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前編
第十三話
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その三時間後、リースは自室にいた。冷えきった金属のベッドの上に、すっかり汗で濡れきった髪のまま横たわっていた。
サイレントキャビンでは精一杯やった。氷嚢を首筋に当て、深呼吸を繰り返し、医者に言われた以上の量の薬を飲んで、たびたび自分を慰めながら、ひたすらに効果が現れるのを待った。
けれど、どれだけ時間が経っても熱は下がらなかった。むしろ、胸の奥で脈打つように強くなる一方だった。
「……なんで……」
掠れた声をひねり出す喉が、ひりひりと痛くてたまらない。
どうにも出来なかった。薬も医者に教わった呼吸法も、何の意味もなかった。
体が覚えてしまったのだ。これを処理するための手っ取り早い方法を。あの手の温度を、息のかかる距離を、名前を呼ばれたときの低い声を。
嗅覚が勝手にその記憶を呼び起こす。金属と樹脂の匂いしかしないはずの部屋の中で、どこかに彼の残り香がある気がして、無意識に立ち上がった。無機質なサイレントキャビンを歩き回って、数少ない備品を片っ端から引っ掻きまわした。ベッドの下、ロッカーの奥、机の引き出し……。何を探しているのか分かっていた。そしてやがて、それが自室にあることを思い出した。だから精一杯息を殺しながら、自分の部屋まで戻ってきた。
あんなに強いと思い込んでいた理性は、一体どこに行ってしまったのだろう。お預けを食らったように震える指が引っ張り出したのは、引き出しの奥に押し込んであった訓練着。鼻先を近づけた瞬間、ほんのわずかな石鹸と皮膚の匂いがした。
それだけで、身体の奥が跳ねるように疼く。
「……っ、いや……」
口ではそう言いながら、もう何も抑えられなかった。
シーツの上に崩れ落ちる。この前彼に触れられた場所が全部、痛いくらいに火照っていた。
何度目を閉じても、瞼の裏にはアーサーの姿が浮かんだ。泣き声のような息を吐きながら、布を胸に抱きしめる。
恋とか愛とか、そんな綺麗なものじゃない。ただ、あまりに強すぎる本能。それがリースの肌を灼き、心臓を暴れさせた。
それに一体、どれだけの間夢中になってしまったのだろう。気がついた頃には、夜の点呼があと十五分に迫っていた。
時計を見た瞬間、焦りで僅かに熱が引いた。ベッドの上で汗まみれの訓練着を握りしめたまま、リースはどうにか起き上がった。
「……まずい、間に合わない……」
鏡を見て、絶望した。そこにあったのは理性のかけらもない、だらしなく発情しきったオメガの姿だった。
アーサーに会うには、あまりに頬が赤すぎる。目の奥だってとろんとした熱を孕みすぎてるし、頭も正常な判断を下すにはきっとあまりに朦朧としている。
焦るほどに手が震えた。せめてシャワーを浴びればよかった。そしたら少しは、この鬱陶しい匂いも洗い流せたかもしれないのに。もう時間がない。表面だけでもなんとか取り繕う方法さえ、何も浮かんでこない。
そんなリースの焦燥も虚しく、やがてノックの音が湿った部屋に固く響いた。
その瞬間、扉の向こうにアーサーがいるのだと、嫌というほどに分かった。まるでその匂いに引っ張られるように、自然にドアを開けてしまった。覚悟を決める暇なんてなかった。
名簿を手に就寝点呼の定型文を言いながらリースを見下ろすアーサーは、こんなに背が高かっただろうか。こんなに、どうしようもなく目が離せない人だっただろうか。
「……ごめんなさい……」
返事の代わりに反射的に出た謝罪の言葉に、アーサーが眉を寄せたのが分かった。彼は何も言わずに顔を背けたけれど、その指先は震えている。今なら分かる。彼もきっと、自分でもどうしようもないほどに発情しているのだ。きっとリースよりもはるかに理性が強いから、こんな風に繕えているだけで。
罪悪感が胸をえぐる。
決まってる。他人に迷惑をかけてまで、守らなきゃいけないプライドなんてない。
そんなこととっくに分かっていた。でも、そんなのあまりにも耐えられなくて。
ただの処理で終われる気がしなくて。ちゃんと割り切れる気がしなくて。それを認めてしまうことが将来に暗い影を落としてしまうような確信めいた不安が、どうしても消えてくれなくて。
気付いたら涙が溢れていた。人前で泣くのなんて大嫌いだ。ましてやこの人の前でなんて。
でも、もう限界だった。
やがて、ふわりと甘い香りに包まれた。荒い息が耳元に落ちて、それがまたどうしようもなくリースの体温を上げた。
「ごめんなさい……」
もう一度呟いたその瞬間、額に浮いた汗が、首筋を伝って制服の襟へ落ちた。アーサーの手がゆっくりと持ち上がる。そしてリースの肩にゆっくりと触れようとしたその指先が、ほんの一瞬、躊躇ったのが分かった。
それから――わずかに力が入ったのは、一体どちらだったのだろう。リースの身体が揺れて、息を呑む音が重なった。
どうしてこの人なんだろうとか、アーサーだってなんでリースなんだろうとか、疑問はまだまだたくさんあった。夢だってプライドだって、決して捨てたわけではない。それでもたった今、この瞬間を、もうどうしていいのか分からない。
ゆっくりと顔を上げた。暗く燃えるアーサーの瞳がリースをまっすぐに見つめている。アーサーの喉がひくりと動き、唇が何かを言いかけて止まる。その葛藤が、痛いほどに伝わってくる。
「……抱いてください……」
アーサーは僅かに目を見開いたと思うと、ほんの数秒、動かないまま何かを押し殺すように目を閉じた。
そして次に開いた時、そこにあったのはもう理性ではなかった。彼は小さく息を吐き、誰にも聞こえないほどの声で言った。
「……迎えにくる」
全身から力が抜けた。アーサーが戻ってくるまでの僅かな間、リースはただ床の一点を見つめたままま、これを現実だと思えずにいた。
サイレントキャビンでは精一杯やった。氷嚢を首筋に当て、深呼吸を繰り返し、医者に言われた以上の量の薬を飲んで、たびたび自分を慰めながら、ひたすらに効果が現れるのを待った。
けれど、どれだけ時間が経っても熱は下がらなかった。むしろ、胸の奥で脈打つように強くなる一方だった。
「……なんで……」
掠れた声をひねり出す喉が、ひりひりと痛くてたまらない。
どうにも出来なかった。薬も医者に教わった呼吸法も、何の意味もなかった。
体が覚えてしまったのだ。これを処理するための手っ取り早い方法を。あの手の温度を、息のかかる距離を、名前を呼ばれたときの低い声を。
嗅覚が勝手にその記憶を呼び起こす。金属と樹脂の匂いしかしないはずの部屋の中で、どこかに彼の残り香がある気がして、無意識に立ち上がった。無機質なサイレントキャビンを歩き回って、数少ない備品を片っ端から引っ掻きまわした。ベッドの下、ロッカーの奥、机の引き出し……。何を探しているのか分かっていた。そしてやがて、それが自室にあることを思い出した。だから精一杯息を殺しながら、自分の部屋まで戻ってきた。
あんなに強いと思い込んでいた理性は、一体どこに行ってしまったのだろう。お預けを食らったように震える指が引っ張り出したのは、引き出しの奥に押し込んであった訓練着。鼻先を近づけた瞬間、ほんのわずかな石鹸と皮膚の匂いがした。
それだけで、身体の奥が跳ねるように疼く。
「……っ、いや……」
口ではそう言いながら、もう何も抑えられなかった。
シーツの上に崩れ落ちる。この前彼に触れられた場所が全部、痛いくらいに火照っていた。
何度目を閉じても、瞼の裏にはアーサーの姿が浮かんだ。泣き声のような息を吐きながら、布を胸に抱きしめる。
恋とか愛とか、そんな綺麗なものじゃない。ただ、あまりに強すぎる本能。それがリースの肌を灼き、心臓を暴れさせた。
それに一体、どれだけの間夢中になってしまったのだろう。気がついた頃には、夜の点呼があと十五分に迫っていた。
時計を見た瞬間、焦りで僅かに熱が引いた。ベッドの上で汗まみれの訓練着を握りしめたまま、リースはどうにか起き上がった。
「……まずい、間に合わない……」
鏡を見て、絶望した。そこにあったのは理性のかけらもない、だらしなく発情しきったオメガの姿だった。
アーサーに会うには、あまりに頬が赤すぎる。目の奥だってとろんとした熱を孕みすぎてるし、頭も正常な判断を下すにはきっとあまりに朦朧としている。
焦るほどに手が震えた。せめてシャワーを浴びればよかった。そしたら少しは、この鬱陶しい匂いも洗い流せたかもしれないのに。もう時間がない。表面だけでもなんとか取り繕う方法さえ、何も浮かんでこない。
そんなリースの焦燥も虚しく、やがてノックの音が湿った部屋に固く響いた。
その瞬間、扉の向こうにアーサーがいるのだと、嫌というほどに分かった。まるでその匂いに引っ張られるように、自然にドアを開けてしまった。覚悟を決める暇なんてなかった。
名簿を手に就寝点呼の定型文を言いながらリースを見下ろすアーサーは、こんなに背が高かっただろうか。こんなに、どうしようもなく目が離せない人だっただろうか。
「……ごめんなさい……」
返事の代わりに反射的に出た謝罪の言葉に、アーサーが眉を寄せたのが分かった。彼は何も言わずに顔を背けたけれど、その指先は震えている。今なら分かる。彼もきっと、自分でもどうしようもないほどに発情しているのだ。きっとリースよりもはるかに理性が強いから、こんな風に繕えているだけで。
罪悪感が胸をえぐる。
決まってる。他人に迷惑をかけてまで、守らなきゃいけないプライドなんてない。
そんなこととっくに分かっていた。でも、そんなのあまりにも耐えられなくて。
ただの処理で終われる気がしなくて。ちゃんと割り切れる気がしなくて。それを認めてしまうことが将来に暗い影を落としてしまうような確信めいた不安が、どうしても消えてくれなくて。
気付いたら涙が溢れていた。人前で泣くのなんて大嫌いだ。ましてやこの人の前でなんて。
でも、もう限界だった。
やがて、ふわりと甘い香りに包まれた。荒い息が耳元に落ちて、それがまたどうしようもなくリースの体温を上げた。
「ごめんなさい……」
もう一度呟いたその瞬間、額に浮いた汗が、首筋を伝って制服の襟へ落ちた。アーサーの手がゆっくりと持ち上がる。そしてリースの肩にゆっくりと触れようとしたその指先が、ほんの一瞬、躊躇ったのが分かった。
それから――わずかに力が入ったのは、一体どちらだったのだろう。リースの身体が揺れて、息を呑む音が重なった。
どうしてこの人なんだろうとか、アーサーだってなんでリースなんだろうとか、疑問はまだまだたくさんあった。夢だってプライドだって、決して捨てたわけではない。それでもたった今、この瞬間を、もうどうしていいのか分からない。
ゆっくりと顔を上げた。暗く燃えるアーサーの瞳がリースをまっすぐに見つめている。アーサーの喉がひくりと動き、唇が何かを言いかけて止まる。その葛藤が、痛いほどに伝わってくる。
「……抱いてください……」
アーサーは僅かに目を見開いたと思うと、ほんの数秒、動かないまま何かを押し殺すように目を閉じた。
そして次に開いた時、そこにあったのはもう理性ではなかった。彼は小さく息を吐き、誰にも聞こえないほどの声で言った。
「……迎えにくる」
全身から力が抜けた。アーサーが戻ってくるまでの僅かな間、リースはただ床の一点を見つめたままま、これを現実だと思えずにいた。
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