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前編
第十四話
しおりを挟む「今日は……」
処理室のベッドに倒れ込むや否や、アーサーはリースを見下ろしながら息のかかるほどの距離でそう言った。その息が熱くて、息遣いもあまりにも苦しそうで、一体何を言われるのか怖くて仕方なかった。
「……今日は、泣かせたくない」
そして嫌にはっきりと聞こえたその台詞に一瞬息が詰まったと同時に、リースはかえって泣きたくなった。
今更なんでそんなことを言うんだろう。ここにきた時点でもう負けているのだから、気遣いもなく抱き潰された方が気が楽なのだと、どうして分かってくれないのだろう。
「だから……教えてくれ」
それでも、アーサーはやけに真剣なようだった。その真意を測りかねているうちに、ゆっくりと大きな手が制服に伸びてくる。
「……なにがしたくて……なにをしたくないのか」
「……っ、」
アーサーの指先が、制服の裾をかすかに撫でた。たったそれだけで全身が跳ねそうになって、思わずギュッと拳を握りしめる。
「教えてくれ……」
真っ直ぐな視線でそう問われて、全身が強張った。わけがわからない。そんなに気を遣われる理由はないはずだ。抱いてくれと言ってしまった時点で泣くほど辛い領域なんてとっくに超えていて、もう守るものなんて何もないのに。
「……べつに……なんでもいいです……」
リースは目を逸らしながらそう言った。そもそもほとんど定型文でしか会話したことのない上級生相手に、それ以外の返答なんて思いつかなかった。そんなことはどうだっていいから、ただ寮長としての義務感でーーもしくはアルファとしての本能で、どちらにせよ淡々とやって欲しかった。二人を結びつけているものがただの意味のない本能による熱なのだと信じることだけが、今のリースにとっては唯一の救いだった。
だってそうに決まっている。つい3ヶ月前まで、二人きりで話したことさえもなかったのだから。
だが、そんな期待を裏切るように、アーサーの熱い手のひらがそっと頬に伸びてくる。ハッとして彼を見上げると、熱に浮かされた視線と交わった。息の仕方さえも分からなくなるような寸刻に、彼は苦しそうに口を歪めた。どうしてそんな顔をするのか、全く分からない。
やがてアーサーの手が、静かに襟元へと伸びてくる。制服の第一ボタンにかかった指先が、ひとつ、ひとつ、静かに外されていく。
生地の摩擦が肌をかすめるたびに、服の重なりが剥がれていく感覚がやけに丁寧で生々しくて、喉の奥が詰まった。
「……ふ……っ」
声を抑えたつもりだったのに、息が漏れる。自分でも気づかぬうちに肩が揺れたのを、アーサーの視線がきっと捉えていた。
シャツのボタンを全て外すと、アーサーは襟を両手でそっと開いた。素肌その仕草すらまるで何かの儀式みたいに丁重で、それが余計に羞恥心を煽った。
「……なんで、そんな……っ、ゆっくり……」
「……乱暴にして、また泣かれたら困る」
ああ、そうか。この間泣いてしまったことが、そんなに面倒だったのか。そう思えばこの優しさのような何かに触れたとて、いくらか気が楽になった。
「……っ」
不意に指先が腰に触れ、びくんと小さく体が跳ねる。そのままズボンのホックにかかった手が、ごくわずかに動く。外されたあとの金属音とチャックを下ろす音が、静まり返った室内にやけに響いた。
指が、生地の内側を這う。わざとやっているんじゃないかと思うくらい、ゆっくりと。お互いにもう、身体は限界を超えているはずなのに。
体が勝手に逃げ出そうと動き出す。だが、逃げ道を塞ぐように、手のひらがゆっくりと下腹部を撫でる。
「……ふっ……く、……っ」
思わずそうしてやっと全てを剥がされた時、リースの呼吸はすっかり荒くなり、中心は情けなくそそり立っていた。
あの視線が体を滑っている。そう思うだけで、全身が熱くなって為す術もない。だがアーサーは何も言わず、ただゆっくりとリースの顔の横についていた右腕を持ち上げた。体に迫ってくるその指先を追っているうち、どうしようもない気持ちが襲ってきた。その宙を彷徨う長い指を掴んで、そっと見上げる。目が合った瞬間、きっとじわりと涙が滲んでしまった。我慢したつもりだったけど、彼が眉間に皺を寄せたのを見て、失敗したのだと悟った。
「どうすればいい……教えてくれよ……」
アーサーが困り果てたようにそう呟いた。さぞ面倒だろう。分かっている。ちゃんと分かっているからこそ、そんなこと気にせずに早く終わらせて欲しいだけなのに。
「なんで……なんで今更……。どうだっていいじゃないですか……」
精一杯涙が溢れ落ちないようにこらえながらそう呟くと、アーサーの目がキッと細くなった。
「……よくないから……、言ってるんだ」
「僕は……僕は本当にどうだっていいんです。なのになんで……」
「……っ」
声にならない声が、熱い空気を揺らす。いくら考えても分からない。どうしてそんな顔をするのか。
やめてくれ、と叫びたくなった。こんな時間早く終わって欲しいのに、刃物みたいな優しさが喉に刺さって抜けなくて、苦しくてたまらない。
「分からない……けど……」
その続きが出てくるまでの間が、永遠みたいに長く感じられた。あまりにも怖くて、思わず目を閉じた。沈黙の奥で、アーサーの喉が小さく鳴る。
「……お前が泣くのを……見たくないから」
お前、なんてそんな優しい響きで呼ばれるのも、こんなに優しく頭を撫でられるのも、全く想像さえもしていなくて、涙を堪えるために噛み締めていた奥歯が緩んでしまった。
それでこぼれそうになった息を押し殺すように、喉が震える。
「いらない……」
掠れた自分の声があまりに弱く、情けなく響く。
「そんなの、いらないです……。だって、寮の風紀のためでしょ……?」
アーサーはそれには答えず、くっと歯を食いしばるように顔を歪めた。
これは紛れもなく本音だ。それなのに、覆い被さっているアーサーの腰に腕を回してしまうことを、どうしても止められなかった。
それはただ、この雰囲気と熱に侵されてしまったことだけが理由じゃない。うまく説明できないけれど、とてつもなく温かい--リースを包んだ不思議な安心感のせいだ。
--どうしてこんな、懐かしいような気持ちになるんだろう。
裸体に触れる制服を感じながら、そっと目を閉じた。
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