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森の奥の魔女と騎士
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◆×××
彼女は『魔女』だった。世界を狂わす『魔女』だった。
彼は『騎士』だった。『魔女』を殺す『騎士』だった。
「……せっかくお茶を淹れたのに。せっかちなひとね」
「僕とお前は、テーブルを挟んで茶を飲むような関係じゃないだろう」
「それはそうだけれど。お客さんをもてなしたいと思うのは当然でしょう?」
魔女はそう言って小首を傾げた。喉元に突き付けられた剣の切っ先など、まったく気にしない素振りで。
薄い皮膚が刃に触れて、赤が滲んだ。
「僕はお前にもてなされるような立場じゃないし、お前も僕をもてなすような立場じゃない」
騎士は魔女に剣を突きつけたまま、魔女がお茶の準備をしていたテーブルに目を遣る。
まるで騎士を歓迎するかのような有様だった。……狂っている。
「僕はお前を殺すためにここに来た。おとなしく殺されろ、魔女」
「そうできるように願っているわ、騎士様」
魔女は本当にそう思っているかのように、艶やかに笑んだ。騎士は眦をきつくした。
彼は『魔女』を殺す『騎士』だった。そのためだけの『騎士』だった。だからそれは、最初から知っている、言われるまでもないことだった。
騎士は半歩下がり、剣を振り上げた。そうして振り下ろす。魔女を殺すために。
魔女はそれを、ただ笑みを湛えて見つめていた。微動だにせず。
◇ ◇ ◇
彼は目を覚ました。
覚醒した脳が、状況を判断しようと動き出す。しかし、そのために必要な情報が圧倒的に不足していることがすぐに判明し、それは失敗に終わった。
彼には目覚める前の記憶がなかった。なぜ意識を失っていたのかを知る手がかりもなかった。
彼にわかったのは、自分が寝ていたのが、きちんとした寝具の揃えてあるベッドだということくらいだった。
骨組みは木でできており、つるりとした表面が、作られてからの年月を感じさせた。
細部を見ると、職人の手で作られたのではなく、素人の手仕事といった感じである。職人技ではないだけで、出来そのものは良い方であると感じられた。
敷布や掛布を見てみると、こちらも職人によるものではないように思われた。ところどころ縫い目が歪んでいる。
ただ、雑な仕事の結果というわけではなく、単純に縫い仕事がそれほど得手ではないのだろうと思わせる、丁寧さの滲む縫い目だった。
一通り観察してみたところで、手作り感の溢れる寝床に何故自分が寝ていたのかは不明のままだったため、彼は周囲を覆う天蓋を開くことにした。
「あら、目が覚めた?」
眩しさに目を細めた彼に、うたうような声がかかった。
聞こえてきた方向に視線を向ければ、窓を背にこちらを見遣る小柄な人影が目に入る。声と背丈からして、年若い女だろうと判ぜられた。
「顔色は悪くないわね。目が覚めなかったらどうしようかと思ったわ」
声の主が近づいてきて、ようやく彼にもその容貌が確認できた。
推測通り、二十も超えていないだろうと思わせる、若い女だった。
少女めいた小作りでかわいらしい顔立ちに、凪いだ――あるいは老成したとまで言えるような瞳の落ち着き。そのアンバランスさが、絶妙に彼女を神秘的に見せていた。
「ところで、こんな辺鄙な森の奥まで、何の用でいらしたの? ついでに、行き倒れていた理由も聞かせてもらえるかしら」
小首を傾げる仕草と共に問われ、考える。
さらりと彼女の肩を滑った銀髪を目の端に留めながら彼は言葉を探したが、彼女の問いに答えられるだけの情報を持っていないことは、彼自身が先程確認したばかりだった。
「……そう問うてくるということは、お前は僕を知らないのか」
だから、わかりきったことを、確認のために口にした。彼女はぱちりと瞬く。
「あら。もしかして、記憶がないの?」
「そうらしい」
「あら、あら。それはそれは、ごめんなさいね?」
何故か彼女に謝られて、今度は彼が目を瞬く番だった。
「やっぱり、手持ちになかったからって、試作品の蘇生薬を使ったのは失敗だったみたいね」
「…………蘇生薬?」
「記憶がないなら覚えてないでしょうけれど、あなた、心臓止まっていたの」
「…………」
「でもこんなところに死体が出ても困るでしょう。だから生き返らせてみたんだけど……半分成功で、半分失敗ってところかしら」
悪びれた様子もなく、のんびりと口にする彼女を前に、彼は告げられた事実をどう受け止め処理するべきかわからずにいた。
故に、真っ先に頭に浮かんだ感想を、そのまま口にする。
「……お前、『魔女』なのか」
心臓の止まった人間を生き返らせるような薬を作ることのできる存在は、『魔女』でしかありえない。
今ではもうほとんどお伽噺の中の住人であるが、それが決して夢物語の存在ではないことを、彼は知っていた。知っていることを思い出した。
「そう呼ばれるのは久しぶりだわ。人と話すこと自体、とっても久しぶりだけれど」
くすくすと、魔女が笑う。
子どものように無邪気な笑みだった。
◇ ◇ ◇
魔女には名前が無かった。彼も自分の名を知らなかった。
だから彼は彼女を『魔女』と呼ぶことにした。
そして彼女は、「格好が騎士みたいだから」という理由で、彼を『騎士様』と呼んだ。
彼女が「騎士みたい」と表したのは、彼が身に着けていた金属製の鎧だった。言われてみれば騎士の格好のようにも見えるかもしれないと、彼も思った。
しかし、鎧にも、中に着ていた服にも、所属を示すようなものは見当たらなかった。
彼女が見つけたとき、実用的な剣も佩いていたとのことで、少なくとも戦う職についていた可能性は高いだろうと思われたが、それだけだった。
魔女に渡され、手に持ってみた剣は、とてもしっくりと掌に馴染んだ。
目覚める前の記憶がない彼は、どこにも行きようがなかったので、魔女の住処に居候することになった。
魔女は「楽しそうだから、いいわ」とあっさり彼を受け入れた。
森の奥にひとりきり籠る生活は苦ではないが、たまには刺激が欲しくなるとのことだった。
居候になったものの、魔女は一人で何でもできてしまうので――魔法に関わることを抜きにしても大体何でもできてしまうので――彼が魔女に協力できるのは、せいぜいが力仕事くらいのものだった。
彼は己に関することは何一つ思い出せなかったけれど、それ以外の知識は引き出すことができた。中には生活に役立つ知識もあったけれど、魔女の知識はその上を行った。
魔女は料理が好きだった。というよりは、人をもてなすのが好きなようだった。
毎食手の込んだ料理を作り、彼の反応から彼の好みを予測して、さらに彼の好みに合致する料理を作ることに楽しみを見出したようだった。
彼がそれだけの熱意に返せるものといえば感謝の言葉くらいのものだった。
そのことで、申し訳なさに居心地が悪い思いもしたが、魔女の作る料理はおいしく、彼女の試行錯誤の詳細を聞きながらの食卓は楽しかった。
日常生活において、彼が魔女よりも手際よくこなせることはほとんどなかったが、唯一彼の方が得意と言えたのは、狩りだった。
記憶を無くす前はどうやら弓も嗜んでいたらしく、頭で考えずとも体に任せるだけで獲物を仕留めることができた。
なんとなく思い付きで作った罠と併せて、魔女では狩れなかったという大型の動物を狩ったとき、驚き、喜んだ魔女に、彼はあたたかい気持ちになった。
その後、魔女に借りた弓を使い、森の中で動物を狩るのは彼の仕事になった。
「あなたはこの森に、予期せず迷い込んだのか、もしくは長居をするつもりがなかったのかもしれないわね」
あるとき、狩りから帰ってきた彼を見た魔女が言った。
夕食になる予定の獲物を下ろしながら、どうしてそう考えたのかと彼は訊ねる。
魔女は「だって、」と小首を傾げて続けた。
「それだけの腕があれば、森の中で食糧を得るのは簡単でしょう? この森に長逗留するつもりなら、ふつう弓も持ってくるのではないかしら」
確かに、目覚めた後にあらためた彼の所持品の中には、調理ができる道具や保存食の類はなかった。それどころか、野宿に必要なものも何一つ持っていなかったから、森で夜を明かす予定もなかったのだろうと思われた。
けれどその答えとなる情報は、やはり彼の中にはなかった。
◆ ◆ ◆
ある日、いつまでも掛布一枚で壁に寄りかかって眠る彼を見かねたのか、魔女が寝台を作りましょうと言ったので、二人で作ることになった。
手際よく準備を進める彼女に、最初目覚めたときに横たわっていた寝台は彼女の手作りだったのだと彼は知った。
魔法も駆使してあっという間にあとは組み立てるだけという状態にしてしまった魔女に、彼が感心して称賛を向けると、彼女は笑って「年の功っていうところかしら」と口にした。
その少女めいた容貌とはあまりに不釣り合いな言葉に、彼は自分が魔女の年齢を知らなかったことに気付いた。
果たして年齢を訊ねてよいのかどうか思案していると、魔女はそれに気付いたらしく、「何歳に見えるかしら?」と意味ありげに微笑んだ。
共に過ごす内に知った魔女の性格からして、何歳と答えたところで彼を非難するとは思えなかったが、彼はひとまず自分が思っているとおりに答えた。元々年若く見えるので、あまりに下の年齢を口にしても失礼になりそうだと思ったのだ。
魔女はふふ、と笑って、「残念ながら、不正解ね」と答えた。
「当てることなんて無理でしょうから、意地悪な質問だったかしら」
『無理』とまで言うからには、外見からは想像もできない年齢なのだろうと彼は思って、それは『魔女』であるからなのかと考えた。
『魔女』という存在が人智を越えた事象を起こしたり常人には作り出せない物質――例えば彼を蘇生させたという蘇生薬のような――を生み出すことができるのを彼は知っていたが、その身そのものが人智を越えた代物であるというのは覚えがなかった。
だから、率直に「『魔女』だから当てられないような年齢なのか」と訊ねると、魔女は「ある意味ではそうだし、ある意味ではそうじゃないとも言えるわ」と微笑んだ。どこか疲れたような笑みだった。
魔女の返答はまるではぐらかすようなものだったが、彼はそれ以上の質問を重ねることをしなかった。
ただ、彼女のその笑みが、瞼に焼き付いた。
◇ ◇ ◇
日々は単調に、けれど優しく穏やかに過ぎていった。彼にとってもその日々は心地よく、それは多分、魔女にとってもそうだった。
彼の記憶がないことは、その日々の障害にはならなかった。魔女も彼に思い出すことを強制はしなかった。
『記憶がない』という彼自身の存在の土台の不確かさは、魔女と共に森の奥で生活するにあたっては、特に問題になることはなかった。
このまま、記憶がないままに魔女と生き、いつか死ぬのもよいのではないかと、彼はぼんやりと考えるようになった。
無くなった記憶の中に、家族や友人や――そういう彼を育み、共に過ごした人間がいるのだろうことはわかっていたし、もしかしたらそれらの人物が、行方の知れなくなった彼に心を痛めたりしているのかもしれない、ということくらいは想像したけれど、それは彼にとって、どこか遠いものだった。
想像するしかできないうえに、明確な人物像があるわけでもないので当然かもしれなかった。
ある時、思い付きで、魔女に無くした記憶を取り戻す薬というのはあるのかと訊ねたら、魔女は頷き、「欲しいのならあげるわ」と言った。
とてもあっさりと言われたので、彼はなんだか少し傷ついた。彼が記憶を取り戻せば、きっと今の魔女との穏やかな生活は終わってしまうだろうに、魔女はそれに頓着がないのだと感じられたからだ。
「でも、薬を飲んだとして、あなたの記憶が戻るかはわからないのだけど」
魔女がそう続けたので、彼はほんの少し傷ついた自分の心とその理由について、一旦置いておくことにした。魔女の告げた内容への興味の方が勝ったからだった。
「それは、薬の効果が保証されないということか?」
「ある意味では、そうね。より正確に言うなら、あなたの記憶が戻るさだめかどうか、わからない――ということになるのかしら」
「さだめ?」
彼は首を傾げた。傾げた後で、魔女の癖がうつったことに気付いた。
傾げた首を戻しながら、魔女の説明を聞く。
「この世界には『理』と、それに沿ったさだめがあるわ。それは人には侵せないものなの。死ぬべき人は死に、生きるべき人は生きる。致命傷を負わなくても、致死の病に冒されなくても、一定の年数以上に生きれば、身体の機能が衰えて、人は必ず死ぬでしょう。そういうふうに、世界の『理』に沿った流れのことを、さだめと呼ぶの」
「でも、お前は僕を蘇生させただろう。死んでいた僕を生き返らせたのは、さだめを覆したということにはならないのか? それとも、『魔女』にはさだめに干渉する力があるのか?」
「蘇生薬によって、すべての死者を蘇生できるわけではないの。あなたが生き返ったのは、あなたはまだ死ぬべきさだめじゃなかったというだけ。『魔女』もまた、人の範疇にあるものよ。『魔女』は普通の人よりさだめに詳しくはあるけれど、だからと言ってさだめを侵すことはできないわ」
魔女の答えは、彼の疑問を氷解するものではなかった。
死ぬべきさだめでないのなら、何故自分の心臓は止まっていたというのか。
魔女が自分を見つけ、蘇生薬を飲ませなければ、彼はそのまま死んでいた。死ぬべきさだめでないのに死んでいたというのは矛盾しているように思えた。
彼の疑問に、魔女は丁寧に答えてくれた。
いわく、人間の身体はとても繊細なので、死ぬべきさだめのときでなくても、生命活動が停止することがあり得るのだという。
だが、そういう人間は、たとえば救命措置が間に合ったり、魔女の蘇生薬で生き返ったり、そういうふうにして生き返るのだと。逆に、死ぬべきさだめの人間には、魔女の蘇生薬も意味を為さない。
さだめを覆すことは何人にもできないし、万が一そんなことをできたとしても、『理』がそれを無に帰す。つまり、心臓の止まった彼を魔女が見つけ、生き返らせたのは、さだめのうち――必然であったのだと。
今度の魔女の説明は先のものより納得がいったので、彼はなるほどと頷いた。
そうすると、今度は別のことが気になってくる。自分の心臓が何故止まったか、だ。
魔女の見立てでは、彼の身体に命を脅かすような疾患の類はないとのことだった。
外傷もなかったし、森に生息する生き物の毒にやられた、ということもなさそうだった。それなのに心臓が止まるなんて、それこそあり得ることなのか疑問だった。
魔女にそれを訊ねると、魔女は「……確証がないから」と答えることをしなかった。
確証がなくてもいいから、と彼が言っても、「推測が正しければ、そのうちにわかるわ」と逃げられる。
そう告げながら彼を見る魔女の目が、彼の知らない色を宿しているのに、彼はどうしてか落ち着かない気持ちになった。
表情は違うのに、年齢について訊ねたときの微笑みが思い出された。
あるいはそれは、直感だったのかもしれないし――あるいは、魔女曰くの、さだめのせいだったのかもしれなかった。
◇ ◇ ◇
それはとても突然だった。
何の変哲もない、魔女と共に過ごすようになってから何度も繰り返した日々と同じように起き、同じように食事をし、同じように狩りのために外に出て森の中を歩いていた彼は、唐突に思い出した。
自分の心臓が止まった瞬間のことを。
自分が何故、『魔女』の住む森の奥に足を踏み入れたのかを。
踵を返し、家に戻った彼を迎えた魔女は、お茶の準備をしていた手を止めて、「やっぱり、そうだったわね」と微笑んで、――弓を構え、魔女の心臓を狙う彼を穏やかな眼差しで見つめた。
「……『魔女』」
「いかにも、私が『魔女』よ、騎士様」
「『世界を狂わせる悪しき魔女』」
「私が何をしたわけではないけれど、確かに世界を狂わせているのは私の存在なんでしょうね」
彼女は『魔女』だった。世界を狂わす『魔女』だった。世界に愛され、それゆえ世界が狂う原因となった『魔女』だった。
それを彼は知っていた。知っていることを思い出した。
「おまえは死ぬべき存在だ」
「ええ、そうね。人のさだめをこえて生きる存在は死ぬべきね」
「お前を殺すために、『理』から僕が遣わされた」
「世界がさだめを歪めるまでになったのだから、いつかは来ると思っていたわ」
いつか魔女が語ったように、世界には『理』がある。
世界が正常に廻り続けるために『理』という枠組みがあり、『理』に沿ってすべての事柄に付されるのがさだめだった。何事もさだめから外れることはできない。
そのはずだった。――世界がたった一人を愛するなどということが起きなければ。
彼女は『魔女』だった。かつてはただの『魔女』だった。ただの『魔女』を、何の因果か世界そのものが愛してしまった。
人と世界が対話することなどできない。そもそも世界に意思があるなど、誰も知らなかった。
それでも世界は彼女を愛した。ただ平凡に生きていた魔女を愛した。そうして彼女のさだめは狂った。
ただ穏やかに日々を過ごしていた彼女から、一切の変化が失われた。
髪も爪も伸びず、年老いることもなく、どんな物質も彼女に傷をつけることすらできない。確かに彼女に触れたはずの刃は鋭さを失いただの鉄の塊となり、燃え盛る炎も彼女に触れれば忽然と消える。
己のさだめが歪み狂ったことに気付いた彼女は、ひとり森の奥に隠れ住んだ。己のさだめを狂わせたものが世界だと、誰に言われずとも理解した。させられた。
世界は彼女に、ただ存在し続けることを求めた。変わらず在り続けることを求めた。人のさだめを歪めてまで、そう在ることを求めた。
世界は彼女を愛し、狂ってしまった。
けれど世界を正常に廻すための『理』までもが狂ったわけではないことも、『魔女』である彼女はわかっていた。
いつか歪みを是正する『理』が行使されることも、わかっていた。――それが今なのだと、理解していた。
「あなたのさだめは、私を殺すこと。そうでしょう?」
魔女が夢見るように口にする。彼はただ、弓を引き絞った。
彼は『魔女』を殺す『騎士』だった。そのためだけに『理』が生み出した『騎士』だった。
世界が彼女を不変に留める、その歪みを正すための役割を負った『騎士』だった。
「弓じゃ、だめよ。きっとだめ。それは私に届かない。きっと消えてしまう。あなたが最初に持っていた剣を使うといいわ。特別なものでしょうから」
「………………」
彼は無言で弓を下ろし、代わりに腰に佩いていた剣を抜いた。
魔女はただ、それを見つめていた。
彼が魔女との距離を縮め、心臓の真上に剣を突きつけても、ただ見つめていた。
「抵抗はしないのか」
「しないわ。……ずっとずっと、終わらせてくれる人を待っていたの」
彼女は柔らかに笑んだ。年齢について訊ねたときのものとも、確証がないと告げたときのものとも、似て非なる笑みだった。
「願っているから、望んでいるから、どうか私を殺してちょうだい、騎士様」
「…………ああ」
短く告げて、彼は、剣を――――
◆×××
騎士が剣を振り上げる。魔女はそれが振り下ろされるのを、ただ待っていた。
彼女は世界を狂わす『魔女』だった。さだめの狂った『魔女』だった。
死ぬべき、死なない、『魔女』だった。
「――――――…………」
振り下ろされた剣は、まるでそうなるのが当然のように、魔女に触れることなく床に落ちた。
次いで、重いものが倒れる音が響く。がしゃがしゃと、金属がぶつかり合う音がした。
「……まだ、だめなのね。こんなに願っているのに、望んでいるのに、まだ足りないのね」
まるで人形のように床に四肢を投げ出している騎士を瞳に映して、魔女はそう呟いた。
「ごめんなさい、騎士様。また、あなたが死んでしまった」
彼女は『魔女』だった。世界に愛された『魔女』だった。不変を世界に望まれる『魔女』だった。
だから世界は、彼女を殺す『騎士』の存在を許さなかった。
彼女を生かし続けようとする世界と、彼女を殺そうとする『理』がせめぎ合い、けれど世界が勝ってしまったから、騎士は死んでしまった。
何度も、何度も、出会う前から、出会ってから、生き返らせては繰り返す。
何度も、何度も、何度も。
彼女は不変でい続ける己に飽いていた。
最後に穏やかな思い出ができたから、心置きなく死ねるのに、世界はまだそれを許してはくれない。
けれど彼女は願っていた。望んでいた。
『理』のとおりに、――本来のさだめのとおりに死ぬことを。
世界が彼女を愛しているというのなら、彼女の願いこそ、望みこそ、叶えられるべきだと思っていた。
だから願う、望む。共に穏やかな時を過ごした彼に殺されることを。
「殺されるならあなたがいいから、はやく私を殺してね、騎士様」
睦言のように囁きながら、彼女は慣れた手つきで彼の口に蘇生薬を含ませた。
彼は彼女を殺すための『騎士』だから、彼女が死なない限り何度だって生き返る。
己の役目を思い出した彼は、共に日々を過ごした彼とは、もしかしたら近いようでどうしようもなく隔たった存在なのかもしれないけれど、それでも彼女は殺されるなら彼がよかった。
はやくわたしをころしてね。もう一度囁いて、魔女は茶番の用意を始める。きっと彼は拒否をする、最後のお茶会の準備をやり直す。彼がいつ目覚めてもいいように。
歪んで狂ったのはさだめだけじゃないことなど、とっくの昔に知っていた。
彼女は『魔女』だった。世界を狂わす『魔女』だった。
彼は『騎士』だった。『魔女』を殺す『騎士』だった。
「……せっかくお茶を淹れたのに。せっかちなひとね」
「僕とお前は、テーブルを挟んで茶を飲むような関係じゃないだろう」
「それはそうだけれど。お客さんをもてなしたいと思うのは当然でしょう?」
魔女はそう言って小首を傾げた。喉元に突き付けられた剣の切っ先など、まったく気にしない素振りで。
薄い皮膚が刃に触れて、赤が滲んだ。
「僕はお前にもてなされるような立場じゃないし、お前も僕をもてなすような立場じゃない」
騎士は魔女に剣を突きつけたまま、魔女がお茶の準備をしていたテーブルに目を遣る。
まるで騎士を歓迎するかのような有様だった。……狂っている。
「僕はお前を殺すためにここに来た。おとなしく殺されろ、魔女」
「そうできるように願っているわ、騎士様」
魔女は本当にそう思っているかのように、艶やかに笑んだ。騎士は眦をきつくした。
彼は『魔女』を殺す『騎士』だった。そのためだけの『騎士』だった。だからそれは、最初から知っている、言われるまでもないことだった。
騎士は半歩下がり、剣を振り上げた。そうして振り下ろす。魔女を殺すために。
魔女はそれを、ただ笑みを湛えて見つめていた。微動だにせず。
◇ ◇ ◇
彼は目を覚ました。
覚醒した脳が、状況を判断しようと動き出す。しかし、そのために必要な情報が圧倒的に不足していることがすぐに判明し、それは失敗に終わった。
彼には目覚める前の記憶がなかった。なぜ意識を失っていたのかを知る手がかりもなかった。
彼にわかったのは、自分が寝ていたのが、きちんとした寝具の揃えてあるベッドだということくらいだった。
骨組みは木でできており、つるりとした表面が、作られてからの年月を感じさせた。
細部を見ると、職人の手で作られたのではなく、素人の手仕事といった感じである。職人技ではないだけで、出来そのものは良い方であると感じられた。
敷布や掛布を見てみると、こちらも職人によるものではないように思われた。ところどころ縫い目が歪んでいる。
ただ、雑な仕事の結果というわけではなく、単純に縫い仕事がそれほど得手ではないのだろうと思わせる、丁寧さの滲む縫い目だった。
一通り観察してみたところで、手作り感の溢れる寝床に何故自分が寝ていたのかは不明のままだったため、彼は周囲を覆う天蓋を開くことにした。
「あら、目が覚めた?」
眩しさに目を細めた彼に、うたうような声がかかった。
聞こえてきた方向に視線を向ければ、窓を背にこちらを見遣る小柄な人影が目に入る。声と背丈からして、年若い女だろうと判ぜられた。
「顔色は悪くないわね。目が覚めなかったらどうしようかと思ったわ」
声の主が近づいてきて、ようやく彼にもその容貌が確認できた。
推測通り、二十も超えていないだろうと思わせる、若い女だった。
少女めいた小作りでかわいらしい顔立ちに、凪いだ――あるいは老成したとまで言えるような瞳の落ち着き。そのアンバランスさが、絶妙に彼女を神秘的に見せていた。
「ところで、こんな辺鄙な森の奥まで、何の用でいらしたの? ついでに、行き倒れていた理由も聞かせてもらえるかしら」
小首を傾げる仕草と共に問われ、考える。
さらりと彼女の肩を滑った銀髪を目の端に留めながら彼は言葉を探したが、彼女の問いに答えられるだけの情報を持っていないことは、彼自身が先程確認したばかりだった。
「……そう問うてくるということは、お前は僕を知らないのか」
だから、わかりきったことを、確認のために口にした。彼女はぱちりと瞬く。
「あら。もしかして、記憶がないの?」
「そうらしい」
「あら、あら。それはそれは、ごめんなさいね?」
何故か彼女に謝られて、今度は彼が目を瞬く番だった。
「やっぱり、手持ちになかったからって、試作品の蘇生薬を使ったのは失敗だったみたいね」
「…………蘇生薬?」
「記憶がないなら覚えてないでしょうけれど、あなた、心臓止まっていたの」
「…………」
「でもこんなところに死体が出ても困るでしょう。だから生き返らせてみたんだけど……半分成功で、半分失敗ってところかしら」
悪びれた様子もなく、のんびりと口にする彼女を前に、彼は告げられた事実をどう受け止め処理するべきかわからずにいた。
故に、真っ先に頭に浮かんだ感想を、そのまま口にする。
「……お前、『魔女』なのか」
心臓の止まった人間を生き返らせるような薬を作ることのできる存在は、『魔女』でしかありえない。
今ではもうほとんどお伽噺の中の住人であるが、それが決して夢物語の存在ではないことを、彼は知っていた。知っていることを思い出した。
「そう呼ばれるのは久しぶりだわ。人と話すこと自体、とっても久しぶりだけれど」
くすくすと、魔女が笑う。
子どものように無邪気な笑みだった。
◇ ◇ ◇
魔女には名前が無かった。彼も自分の名を知らなかった。
だから彼は彼女を『魔女』と呼ぶことにした。
そして彼女は、「格好が騎士みたいだから」という理由で、彼を『騎士様』と呼んだ。
彼女が「騎士みたい」と表したのは、彼が身に着けていた金属製の鎧だった。言われてみれば騎士の格好のようにも見えるかもしれないと、彼も思った。
しかし、鎧にも、中に着ていた服にも、所属を示すようなものは見当たらなかった。
彼女が見つけたとき、実用的な剣も佩いていたとのことで、少なくとも戦う職についていた可能性は高いだろうと思われたが、それだけだった。
魔女に渡され、手に持ってみた剣は、とてもしっくりと掌に馴染んだ。
目覚める前の記憶がない彼は、どこにも行きようがなかったので、魔女の住処に居候することになった。
魔女は「楽しそうだから、いいわ」とあっさり彼を受け入れた。
森の奥にひとりきり籠る生活は苦ではないが、たまには刺激が欲しくなるとのことだった。
居候になったものの、魔女は一人で何でもできてしまうので――魔法に関わることを抜きにしても大体何でもできてしまうので――彼が魔女に協力できるのは、せいぜいが力仕事くらいのものだった。
彼は己に関することは何一つ思い出せなかったけれど、それ以外の知識は引き出すことができた。中には生活に役立つ知識もあったけれど、魔女の知識はその上を行った。
魔女は料理が好きだった。というよりは、人をもてなすのが好きなようだった。
毎食手の込んだ料理を作り、彼の反応から彼の好みを予測して、さらに彼の好みに合致する料理を作ることに楽しみを見出したようだった。
彼がそれだけの熱意に返せるものといえば感謝の言葉くらいのものだった。
そのことで、申し訳なさに居心地が悪い思いもしたが、魔女の作る料理はおいしく、彼女の試行錯誤の詳細を聞きながらの食卓は楽しかった。
日常生活において、彼が魔女よりも手際よくこなせることはほとんどなかったが、唯一彼の方が得意と言えたのは、狩りだった。
記憶を無くす前はどうやら弓も嗜んでいたらしく、頭で考えずとも体に任せるだけで獲物を仕留めることができた。
なんとなく思い付きで作った罠と併せて、魔女では狩れなかったという大型の動物を狩ったとき、驚き、喜んだ魔女に、彼はあたたかい気持ちになった。
その後、魔女に借りた弓を使い、森の中で動物を狩るのは彼の仕事になった。
「あなたはこの森に、予期せず迷い込んだのか、もしくは長居をするつもりがなかったのかもしれないわね」
あるとき、狩りから帰ってきた彼を見た魔女が言った。
夕食になる予定の獲物を下ろしながら、どうしてそう考えたのかと彼は訊ねる。
魔女は「だって、」と小首を傾げて続けた。
「それだけの腕があれば、森の中で食糧を得るのは簡単でしょう? この森に長逗留するつもりなら、ふつう弓も持ってくるのではないかしら」
確かに、目覚めた後にあらためた彼の所持品の中には、調理ができる道具や保存食の類はなかった。それどころか、野宿に必要なものも何一つ持っていなかったから、森で夜を明かす予定もなかったのだろうと思われた。
けれどその答えとなる情報は、やはり彼の中にはなかった。
◆ ◆ ◆
ある日、いつまでも掛布一枚で壁に寄りかかって眠る彼を見かねたのか、魔女が寝台を作りましょうと言ったので、二人で作ることになった。
手際よく準備を進める彼女に、最初目覚めたときに横たわっていた寝台は彼女の手作りだったのだと彼は知った。
魔法も駆使してあっという間にあとは組み立てるだけという状態にしてしまった魔女に、彼が感心して称賛を向けると、彼女は笑って「年の功っていうところかしら」と口にした。
その少女めいた容貌とはあまりに不釣り合いな言葉に、彼は自分が魔女の年齢を知らなかったことに気付いた。
果たして年齢を訊ねてよいのかどうか思案していると、魔女はそれに気付いたらしく、「何歳に見えるかしら?」と意味ありげに微笑んだ。
共に過ごす内に知った魔女の性格からして、何歳と答えたところで彼を非難するとは思えなかったが、彼はひとまず自分が思っているとおりに答えた。元々年若く見えるので、あまりに下の年齢を口にしても失礼になりそうだと思ったのだ。
魔女はふふ、と笑って、「残念ながら、不正解ね」と答えた。
「当てることなんて無理でしょうから、意地悪な質問だったかしら」
『無理』とまで言うからには、外見からは想像もできない年齢なのだろうと彼は思って、それは『魔女』であるからなのかと考えた。
『魔女』という存在が人智を越えた事象を起こしたり常人には作り出せない物質――例えば彼を蘇生させたという蘇生薬のような――を生み出すことができるのを彼は知っていたが、その身そのものが人智を越えた代物であるというのは覚えがなかった。
だから、率直に「『魔女』だから当てられないような年齢なのか」と訊ねると、魔女は「ある意味ではそうだし、ある意味ではそうじゃないとも言えるわ」と微笑んだ。どこか疲れたような笑みだった。
魔女の返答はまるではぐらかすようなものだったが、彼はそれ以上の質問を重ねることをしなかった。
ただ、彼女のその笑みが、瞼に焼き付いた。
◇ ◇ ◇
日々は単調に、けれど優しく穏やかに過ぎていった。彼にとってもその日々は心地よく、それは多分、魔女にとってもそうだった。
彼の記憶がないことは、その日々の障害にはならなかった。魔女も彼に思い出すことを強制はしなかった。
『記憶がない』という彼自身の存在の土台の不確かさは、魔女と共に森の奥で生活するにあたっては、特に問題になることはなかった。
このまま、記憶がないままに魔女と生き、いつか死ぬのもよいのではないかと、彼はぼんやりと考えるようになった。
無くなった記憶の中に、家族や友人や――そういう彼を育み、共に過ごした人間がいるのだろうことはわかっていたし、もしかしたらそれらの人物が、行方の知れなくなった彼に心を痛めたりしているのかもしれない、ということくらいは想像したけれど、それは彼にとって、どこか遠いものだった。
想像するしかできないうえに、明確な人物像があるわけでもないので当然かもしれなかった。
ある時、思い付きで、魔女に無くした記憶を取り戻す薬というのはあるのかと訊ねたら、魔女は頷き、「欲しいのならあげるわ」と言った。
とてもあっさりと言われたので、彼はなんだか少し傷ついた。彼が記憶を取り戻せば、きっと今の魔女との穏やかな生活は終わってしまうだろうに、魔女はそれに頓着がないのだと感じられたからだ。
「でも、薬を飲んだとして、あなたの記憶が戻るかはわからないのだけど」
魔女がそう続けたので、彼はほんの少し傷ついた自分の心とその理由について、一旦置いておくことにした。魔女の告げた内容への興味の方が勝ったからだった。
「それは、薬の効果が保証されないということか?」
「ある意味では、そうね。より正確に言うなら、あなたの記憶が戻るさだめかどうか、わからない――ということになるのかしら」
「さだめ?」
彼は首を傾げた。傾げた後で、魔女の癖がうつったことに気付いた。
傾げた首を戻しながら、魔女の説明を聞く。
「この世界には『理』と、それに沿ったさだめがあるわ。それは人には侵せないものなの。死ぬべき人は死に、生きるべき人は生きる。致命傷を負わなくても、致死の病に冒されなくても、一定の年数以上に生きれば、身体の機能が衰えて、人は必ず死ぬでしょう。そういうふうに、世界の『理』に沿った流れのことを、さだめと呼ぶの」
「でも、お前は僕を蘇生させただろう。死んでいた僕を生き返らせたのは、さだめを覆したということにはならないのか? それとも、『魔女』にはさだめに干渉する力があるのか?」
「蘇生薬によって、すべての死者を蘇生できるわけではないの。あなたが生き返ったのは、あなたはまだ死ぬべきさだめじゃなかったというだけ。『魔女』もまた、人の範疇にあるものよ。『魔女』は普通の人よりさだめに詳しくはあるけれど、だからと言ってさだめを侵すことはできないわ」
魔女の答えは、彼の疑問を氷解するものではなかった。
死ぬべきさだめでないのなら、何故自分の心臓は止まっていたというのか。
魔女が自分を見つけ、蘇生薬を飲ませなければ、彼はそのまま死んでいた。死ぬべきさだめでないのに死んでいたというのは矛盾しているように思えた。
彼の疑問に、魔女は丁寧に答えてくれた。
いわく、人間の身体はとても繊細なので、死ぬべきさだめのときでなくても、生命活動が停止することがあり得るのだという。
だが、そういう人間は、たとえば救命措置が間に合ったり、魔女の蘇生薬で生き返ったり、そういうふうにして生き返るのだと。逆に、死ぬべきさだめの人間には、魔女の蘇生薬も意味を為さない。
さだめを覆すことは何人にもできないし、万が一そんなことをできたとしても、『理』がそれを無に帰す。つまり、心臓の止まった彼を魔女が見つけ、生き返らせたのは、さだめのうち――必然であったのだと。
今度の魔女の説明は先のものより納得がいったので、彼はなるほどと頷いた。
そうすると、今度は別のことが気になってくる。自分の心臓が何故止まったか、だ。
魔女の見立てでは、彼の身体に命を脅かすような疾患の類はないとのことだった。
外傷もなかったし、森に生息する生き物の毒にやられた、ということもなさそうだった。それなのに心臓が止まるなんて、それこそあり得ることなのか疑問だった。
魔女にそれを訊ねると、魔女は「……確証がないから」と答えることをしなかった。
確証がなくてもいいから、と彼が言っても、「推測が正しければ、そのうちにわかるわ」と逃げられる。
そう告げながら彼を見る魔女の目が、彼の知らない色を宿しているのに、彼はどうしてか落ち着かない気持ちになった。
表情は違うのに、年齢について訊ねたときの微笑みが思い出された。
あるいはそれは、直感だったのかもしれないし――あるいは、魔女曰くの、さだめのせいだったのかもしれなかった。
◇ ◇ ◇
それはとても突然だった。
何の変哲もない、魔女と共に過ごすようになってから何度も繰り返した日々と同じように起き、同じように食事をし、同じように狩りのために外に出て森の中を歩いていた彼は、唐突に思い出した。
自分の心臓が止まった瞬間のことを。
自分が何故、『魔女』の住む森の奥に足を踏み入れたのかを。
踵を返し、家に戻った彼を迎えた魔女は、お茶の準備をしていた手を止めて、「やっぱり、そうだったわね」と微笑んで、――弓を構え、魔女の心臓を狙う彼を穏やかな眼差しで見つめた。
「……『魔女』」
「いかにも、私が『魔女』よ、騎士様」
「『世界を狂わせる悪しき魔女』」
「私が何をしたわけではないけれど、確かに世界を狂わせているのは私の存在なんでしょうね」
彼女は『魔女』だった。世界を狂わす『魔女』だった。世界に愛され、それゆえ世界が狂う原因となった『魔女』だった。
それを彼は知っていた。知っていることを思い出した。
「おまえは死ぬべき存在だ」
「ええ、そうね。人のさだめをこえて生きる存在は死ぬべきね」
「お前を殺すために、『理』から僕が遣わされた」
「世界がさだめを歪めるまでになったのだから、いつかは来ると思っていたわ」
いつか魔女が語ったように、世界には『理』がある。
世界が正常に廻り続けるために『理』という枠組みがあり、『理』に沿ってすべての事柄に付されるのがさだめだった。何事もさだめから外れることはできない。
そのはずだった。――世界がたった一人を愛するなどということが起きなければ。
彼女は『魔女』だった。かつてはただの『魔女』だった。ただの『魔女』を、何の因果か世界そのものが愛してしまった。
人と世界が対話することなどできない。そもそも世界に意思があるなど、誰も知らなかった。
それでも世界は彼女を愛した。ただ平凡に生きていた魔女を愛した。そうして彼女のさだめは狂った。
ただ穏やかに日々を過ごしていた彼女から、一切の変化が失われた。
髪も爪も伸びず、年老いることもなく、どんな物質も彼女に傷をつけることすらできない。確かに彼女に触れたはずの刃は鋭さを失いただの鉄の塊となり、燃え盛る炎も彼女に触れれば忽然と消える。
己のさだめが歪み狂ったことに気付いた彼女は、ひとり森の奥に隠れ住んだ。己のさだめを狂わせたものが世界だと、誰に言われずとも理解した。させられた。
世界は彼女に、ただ存在し続けることを求めた。変わらず在り続けることを求めた。人のさだめを歪めてまで、そう在ることを求めた。
世界は彼女を愛し、狂ってしまった。
けれど世界を正常に廻すための『理』までもが狂ったわけではないことも、『魔女』である彼女はわかっていた。
いつか歪みを是正する『理』が行使されることも、わかっていた。――それが今なのだと、理解していた。
「あなたのさだめは、私を殺すこと。そうでしょう?」
魔女が夢見るように口にする。彼はただ、弓を引き絞った。
彼は『魔女』を殺す『騎士』だった。そのためだけに『理』が生み出した『騎士』だった。
世界が彼女を不変に留める、その歪みを正すための役割を負った『騎士』だった。
「弓じゃ、だめよ。きっとだめ。それは私に届かない。きっと消えてしまう。あなたが最初に持っていた剣を使うといいわ。特別なものでしょうから」
「………………」
彼は無言で弓を下ろし、代わりに腰に佩いていた剣を抜いた。
魔女はただ、それを見つめていた。
彼が魔女との距離を縮め、心臓の真上に剣を突きつけても、ただ見つめていた。
「抵抗はしないのか」
「しないわ。……ずっとずっと、終わらせてくれる人を待っていたの」
彼女は柔らかに笑んだ。年齢について訊ねたときのものとも、確証がないと告げたときのものとも、似て非なる笑みだった。
「願っているから、望んでいるから、どうか私を殺してちょうだい、騎士様」
「…………ああ」
短く告げて、彼は、剣を――――
◆×××
騎士が剣を振り上げる。魔女はそれが振り下ろされるのを、ただ待っていた。
彼女は世界を狂わす『魔女』だった。さだめの狂った『魔女』だった。
死ぬべき、死なない、『魔女』だった。
「――――――…………」
振り下ろされた剣は、まるでそうなるのが当然のように、魔女に触れることなく床に落ちた。
次いで、重いものが倒れる音が響く。がしゃがしゃと、金属がぶつかり合う音がした。
「……まだ、だめなのね。こんなに願っているのに、望んでいるのに、まだ足りないのね」
まるで人形のように床に四肢を投げ出している騎士を瞳に映して、魔女はそう呟いた。
「ごめんなさい、騎士様。また、あなたが死んでしまった」
彼女は『魔女』だった。世界に愛された『魔女』だった。不変を世界に望まれる『魔女』だった。
だから世界は、彼女を殺す『騎士』の存在を許さなかった。
彼女を生かし続けようとする世界と、彼女を殺そうとする『理』がせめぎ合い、けれど世界が勝ってしまったから、騎士は死んでしまった。
何度も、何度も、出会う前から、出会ってから、生き返らせては繰り返す。
何度も、何度も、何度も。
彼女は不変でい続ける己に飽いていた。
最後に穏やかな思い出ができたから、心置きなく死ねるのに、世界はまだそれを許してはくれない。
けれど彼女は願っていた。望んでいた。
『理』のとおりに、――本来のさだめのとおりに死ぬことを。
世界が彼女を愛しているというのなら、彼女の願いこそ、望みこそ、叶えられるべきだと思っていた。
だから願う、望む。共に穏やかな時を過ごした彼に殺されることを。
「殺されるならあなたがいいから、はやく私を殺してね、騎士様」
睦言のように囁きながら、彼女は慣れた手つきで彼の口に蘇生薬を含ませた。
彼は彼女を殺すための『騎士』だから、彼女が死なない限り何度だって生き返る。
己の役目を思い出した彼は、共に日々を過ごした彼とは、もしかしたら近いようでどうしようもなく隔たった存在なのかもしれないけれど、それでも彼女は殺されるなら彼がよかった。
はやくわたしをころしてね。もう一度囁いて、魔女は茶番の用意を始める。きっと彼は拒否をする、最後のお茶会の準備をやり直す。彼がいつ目覚めてもいいように。
歪んで狂ったのはさだめだけじゃないことなど、とっくの昔に知っていた。
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