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4.アネモネは、あなたを信じて待つと約束をする
牧瀬の疑念
しおりを挟むやがて、冷たい空気がゆらりと動いた――。
「俺を選ぼうとしたという時間は、もう終了ってわけ? まだ一日しか経ってねぇけど」
牧瀬の言葉が香乃の心に突き刺さる。
まるで先端が鋭く尖った氷柱に、心を直接貫かれたかのようだ。
「ごめ……」
牧瀬は、香乃の謝罪の言葉を打ち消して続けた。
「それで今夜、あいつの待つホテルであいつに抱かれたいから……俺をさっさと切ろうと? あいつに対する誠意を優先して、俺とは……はいさようなら?」
(どうして……今夜のこと)
「聞いてた、俺。お前が行かねぇって、あいつに言っていたのも。どんなに真宮の押しが強くても、俺はお前を信じようとしていた」
「……っ」
言葉尻を震わせる牧瀬の声。
香乃は出てくる言葉がなかった。
牧瀬の言葉はすべてが本当のことで、言い訳する余地などどこにもない。
泣くことすら許されていない。
「そこまでお前、セックスがしたいの? 俺と昨日、セックスが出来なかったから? お前にとって、俺はセックスだけの男?」
「違う!」
牧瀬の自嘲な声に、香乃は思わず顔を上げると、凄惨な面持ちでいる牧瀬に絶句してしまう。
「じゃあなんで、そんな結論になったんだよ」
「……好きなの」
香乃は心の痛みに歯を食いしばるようにして、言った。
「どうしても彼以上に、牧瀬を好きになれない」
(ごめんなさい。本当に本当に……)
「……俺と付き合っているという障害で、悲劇のヒロインみたいな気持ちになって、必要以上に恋しく思っているだけじゃね?」
香乃は静かに頭を横に振る。
「彼が好きです、昔からずっと。どうしても、彼じゃないと駄目なの」
「俺も好きだよ、ずっと」
「……ごめん、なさい。友達以上には……なれない。お試しは、解消させて下さい」
牧瀬はため息にしては長すぎる息を吐いた。
「お前、真宮の御曹司と本気にどうこうなれると思っているのか?」
「それは……」
「俺にしとけって。あいつだけは、無理だ」
断言した牧瀬は、ゆっくりと香乃を見遣る。
その顔からは、彼の感情を読み取れない。
「俺の私情だけじゃねぇよ。お前もあいつを無理だと思う理由はある」
「どういうこと?」
香乃は訝しげに牧瀬を見た。
やはり牧瀬の表情は読めない。
「あいつは、お前を殺そうとした」
「え……?」
「お前が巻き込まれた事故で」
香乃の心臓が脈打った。
頭にブレーキの音。
散らばる勿忘草。
それは、事故を彷彿させる〝きーくん〟の夢――。
「ど、どうして牧瀬が事故のことを……」
「聞いたんだよ、ひとから」
「まさか……志帆さんから?」
すると一瞬、牧瀬は瞳を揺らして頷く。
「でもあれは事故だったんだよ?」
「違う。真宮が……お前の背中を突き飛ばして起きた事故だったんだ」
(わたし……ホテルで錯乱して彼に泣きわめいた時、こう言った)
――あの時、あなたの誕生日の時、わたしの背中を押して殺そうとしたくせに!
「ちょっと待って。ちょっと待ってよ。だったら……」
きーくんは、真宮だと言うのだろうか。
あの横柄で暴君だった彼が、真宮だと?
(確かに彼は、昔からの知り合いのようなことを言っていたけれど……)
「しかし結局はトラックに轢かれたのはあいつの方だった」
「でも、彼は生きている!」
香乃はムキになって言った。
「それがおかしいだろうが。真宮志帆の力で、当時のことを調べさせたら、死んだのは女の子の方だと言っていた」
「はい!? でも母さんは、男の子の方……きーくんの方だって……」
「そのきーくんとやらは、碧眼だったのか?」
「う、うん。黒髪に碧眼で……」
「だったらビンゴだろう。人間の瞳の色は、変わることはねぇ。しかも真宮の本家って、瞳の認証があるんだろう? 瞳は指紋と同じく変わることはねぇんだ」
確か、河原崎も言っていた。
――虹彩認証装置なんかも真宮家の奥の院にはあって、生まれついた時に認識をさせるので、本人のふりをしたカラコンでは騙せない。
「今も昔も次期当主としてきっちりと本家に出入り出来ているのなら、真宮が轢かれた男の子の方で、だけどなぜか病院から出ると女の子の方が死んだことになって、ピンピンしているということだ」
香乃は絶句した。
(死んだのは……夢で泣いていたみっちゃんの方だと言うの?)
あの夢は本当の出来事で、自分の記憶の欠片だったのだろうか。
すべてがわからず、ぐるぐると頭に回るだけだ。
「気持ち悪いと思わないか、真宮穂積。お前を殺そうとして死んで、代わりに女が死ぬことで生き返ったことになる」
瞳の色が特徴的なだけに、牧瀬のありえない言葉が妙に信憑性が出てくる。
そんなことがまかり通るとしたら、完全にファンタジーではないか。
(わたしを殺せていたとしたら、なにをする気だったのだろう……)
「そんな男が執拗にお前に近づいているんだ。お前、また殺されるかもしれねぇぞ」
「……っ、それはな……」
「わからねぇだろうが。お前が会ったという九年前……だっけ? その時既に、他人のふりをしてお前に近づいていたんだろう? なにか魂胆があったんだ」
家にと誘ったのは、性的なことではなく、もっと違う意味があると?
(そんなことはない)
あの勿忘草色の瞳に、偽りはない。
「お前が実は、色々と内情を知りすぎていて消されかかったのか、それとも生き返ったことに関係があるのか」
もしちらちらと出てくる記憶が本当のことだとしたら。
――色々と内情を知りすぎていて。
なぜ自分は、真宮家の住人の近くにいたのだろう。
次期当主であるきーくんと、頻繁に会える距離にいたということだ。
ひとつ記憶に疑念を持てば、がらがらと崩れてしまいそうになる。
今まで夢だと思っていたからこそ成り立っていたものが現実なのだとしたら、どこまでも整合性がない。
彼は――。
ホテルの総支配人をしている真宮穂積は、一体誰?
(私が愛したのは……)
「なあ、蓮見。だから、真宮穂積とは――」
「そこまでになさいまし、牧瀬課長」
凛とした声が響き渡る。
見れば圭子だった。
「こけ嬢!? なんで……」
悲壮な表情で圭子は言った。
「実は只今お電話が入りまして。ホテル『ファゲトミナート』の支配人という方から、総支配人が帝王ホテル目前の通りで、車にはねられたと!」
香乃は驚愕には目を大きくさせて、飛び出した。
真宮が何者でもいい――。
香乃の身体が自然に動いたのだ。
香乃が飛び出したミーティングルームには、椅子に座ったままの牧瀬と、上品な立ち姿のままでいる圭子が残っている。
香乃が荷物を持って社から出ていったのを確認すると、圭子は言った。
「……牧瀬課長のような姑息な手段をとらせて頂きましたわ。これで係長が、どんな話にも惑わされず、それでもいいと思える本気の恋をしていることはおわかりになられますか?」
「……笑えねぇ嘘をつくんじゃねぇよ、こけ嬢。やけに詳しい情報は誰から聞いたよ」
「実はわたくし、色々と情報網がございましてね。それを使わせて頂きました。そうしたら、係長は気が動転していてお気づきにならなかった数点に、疑問が湧きまして」
圭子は目を光らせて牧瀬に言う。
「推察するに、事故が起きたと思われる時期は、少なくとも十年以上は昔のことでしょう。病院にそんな昔の記録が残っていますでしょうか」
牧瀬は答えない。
「そしてたかが真宮の分家程度の出の真宮志帆が、真宮事情を詳らかに知っていることも疑問ですわ。わたくしも分家育ちですが、分家にも分家のしきたりというものがある。なにより真宮志帆がそんなことを知っているのなら、御曹司の婚約者だとほらを吹くよりも、直接本家のご当主に交渉なされた方が、効果的ですわ。しかも単純な彼女が、それでも真宮穂積がいいと言うかも疑問ですわよね」
「彼女も知ったのはさっきだとしたら?」
「同じこと。どちらにしても彼女が知りうるのなら、課長よりも堂々と係長にご連絡するでしょう。彼女は賢い女性ではありませんから」
圭子はにっと艶やかな唇を吊り上げる。
「課長が真宮志帆を利用していたのは、真宮穂積の秘密を収集していたからではない。とすれば、課長のやけに細やかな情報は、一体どこから出て来たのでしょうか」
牧瀬も笑う。
昏い表情で。
「嘘だとは思わないわけだ?」
「嘘ならば、当時を僅かにでも知る係長がなにか言われるはず。どこまでの真偽なのかは問題ではない。係長の記憶に触れられることを言えた時点で、こう思わざるをえませんわ」
圭子は牧瀬を見つめて言った。
「牧瀬課長。あなたは係長の巻き込まれた事故の関係者であり、真宮穂積……いえ真宮そのものにいい感情を抱いていない関わり方をなさっていたのだと」
「へぇ」
「しかしそう思うには別の面の疑問もございます。課長は最初から真宮の名前に悪感情を抱いていなかったはず。三角関係を抜きにして」
「……」
「また、あんなことを言えば係長を束縛出来るというよりは、傷つくことは牧瀬課長なら十分に予想出来たはず。ヤケになっていたのともまた違う気がします。ならば――」
牧瀬は寂しげな翳りを顔に出していた。
今まで圭子が見たことがないものであったため、圭子は僅かに口籠もる。
「いいよ、言えよ。そこまで言ったのなら、最後まで。お前は……蓮見の味方でいてくれるんだろう?」
苦悶じみた表情で笑う牧瀬に、圭子は頷いて続けた。
「……課長は真宮に対して悪感情を抱いたのはきっとつい最近。そのきっかけは真宮志帆ではない。真宮志帆との接触を許容したのは、恐らくその後でしょう。恐らくは、あらかじめ課長が知っていた情報の確認を、彼女がそれとわからない形でした程度だと考えます」
圭子の声は哀切な色が混ざっていた。
「……ではなにがきっかけで、真宮に悪感情を芽生えさせるに至った情報を得たのか。課長の行動を振り返ればひっかかることはひとつ。最近お父様に会われましたよね、久しぶりだったとか」
「……ああ」
牧瀬は力なく頷いた。
「……事故を起こしたのはお父様、ですね?」
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