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序
第二話 証言①
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ある女の証言。
ほんの子どもの頃から、この世のものではないものが見えていた。地縛霊が多かった。交通事故現場を通るのが怖かった。母親に泣き付いて通学路を変えてもらったこともあった。
その場所に縛り付けられた霊たちは、自らの姿を視認する者がいると気付くや否や、とんでもない早口で語り掛けてくる。自身の死因、いつ死んだのか、どれほど長い時間この場所に縛り付けられているのか、云々──母親に正直に伝えても、信じてはもらえなかった。幽霊なんかいるはずがない、というのが早くに夫を亡くし、シングルマザーとして彼女を育てた母親の意見で、それを曲げるのはほとんど不可能といえた。だから、「あの道を通ると気分が悪くなる」「誰かがこっちを見ている気がする」と、『幽霊』というワードを除いて母親に訴えた。すると、どうだろう。その道には地縛霊の他に、変質者がいることが発覚した。盗撮犯である。小学校の通学路として長く使われていたその道のすぐ側に部屋を借り、子どもたちの行き来する姿を写真や動画に残し、そうして──それらの写真や動画が、盗撮犯の手でどのように使用されていたのかは、深くは語るまい。とにかく彼女の証言でひとりの変質者が逮捕され、小学校近辺は平穏を取り戻した。めでたしめでたし。
──女の証言は、まだ続く。
彼女には大学時代に知り合った恋人がおり、それぞれ別の勤務先に新卒社員として就職してから三年、ようやく結婚を前提とする同棲生活に踏み出したところだった。愛の巣として選ばれたのは双方の勤務先がある駅に出るまで平等な時間がかかるとある住宅街にある築浅のマンションの三階で、入籍を終えても住み続けられる場所を選んだつもりだった。
築浅で、良い建物だった。
この世のものではないものは見えなかった。少なくとも内見の際は。引っ越しの日も。住み始めて半年は、何も、少しも。
それは唐突に始まった。
壁が鳴る。
所謂家鳴りとは異なる音。トン、トン、トン、と寝室の壁をノックする音が響く。
夜、23時から始まり、24時、日付が変わると同時に終わる。
最初は、隣室の住人の生活音だと思っていた。だが違う。すぐに気付く。
ここは角部屋だ。寝室の向こう側には、部屋なんかない。
寝室に置かれたベッドで共に眠っている恋人は気付いていない。──つまりはそういうことだ。怪異が、ここまで追いかけてきた。
気付いてしまってからは、早かった。
エレベーターに乗ろうとすると、小さな箱が奇妙な動きをする。彼女は一階のエントランスから三階の自宅に向かいたいだけなのに、必ず最上階──十階まで連れて行かれる。十階でエレベーターを降りたことは、一度もない。いや、一度だけ、開いたドアから十階の様子を伺ったことがあった。
そこには何もなかった。
床も、壁も、何も。
あったのはぽっかりと口を広げる暗闇だ。
足を踏み出してはいけない。背中が冷たい汗でぐっしょりと濡れる。必死でエレベーターの『閉まる』のボタンを連打し、一階のエントランスに戻った。このエレベーターで、自宅がある──はずの──三階に戻るのは、危険な予感がしたのだ。それ以降、彼女はどんなに重い荷物を持っている時にもエレベーターを使わない。階段で自宅に戻る。
他にもある。
彼女と恋人が暮らすマンションは十階建て。一階がエントランスで、二階から上に人間が暮らすスペースがある。ひとつのフロアに三つの部屋があり、そう、三つしかないのだから、303号室で暮らす彼女と恋人は、301号室の三人家族──父、母、小学生の娘──と、302号室の四人家族──父、母、小学生の息子、中学生の娘──とは顔馴染みで、共有スペースである廊下などで顔を合わせると挨拶や、互いに時間があれば世間話ぐらいはする仲になっていた。
早く家に帰ってストーブで暖まりたい、真冬の夕方のことだった。その日は恋人は通常の出勤日で、彼女の勤務先は創設記念日で臨時の休暇を手に入れていた。せっかくだからと自転車を駆ってスーパーに向かい、自炊のための食材をたんまり買い込んでマンションに戻った。エントランスにいる管理人に挨拶だけし、エレベーターではなく階段で三階へと向かう。そこでばったり、エレベーターから降りてきた301号室の母娘に出会った。こんにちは、と挨拶を交わして部屋に戻ろうとした彼女は、303号室の向こう側にあるものを見付けて絶句する。
人だ。
人がぶら下がっている。
寝室の向こう側だ。すぐに気付いた。彼女と恋人が暮らすマンションのすぐ隣にはだいたい同じぐらいの高さのマンションがあって、建物と建物のあいだは酷く狭い。だから、その人がいったいどちらのマンションからぶら下がっているのか、すぐには分からなかったのだが、
「政岡さん、見た?」
「……えっ?」
それは、301号室で暮らす小学生の少女の声だった。
慌てて振り返った彼女に、小柄な少女は平坦な口調で繰り返した。
「壁、トン、トン、ってされるよね?」
「ちょっと、やめなさいよあんた」
「あれ、あの人が、揺れて」
「やめなさいったら!」
本当は、少女からもっと話を聞きたかった。だがそのやり取りから暫くして、301号室の一家は引っ越してしまった。
そういえば、と彼女──政岡涼子は思うのだ。
この部屋は角部屋で、寝室の向こうにはすぐ隣のマンションしかなくて、たとえ窓があったところでそう頻繁に開けはしないだろうけど──
(どうして窓を付けなかったのだろう?)
(他の部屋でも、同じことが起きているのだろうか?)
恋人は、トン、トン、という音には気付く様子もなく、今日もぐっすりと眠っている。政岡涼子はエレベーターを使わないし、マンションとマンションのあいだに視線を向けることもないし、301号室は未だ空室のままである。
ほんの子どもの頃から、この世のものではないものが見えていた。地縛霊が多かった。交通事故現場を通るのが怖かった。母親に泣き付いて通学路を変えてもらったこともあった。
その場所に縛り付けられた霊たちは、自らの姿を視認する者がいると気付くや否や、とんでもない早口で語り掛けてくる。自身の死因、いつ死んだのか、どれほど長い時間この場所に縛り付けられているのか、云々──母親に正直に伝えても、信じてはもらえなかった。幽霊なんかいるはずがない、というのが早くに夫を亡くし、シングルマザーとして彼女を育てた母親の意見で、それを曲げるのはほとんど不可能といえた。だから、「あの道を通ると気分が悪くなる」「誰かがこっちを見ている気がする」と、『幽霊』というワードを除いて母親に訴えた。すると、どうだろう。その道には地縛霊の他に、変質者がいることが発覚した。盗撮犯である。小学校の通学路として長く使われていたその道のすぐ側に部屋を借り、子どもたちの行き来する姿を写真や動画に残し、そうして──それらの写真や動画が、盗撮犯の手でどのように使用されていたのかは、深くは語るまい。とにかく彼女の証言でひとりの変質者が逮捕され、小学校近辺は平穏を取り戻した。めでたしめでたし。
──女の証言は、まだ続く。
彼女には大学時代に知り合った恋人がおり、それぞれ別の勤務先に新卒社員として就職してから三年、ようやく結婚を前提とする同棲生活に踏み出したところだった。愛の巣として選ばれたのは双方の勤務先がある駅に出るまで平等な時間がかかるとある住宅街にある築浅のマンションの三階で、入籍を終えても住み続けられる場所を選んだつもりだった。
築浅で、良い建物だった。
この世のものではないものは見えなかった。少なくとも内見の際は。引っ越しの日も。住み始めて半年は、何も、少しも。
それは唐突に始まった。
壁が鳴る。
所謂家鳴りとは異なる音。トン、トン、トン、と寝室の壁をノックする音が響く。
夜、23時から始まり、24時、日付が変わると同時に終わる。
最初は、隣室の住人の生活音だと思っていた。だが違う。すぐに気付く。
ここは角部屋だ。寝室の向こう側には、部屋なんかない。
寝室に置かれたベッドで共に眠っている恋人は気付いていない。──つまりはそういうことだ。怪異が、ここまで追いかけてきた。
気付いてしまってからは、早かった。
エレベーターに乗ろうとすると、小さな箱が奇妙な動きをする。彼女は一階のエントランスから三階の自宅に向かいたいだけなのに、必ず最上階──十階まで連れて行かれる。十階でエレベーターを降りたことは、一度もない。いや、一度だけ、開いたドアから十階の様子を伺ったことがあった。
そこには何もなかった。
床も、壁も、何も。
あったのはぽっかりと口を広げる暗闇だ。
足を踏み出してはいけない。背中が冷たい汗でぐっしょりと濡れる。必死でエレベーターの『閉まる』のボタンを連打し、一階のエントランスに戻った。このエレベーターで、自宅がある──はずの──三階に戻るのは、危険な予感がしたのだ。それ以降、彼女はどんなに重い荷物を持っている時にもエレベーターを使わない。階段で自宅に戻る。
他にもある。
彼女と恋人が暮らすマンションは十階建て。一階がエントランスで、二階から上に人間が暮らすスペースがある。ひとつのフロアに三つの部屋があり、そう、三つしかないのだから、303号室で暮らす彼女と恋人は、301号室の三人家族──父、母、小学生の娘──と、302号室の四人家族──父、母、小学生の息子、中学生の娘──とは顔馴染みで、共有スペースである廊下などで顔を合わせると挨拶や、互いに時間があれば世間話ぐらいはする仲になっていた。
早く家に帰ってストーブで暖まりたい、真冬の夕方のことだった。その日は恋人は通常の出勤日で、彼女の勤務先は創設記念日で臨時の休暇を手に入れていた。せっかくだからと自転車を駆ってスーパーに向かい、自炊のための食材をたんまり買い込んでマンションに戻った。エントランスにいる管理人に挨拶だけし、エレベーターではなく階段で三階へと向かう。そこでばったり、エレベーターから降りてきた301号室の母娘に出会った。こんにちは、と挨拶を交わして部屋に戻ろうとした彼女は、303号室の向こう側にあるものを見付けて絶句する。
人だ。
人がぶら下がっている。
寝室の向こう側だ。すぐに気付いた。彼女と恋人が暮らすマンションのすぐ隣にはだいたい同じぐらいの高さのマンションがあって、建物と建物のあいだは酷く狭い。だから、その人がいったいどちらのマンションからぶら下がっているのか、すぐには分からなかったのだが、
「政岡さん、見た?」
「……えっ?」
それは、301号室で暮らす小学生の少女の声だった。
慌てて振り返った彼女に、小柄な少女は平坦な口調で繰り返した。
「壁、トン、トン、ってされるよね?」
「ちょっと、やめなさいよあんた」
「あれ、あの人が、揺れて」
「やめなさいったら!」
本当は、少女からもっと話を聞きたかった。だがそのやり取りから暫くして、301号室の一家は引っ越してしまった。
そういえば、と彼女──政岡涼子は思うのだ。
この部屋は角部屋で、寝室の向こうにはすぐ隣のマンションしかなくて、たとえ窓があったところでそう頻繁に開けはしないだろうけど──
(どうして窓を付けなかったのだろう?)
(他の部屋でも、同じことが起きているのだろうか?)
恋人は、トン、トン、という音には気付く様子もなく、今日もぐっすりと眠っている。政岡涼子はエレベーターを使わないし、マンションとマンションのあいだに視線を向けることもないし、301号室は未だ空室のままである。
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