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前編
第八話
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その日はベッドに入っても中々寝付けなかった上、翌朝も随分と早く目が覚めてしまった。きっと朝の点呼で部屋に回ってくるアーサーと会うのが、あまりにも億劫だったからだ。
今日は土曜日だから、朝礼も授業もない。それなのに、どうして点呼だけはしっかりあるのだろうか。いつもはなんとも思わないこの慣習に、意味もなく腹を立ててしまう。
洋服に着替えて洗面所に向かい、鏡を見つめる。
昨日処理室で泣いてしまったせいで、目元が少し腫れ上がってしまっている。
ーーでも、大丈夫。それ以外は、いつも通りだ。
そう自分に言い聞かせて、何度も冷水で顔を洗った。
自室に戻った時、ちょうど起床のベルが鳴った。
点呼は一年の部屋から回って、リースのところに来るのはいつも大抵、6時3分20秒。これが5秒以上前後したことは、これまでに一度もない。長針が3分を差した頃から、ひときわ緊張しながら秒針を追う。
20秒。こない。
30秒……まだ、こない。
ーーなんだ。
拍子抜けして少し肩の力を抜いた、その瞬間。 長針がピクリともう一つ動いた時に、ようやく扉がノックされた。リースは慌てて背筋を正し、なんともない風にドアを開けた。
「……おはようございます」
だが、声がわずかに上ずってしまった。それに内心少し焦りながら、早く行けよ、と悪態をつく。
それなのに今日に限って、中々去ってくれなかった。
本来なら点呼など、起きていることを確認したらそれで終わりのはずだ。ドアの前に立ったまま、まるでこちらを値踏みするかのように視線を止めている気配がする。
やがて顔を覗き込むように一歩踏み出たアーサーの腕が、扉をギイ、と押す。
その音が部屋に響いた瞬間、リースの背筋がびくりと震え、思わず一歩後ずさった。
「……なんですか」
「……目が腫れてる」
「は……」
あまりに予想外の言葉に、今度は明らかに調子の外れた声が出てしまう。アーサーは真剣な表情でこちらを見つめている。
「そんなこと……どうでもいいじゃないですか……」
「良くない。昨日あのあと、また泣いたのか?」
泣いてなんてない。あのあとはなかなか寝付けはしなかったけれど、それはなんとなく胸がいっぱいだったからで、悲しい、悔しいという気持ちはベッドに入ってからは不思議なことにほとんど浮かんでこなった。
「なんで……」
「パートナーだからだ」
その言葉に鼓動がひとつ強く打ち、息が詰まった。喉の奥がひりつき、頭の中で昨日の場面が一気にフラッシュバックして、昨日別れ際に言われたことを思い出す。
ーー更新しろ、絶対だ。
リースは視線を逸らし、思わずもう一歩、後ずさった。
昨日アーサーに触れた時の感覚がまだ残っている指先が、ぎゅっと拳を作る。
「違うか?」
淡々とした物言いの奥には、どうにも逃げられないほどの引力が潜んでいる。その視線に捕らえられた瞬間、空気の密度が変わる。
ずるい、と思った。喉がきゅっと狭まり、心臓の音だけがやけに大きく響く。
思わず呑まれそうになるその圧を全身で感じながら、リースは両の足を踏ん張った。
──負けてたまるか!
肩にまで伝わってくる熱と匂いが、まるで体内に染み込んでくるみたいだ。
この強烈なアルファの気迫に流されてたまるか。
歯の奥がぎり、と軋んだ。
「僕は……更新するなんて一言も……。
簡単にすると思わないでください。強制するなんて、軍規違反では?」
声が震えた。それでも拳を握りしめ、負けじと見つめ返しながら、必死に息を整える。
アーサーはほんの一瞬動きを止め、目を細めた。長い睫毛の影が頬に落ち、窓からの光でその横顔が淡く縁取られる。
そしてそのままゆっくりと息を吐き、低く言い放った。
「……なら、強制はしない」
次の瞬間、距離を詰めて顎の下に指先をかけられたと思うと、視線を絡め取られた。息をする暇を探している間に、鋭い声が落ちてきた。
「だが、あくまでも……寮の風紀と君自身のためだということを忘れるなよ」
その言葉に、リースの胸の奥で何かがカチリと音を立てた。
まるで、冷えた金属に火花が散ったように、怒りとも羞恥ともつかない熱が一気にせり上がる。
拳を握りしめた指先が白くなるのが分かる。頭では冷静に返そうとするのに、鼓動だけが早鐘を打つ。
「……分かってますよ」
手を振り払い、精一杯の声でそれだけ返すと、アーサーはしばらく黙ってリースを見つめ、ゆっくり頷いた。
そしてようやくいつものように記録簿を開き、ペンを走らせる。
ペン先の音だけが部屋に響くその静けさの中で、リースは怒りを抑えきれずにいた。
アーサーは署名を終えると、そっと顔を上げた。リースが思わず目を合わせた、その瞬間──アーサーの手が、再びゆっくり持ち上がった。
その動きを目で追う間もなく、あ、と思った頃には、温かな親指がリースの目尻をやさしく拭っていた。
驚きに息を呑んだリースを見て、アーサーはほんのわずかに目元を緩め、静かに言った。
「よい休日を」
その背中を見送りながら、リースは自分の唇が小さく震えていることに気づいた。
──なんだよ、それ。
胸の奥がどんどん熱くなっていく。
悔しさと一緒に、怒りとも羞恥ともつかない熱が、鼓動と一緒にせり上がってくる。頬の奥がじりじりと火照っていくのも、心臓の鼓動が速いのも、あまりにも腹が立ったからだ。そうに違いないーー。
何度も深呼吸を繰り返した。それでも、胸の奥のざわめきはなかなか収まらなかった。
今日は土曜日だから、朝礼も授業もない。それなのに、どうして点呼だけはしっかりあるのだろうか。いつもはなんとも思わないこの慣習に、意味もなく腹を立ててしまう。
洋服に着替えて洗面所に向かい、鏡を見つめる。
昨日処理室で泣いてしまったせいで、目元が少し腫れ上がってしまっている。
ーーでも、大丈夫。それ以外は、いつも通りだ。
そう自分に言い聞かせて、何度も冷水で顔を洗った。
自室に戻った時、ちょうど起床のベルが鳴った。
点呼は一年の部屋から回って、リースのところに来るのはいつも大抵、6時3分20秒。これが5秒以上前後したことは、これまでに一度もない。長針が3分を差した頃から、ひときわ緊張しながら秒針を追う。
20秒。こない。
30秒……まだ、こない。
ーーなんだ。
拍子抜けして少し肩の力を抜いた、その瞬間。 長針がピクリともう一つ動いた時に、ようやく扉がノックされた。リースは慌てて背筋を正し、なんともない風にドアを開けた。
「……おはようございます」
だが、声がわずかに上ずってしまった。それに内心少し焦りながら、早く行けよ、と悪態をつく。
それなのに今日に限って、中々去ってくれなかった。
本来なら点呼など、起きていることを確認したらそれで終わりのはずだ。ドアの前に立ったまま、まるでこちらを値踏みするかのように視線を止めている気配がする。
やがて顔を覗き込むように一歩踏み出たアーサーの腕が、扉をギイ、と押す。
その音が部屋に響いた瞬間、リースの背筋がびくりと震え、思わず一歩後ずさった。
「……なんですか」
「……目が腫れてる」
「は……」
あまりに予想外の言葉に、今度は明らかに調子の外れた声が出てしまう。アーサーは真剣な表情でこちらを見つめている。
「そんなこと……どうでもいいじゃないですか……」
「良くない。昨日あのあと、また泣いたのか?」
泣いてなんてない。あのあとはなかなか寝付けはしなかったけれど、それはなんとなく胸がいっぱいだったからで、悲しい、悔しいという気持ちはベッドに入ってからは不思議なことにほとんど浮かんでこなった。
「なんで……」
「パートナーだからだ」
その言葉に鼓動がひとつ強く打ち、息が詰まった。喉の奥がひりつき、頭の中で昨日の場面が一気にフラッシュバックして、昨日別れ際に言われたことを思い出す。
ーー更新しろ、絶対だ。
リースは視線を逸らし、思わずもう一歩、後ずさった。
昨日アーサーに触れた時の感覚がまだ残っている指先が、ぎゅっと拳を作る。
「違うか?」
淡々とした物言いの奥には、どうにも逃げられないほどの引力が潜んでいる。その視線に捕らえられた瞬間、空気の密度が変わる。
ずるい、と思った。喉がきゅっと狭まり、心臓の音だけがやけに大きく響く。
思わず呑まれそうになるその圧を全身で感じながら、リースは両の足を踏ん張った。
──負けてたまるか!
肩にまで伝わってくる熱と匂いが、まるで体内に染み込んでくるみたいだ。
この強烈なアルファの気迫に流されてたまるか。
歯の奥がぎり、と軋んだ。
「僕は……更新するなんて一言も……。
簡単にすると思わないでください。強制するなんて、軍規違反では?」
声が震えた。それでも拳を握りしめ、負けじと見つめ返しながら、必死に息を整える。
アーサーはほんの一瞬動きを止め、目を細めた。長い睫毛の影が頬に落ち、窓からの光でその横顔が淡く縁取られる。
そしてそのままゆっくりと息を吐き、低く言い放った。
「……なら、強制はしない」
次の瞬間、距離を詰めて顎の下に指先をかけられたと思うと、視線を絡め取られた。息をする暇を探している間に、鋭い声が落ちてきた。
「だが、あくまでも……寮の風紀と君自身のためだということを忘れるなよ」
その言葉に、リースの胸の奥で何かがカチリと音を立てた。
まるで、冷えた金属に火花が散ったように、怒りとも羞恥ともつかない熱が一気にせり上がる。
拳を握りしめた指先が白くなるのが分かる。頭では冷静に返そうとするのに、鼓動だけが早鐘を打つ。
「……分かってますよ」
手を振り払い、精一杯の声でそれだけ返すと、アーサーはしばらく黙ってリースを見つめ、ゆっくり頷いた。
そしてようやくいつものように記録簿を開き、ペンを走らせる。
ペン先の音だけが部屋に響くその静けさの中で、リースは怒りを抑えきれずにいた。
アーサーは署名を終えると、そっと顔を上げた。リースが思わず目を合わせた、その瞬間──アーサーの手が、再びゆっくり持ち上がった。
その動きを目で追う間もなく、あ、と思った頃には、温かな親指がリースの目尻をやさしく拭っていた。
驚きに息を呑んだリースを見て、アーサーはほんのわずかに目元を緩め、静かに言った。
「よい休日を」
その背中を見送りながら、リースは自分の唇が小さく震えていることに気づいた。
──なんだよ、それ。
胸の奥がどんどん熱くなっていく。
悔しさと一緒に、怒りとも羞恥ともつかない熱が、鼓動と一緒にせり上がってくる。頬の奥がじりじりと火照っていくのも、心臓の鼓動が速いのも、あまりにも腹が立ったからだ。そうに違いないーー。
何度も深呼吸を繰り返した。それでも、胸の奥のざわめきはなかなか収まらなかった。
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