【太平洋戦争海軍BL】やがて藍になる

中村梅雨(ナカムラツユ)

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前編

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 翌日未明。
 九条は戦術マップを睨みつけながら、何度も時計に目をやっていた。作戦実行の時間が近づく。その一刻一刻が、これまでになく長く感じていた。
 ーー敵は本当に、このルートを通ってくるのだろうか。
 間違っていれば、この作戦は全て無駄になる。そしてそれは、指揮官である九条の判断ミスだ。成瀬の考えは合理的だと思った。誰より現場を見ている成瀬の意見を信じるべきだとも。だが、もしこれで部下を死なせたら?ほんの少しの誤算で、全てが崩れるのが戦場だ。
 九条は深く息を吐き、無線を握りしめる。
「第二中隊、発艦準備完了!」
「第一中隊、発艦準備完了!」
 それでもついに、その時は来た。報告が次々と飛び交い、艦内に緊張が走る。
「各機、発艦せよ!」
 九条の号令とともに、黎雲の艦載機が甲板を滑り、藍色の空へ次々と飛び立っていく。エンジンの咆哮が艦を震わせ、暗い静寂が音を立てて破られた。遠ざかっていく機影を見つめながら、祈るように無線を握りしめた。
「各隊、迎撃ポイントへ移動を開始。敵の進行を待て」
 戦術マップに映る味方の機影が、静かに布陣を整えていく。それと呼応するように、敵の編隊が北東方向から迫ってきた。
「敵編隊、接近!距離、約二〇!」
「敵機の数、三〇機以上!」
 ーー来た。
 オペレーターの声が緊張に震えている。
 九条は興奮を押し殺すように無線を強く握った。
「第二中隊、敵接近を確認し次第、迎撃開始の合図を出せ。第一中隊は後方で即応待機」
『了解。こっちはもう見えてるぞ』
 通信越しに、佐伯の張り詰めた声が届く。その声に艦橋の空気がぴんと張りつめ、九条は無線をぐっと握り直した。
「隊列を維持しろ。敵を誘導してから、一斉に迎撃する」
『敵、なお接近中!』
 無線の向こう、エンジン音が耳を打つ。
 その中である時、短く冷静な声が響いた。
『九条大尉、敵の前列、速度を上げてきています。こちらを察知したかもしれません』
 成瀬だった。
「まだ動くな。誘導ポイントまで引きつけろ」
 相手はきっと、想像以上の精度で動きを読んでくる。だが、こちらも成瀬の読みを信じると決めた。
 敵が指をかけた瞬間、引き金を引くのだ。今はその直前――。待っているのは、敵編隊が限界高度を越え、突っ込んできたその瞬間。
「……やれ!」
 その号令と同時に、各小隊が一斉に旋回した。まるで機械のような正確さで、散開と迎撃の動きが展開された。
『こちら第二中隊、左翼より包囲に入る!』
 佐伯の機も、指揮する中隊を率いて左側から敵の編隊を切り崩しにかかる。
「敵、戦列を崩し始めています!」
「こちら、損耗機なし!」
 次々に上がる報告の声に、僅かな安堵を覚える。汗ばむ手を握りしめたその時、ひときわ鋭い声が届いた。
『左から回り込む敵機、数機確認!』
 その瞬間、成瀬の機体が急旋回を始めた。九条は思わず無線越しに叫ぶ。
「第一小隊、成瀬に続け!」
『了解、大尉!』
 遠くに見える小さな機影が、滑るように空を切り裂く。成瀬の動きに、敵機は逃げるように大きく下降した。九条はその動きを、息を飲むように追った。
 ーー成瀬、お前ならーー。
 思わずそう願ったその時、再び通信士から緊迫した無線が入った。
『敵、右翼より再接近!第二中隊右翼の防衛ラインが──』
『伊吹、下がれ!』
 割って入ったのは、成瀬の声だった。すかさず双眼鏡を除くと、その警告と同時に機体がひとつ鋭くバンクし、急角度で旋回した。成瀬が何をしようとしているのか、すぐに分かった。
「馬鹿野郎!!何してる!!」
 思わず叫んだその声に、返答はない。九条は奥歯をきつく噛み締め、モニターを見つめた。
 敵機は伊吹をロックオンしていた。一直線に突っ込んでくるその機首の先に、まだ経験の浅い若い機体が晒されていた。だが次の瞬間、その進路を遮るように成瀬の機体が割って入る。機銃の閃光が、成瀬の主翼をかすめて火花を散らす。
『引け! 今は俺が抑える!』
『成瀬さん、危ないです!』
『いいから飛べ!伊吹!』
 空中で火花のように交錯する二機を残して、伊吹の機体がスピードを上げた。
空の上で、一対一の死闘が始まった。艦橋からでは遠く視界が悪くて全てを追うことはできない。九条はただ、その様子を見つめて祈ることしか出来なかった。
 次の瞬間、煙が晴れて僅かに見えた光景に、九条は目を疑った。成瀬の機体が一気に急降下したのだ。そして視界から消えたかと思えば、次の瞬間、敵機の背後から垂直に急上昇して現れる。何か言いたくて口元が震えたが、ついに声にはならなかった。
 その異常なGは、人も、機体も、軋みきる限界まで追い詰められる程のものに違いなかった。並の人間なら確実に意識を失って、そのまま海の藻屑となるような負荷だ。
 だが、成瀬は振り切った。まるで空が味方をしたかのように、敵機の背後に入り込む。
『……もらった』
 背筋が震えるようなその声と同時に、引き金が引かれた。次の瞬間、閃光が炸裂。敵機は爆煙を上げ、海面へと落ちていく。
『敵機、撃墜……クソ、かすった』
 静まり返る艦橋の中、誰もが成瀬の機影を見つめていた。九条も言葉を失ったまま、ただ画面の中の機影を見つめていた。
「……成瀬!損傷は?」
 やっとの思いで、無線にそう問いかける。
『問題ありません。機体は生きてる』
 その淡々とした報告に、九条は唇を噛む。
――どうしてそこまでできる。
 無線を握りしめる右手にさらに力がこもる。
 もしあんなことをして本当に成瀬が墜とされていたら、エースパイロットが部下の代わりに命を落とすことになる。そんなの合理的であるはずがなかった。
 マップ上では、佐伯の第二中隊が敵の残存部隊を分断しつつ、後退ルートを押さえていた。戦場全体を押し込むような、綺麗な包囲陣である。
「敵、撤退を開始しました!」
 どうやら作戦は成功に終わったようだった。
 九条は安堵し、一つ息をついて司令室の椅子に腰を下ろす。
 被害は最小限、敵編隊は撤退。
 それは、軍人としては誇るべき結果のはずだ。だが今、胸を満たしているのは素直な喜びでも誇りでもなく、奇妙な静けさだった。
 九条は思わず、帰還する機体の中に成瀬の姿を探した。蒼い空を横切り真っ直ぐこちらに戻ってくる姿に、思わず胸が震えた。
 部下が無事だった――たったそれだけのこと。それだけのことがどうしようもなく眩しくて、目を細めた。
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