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花咲く森
しおりを挟む挟まれている銀狼の後ろ足の傷は骨にまで達する深いものだった。直視するのをためらうほどの大怪我だ。
ところどころ錆が浮いた鉄罠は固く、はやく解放してあげたいとアリシアは焦った。歯を食いしばり力を込めると、閉じていた罠が徐々に開き始めた。
( 開いた……っ! )
銀狼が足を抜くのを見届けると、鉄罠から手を離した。ガキンッ! と身の毛もよだつような音をさせて再び罠が閉じる。
「傷を見せてください」
手のひらの布を取り払い声をかけると、傷口を舐めていた銀狼が顔をあげた。
「ここに傷を消毒するための薬があります」
ウエストポーチから消毒薬の瓶を取り出した。
「体に悪いものではありません。ご覧ください」
そう言うと自分の手のひらに振りかけて見せた。鉄罠をこじ開ける際、手に巻いていた布がずれて、一部の皮膚に突起が食い込み皮が破れていた。
「錆による化膿を防ぐ効果もあります。これを今から傷口に振りかけます」
どの程度言葉を理解しているかはわからない。けれど、なるべく丁寧に説明した。銀狼が敵意を示さないのと同じように、こちらにも害意はないと信じてもらいたかった。
その想いが通じたのか、銀狼は傷口に薬を振りかけても、そこにハンカチを巻いても何もいわなかった。アリシアの作業を黙って見つめ、ハンカチを巻く際はかすかに足を持ち上げてくれさえした。
作業を終えてホッとするアリシアの前で、銀狼がよろりと身じろぎした。始めに上半身を起こし、次が下半身だ。
( お願い、立って……! )
息を詰めて見つめていると、アリシアの背後の茂みがガサリと鳴った。
飛び上がって振り向くと先程の狩人に奪われた馬が茂みから出てくるところだった。腰の辺りにくくりつけた大事な画材もそのままのようだ。
「びっくりさせないでちょうだい、また熊が来たのかと思ったわ」
ほっとして手を差しのべても馬はそれ以上近寄ろうとはしない。アリシアの傍にいる手負いの狼を警戒しているようだ。神経質そうに地面を踏みつけている。
こうしている間にも狩人や熊が戻ってくるかもしれない。画材と馬が戻ってきたが、もう今日は引き返したほうが良さそうだ。物音にビクビクしたままではいい絵は描けない。
けれどもアリシアは手負いの銀狼をこのまま森のなかに残していくのも気がかりだった。辺境伯家の場所は知っている。開けた場所に行けば山の中腹にそびえる白亜の城が見えるからだ。
馬に乗り一足先に辺境伯家へ行って家人を呼んでくるか。
狼の歩調に合わせてついていき送り届けるか。
その二択で迷っていると、銀狼が額でアリシアを馬の方へそっと押しだした。
「銀狼さま……?」
戸惑うアリシアのももの辺りを後ろからなおもグイグイ押してくる。自分にかまわず行け、と言っているのだ。
「おひとりで大丈夫なのですか?」
パタリと尻尾をひとふりされ、アリシアはここで引くことにした。いつまでもぐずぐずしていると銀狼もこの場を離れるのが遅くなってしまう。
アリシアは馬の腰にくくりつけたバッグの中からスケッチブックを取り出すと、そこに銀狼が鉄罠に捕らわれていたことと、化膿止めの消毒をしたこと、その成分についてわかることを素早く書きつけ署名した。そしてそれを細長くなるよう折り畳み、銀狼の首飾りに結びつけた。
「消毒はしましたがあくまでも応急処置ですので、傷口をしっかり洗ってもらってくださいね。ひどい怪我をなさったんですから、きっと発熱もします。お大事になさってください」
片ひざをつき、目を合わせて言い含めると銀狼はパタリパタリと尻尾をふり、辺境伯家のある方へと歩きだした。
歩調に乱れはないか、ふらつきはないかと心配で見守っていると振り返った銀狼が「ウオンッ」と吠えた。「早く行け」と言われたようだ。そのままの姿勢でアリシアを見つめている。
スカートをつまんで会釈すると、アリシアは馬に走り寄りあぶみに足をかけさっと跨がった。来たときはのんびりと横乗りだったが、もはやそんな悠長な気分ではなかった。
「お気をつけて!」
いつまでも待たせておくわけにはいかない。
早く銀狼に進んでほしくてアリシアは馬の腹を蹴り走り出した。本当は離れがたく、その姿が消えるまで見つめていたかった。
日の光を反射して輝く銀の毛並みは見事なまでに毛づやがよく、体格も立派だった。今まで目にしたことのある他の個体よりふた回りは大きかったように思う。怪我を負った後ろ足を含め四肢も力強く、立ち姿には威厳を感じた。そしてあの瞳。
限りなく白に近いアイスブルーの瞳は、黒い点のような瞳孔が強調され、厳しさや神々しさのあまりその場にひれ伏したくなったほどだ。恐怖さえ感じそうな緊張をほぐしてくれたのは、その瞳に宿る知性のおかげだ。
「また会えるかしら……」
いいえ、また会いたい。あの姿をこころゆくまで見つめて堪能し、スケッチしたい。
木々の間を飛ぶようにすり抜けながら、アリシアは銀狼の姿を幾重にも脳裏に思い描いていた──
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