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第二章 腐る。
第二話 水②
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腐臭は日に日に強くなった。光臣は三日で屈した。人間、水分を完全に絶って生きていけるはずがない。飲み水だけならまだしも、風呂に入る、シャワーを浴びる、顔を洗うなど、生活に必要な行為すべてに腐臭が付き纏った。甥は異変を感じていないようだった。唯一事情を知る菅原は「おかしいですね」と真顔で首を傾げた。
「菅原は、三人目を祓ったのです」
菅原は嘘を吐かない。そんなことをしても意味がない。菅原は三人目を祓った。秋元・政岡とともに事務所を訪れた得体の知れない三人目は、もうこの世にはいないはずなのだ。
菅原が買い溜めしていた粗塩で浄めの塩を作り、浴室に撒いてから風呂に入るようにした。効果は薄かった。腐臭がする。体を洗ったのか洗っていないのか、自分でも分からない状態になる。外で食事を摂るのも困難になり、できるだけ早く帰宅し、菅原の手料理を食べるようにした。外食するよりは幾らかマシだった──とはいえ、腐臭は完全には消えない。
水が腐り始めてから三日後。錆殻光臣は小燕向葵を呼び出した。いつもの喫茶店ではない、小燕が詰めている捜査本部からほど近いチェーンの喫茶店に。
「何も飲まないんですか」
光臣の方が先に店に着いていた。店内に居合わせた数名のファンを名乗る男女と写真を撮り、差し出された著書にサインをした。そういえば来週はサイン会の予定がある。それまでにこの──水が腐るという異変をどうにかしなくてはならない。
ブレンドコーヒーには手を付けていない。コーヒーカップを一瞥し、「注文はしたのか」と小燕は呟いた。小燕は、アイスコーヒーのグラスを手にしていた。
「刑事さん、あんた」
前振りは必要ない。カウンター席に小燕が腰を下ろした瞬間、光臣は切り出した。
「あんたの身の周りで、水が腐ったような匂いがすることはないか」
「は?」
眼鏡の奥の瞳を大きく見開き、小燕が裏返った声を上げる。
「何を急に……」
「ないならいい。俺だけってことだ」
「いや、待ってくれ錆殻さん。……何か起きているのか?」
黙って肩を竦める光臣の姿を頭のてっぺんからつま先までじっくりと眺めた小燕は、
「……髭を剃っていない。珍しいですね」
「それどころじゃないんだよ」
「髪も……整えていないというか、整えることができない?」
「あんた、刑事じゃなくて探偵だったのか?」
「何が起きてるっていうんです」
「水が腐る」
コーヒーカップの隣に置かれた水のグラスを指差し、光臣は言った。
「だが、無作為に行われているわけではないらしい。俺の周りの水だけが、腐る」
「つまり?」
「日常生活、特に飲み食いに困っているし、風呂にも碌に入れない」
「それは……」
と、僅かに俯き細い顎を撫でた小燕は、
「厄介な……」
「常識的な反応をありがとう。まあ、あんたの身に何も起きてないならいいさ」
「錆殻光臣?」
席を立とうとする光臣の手首を掴み、小燕が眉を寄せて見上げてくる。
「大丈夫なのか?」
「大丈夫では、ないな」
「その──水が、腐るとかいう」
「ああ。……可能であれば、あんたが詰めてる捜査本部に関係がある連中にもそういう異変が起きていないかを確認してくれないか? 相手の狙いが、本当に俺だけならそれでいいんだが」
「いや」
良くはないだろう、と小燕が唸る。
「良くは……」
「良くはない。そんなことは俺がいちばん理解している。しかしな刑事さん、うちの菅原にも原因が分からないケースなんだ。一介の刑事に過ぎないあんたにできることは何もない」
「そうかな」
光臣の手首を離さないまま、小燕が唸った。
「たとえば」
「たとえば?」
「たとえば……」
この刑事に、何か妙案があるというのだろうか。ないだろう。至って平坦な感情で、光臣は思う。水が腐る。明らかに異変だ。菅原が何も察知していなければ、光臣個人のメンタルの問題として片付けるという手もあったかもしれない。だが菅原は「何かがある。でもその何かが何なのか分からない」と奥歯に物が挟まったような物言いをする。
何かがある。
その正体を紐解くのに、刑事の力は必要ない。
小燕向葵は優秀な刑事だ。だが化け物退治にはおそらく、向いていない。
「たとえば……自分の、家に来るとか」
「は?」
急に意味不明なワードが飛び出した。
裏返った声を上げて固まる光臣を見上げる小燕が、「いや、それも変か」と呟いている。変だ。とてもおかしい。
だから、試してみる価値がある。
「菅原は、三人目を祓ったのです」
菅原は嘘を吐かない。そんなことをしても意味がない。菅原は三人目を祓った。秋元・政岡とともに事務所を訪れた得体の知れない三人目は、もうこの世にはいないはずなのだ。
菅原が買い溜めしていた粗塩で浄めの塩を作り、浴室に撒いてから風呂に入るようにした。効果は薄かった。腐臭がする。体を洗ったのか洗っていないのか、自分でも分からない状態になる。外で食事を摂るのも困難になり、できるだけ早く帰宅し、菅原の手料理を食べるようにした。外食するよりは幾らかマシだった──とはいえ、腐臭は完全には消えない。
水が腐り始めてから三日後。錆殻光臣は小燕向葵を呼び出した。いつもの喫茶店ではない、小燕が詰めている捜査本部からほど近いチェーンの喫茶店に。
「何も飲まないんですか」
光臣の方が先に店に着いていた。店内に居合わせた数名のファンを名乗る男女と写真を撮り、差し出された著書にサインをした。そういえば来週はサイン会の予定がある。それまでにこの──水が腐るという異変をどうにかしなくてはならない。
ブレンドコーヒーには手を付けていない。コーヒーカップを一瞥し、「注文はしたのか」と小燕は呟いた。小燕は、アイスコーヒーのグラスを手にしていた。
「刑事さん、あんた」
前振りは必要ない。カウンター席に小燕が腰を下ろした瞬間、光臣は切り出した。
「あんたの身の周りで、水が腐ったような匂いがすることはないか」
「は?」
眼鏡の奥の瞳を大きく見開き、小燕が裏返った声を上げる。
「何を急に……」
「ないならいい。俺だけってことだ」
「いや、待ってくれ錆殻さん。……何か起きているのか?」
黙って肩を竦める光臣の姿を頭のてっぺんからつま先までじっくりと眺めた小燕は、
「……髭を剃っていない。珍しいですね」
「それどころじゃないんだよ」
「髪も……整えていないというか、整えることができない?」
「あんた、刑事じゃなくて探偵だったのか?」
「何が起きてるっていうんです」
「水が腐る」
コーヒーカップの隣に置かれた水のグラスを指差し、光臣は言った。
「だが、無作為に行われているわけではないらしい。俺の周りの水だけが、腐る」
「つまり?」
「日常生活、特に飲み食いに困っているし、風呂にも碌に入れない」
「それは……」
と、僅かに俯き細い顎を撫でた小燕は、
「厄介な……」
「常識的な反応をありがとう。まあ、あんたの身に何も起きてないならいいさ」
「錆殻光臣?」
席を立とうとする光臣の手首を掴み、小燕が眉を寄せて見上げてくる。
「大丈夫なのか?」
「大丈夫では、ないな」
「その──水が、腐るとかいう」
「ああ。……可能であれば、あんたが詰めてる捜査本部に関係がある連中にもそういう異変が起きていないかを確認してくれないか? 相手の狙いが、本当に俺だけならそれでいいんだが」
「いや」
良くはないだろう、と小燕が唸る。
「良くは……」
「良くはない。そんなことは俺がいちばん理解している。しかしな刑事さん、うちの菅原にも原因が分からないケースなんだ。一介の刑事に過ぎないあんたにできることは何もない」
「そうかな」
光臣の手首を離さないまま、小燕が唸った。
「たとえば」
「たとえば?」
「たとえば……」
この刑事に、何か妙案があるというのだろうか。ないだろう。至って平坦な感情で、光臣は思う。水が腐る。明らかに異変だ。菅原が何も察知していなければ、光臣個人のメンタルの問題として片付けるという手もあったかもしれない。だが菅原は「何かがある。でもその何かが何なのか分からない」と奥歯に物が挟まったような物言いをする。
何かがある。
その正体を紐解くのに、刑事の力は必要ない。
小燕向葵は優秀な刑事だ。だが化け物退治にはおそらく、向いていない。
「たとえば……自分の、家に来るとか」
「は?」
急に意味不明なワードが飛び出した。
裏返った声を上げて固まる光臣を見上げる小燕が、「いや、それも変か」と呟いている。変だ。とてもおかしい。
だから、試してみる価値がある。
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