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水の踊り子が愛する人

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(あれ……? また、雰囲気が……)

 先程までの狂気じみた様子が砂紋から感じられなくなり、波音は戸惑った。碧も滉も、何事かと顔を見合わせている。

「大丈夫ですよ、兄さん。大切なものは奪いません。冗談です」
「じょうだ……はっ!?」
「父上から、兄さんはどういう心積もりでいるのか、一芝居打って聞いてこいと言われましたので」
「待て待て待て……! どういうことだ?」
「曲芸団も波音さんのことも、あなたの自由にしていいですよ、ということです。普通に聞き出すだけじゃつまりませんし、あなたの勝手な行動には嫌気がさしていたので、少し意地悪をしてしまいましたが……」

 砂紋の言っていることを理解するまでに、数秒は要した。やっと合点のいった頃には、碧は安心したように波音を抱き寄せた。

「はー……よかった。本当に、よかった」
「びっくり、しましたね……。私は、碧さんが『譲れない』って言ってくれて……あの状況で不謹慎でしたけど、嬉しかったです」

 碧の声が震えている。顔が見えないが、泣いているのかもしれない。今はどんなに情けなくても、彼は既に波音の心を掴んで離さない存在だ。波音はその身体を抱きしめ、背中を優しく撫でた。

「では、団長も波音も、今まで通りということで……いいんですよね? 波音はもう、うちの大切な団員です。引き抜かれると困ります」

 話ができなくなってしまった碧の代わりに、滉がそう尋ねた。砂紋は頷き、苦笑をもらす。

「はい。波音さんは、兄さんが諦めるなら、あわよくば本当に僕の妃に迎えようと思っていたんですけどね。先日も言いましたが、一目惚れは冗談ではありませんでしたし」
「……え。そうだったんですか?」
「蜜月のような関係を見せつけられたら、身を引くしかありません。兄さんが心底羨ましいです」

 全て、碧の真意を引き出すための演技だったはずなのに、波音に近付く際、本当に惚れてしまったのだと、砂紋は言った。波音は気恥ずかしいような、嬉しいような、一言では言い表せない気持ちになる。

「では、皇位継承は僕のままということで、父上には話します。それと、波音さん。大変申し訳ないのですが、後日髪飾りを返していただけますか?」
「あ、わ……分かりました」
「兄さん、今度は記憶以外の大切なものまでなくさないように、せいぜい頑張ってくださいね」
「……ああ、分かった。ありがとう」

 砂紋は恭しくお辞儀をして、建物の外へと消えていった。テレビの中の人気俳優になれるのではと思うほど、彼は演技が上手だ。まんまと騙されていた波音たちは、もう一度顔を見合わせて笑った。

 あの朴念仁ぼくねんじんの滉までもが笑うくらいなのだから、夢のようだった。
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