身重を五回も経験しているくせに、マヤには危機感が全くない。おにぎりなら座って作れるから、危ない目には合わないはずだと、サラは考えたのだった。
「まぁ! お手伝いさせて貰えるの!? 使用人の労いおにぎり、なんて妙案なんでしょう! さすがはサラ! しかも夕餉もご馳走になれるなんて! サラ、色々お話しましょう? ああ、主人にも伝えなくちゃ。ええとユマにも……あっ!」
「あっ!」
またもやふらつくマヤをサラは抱き留め、彼女を動かすのは危険だと判断したサラは、マヤを近くの応接間の椅子に座らせ、手にしていた茶を飲んでいるようにと念を押すと、猛速度で、丁度上着を取りに戻った街長にこの旨を説明し、ハン達がいるはずの控えの間に行った。
だが彼らの姿はなかった。
行き違いになったのかも知れないと思うサラは、ユマの部屋に赴く。
「俺は――っ!!」
この少し掠れた低い声は、饅頭屋サカキの長男、タイラだ。
「姫に庇われるような、あんな情けないサクのよさなんてわからねぇよ! なんで、なんでお前がそんなことを!!」
息子を貶されたサラはむっとした顔つきをして、締まっている戸を拳で叩き割るかのように荒く叩いて叫んだ。
「ユマ!! 〝姫に庇われるような、あんな情けないサク〟の母親よ。夕餉には街長と夫人と弟達とで食べに来て。だけどその前に、マヤ様と一緒にこの家の使用人用のおにぎり作りを手伝って欲しいから、お母様とすぐうちに来てくれる!?」
中はしんとしている。
やがてユマのか細い了承の声が聞こえた。
「それから控えの間に、〝姫に庇われるような、あんな情けないサク〟とその父親がいなかったんだけれど、どこに行ったのかわかる!?」
くどいくらいに、〝姫に庇われるような、あんな情けないサク〟を強調するサラ。
「多分……ハンおじ様が子供達のために建てたあの稽古場かと。そんなことを話して出て行く姿を見ました。あ、私大至急呼んできます! そしておばさまの家に母さんと行きます!」
タイラとの会話を強制終了させたかったかのように、ユマの弾んだ声が聞こえ、それを不服そうに声を上げるタイラの唸り声が聞こえた。
そして――。
マヤはシェンウ邸にて、にこにことおにぎりを作り始めている。
「ねえねえ、この雪だるまのおにぎり、どうかしら~。次はクマさんの顔を作ってみようかしら。それともウサギさんがいい~?」
サラとユマがにぎりめしを五つ作っている間に、ひとつをまだ仕上げられないマヤ。彼女専用の話し相手についたのは、これまた歪なにぎりめししか作れないユウナだった。
――おばさま、もう少しでサク達は来るようです。なにかお料理のお手伝いを!
ユマにとって、にぎりめしは料理の範疇に入らない。彼女は、花嫁修業としてサラから料理を教わり、かなりの腕前だった。
――いいのよ、姫様がお手伝いしてくれたから。
……運び専門だとサラが口にしなかったものだから、ユマは僅かに顔を曇らせる。ユマは日頃、未来の義母とは懇ろな仲だった。ユウナにその立場をとって替わられた気がしたのだ。
だがその変化は僅かなもので、誰もユマの心の内を知らず、そしてユマもそれを気づかせないように妙に陽気に振る舞っていた。
ユウナは家事が出来るユマを羨ましげに見つめていた。
自分はなにも知らない。おいしい料理の作り方も、玄武殿で誰も教えてくれなかった。玄武殿には、選りすぐりの女官達が集まっており、彼女達がすべてしてくれていたのだ。
〝そういうものは、姫には必要ありません〟
だからご飯をひとつにまとめただけのにぎりめしも、いざ自分がやろうとすればどうにぎればいいのかまったくわからず、形は歪だしすぐ崩れる。
お米が悪いのかと思っても、サラとユマのはとても美味しそうだ。マヤのは論外だが……。
自分は世間知らずなんだと、ユウナは痛感する。
ユマと同じ顔を持つのに、ここまで違う。自分は姫の看板を下ろせば、自活が困難な頼りない存在で、きっとユマなら役立たずの自分とは違い、サラのようになんでも出来て、サクの生活を支えられるいいお嫁さんになれるなと思うと、心の奥がちくりと痛んで泣きたくなった。
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