伯父の命により、高潔すぎて『聖人』と噂の男の元へ行く事になりました。

すずみ

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第一章 風は吹き荒れ水は暗く沈む

3.魔物退治

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 龍颯山を下山した後、梓娟は蒼晏の後を追うように歩いていた。
 東方の街衢がいくとは少し距離があるこの龍颯山の麓は、周囲に村はなく、行けども行けども長閑で平坦な道が続いている。
 目の前にある大きな背中はぴんっと背筋が伸びており、険しい山を下りてきた疲労感を感じられない。
 それに引き換え梓娟は呼吸が乱れる体たらく。それでも離されずに着いていけるのは、蒼晏が梓娟の歩調に合わせて歩いてくれているからだ。
 しかし梓娟にはそれがかえって気まずさを感じさせた。

「いやぁまさか延芳が『飛翔ひしょう』を出来ないはな」
「あは、ははは……すみません」

 苦笑いをする蒼晏に梓娟は肩を落とした。
 飛翔とは、正しくその言葉の通り、空を飛ぶ事を指している。
 蒼家の祓氏たちはみな自由に空を飛ぶことが出来た。
 これは天を舞う霊獣血筋の祓氏だけが持つ特有の才で、五門家の内三つの家門がその才を持っていた。
 残念ながら黒家にはその才はなく、梓娟は空を飛ぶ事は出来ない。なので──

「まだ練習中でして⋯⋯」

 そう濁し笑って誤魔化すしかなかった。
 蒼晏は「血筋が薄い事が原因」と解釈したのか、蒼家筋である筈の者が飛べない事への違和感はないようだった。
 下山する前まで飛翔の事をうっかりと忘れていた梓娟だったが、延芳が遠い親類であった事にホッと胸を撫で下ろす。
 しかし、飛翔が出来れば目的地に瞬く間に辿り着ける。徒歩で向かうというまどろっこしい手段を選ぶ事はない。
 飛翔で向かうつもりでいた蒼晏には非常に申し訳ない気持ちでいっぱいだが、大地の感覚を足で踏みしめながら長い道のりを歩んで行く。



 燃えるように真っ赤な陽が沈みゆく頃、二人は広い街道を歩いていた。
 そばには長く伸びた江河がそよそよと流れ、水面が茜色に照らされている。何とも美しい景色だが少しだけ違和感を覚えた。
 ここから少し行けば大きな街がある。しかしその割には辺りに人の気配は一切なく、不気味に閑散としている。
 さらにはどこからともなく妙な肌寒さを感じてぶるりと震える体を両腕で抱く。どうやら人気の無さの原因は黄昏時だからという訳では無さそうだ。
 この辺りか、と呟いて蒼晏がようやく足を止めた。

「気をつけろ、ここには獣の群れが出るらしい」
「獣?こんな街道にですか?」

 あぁ、と蒼晏が頷いてこちらを振り返る。

「襲われた者の話では狼だと言うが、あれは狼などではなかったと証言する者もいるそうだ」
「狼などではない?」

 蒼晏の話に梓娟は眉を顰める。

「狼よりも悍ましいもの。恐らくそれは──」
「魔物、ですか」

 蒼晏はもう一度頷いたのと同じくして急に辺りが暗くなった。蝋燭の火がふっと消えたような、そんな唐突に空から陽の光が消えた。
 空はどこまでも続く黒、辺りがしんと静まり返る──闇の時刻がやってきた。
 梓娟は暗闇の中で何かが蠢いた気がして眼を細めて一点を見つめる。しかしそれは完全に闇に同化していてそれを目で捉える事は出来ない。
 隣からは剣を抜く小さな音が聞こえ、梓娟もそれに習いゆっくりと鞘から剣を引き抜いた。
 梓娟には初めての魔物退治だ。緊張感に胸がどきどきと鼓動を打ち、ごくりと唾を飲む。息を殺して闇を睨んでいると、背後から唸り声が聞こえた気がした。

「そっち……!?」

 何とか反応して身を翻したが、飛び込んできた黒い塊は青衣の袖を掠めていた。
 ふらつく体を脚で踏ん張り黒塊へと目を向ければ、確かにそれは狼の形をしていた。
 鋭く尖った牙と爪から獰猛さが伝わってくる。裂けた袖をみれば爪の切れ味は抜群だ。おまけにぼたぼたと口から唾液が溢れていて気味が悪い。
 魔物は目をぎらぎらと妖しく光らせて再び襲いかかってきた。梓娟は剣を振り身を翻すものの劣勢は明らかだった。

 ──剣だけでいけると思ってたけどそうもいかないわね。魔物を甘く見ていたわ!

 防戦一方の情けなさと、弱い自分の恥ずかしさに歯を噛み締める。
 横の蒼晏を見れば、蒼晏は蒼晏で他の魔物達と交戦中で、相手をする魔物の数からして向こうの方が大変そうだ。
 魔物の動きがかなり早く梓娟には躱すことが精一杯だ。厳しい表情を浮かべ、ちらりと目線を向ければ真っ黒な空を映す川がある。
 黒家の霊力は水の特質を持つ。梓娟は得意ではないが霊力を使うことが出来、この水場は霊力を使うにも適していた。
 しかし今は霊力を使える状況ではなかった。
 何故ならここには蒼晏がいるからだ。

 ──どうする?ここで下手に霊力を使えばきっと蒼晏様に私が黒家の者だってバレてしまう。でもこのままじゃ……。

 躊躇っている間にも魔物は襲いかかり、梓娟は後方へと跳ねて逃れた。
 しかし足を滑らせてしまい、後方へと体が傾いていく。倒れ行く体に踏ん張ることも出来ず、くっと歯を食いしばった時、後方から風を感じた。
 まるで背中を支えてくれるような、優しくてあたたかな風だった。
 奇妙な風に驚く梓娟は足を縺れさせながらも、やがて背に何か触れた。

「……え?」

 動揺していると腰に何かが巻き付いて、俯いて見えたのは青衣の袖とそこから覗く人の手だ。その手は梓娟の体を支えるようにしっかりと腰を抱き抱えていた。

 ──この手は……。

 恐る恐る見上げると、菩薩が梓娟を見下ろし微笑んでいた。
 唖然なっていると瞳が重なって、菩薩はふっと笑みを深める。まるで後光でも差しているのか、暗闇の中で彼がきらきらと輝いて見えた。

「そっ──」

 ──蒼眞佳ー!?

 梓娟が目を大きく見開いて驚く中、蒼眞佳は見つめ合う瞳を逸らす事もなく右手に握っていた剣を一振させた。
 剣から放たれた剣風はとても鋭く、側にいた数体の魔物を一度に討ち祓っていた。
 蒼家の霊力の特質は風。振った剣からは霊力の残滓がゆらゆらと漂っている。残滓からでも充分と言える蒼眞佳の霊力の強さが伝わってきた。

「怪我はないかい…⋯延芳?」
「えっ!ぇ、えぇ、あり、ません」

 ──なんで蒼眞佳に名を知られてるの!?

 目を泳がせながら言葉を返す梓娟に、蒼眞佳は良かったと囁いて微笑んだ。腰を抱く手の力は少しだけ緩まったが、離してくれる様子はない。
 そして蒼眞佳はそのままの体勢で剣を振り始め、着々と魔物を倒していく。勢いが衰える事のない強い太刀筋に、霊力だけではなく剣の腕も見事のようだ。

 ──流石だわ、蒼眞佳。

 蒼眞佳の強さに梓娟は圧倒されていた。
 彼はこの場から一歩たりとも動く事もなく魔物を鎮め、瞬く間に辺りが静かになっていた──。

 全ての片が付いた後、眉間に皺を作る蒼晏がこちらにやって来た。

「何でここに眞佳がいるんだ?」
「晏兄上がこちらにいると耳にして」
「へぇ……俺がいるから、か」

 蒼晏は不快そうな目をしたまま目線を下ろす。訝しく見ているのは未だ腰に巻き付く蒼眞佳の手だ。

 ──何か言いたげな目だけど、それはこっちの方よ!

「ッ──眞佳様っ、助けて下さりありがとうございました。魔物は退治されたのでもう守って頂かなくても大丈夫です!」

 だからこれ!と指で指して強調すると、あぁと思い出した様子でようやく手を離した。

 ──もしかすると手を回していた事を忘れていたのかしら?案外うっかりさん?

 そう考えていると、蒼晏が重々しいため息を吐いた。

「眞佳、お前のおかげで早く事が済んだ。もう帰っていいぞ」
「おや、晏兄上は帰らないのかい?」
「もう夜も遅い。ひとっ飛びで龍颯山へと帰りたい所だが、延芳は飛翔出来ないらしくてな。俺は延芳に付き合い近くの街で宿を取り、朝になったら戻るさ、歩いてな」

 日も暮れてしまった今、龍颯山へと戻るという事は夜通し歩き続けると言うことであり、些か無理がある。その原因である梓娟は蒼晏の言葉に胸が痛かった。

「ならば私が共にしよう。君は先に戻ると良い」
「は?お前が?いつも退治した後は真っ先に帰る蒼眞佳がか?」

 片眉を吊り上げて尋ねる蒼晏に蒼眞佳は小さく頷いた。

「晏兄上、こちらは気になさらず」
「……お前」
 
 蒼晏は何かを言いかけて言葉を止めた。
 二人がそんなやり取りをする中、梓娟は考え込んでいた。

 ──蒼眞佳と、宿……。

『蒼眞佳の心を乱してこい!』

 黒善爾はそう言った。まさにこれはまたとない絶好の機会で、梓娟はひっそりと不適な笑みを浮かべた。
 聖人の蒼眞佳が色香に引っかかる訳がないが、それでも少しぐらいは戸惑う事もあるがもしれない、と浅はかに考えて。
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