【本編完結】完璧アルファの寮長が、僕に本気でパートナー申請なんてするわけない

中村梅雨(ナカムラツユ)

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前編

第十二話

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談話室から一番近いトイレを通り越し、その次も迷ったけれど通り越して、人気のない地下に走った。個室に入ると、急いで扉を閉める。ポケットから取り出したのは、あの青いカプセルだ。
アーサーに貰ったこの座薬も、残りわずか二つになってしまった。確かに効果は経口に比べても絶大だが、あの男と処理に及んでからというもの、そもそもヒートそのものが重くなっている気がする。この前のヒートで使いすぎてしまったことを、今更後悔した。

「……ふ……っ、」

何度か失敗しながらも、なんとか座薬を挿入して便座につかまって床にうずくまる。深呼吸をしながら、余計なことを考えないように国際法の条文を頭の中で復唱する。それでもなかなか熱は治まらなくて、歯を食いしばりながら、一度だけ吐き出した。

「はあ……くっそう……」

いくら条文を唱えても、頭の中に浮かび上がってくるのは、ある一人の男の姿。あの目がちらつくたびに、どうにも体が疼いて仕方ない。
あの日体を這った大きな手の感覚が、徐々にリアルに蘇ってくる。
やっぱりどう考えてもおかしい。ちゃんと薬を飲んでいるはずなのにこんなヒートらしいヒートが来るなんて、ロクに管理もできてなかった生まれて初めての時以来のような気がする。
アーサーに触れられてから、やっぱりどう考えても体がおかしくなってしまった。悔しいけれど、それ以外に原因が思いつかない。

またあの手で触れられて、あのあまりにも強い快楽を得られさえすれば、すぐに楽になるのだろうか。そんな考えが浮かんできて、慌てて首を振る。そうであるのなら、まるで麻薬みたいだ。

そうしていて、一体どれくらいの時間が経っただろうか。まだふらつく体を支えながら、なんとか立ち上がって個室を出た。
トイレを出て一つ角を曲がった時、嫌にまっすぐと背の高い影が見えた。
それが誰なのか認識した瞬間、握りしめた掌に、じわりと汗が滲んだ。

--なんでこんな所にいるんだよ。

引き返そうかと考えている僅かな隙に、あの切れ長の冷たい目と、視線が交わってしまった。リースは観念して、重い足をなんとか持ち上げる。

「……ケイン候補生、お疲れ様です」

談話室からは遠く離れた、人気の少ない地下の廊下。一本向こうの通りは、この前二人で歩いた処理室がある道だ。
どうしてこんなところにいるのだろう。リースは小さく敬礼をし、そそくさと通り過ぎようと顔を背けた。

「それ、ヒートだろ」
「違います」
「俺を誤魔化せると思うな」

だが、アーサーは見逃してくれなかった。気配が一歩近づいてくる。たったそれだけで、体が沸騰したように熱くなる。

「そんな状態で、あそこに戻るつもりか?アルファが何人もいたぞ」

小さな声で囁かれただけで、いつかのように腰が抜けそうになった。この声は、どうしてこんなにも体に響くのだろう。

「あ……」

 思わず一歩ふらついたその時、不意にアーサーに手首を取られた。ただ脈でも測るようにそっと触れているだけなのに、それだけで息が止まりそうになった。

「だから言ったんだ。今からでも更新しろ」

囁くような低音に、喉がひくりと鳴る。

「結構、です」
「君のためだぞ」
「大丈夫ですから、お構いなく」

声が震えた。アーサーは手首を離さないまま、そのまま静かに、自分の方へ引き寄せた。

「……やめてください」

きっと睨みながらそう言うと、アーサーはほんの僅かに指に力を込めた。その指先が、じわりと熱く湿るのが分かる。

「嫌なら、本気で振り払え」

またそれだ。アーサーはいつも、リースに選ばせるようなことを言う。まるで最初から、こっちが折れることが分かっているみたいに。
アーサーの瞳は、今日も涼しげだ。ヒートの気配を纏わせたオメガを放っておくわけにはいかない。そういう寮長としての責任感で言っているのだろうか。
エドワードの言葉が頭をよぎる。

--必要な時に、必要なだけ求めればいい。意味なんてない。ただの処理だ。

あの夜、手のひらの熱だけで体が壊れそうだったことにも、本当に意味はなかったのだろうか。今こうやってこの人の姿を見るだけで息が荒くなることにも、触れられるだけで溶けそうなほどに熱くなるのも。
その手に掴まれている手首に視線を落として、リースは唇を噛んだ。
それでも、あの人みたいに割り切って制度を利用しているオメガだっている。それもアルファと対等に渡り合うために、必要な力だったりするのだろうか。
変に意固地になって、ただの制度に なにか意味を感じてると思われるなんて、それこそ屈辱的ではないか。

それでも今、もう一度許してしまったら、もう取り返しがつかなくなってしまうような気がしていた。リースの真ん中を構成している何か大切なものが、もう二度と元には戻らなくなってしまうような、そんな恐ろしい予感が、どうしたって消えてくれない。

「……っ」

逡巡の末、乱暴に手を解いた。
アーサーは何も言わなかった。代わりに、一歩だけ横に避けて道を空ける。

「……談話室には戻るな。そのままサイレントキャビンまで行け」
「談話室にノートが」
「俺が言っておくから、友人に持ってきてもらえ」

ジュリアン、ごめん。心の中でそう謝りながら、サイレントキャビンに向かって駆け出した。体が燃えるように熱い。
もし--もし、自分一人の力で治らなかったらどうしよう。
そんな悪い予感が頭から消えてくれなくて、考えるだけで泣きそうになった。そんな不安を振り切るように、暗い地下の道を必死に走り続けた。




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