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ベンチ
しおりを挟む目を、閉じてください。
その中で、ひとつ、ベンチを想像してみてください。
どんなものでも構いません。
みなさんのお好きなように、思い浮かべてみてください。
その空間にあるのは、たったひとつ、そのベンチだけ。
あなたの頭の中にそのベンチが浮かんだところで―――…。
それでは、はじまり、はじまり。
ひとつ、ベンチがあった。
そこに座っているのは、いかにも悩みがあると言ったふうな青年。
重力に逆うことなく、目線は足元を見つめたまま、
はぁ、と大きなため息を吐く。
それゆえ、たとえ目の前にとびきりの奇跡が起きていようとも、
目を伏せている彼には気づけるわけもなかった。
彼の目に映るのは、ただ、冷たく無機質な地面だけだ。それもそのはず、
彼はそこから他に目線を移さないのだから。
「――ふふっ。」
ふと、彼のそばで可愛らしい声が生まれた。しん―…と静まり返った空間にたったひとつだけ響いたその声は、狭い世界に閉じこもっていた彼の耳にも届いたらしく、声の正体を確認するため、彼は丸めていた背中を上げた。
――数メートル先に見えたのは、制服を着た少女の姿であった。
曇った彼の表情とは正反対に、清々しいほどの笑顔である。
自分とは到底無縁だと思われる彼女の笑顔を見ると、彼は再び、はぁ…と、大きくため息を吐き、そしてまた、視線を無機質な地面に戻した。
「――いつまで、そこにいるの?」
しばらくすると、また、声が聞こえた。先ほどの少女のものだった。
いつまで…?考えもしなかった。わからなかった。
答えの代わりに、彼は再び大きなため息を吐く。彼女は何も言わなかった。
少し気になった彼は、再び顔を上げた。
そこには、変わらずあの清々しい少女の笑顔があった。
その笑顔は、彼女の心からのものだとわかる。
――どうして彼女は、こんなに澄み切った顔で笑えるのだろうか。
やはり、自分のように心に闇を抱えていないからなのだろうか。
彼はそんなふうに思った。
「どうして私がこんなふうに笑ってられのかって、思ってる?」
心を読まれたように感じ、彼はドキリとした。
「ふふ、当たりね、目が訴えてる。」
彼女はいったい、何者なのだろうか。
どうして自分に話しかけてくるのだろう。
彼は、彼女と関わることで、今まで無風だった自分の心の中に、
かすかに風が生まれるのを感じた。
「あなたは私のことはわからないだろうけど、
私はあなたがどうして悩んでいるか知っているのよ。」
微笑む顔に更に笑みを携えながら、少女は言った。
「生きたいと思っているからよ。」
彼はますますわけがわからなくなり、顔全体に疑問符を浮かべた。
「だって、生きることを放棄した人が、
そんなふうに悩んだりするかしら。」
生きることを…。
そうなのだろうか。彼にはわからなかった。
…いや、わかろうとしていなかっただけなのかもしれない。
そもそも自分が、なぜこんなにも悩んでいるのか、
そんなことすら真剣に考えたことなどなかった。
――事の発端は、確かにあった。が、しかし。
それよりも、こんなふうにその出来事にずっと囚われている自分の心に、
注意を向けると言うことをしなかった。
自分よりだいぶ歳も下だろうにも拘わらず、彼女のその言葉には、
不思議と耳を傾けたくなる。
屈託なく笑う彼女の笑顔に、先ほどは目を背けたくなっていたその顔に、
彼は少し、惹かれていた。
…どうして、彼女はあんなふうに笑えるのだろう。
先ほど感じた疑問が再び押し寄せる。そして、こう思った。
自分も、あんなふうに笑ってみたい。
「――私も前、そこに座っていたのよ。」
思いがけない彼女の言葉に、彼の目は大きく見開いた。
「私にも、こうやって声を届けてくれる存在が目の前に現れた。
だから、わかるの。あなたの気持ち。」
彼女が続ける。
「自分が不幸のどん底にいて、そこで見た景色は確かに辛くて、悲しくて、もうどうしようもないものだったんだけど。
…だけどね、そこに触れると、“生きる”ってことが、とても尊いもので、
美しいものなんだって、気づくことができたのよ。
木々の間から差し込む温かい光、青くたくましく澄み切った青空、
堂々と美しく咲く花や草。小さくても確かに、そこに命はある、宿ってる。それは目には見えないけれど、とってもキラキラしていて…。」
そう語る彼女の表情は、次第に美しさを増してゆき――。
「命って、すごいのよ。」
彼の目から、大粒の涙が溢れていた。
ずっと心を閉ざしていた。
自分は無力で、周りの出来事に振り回されるばかりのちっぽけな存在なのだと、そして、それを変える力など到底ないのだと、思い込んでいた。
そして自分の本当の想いに蓋をして、感じないように、
ただずっとそうしていた。
――違う。彼女の言うように、命には無限の力がある。
その命に力を与えられるかどうかは、自分で決めることができるのだ。
「今のあなた、すごくいい顔してる。」
彼の口から笑みが零れた。
いい顔?こんなぐちゃぐちゃで、子供のように泣き崩れているこの顔が?
彼女がそう言うと、本当にそんな気がしてくるから、
やはり不思議なのである。
「――さて。」
少しして、彼女が彼に問う。
「どうしますか?そこから動きますか?」
彼女に聞かれ、彼は少し考えた。
「そこに留まるのか、それとも先へ行くのか。 “そこから動く”と言う選択をした時にだけ、人は先へ行くことができる。」
彼は、考え続ける。
「私はもうそこには戻らないから、迎えに行くことはできないの。
自分の足で踏み出すしかないのよ。」
「――ひとつ、決めたことがある。」
彼はそう言うと、ベンチから立ち上がる。
「この場所を立ったらまず最初に、君みたいな笑顔を取り戻すよ。」
その言葉を聞いた彼女が、答える。
「―もう、できてるよ。」
彼が立ち去った後のベンチは、再び静寂を取り戻す。
次に誰かがまた、そのベンチに座るまで、ただ、そこに在る。
そして、あの笑顔を取り戻した彼が、今度は導き手となるのだろう。
そうして、命は廻る。キラキラと、その輝きを内に宿しながら―――。
- Fin -
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