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第二章 腐る。
第三話 小燕向葵②
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小燕向葵は、分譲マンションの一室に居を構えていた。「買ったのか?」と尋ねると「まあな」と短い返事があった。ちょうど、帰宅する予定ではあったらしい。
「着替えを取りに戻る予定だった」
と、小燕は言った。狭い部屋に住んでいるな、と光臣は思った。狭いが、綺麗に片付いている部屋。小燕向葵という人間が暮らすに相応しい部屋。
「適当に座ってくれ」
「適当って」
座るも何も、狭いリビングに置かれているのは小さなテレビとひとり掛けのソファ。それに丸い座卓が置かれているだけで、客人が来ることをまるで想定していない部屋の真ん中に立ち、少しばかり茫然とした気持ちで光臣は部屋を見回す。
「どこに座れと……」
「そのソファでいいだろ」
「あんたのじゃないか」
「着替えを取りに行くから、座っていてくれて構わない」
「ああそう……」
狭い部屋。小綺麗な部屋。小燕向葵の部屋。
白い壁にはカレンダーが下がっている。日にちと曜日が合っていない気がして良く良く眺めると、2月のままで放置されていた。
「なあ、このカレンダー破っていいか?」
「何?」
「二ヶ月も放っておくのはどうかと思う」
「ああ……」
小さな声と共にリビングに戻ってきた小燕が、着替えが入っていると思しき鞄を床に放り投げ、
「もう二ヶ月か」
「そうだ。あんた、曜日感覚とかないのか?」
「ある。あるが、家に帰ってくると色々なことを忘れるな」
と呟くように言った小燕が、些か乱暴な手付きでカレンダーを破るのを光臣は黙って眺めた。
「匂いはするか?」
小燕が尋ねた。
「いや……何も。強いて言うなら、埃っぽい」
「久しぶりに戻ったから。水道もしばらく使ってないし……」
「あ、待てよ、ちょっと待てって」
光臣の制止を無視して、小燕が蛇口を捻る。溢れる水に、一瞬息を止める──が。
「臭うか?」
「……いや」
意外にも、本当に驚くほど、普通の水がそこには流れていた。
腐臭はない。ただの水だ。
「飲むか?」
食器棚からプラスチック製のコップを取り出した小燕が、水道水を汲んで光臣に渡す。おかしな匂いはしない。ひと息に飲み干した。腐った味も──しない。
「どういう……?」
コップを手に立ち尽くす光臣の背を、小燕がぐっと押す。
「今のうちだ、錆殻光臣」
「え? 今のうち?」
「これ、ほら、早く」
と、押し付けられたのは、量販店で買ったと思しき真新しい下着で。
「さっさと風呂に入れ。この家が巻き込まれる前に」
「あ、ああ……いや、刑事、あんた、何に気付いて」
「気付いてない」
小燕の声は、強かった。
「気付いてないから、何も起きていない。……あんたの家の風呂よりは狭いと思うし、髭剃りは先日替えたばかりだから置いてあるものを使ってくれ。さあ、さっさと!」
追い立てられるようにして脱衣所に入り、とにかく勢いで服を脱いだ。洗面台の鏡に映る錆殻光臣は──見るからに窶れていた。それに、髭が浮いていてどことなく不潔に見える。髭が似合う顔立ちではないのだと痛感する。
小燕邸の浴室では、腐臭に包まれることはなかった。三日ぶりにまともに体を洗い、髭を剃ることができて、生き返ったような気分で脱衣所に戻る。下着の側に置かれたタオルで体を拭い、「刑事」と声を掛けると、
「ちょっと待て。……あんたの趣味じゃないだろうけど」
と、脱衣所のドアが薄く開き、真新しいTシャツを手渡された。救われる。さすがに、今しがた脱いだ服に再度袖を通すのには抵抗があった。
脱ぎ捨てたままのデニムを拾って履き、リビングに戻る。床に正座をした小燕が、荷造りをしていた。
「大丈夫でしたか」
「どうにか」
「この家はまだ大丈夫、という印象ですかね」
「……まだ?」
「そう。まだ」
と、小燕が顔を上げる。真顔だったはずの刑事の表情が一瞬小さく揺らぎ、
「似合わないなぁ」
「あんたが寄越したんだろうが」
Tシャツの話だ。白い厚手の生地は着心地が良いが、Tシャツのど真ん中に警察のイメージキャラクターがプリントされている。
「なんだこれ。あんたこれ普段着てるのか?」
「新しいのを出したでしょうが。着ませんよ」
「着ないものを俺に寄越したのか?」
「そう。それに、人前で着ないだけで寝巻きにはしてるし」
「はあ……」
感謝の気持ちと、余計なものを押し付けられたという複雑な気持ちを抱えたまま、光臣は取り敢えず息を吐く。
「この家は、まだ、か」
「そう考えるのが妥当でしょう。あんたが行く先々、全部の水が腐っているとなると」
確かに──甥と菅原と暮らしているマンションの一室、マネジメント事務所、撮影スタジオの楽屋、そのすべてに水の腐った匂いが付いて回る。小燕向葵の自宅には──それがない。
初めて足を運んだ場所だからだろうか。ということは、繰り返し訪問をすると、ここも。
「鍵を渡す」
「は?」
小燕が、小さな銀色の鍵を光臣の手に押し付ける。
「自分は、今はほとんど戻れない。あんたがこの部屋を使えばいい」
「いや、……は?」
「それから、これは想像に過ぎないんだが」
荷物の入った鞄を手に立ち上がりながら、小燕は言った。
「秋元慎也は自宅の浴室で、彼の同僚である記者・鈴谷という男性は既に埋め立てられている、過去蛍川と呼ばれる清流が流れていた川にほど近い場所にある神社で、それぞれ腹を切って自死した」
「そうだな、それは……」
「共通点は水。自分はそう思います」
言い残し、小燕向葵は去った。
物の少ない部屋に取り残された光臣は、彼の言葉を手渡された鍵と共に手の中で転がしながら、蛍川のことを考える。
「着替えを取りに戻る予定だった」
と、小燕は言った。狭い部屋に住んでいるな、と光臣は思った。狭いが、綺麗に片付いている部屋。小燕向葵という人間が暮らすに相応しい部屋。
「適当に座ってくれ」
「適当って」
座るも何も、狭いリビングに置かれているのは小さなテレビとひとり掛けのソファ。それに丸い座卓が置かれているだけで、客人が来ることをまるで想定していない部屋の真ん中に立ち、少しばかり茫然とした気持ちで光臣は部屋を見回す。
「どこに座れと……」
「そのソファでいいだろ」
「あんたのじゃないか」
「着替えを取りに行くから、座っていてくれて構わない」
「ああそう……」
狭い部屋。小綺麗な部屋。小燕向葵の部屋。
白い壁にはカレンダーが下がっている。日にちと曜日が合っていない気がして良く良く眺めると、2月のままで放置されていた。
「なあ、このカレンダー破っていいか?」
「何?」
「二ヶ月も放っておくのはどうかと思う」
「ああ……」
小さな声と共にリビングに戻ってきた小燕が、着替えが入っていると思しき鞄を床に放り投げ、
「もう二ヶ月か」
「そうだ。あんた、曜日感覚とかないのか?」
「ある。あるが、家に帰ってくると色々なことを忘れるな」
と呟くように言った小燕が、些か乱暴な手付きでカレンダーを破るのを光臣は黙って眺めた。
「匂いはするか?」
小燕が尋ねた。
「いや……何も。強いて言うなら、埃っぽい」
「久しぶりに戻ったから。水道もしばらく使ってないし……」
「あ、待てよ、ちょっと待てって」
光臣の制止を無視して、小燕が蛇口を捻る。溢れる水に、一瞬息を止める──が。
「臭うか?」
「……いや」
意外にも、本当に驚くほど、普通の水がそこには流れていた。
腐臭はない。ただの水だ。
「飲むか?」
食器棚からプラスチック製のコップを取り出した小燕が、水道水を汲んで光臣に渡す。おかしな匂いはしない。ひと息に飲み干した。腐った味も──しない。
「どういう……?」
コップを手に立ち尽くす光臣の背を、小燕がぐっと押す。
「今のうちだ、錆殻光臣」
「え? 今のうち?」
「これ、ほら、早く」
と、押し付けられたのは、量販店で買ったと思しき真新しい下着で。
「さっさと風呂に入れ。この家が巻き込まれる前に」
「あ、ああ……いや、刑事、あんた、何に気付いて」
「気付いてない」
小燕の声は、強かった。
「気付いてないから、何も起きていない。……あんたの家の風呂よりは狭いと思うし、髭剃りは先日替えたばかりだから置いてあるものを使ってくれ。さあ、さっさと!」
追い立てられるようにして脱衣所に入り、とにかく勢いで服を脱いだ。洗面台の鏡に映る錆殻光臣は──見るからに窶れていた。それに、髭が浮いていてどことなく不潔に見える。髭が似合う顔立ちではないのだと痛感する。
小燕邸の浴室では、腐臭に包まれることはなかった。三日ぶりにまともに体を洗い、髭を剃ることができて、生き返ったような気分で脱衣所に戻る。下着の側に置かれたタオルで体を拭い、「刑事」と声を掛けると、
「ちょっと待て。……あんたの趣味じゃないだろうけど」
と、脱衣所のドアが薄く開き、真新しいTシャツを手渡された。救われる。さすがに、今しがた脱いだ服に再度袖を通すのには抵抗があった。
脱ぎ捨てたままのデニムを拾って履き、リビングに戻る。床に正座をした小燕が、荷造りをしていた。
「大丈夫でしたか」
「どうにか」
「この家はまだ大丈夫、という印象ですかね」
「……まだ?」
「そう。まだ」
と、小燕が顔を上げる。真顔だったはずの刑事の表情が一瞬小さく揺らぎ、
「似合わないなぁ」
「あんたが寄越したんだろうが」
Tシャツの話だ。白い厚手の生地は着心地が良いが、Tシャツのど真ん中に警察のイメージキャラクターがプリントされている。
「なんだこれ。あんたこれ普段着てるのか?」
「新しいのを出したでしょうが。着ませんよ」
「着ないものを俺に寄越したのか?」
「そう。それに、人前で着ないだけで寝巻きにはしてるし」
「はあ……」
感謝の気持ちと、余計なものを押し付けられたという複雑な気持ちを抱えたまま、光臣は取り敢えず息を吐く。
「この家は、まだ、か」
「そう考えるのが妥当でしょう。あんたが行く先々、全部の水が腐っているとなると」
確かに──甥と菅原と暮らしているマンションの一室、マネジメント事務所、撮影スタジオの楽屋、そのすべてに水の腐った匂いが付いて回る。小燕向葵の自宅には──それがない。
初めて足を運んだ場所だからだろうか。ということは、繰り返し訪問をすると、ここも。
「鍵を渡す」
「は?」
小燕が、小さな銀色の鍵を光臣の手に押し付ける。
「自分は、今はほとんど戻れない。あんたがこの部屋を使えばいい」
「いや、……は?」
「それから、これは想像に過ぎないんだが」
荷物の入った鞄を手に立ち上がりながら、小燕は言った。
「秋元慎也は自宅の浴室で、彼の同僚である記者・鈴谷という男性は既に埋め立てられている、過去蛍川と呼ばれる清流が流れていた川にほど近い場所にある神社で、それぞれ腹を切って自死した」
「そうだな、それは……」
「共通点は水。自分はそう思います」
言い残し、小燕向葵は去った。
物の少ない部屋に取り残された光臣は、彼の言葉を手渡された鍵と共に手の中で転がしながら、蛍川のことを考える。
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