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前編
第十話
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「ハースト候補生」
例のごとく好奇の目に晒されながら夕食を掻き込んだあと、誰もいない時間を狙って談話室で紅茶を淹れていた時、入口付近から低く通る声に呼び止められた。
振り向くと、昨日処理室の前ですれ違った二人のうちのひとり、眼鏡の男がこちらを見ていた。整った顔立ちに、冷たい目。どことなくアーサーに似ている。
返事をすると、男は奥の椅子を勧めてきた。一体なんの用だろうか。怪訝に思いながらも、上級生の誘いを断るような勇気もなく、言われるがままに腰を下ろす。
「昨日は悪かったな」
彼は紅茶を淹れながら、背中越しにそう言った。
「……いえ、こちらこそ」
リースは少し緊張しながら答えた。自然と人をそうさせる空気を持つ男だった。
「……アーサーとはどうなんだ」
あまりに唐突な問いだった。ぽかんとして何も言えずにいると、その男は痺れを切らしたように振り返った。よっぽど間抜けな顔をしていたのか、男は大袈裟にため息をついて見せた。
「何だその顔。アーサーだよ。わかるか?アーサーケイン、あのムカつくアルファだ」
「……友達でしょう?」
「まあな。良い奴だ。だけど、こういう話になるとさっぱり分かり合えない。そういうもんだ」
「すみません、どういう意味だか……」
リースは話が見えずに混乱した。男はそんなリースを見て、まるで呆れたように軽く肩をすくめた。
「はあ? 何でわからないんだよ。アルファとオメガの忌々しい関係の話だ」
「……いや、だってあなたもアルファでしょ?」
そう言うと、彼は眼鏡の奥の目を大きく開いたあと、ニヤリと皮肉めいた笑みを浮かべた。
「ああ、そう見えるか?そりゃ嬉しいね」
続けて声が少しだけ低くなって、口元が緩む。
「俺はオメガだ。エドワード・ペンブローク。四年だ」
この人が――オメガ?
この落ち着きと自信ありげな所作、そして冷たさを兼ね備えた男が、まさか自分と同じ性だなんて信じがたかった。だが思い返せば確かに、今朝大きな手でエドワードの腰をさりげなく支えていたのは、もう一人のカイルと呼ばれていた男の方だった。あの時感じた違和感が、やっと腑に落ちた。
エドワードは向かいの椅子に腰を下ろし、紅茶を口にした。
「どういうところがアルファ見えたのか詳しく聞きたいところだが、まあいい。どうなんだよ」
「なんで僕に聞くんですか。ケイン候補生に聞けばいいのでは?」
「聞けるなら聞いてる。何も言わないんだ。怖いだろ?急に申請なんてするから本当にびっくりした」
エドワードはそう言って、銀縁のメガネをクイッと上げた。リースでも知っている。あれは首都の街にしかないブランド物だ。あれをわざわざ調達しているあたり、きっと上等な家柄なのだろう。
「……じゃあ、僕からも何も言えないです」
「そう言わず、同じオメガのよしみで聞かせてくれよ。こんなことを聞くのもカイルみたいで気が引けるが、俺も流石に気になるんだ。処理はどうだった?」
少しトーンを落とした声に、リースも目を伏せて静かに答えた。
「どうもこうもないです。強いて言えば最悪だった」
そう言うと、エドワードは愉快そうに口角を上げた。
「フン、そう思ったよ。あいつはいいモノは持ってそうだが、なんにせよあの完璧主義だろ。夜にまであれでやられたらと思うと、背筋が凍る」
「な……!やってないです!見てもない」
思わず声が裏返った。そんなリースを面白がるように、エドワードが眉をひそめる。
「はあ?見てもない?じゃあ何してたんだ、あの密室で」
「……僕が嫌になって、途中でやめたんです」
「ほう、よっぽど前戯が下手だったか?」
「……変なこと言うのやめてください。そうじゃなくて……」
言い淀むリースを、エドワードが興味深そうに見つめてくる。
その涼しい顔を見ながら、ふと考える。この男も、本当にあの処理室であんな屈辱的なことをしているのだろうか。一体どんな顔で……と考えたところで、慌てて俯いた。
――少しは、話してみてもいいのだろうか。
少なくともこれまで出会った同性の中では一番、信用に足る相手なのかもしれない。
リースはカップの取っ手をぎゅっと握り、恐る恐る口を開いた。
「……怖くなってしまって。今まで経験もないし……。なのに、ケイン候補生の申請だけ受けてしまったのも……自分でも何故なのか、よく分からなくて……」
俯きながらそう言うと、エドワードが一つ息をついたのが聞こえた。
「まあな。 あいつが相手ならそうなるのも無理は無い。アルファとして強すぎる」
「はあ……」
これまでリースは、心のどこかで自分の性は恥ずべきものだと思っていた。ヒートをどうにかすることだけで精一杯で、こんな風に自分と同じ性を持つ人とアルファに関する話をしたこともなければ、思えばきっと、真剣に向き合ったことさえもなかったのだ。だからどういうアルファがよくて、具体的にほかのアルファやベータと何が違うのか、感覚的にしか分からずにここまで来てしまった。皆が中学や高校で騒いでいた時に、くだらないと切り捨ててきた結果だ。
「ペンブローク候補生も……いますよね、パートナー。あの時すれ違った、背の高い……」
「ああ、カイルね。そうそう」
エドワードは人差し指で机をトントン叩きながら、気だるそうに答える。
「……その、処理って……どんな風にしてるんですか?」
「それは、どこに何を突っ込むのかとか、そういう話か?」
ニヤニヤと笑いながらそう言うエドワードに、思わず紅茶を吹き出しかけた。
「な……っ、違います」
この人は見た目にそぐわず、随分と下世話な話が好きなようだ。リースは机にあったナプキンでそっと口を拭うと、ひとつ咳払いをして続けた。
「そうじゃなくて。……どんな気持ちで、すればいいのかとか」
「なんだ、そんな話か。どうもこうも、ただの処理パートナーだ。利用してるのはお互い様、深く考えずに必要なだけ求めればいいんだ。大事なのは体の相性だけ」
「……そうですよね」
沈黙が落ちる。ぐうの音も出ない正論を言われただけなのに、どうしてこんなに釈然としないのだろう。エドワードはしばらく何かを考えていたようだったが、やがてことりとマグカップを置いた。
「まあ、心を持ってかれそうなら、やめとくんだな。この制度が手っ取り早く番を見つけるための出会いの温床になっているのは事実だが、あいつ相手に入れ込んでもいいことはない。あいつは家のこともあるし」
「家……?」
エドワードは「ああ」とぶっきらぼうに言って、面白くなさそうに続けた。
「うちも大概だが、あいつの家は筋金入りの保守派だからな。オメガの男と番うなんて許されないさ。許嫁もいるらしい」
「許嫁……」
思わずその言葉を反芻する。許嫁。
なんとなく予想していたことだったのに、なぜか胸に冷たいものが蟠る。
やっぱりあの薬は、そういうことなんだろうか。
「……それに君、志望進路は?」
その言葉に、ハッとして顔を上げる。
「艦隊です」
力強くそう言うと、エドワードは感心したように頷いた。
「そうか。なら君にとっても足枷だろ」
「……はい」
番になったオメガは内勤。これはかつて王立軍規第十二条の第三項に含まれていた文言であったが、バース均等に反するとして数年前にその三項ごとまるまる軍規から消え去った。だが今でもその名残は強く残っており、番になったオメガで艦隊勤務・海外派遣に配属された者はまだいないのが現状だ。オメガでその地位につけるのは、ヒートの制御を学生の四年間とその後数年の研修の間、完璧にこなした独身の者だけだとされている。
まさか、番になろうなんて考えているはずもない。そんなことで将来を縛られるなんてごめんだ。ずっとそう思って生きてきた。
それなのに、どうして少し傷ついている自分がいるのか分からない。アーサーの許嫁だとか、番のオメガの勤務制限だとか。そんなこと、リースの人生に何か影響を及ぼすはずもないのに。喉の奥に魚の小骨でも刺さったようなこの息苦しさは、いったいなんなのだろうか。
「……ペンブローク候補生は、考えているんですか?カイルさんと……」
そう尋ねると、エドワードは紅茶のカップに視線を落とした。てっきりありえないと笑い飛ばされるとばかり思っていたから、その反応は少し意外だった。それは、紅茶の底に映った自分の顔を見つめていたのか、あるいは過ぎた時間をなぞっていたのか。そしてしばらくそうしていた後、ぽつりと呟くように言った。
「……ないな。あいつはアルファのくせにアホすぎる。顔とサックスに全振りだ。進路は軍楽隊。俺はもし番うならもっと利口で、出来れば俺より出世しそうな奴がいい」
「海軍大学から軍楽隊……ですか?」
思わず聞き返すと、エドワードは呆れたようにふっと口元を緩ませた。
「変だろ。一年の時の音楽の授業で教授に見初められて、軍関連の音楽学校で個人レッスンまで受けてる。もう推薦されているんだと。推薦書類まで全部俺に頼りやがって、全く」
言葉に反してその声はどこか誇らしげで、不思議な気持ちになった。それがどういう感情なのか、リースにはよくわからなかった。
「……すごいですね」
なんと返せばいいのか分からず小さな声でそう言うと、エドワードはゆっくりと視線を上げた。
「……まあとにかく、あいつ相手にそういうことを考えるのはおすすめしない。君が考えてるなら、そう伝えたかったんだ」
「……考えてないです」
咄嗟に出たその声は、僅かに上擦ってしまった。エドワードはただ一つ息をつき、空になったカップを持って立ち上がった。
「そうか。ならいいんだがな」
リースは紅茶の表面を見つめたまま、返す言葉が見つからなかった。
エドワードと別れて部屋に戻ったリースは、ベッドに倒れ込むように横になって、ふうと長い息をついた。
――疲れた。
なんだかこの数日、これまで考えてこなかったことばかり考えている。
リースは二十歳にもなって、これまで恋愛という恋愛をしたことはなかった。それでももしするのなら、多くの人と同じようにーー両親と同じように、聡明で優しい女性と恋愛して、結婚して、子供を設けたいと思っていた。オメガとしてアルファと番う人生など、初めから選択肢にもなかった。
今だって別に、何も変わっていないはずなのに。ただ一度、アルファの手を借りてヒートを処理したという、それだけのことだ。たったそれだけのことが、どうしてここまで心を乱しているのだろう。まるで、将来まで乱されるのではないかというほどに。
リースはぐっと拳を握りしめると、勢いよく起き上がった。一つ深呼吸をして、勉強机の引き出しに手をかける。
いつだってそこに静かに横たわっているのは、家族で最後に撮った写真と、一枚の海図だ。
セントブレア海域――父が、沈んでいる場所。
父の最期について、誰も詳しく教えてはくれなかった。教えられたのはただーー必要な判断を下した、ということだけ。幼いながらも、見捨てられたのだろうとすぐに分かった。それ以外のことについては、艦の沈んだ座標はもちろん、最後の会話も、誰と一緒にいたのかすらも知らない。
だから、ずっと一人で考えている。どんな艦の中で、どんな状況で、最期に何を思っていたのか。本当に、必要な犠牲だったのか。
「父さん、僕、頑張るよ。頑張ってるから――」
思わず声に出してしまったと同時に、ふと涙が頬を伝った。
――だから、見ていて欲しい。いつだって正解を選べるように、見守っていてほしい。そう思えば、どんなに孤独でも耐えられるから。
古くなった紙に染み込んだカビの匂いが、つんと鼻をつく。父を想って涙が出るのは、随分と久しぶりだった。
例のごとく好奇の目に晒されながら夕食を掻き込んだあと、誰もいない時間を狙って談話室で紅茶を淹れていた時、入口付近から低く通る声に呼び止められた。
振り向くと、昨日処理室の前ですれ違った二人のうちのひとり、眼鏡の男がこちらを見ていた。整った顔立ちに、冷たい目。どことなくアーサーに似ている。
返事をすると、男は奥の椅子を勧めてきた。一体なんの用だろうか。怪訝に思いながらも、上級生の誘いを断るような勇気もなく、言われるがままに腰を下ろす。
「昨日は悪かったな」
彼は紅茶を淹れながら、背中越しにそう言った。
「……いえ、こちらこそ」
リースは少し緊張しながら答えた。自然と人をそうさせる空気を持つ男だった。
「……アーサーとはどうなんだ」
あまりに唐突な問いだった。ぽかんとして何も言えずにいると、その男は痺れを切らしたように振り返った。よっぽど間抜けな顔をしていたのか、男は大袈裟にため息をついて見せた。
「何だその顔。アーサーだよ。わかるか?アーサーケイン、あのムカつくアルファだ」
「……友達でしょう?」
「まあな。良い奴だ。だけど、こういう話になるとさっぱり分かり合えない。そういうもんだ」
「すみません、どういう意味だか……」
リースは話が見えずに混乱した。男はそんなリースを見て、まるで呆れたように軽く肩をすくめた。
「はあ? 何でわからないんだよ。アルファとオメガの忌々しい関係の話だ」
「……いや、だってあなたもアルファでしょ?」
そう言うと、彼は眼鏡の奥の目を大きく開いたあと、ニヤリと皮肉めいた笑みを浮かべた。
「ああ、そう見えるか?そりゃ嬉しいね」
続けて声が少しだけ低くなって、口元が緩む。
「俺はオメガだ。エドワード・ペンブローク。四年だ」
この人が――オメガ?
この落ち着きと自信ありげな所作、そして冷たさを兼ね備えた男が、まさか自分と同じ性だなんて信じがたかった。だが思い返せば確かに、今朝大きな手でエドワードの腰をさりげなく支えていたのは、もう一人のカイルと呼ばれていた男の方だった。あの時感じた違和感が、やっと腑に落ちた。
エドワードは向かいの椅子に腰を下ろし、紅茶を口にした。
「どういうところがアルファ見えたのか詳しく聞きたいところだが、まあいい。どうなんだよ」
「なんで僕に聞くんですか。ケイン候補生に聞けばいいのでは?」
「聞けるなら聞いてる。何も言わないんだ。怖いだろ?急に申請なんてするから本当にびっくりした」
エドワードはそう言って、銀縁のメガネをクイッと上げた。リースでも知っている。あれは首都の街にしかないブランド物だ。あれをわざわざ調達しているあたり、きっと上等な家柄なのだろう。
「……じゃあ、僕からも何も言えないです」
「そう言わず、同じオメガのよしみで聞かせてくれよ。こんなことを聞くのもカイルみたいで気が引けるが、俺も流石に気になるんだ。処理はどうだった?」
少しトーンを落とした声に、リースも目を伏せて静かに答えた。
「どうもこうもないです。強いて言えば最悪だった」
そう言うと、エドワードは愉快そうに口角を上げた。
「フン、そう思ったよ。あいつはいいモノは持ってそうだが、なんにせよあの完璧主義だろ。夜にまであれでやられたらと思うと、背筋が凍る」
「な……!やってないです!見てもない」
思わず声が裏返った。そんなリースを面白がるように、エドワードが眉をひそめる。
「はあ?見てもない?じゃあ何してたんだ、あの密室で」
「……僕が嫌になって、途中でやめたんです」
「ほう、よっぽど前戯が下手だったか?」
「……変なこと言うのやめてください。そうじゃなくて……」
言い淀むリースを、エドワードが興味深そうに見つめてくる。
その涼しい顔を見ながら、ふと考える。この男も、本当にあの処理室であんな屈辱的なことをしているのだろうか。一体どんな顔で……と考えたところで、慌てて俯いた。
――少しは、話してみてもいいのだろうか。
少なくともこれまで出会った同性の中では一番、信用に足る相手なのかもしれない。
リースはカップの取っ手をぎゅっと握り、恐る恐る口を開いた。
「……怖くなってしまって。今まで経験もないし……。なのに、ケイン候補生の申請だけ受けてしまったのも……自分でも何故なのか、よく分からなくて……」
俯きながらそう言うと、エドワードが一つ息をついたのが聞こえた。
「まあな。 あいつが相手ならそうなるのも無理は無い。アルファとして強すぎる」
「はあ……」
これまでリースは、心のどこかで自分の性は恥ずべきものだと思っていた。ヒートをどうにかすることだけで精一杯で、こんな風に自分と同じ性を持つ人とアルファに関する話をしたこともなければ、思えばきっと、真剣に向き合ったことさえもなかったのだ。だからどういうアルファがよくて、具体的にほかのアルファやベータと何が違うのか、感覚的にしか分からずにここまで来てしまった。皆が中学や高校で騒いでいた時に、くだらないと切り捨ててきた結果だ。
「ペンブローク候補生も……いますよね、パートナー。あの時すれ違った、背の高い……」
「ああ、カイルね。そうそう」
エドワードは人差し指で机をトントン叩きながら、気だるそうに答える。
「……その、処理って……どんな風にしてるんですか?」
「それは、どこに何を突っ込むのかとか、そういう話か?」
ニヤニヤと笑いながらそう言うエドワードに、思わず紅茶を吹き出しかけた。
「な……っ、違います」
この人は見た目にそぐわず、随分と下世話な話が好きなようだ。リースは机にあったナプキンでそっと口を拭うと、ひとつ咳払いをして続けた。
「そうじゃなくて。……どんな気持ちで、すればいいのかとか」
「なんだ、そんな話か。どうもこうも、ただの処理パートナーだ。利用してるのはお互い様、深く考えずに必要なだけ求めればいいんだ。大事なのは体の相性だけ」
「……そうですよね」
沈黙が落ちる。ぐうの音も出ない正論を言われただけなのに、どうしてこんなに釈然としないのだろう。エドワードはしばらく何かを考えていたようだったが、やがてことりとマグカップを置いた。
「まあ、心を持ってかれそうなら、やめとくんだな。この制度が手っ取り早く番を見つけるための出会いの温床になっているのは事実だが、あいつ相手に入れ込んでもいいことはない。あいつは家のこともあるし」
「家……?」
エドワードは「ああ」とぶっきらぼうに言って、面白くなさそうに続けた。
「うちも大概だが、あいつの家は筋金入りの保守派だからな。オメガの男と番うなんて許されないさ。許嫁もいるらしい」
「許嫁……」
思わずその言葉を反芻する。許嫁。
なんとなく予想していたことだったのに、なぜか胸に冷たいものが蟠る。
やっぱりあの薬は、そういうことなんだろうか。
「……それに君、志望進路は?」
その言葉に、ハッとして顔を上げる。
「艦隊です」
力強くそう言うと、エドワードは感心したように頷いた。
「そうか。なら君にとっても足枷だろ」
「……はい」
番になったオメガは内勤。これはかつて王立軍規第十二条の第三項に含まれていた文言であったが、バース均等に反するとして数年前にその三項ごとまるまる軍規から消え去った。だが今でもその名残は強く残っており、番になったオメガで艦隊勤務・海外派遣に配属された者はまだいないのが現状だ。オメガでその地位につけるのは、ヒートの制御を学生の四年間とその後数年の研修の間、完璧にこなした独身の者だけだとされている。
まさか、番になろうなんて考えているはずもない。そんなことで将来を縛られるなんてごめんだ。ずっとそう思って生きてきた。
それなのに、どうして少し傷ついている自分がいるのか分からない。アーサーの許嫁だとか、番のオメガの勤務制限だとか。そんなこと、リースの人生に何か影響を及ぼすはずもないのに。喉の奥に魚の小骨でも刺さったようなこの息苦しさは、いったいなんなのだろうか。
「……ペンブローク候補生は、考えているんですか?カイルさんと……」
そう尋ねると、エドワードは紅茶のカップに視線を落とした。てっきりありえないと笑い飛ばされるとばかり思っていたから、その反応は少し意外だった。それは、紅茶の底に映った自分の顔を見つめていたのか、あるいは過ぎた時間をなぞっていたのか。そしてしばらくそうしていた後、ぽつりと呟くように言った。
「……ないな。あいつはアルファのくせにアホすぎる。顔とサックスに全振りだ。進路は軍楽隊。俺はもし番うならもっと利口で、出来れば俺より出世しそうな奴がいい」
「海軍大学から軍楽隊……ですか?」
思わず聞き返すと、エドワードは呆れたようにふっと口元を緩ませた。
「変だろ。一年の時の音楽の授業で教授に見初められて、軍関連の音楽学校で個人レッスンまで受けてる。もう推薦されているんだと。推薦書類まで全部俺に頼りやがって、全く」
言葉に反してその声はどこか誇らしげで、不思議な気持ちになった。それがどういう感情なのか、リースにはよくわからなかった。
「……すごいですね」
なんと返せばいいのか分からず小さな声でそう言うと、エドワードはゆっくりと視線を上げた。
「……まあとにかく、あいつ相手にそういうことを考えるのはおすすめしない。君が考えてるなら、そう伝えたかったんだ」
「……考えてないです」
咄嗟に出たその声は、僅かに上擦ってしまった。エドワードはただ一つ息をつき、空になったカップを持って立ち上がった。
「そうか。ならいいんだがな」
リースは紅茶の表面を見つめたまま、返す言葉が見つからなかった。
エドワードと別れて部屋に戻ったリースは、ベッドに倒れ込むように横になって、ふうと長い息をついた。
――疲れた。
なんだかこの数日、これまで考えてこなかったことばかり考えている。
リースは二十歳にもなって、これまで恋愛という恋愛をしたことはなかった。それでももしするのなら、多くの人と同じようにーー両親と同じように、聡明で優しい女性と恋愛して、結婚して、子供を設けたいと思っていた。オメガとしてアルファと番う人生など、初めから選択肢にもなかった。
今だって別に、何も変わっていないはずなのに。ただ一度、アルファの手を借りてヒートを処理したという、それだけのことだ。たったそれだけのことが、どうしてここまで心を乱しているのだろう。まるで、将来まで乱されるのではないかというほどに。
リースはぐっと拳を握りしめると、勢いよく起き上がった。一つ深呼吸をして、勉強机の引き出しに手をかける。
いつだってそこに静かに横たわっているのは、家族で最後に撮った写真と、一枚の海図だ。
セントブレア海域――父が、沈んでいる場所。
父の最期について、誰も詳しく教えてはくれなかった。教えられたのはただーー必要な判断を下した、ということだけ。幼いながらも、見捨てられたのだろうとすぐに分かった。それ以外のことについては、艦の沈んだ座標はもちろん、最後の会話も、誰と一緒にいたのかすらも知らない。
だから、ずっと一人で考えている。どんな艦の中で、どんな状況で、最期に何を思っていたのか。本当に、必要な犠牲だったのか。
「父さん、僕、頑張るよ。頑張ってるから――」
思わず声に出してしまったと同時に、ふと涙が頬を伝った。
――だから、見ていて欲しい。いつだって正解を選べるように、見守っていてほしい。そう思えば、どんなに孤独でも耐えられるから。
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