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ファインダーの向こうで黒の日傘がふわりと揺れる。縁取りのフリルが小さく踊るその上で、猫が花と戯れている。
「あの、先輩」
涼乃が振り返るその時を待ってシャッターを切った。撮影にも慣れてきたらしく別段に驚いた様子こそなかったものの、聡介の名を呼んだ涼乃は何故か愁眉を寄せていた。
「どうしたの?」
憂い顔も儚げで絵になるが、これが演技でないならさすがに気になる。
撮影場所に選んだ清津谷公園は、泉田中学からほど近い、山裾にある公園兼無料のキャンプ場で、砂防堰堤の整備された谷川沿いにキャンプサイトの並ぶ風光明媚な土地だ。ただし来るまでには数キロメートルに及ぶ坂道を登らねばならず、途中からはペダルを漕ぐのを諦めて、自転車を押して上った。ともすれば疲れてしまったか、足を痛めただろうか。
「大丈夫? どこか痛む?」
「いえ、大丈夫ですよ」
「本当に? 疲れてないかい?」
すると涼乃は苦笑を浮かべた。
「疲れていないと言えば嘘になりますけど、わたし、この公園が好きですし、不満があるわけでもないですよ」
言いながら涼乃は、谷川にかかる吊り橋の上から下流に目を向けている。裾野の先に広がる泉田町は、田園の中に家々の点在する田舎然とした景色で、そうした街並みの遙か向こうには名古屋の高層ビルが、うっすらと霞がかって見えている。
森林に挟まれたここから見上げる空は狭く高い。青色の中に、江斐川河川敷にある滑走路から飛び立ったらしいグライダーが一機だけ見えていて、ふとした折に陽を受けてギラリと光沢を放った。動力のない航空機は、穏やかな空に輪を書いて飛び、ひたすら高みを目指して昇っていく。
美しい景色に穏やかな風。しかし傍らの少女の顔は、晴れない。
聡介が横顔を眺めていることに気付いたらしい、涼乃が嘆息した。
「えっと。気後れは、ちょっとしてるかもしれませんけど」
困ったふうな顔で、日傘を傾ける。「これ、貰っちゃって良かったんでしょうか?」
「俺が持っていても使わないからね」
「そんなこと言って、わざわざ買ってくれたんですよね」
聡介が肩をすくめて言えば、涼乃は、やはり申し訳なさそうに小さく笑った。
広げた傘を見上げて、ふと思い直したふうに「猫、可愛いです」と笑顔を作る涼乃。作り笑顔を見たかったわけではないのだが、あるいは聡介の願いは贅沢というものだろうか。
肩の高さで構えていたカメラを聡介が下ろせば、涼乃は、心なしか悲しそうに愁眉を集めて、気を取り直すようにかぶりを振る。どうにも彼女の憂い顔は、ただ恐縮しているというだけのものでもない気がした。あるいはその表情には、まるで異なる理由があるのかもしれない。
「ねぇ、片瀬さん」
「先輩。ちょっと気になったんですけど」
聡介を遮って口を開いた涼乃には、機先を制された心地がした。これ以上、踏み込んでほしくないということなのだろう。
して、涼乃の示した先には一人の男性が、川沿いに設営したテントの前で火を焚いていた。小さな折り畳みのグリルに薪をくべて、まだ点けたばかりらしい火を大きくしている。なるほど、これはまた露骨に話を逸らされたものだ。
致し方ない。肩をすくめる。
「あの人が、どうしたの?」
小さく眼を見張った涼乃は、聡介が話に乗るとは露程も考えていなかったようだ。控えめに咳払いをして、彼女はたどたどしく語る。
「なんだか変なんです。えっと、火がおこったのは分かったんですけど、何がおこったのか分からないんです」
待ってほしい。何がおきたって火がおきたと涼乃は自分で言っているわけで。要するに、「どういうこと?」よく分からない。
「だから、火がおこって、でも何がおこった……あっ」
気付いて、赤くなる。露骨に咳払い。「えっと、薪に火が点いたんです。でも、どうして点いたのか、分からなくて。なんだか急に火が熾ったと言うか。
ライターやチャッカマンを使ったわけでもないですし、フイゴや団扇で扇いだわけでもないのに、ちょっと火花を散らしただけ……それも、火花があってしばらくは火は見えなかったんですよ。なのに、しばらくしたら急に、薪に火がついて。稲富先輩、わたしは何を見たんでしょうか。まるで魔法でも見たようです。何が起こったんでしょうか?」
最初は、自身のことから話を逸らすつもりで水を向けただろう涼乃は、説明しているうちに気になってきたらしく、話しの途中から首を捻っていた。そんな彼女の顔を見れば愁眉は開いていて。あるいはこの話題が、彼女にとって多少の気晴らしになるかもしれない、と思う。
「火花は、どんな感じだったんだい?」
「細い棒とナイフを、こうしてマッチを擦るみたいにしたら、一瞬だけ大きな火花が散って。でも、それだけです」
手振りを交えて説明する涼乃。携帯電話を取り出した聡介が、それらしいキャンプグッズを調べてみれば、ファイヤースターターなる道具が見つかった。マグネシウムの合金で出来たスティックにナイフ等を擦り付けると火花を散らすことができるらしい。
検索結果を涼乃に見せると「たぶん、これです」と言った彼女は、もう一度首を捻った。
「この道具、火熾しに使えるみたいですけど、でも説明を見る限りかなり上級者向けというか。とても、簡単に火を点けることなんて出来そうにないですよね」
火花を薪に当てただけでは、当たり前だが点火しない。固形着火剤を使用した上で送風などの燃焼の手助けを丁寧に行ってもなお、ファイヤースターターを使用しての一発での点火は、初心者には難しいようだ。
テントの前には、グリルの他にミニテーブルが出ている。テーブルの上にはカップ麺と、無色透明な液体の入ったペットボトルが二本。片方のボトルの表面には赤色のテープが巻かれていて、遠くてよく見えないものの黒の油性ペンで文字が書いてあることが分かる。他に気になることと言えば、ボトルキャップの色が異なることくらいだろうか。
「なるほど」
呟けば、隣で涼乃が目を丸くした。
「分かったんですか?」
「たぶん、ね。推測でよければ聞かせるよ」
「あの、先輩」
涼乃が振り返るその時を待ってシャッターを切った。撮影にも慣れてきたらしく別段に驚いた様子こそなかったものの、聡介の名を呼んだ涼乃は何故か愁眉を寄せていた。
「どうしたの?」
憂い顔も儚げで絵になるが、これが演技でないならさすがに気になる。
撮影場所に選んだ清津谷公園は、泉田中学からほど近い、山裾にある公園兼無料のキャンプ場で、砂防堰堤の整備された谷川沿いにキャンプサイトの並ぶ風光明媚な土地だ。ただし来るまでには数キロメートルに及ぶ坂道を登らねばならず、途中からはペダルを漕ぐのを諦めて、自転車を押して上った。ともすれば疲れてしまったか、足を痛めただろうか。
「大丈夫? どこか痛む?」
「いえ、大丈夫ですよ」
「本当に? 疲れてないかい?」
すると涼乃は苦笑を浮かべた。
「疲れていないと言えば嘘になりますけど、わたし、この公園が好きですし、不満があるわけでもないですよ」
言いながら涼乃は、谷川にかかる吊り橋の上から下流に目を向けている。裾野の先に広がる泉田町は、田園の中に家々の点在する田舎然とした景色で、そうした街並みの遙か向こうには名古屋の高層ビルが、うっすらと霞がかって見えている。
森林に挟まれたここから見上げる空は狭く高い。青色の中に、江斐川河川敷にある滑走路から飛び立ったらしいグライダーが一機だけ見えていて、ふとした折に陽を受けてギラリと光沢を放った。動力のない航空機は、穏やかな空に輪を書いて飛び、ひたすら高みを目指して昇っていく。
美しい景色に穏やかな風。しかし傍らの少女の顔は、晴れない。
聡介が横顔を眺めていることに気付いたらしい、涼乃が嘆息した。
「えっと。気後れは、ちょっとしてるかもしれませんけど」
困ったふうな顔で、日傘を傾ける。「これ、貰っちゃって良かったんでしょうか?」
「俺が持っていても使わないからね」
「そんなこと言って、わざわざ買ってくれたんですよね」
聡介が肩をすくめて言えば、涼乃は、やはり申し訳なさそうに小さく笑った。
広げた傘を見上げて、ふと思い直したふうに「猫、可愛いです」と笑顔を作る涼乃。作り笑顔を見たかったわけではないのだが、あるいは聡介の願いは贅沢というものだろうか。
肩の高さで構えていたカメラを聡介が下ろせば、涼乃は、心なしか悲しそうに愁眉を集めて、気を取り直すようにかぶりを振る。どうにも彼女の憂い顔は、ただ恐縮しているというだけのものでもない気がした。あるいはその表情には、まるで異なる理由があるのかもしれない。
「ねぇ、片瀬さん」
「先輩。ちょっと気になったんですけど」
聡介を遮って口を開いた涼乃には、機先を制された心地がした。これ以上、踏み込んでほしくないということなのだろう。
して、涼乃の示した先には一人の男性が、川沿いに設営したテントの前で火を焚いていた。小さな折り畳みのグリルに薪をくべて、まだ点けたばかりらしい火を大きくしている。なるほど、これはまた露骨に話を逸らされたものだ。
致し方ない。肩をすくめる。
「あの人が、どうしたの?」
小さく眼を見張った涼乃は、聡介が話に乗るとは露程も考えていなかったようだ。控えめに咳払いをして、彼女はたどたどしく語る。
「なんだか変なんです。えっと、火がおこったのは分かったんですけど、何がおこったのか分からないんです」
待ってほしい。何がおきたって火がおきたと涼乃は自分で言っているわけで。要するに、「どういうこと?」よく分からない。
「だから、火がおこって、でも何がおこった……あっ」
気付いて、赤くなる。露骨に咳払い。「えっと、薪に火が点いたんです。でも、どうして点いたのか、分からなくて。なんだか急に火が熾ったと言うか。
ライターやチャッカマンを使ったわけでもないですし、フイゴや団扇で扇いだわけでもないのに、ちょっと火花を散らしただけ……それも、火花があってしばらくは火は見えなかったんですよ。なのに、しばらくしたら急に、薪に火がついて。稲富先輩、わたしは何を見たんでしょうか。まるで魔法でも見たようです。何が起こったんでしょうか?」
最初は、自身のことから話を逸らすつもりで水を向けただろう涼乃は、説明しているうちに気になってきたらしく、話しの途中から首を捻っていた。そんな彼女の顔を見れば愁眉は開いていて。あるいはこの話題が、彼女にとって多少の気晴らしになるかもしれない、と思う。
「火花は、どんな感じだったんだい?」
「細い棒とナイフを、こうしてマッチを擦るみたいにしたら、一瞬だけ大きな火花が散って。でも、それだけです」
手振りを交えて説明する涼乃。携帯電話を取り出した聡介が、それらしいキャンプグッズを調べてみれば、ファイヤースターターなる道具が見つかった。マグネシウムの合金で出来たスティックにナイフ等を擦り付けると火花を散らすことができるらしい。
検索結果を涼乃に見せると「たぶん、これです」と言った彼女は、もう一度首を捻った。
「この道具、火熾しに使えるみたいですけど、でも説明を見る限りかなり上級者向けというか。とても、簡単に火を点けることなんて出来そうにないですよね」
火花を薪に当てただけでは、当たり前だが点火しない。固形着火剤を使用した上で送風などの燃焼の手助けを丁寧に行ってもなお、ファイヤースターターを使用しての一発での点火は、初心者には難しいようだ。
テントの前には、グリルの他にミニテーブルが出ている。テーブルの上にはカップ麺と、無色透明な液体の入ったペットボトルが二本。片方のボトルの表面には赤色のテープが巻かれていて、遠くてよく見えないものの黒の油性ペンで文字が書いてあることが分かる。他に気になることと言えば、ボトルキャップの色が異なることくらいだろうか。
「なるほど」
呟けば、隣で涼乃が目を丸くした。
「分かったんですか?」
「たぶん、ね。推測でよければ聞かせるよ」
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