伯父の命により、高潔すぎて『聖人』と噂の男の下へ行く事になりました。

すずみ

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第一章 風は吹き荒れ水は暗く沈む

2.龍颯山

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 東方──蒼家膝元が『龍颯山りゅうそうざん』。そこは幾つも奇峰が連なり、地上から仰ぎ見る者を圧倒させる東方随一の高山だ。
 白雲を衝く一番高き峰に蒼家直系が住まう大御殿があり、その下の峰々には傍系たちの屋敷が血統の序列を示すように建ち並ぶ。たなびく靄にぼんやりと建物の形が浮かぶ佳景はどこか幽玄さを感じさせた。
 そのさらに下には龍東万雷の本拠地となる『降龍館こうりゅうかん』がある。まるで一族の風格を現したかのように厳然と構える大きな館で、辺りの険しい峰々を修行の場とし、龍東万雷の祓氏たちは日々厳しく己を鍛えていた。

延芳えんほう
「っ──!」

 しんと静まる稽古場で、一人剣を振るっていた梓娟は突然後ろから聞こえてきた声にびくりと肩を震わせた。
 速まる胸の鼓動を抑えつつゆっくりと振り返れば、爽やかな笑みを浮かべる男──蒼晏が立っていた。

「中々の剣筋だ。遠戚である延家にこんな優れた祓氏がいたとはな」
「あ、ありがとうございます蒼晏そうあん様。でも私なんてまだまだです」

 ──よりにもよって彼に声を掛けられるなんて…⋯。

 梓娟は内心動揺しながらも、何とか笑みを作る。ぎこちなさはあっただろうがちゃんと笑みになっていたようで、蒼晏が不審がる素振りはない。

「そう謙遜するな、延芳」

 蒼晏は再び梓娟を『延芳』と呼ぶ。
 未だ慣れる事のない名に、梓娟はただ笑う事しか出来なかった。

 延芳、とは黒善爾が用意した偽りの身分だ。
 しかし偽りとは言え延芳という人物は存在している。延家は南方に小さな屋敷を構えるちょっとした富豪で、延芳はそこの娘の名だった。
 蒼眞佳に近づく、その最も手っ取り早い案が龍東万雷に入る事だった。その為には蒼家の血筋が必要で、そこで目をつけたのが延家だ。
 延家は蒼家とは途轍もなく程遠い縁戚のようだが、それでも微かながらに蒼家の血が流れている。
 さらに延芳はどこの祓氏五門にも属していないので、条件には好都合の娘であった。
 な物が大好きな延家の当主は話の分かる男で、金色に光り輝く物をちらつかせれば快く娘の身分を明け渡してくれたそうだ。

「お初にお目にかかります、梓娟様」

 それは鈴を転がすような声。愛らしい微笑みと、華奢な体。長い髪は艷やかで、淑やかな物腰はまさに可憐なお姫様。
 『南方の天女』──延芳はそんな風に噂されているそうだ。そして実際に会うと噂通りの人であった。
 しかしそうなると梓娟とはとても似つかなく、直ぐにばれてしまうのではないかと懸念が生まれた。

「安心せい。南方の噂を東方の山奥にひっそり籠っておる暗い連中共が知る筈なかろう」

  蒼家をどこか小馬鹿にする黒善爾の言葉通り、蒼家で延芳を知る者は誰一人とていなかった。
 こうして延家の娘を演じて龍颯山にやって来た梓娟は、あっさりと龍東万雷の祓氏になる事が出来た。
 神経質な蒼家にしてはあまりにもあっさり過ぎて、逆に恐ろしさを覚えた程だ。

 そうして今、梓娟が延芳となって一週間が経った。
 何かと忙しい蒼眞佳と未だ会う事叶わず、未熟な新米祓氏はすぐに魔物退治を任させることも無く、ひたすら修練を積む日々を送っていた。
 その結果、いつしか梓娟はいつもとは違う環境での修練に夢中になっていた。

「何だか体がとても軽いわ。山の澄んだ空気が良いのかしら?これならいくらでも剣を振れるわ」

 梓娟は上機嫌で剣を振るう。細腕では重いと感じていた剣も今は妙に軽く感じていた。
 龍颯山は樹木が生い茂る豊かな山で、それは地底深くに数多なる水脈が巡っている事にある。つまり水属の霊獣の血が流れる黒家の人間には相性が良い土地だ。
 けれど梓娟の頭の中には水脈の存在など微塵も無く、澄んだ山の空気を大きく吸い込み、ゆっくりと吐く。それだけで力が不思議と力が漲ってきた。
 とりあえず、空気が美味しいから、という事にして剣を握りしめる。

 ──伯父上が言った期日は残り一週間。蒼眞佳に会えそうもないし、いっそこのままずっと修練に励んで時が経つのを待ちましょう。

 時が流れるにつれて徐々に蒼眞佳と会うことに尻込みをし始め、いつしか「いっそ何もなければ良い」と心の中で願うようになっていた。
 だが、その矢先に蒼晏に声を掛けられてしまったのだ。

 ──まさかあの蒼晏から声をかけられてしまうなんて。

 目の前に立つ蒼晏を窺うように見上げる。
 蒼晏は蒼眞佳の二従兄弟ふたいとこで、今は亡き蒼家当主に代わり、当主代理を務める父を持つ。
 面倒見の良いお兄さんと言った雰囲気と、蒼眞佳程ではないものの美しく整った容姿をしていた。
 美形な顔立ちは、表徴である青い衣に次ぐ蒼家の特徴で、蒼家は美形一族と世の女たちから評判が良い。
 彼は魔物退治の傍らで祓氏たちの面倒を見る立場だった。それで誰よりも張り切って修練する梓娟の存在が目に留まってしまったようだ。

 ──しかも、初めて会ったのに私の名を知られているわ。

 蒼晏は龍東万雷の祓氏を全て把握していると耳にしていが、こちらが名乗ってもいないのに名を知っている事に気が気でなかった。
 さらにはじっとこちらを見つめて何やら思案し始めた。見つめられる事に気まずさを感じていると、蒼晏は何かを思い付いたようで「……よし」と急に頷いた。

「その腕前ならば魔物の退治に連れていけそうだな」
「魔物退治、ですか?」

 まだまだ若輩者ではあるが、梓娟は幼き頃から強くなる事を目指して修練を積んでいた。目標の為に魔物と対峙する事も望んでいたのだが、従兄の黒聯明がかなりの過保護な人だった。梓娟が魔物退治へと向かう事どころか龜北清閑に属する事すら頑なに許しはしなかった。
 しかし願ってもない蒼晏の言葉に、これは好機だと梓娟の目がきらきらと輝いていた。

「あぁ、正午出立するんだが、行けそうか?」
「はい!行けます!すぐに準備して来ます!」
 
 元気よく返事をすると梓娟は出立の準備をする為に、祓氏たちの寝床がある小館へと慌て急いで駆け出した。
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