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第二章 腐る。
第一話 水①
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嘘を吐かない人間など存在しない。それが優しさからの嘘だとか、悪意が内包されているとか、その場でつい飛び出したでまかせだとか、商売に必要だからだとか──すべて無関係。嘘は嘘だ。人間は皆、嘘吐きだ。
それでいて、錆殻光臣は、嘘をほとんど吐かずに生きた人間を知っている。弟だ。遠い昔、清流の化け物に食われて死んだ、本物の弟。
(……クソ、頭痛がする)
良くない目覚めだった。弟のことを考える機会など彼が亡くなってからほとんどなかったのに、ここ数日、それこそ弟の幽霊に取り憑かれているような気がする。
寝台の上に身を起こし、壁の時計を確認する。午前四時。スマートフォンのアラームが鳴るまでには、まだ二時間以上の時間がある。
裸足で寝台を降り、リビングへと向かう。喉が渇いていた。ついでに──空腹時に良くはないと分かってはいたが、頭痛薬を飲みたかった。
冷蔵庫の扉を開ける。良く冷えた水を取り出す。グラスに注ぐ。口に運ぶ──
「……? なんだ?」
飲み込もうとした水を、ほとんど反射でシンクに吐き捨てた。腐った味がした。冷蔵庫に入っていたのは、菅原が箱買いしてきたミネラルウォーターのペットボトルだ。二リットル。甥か菅原が開栓して料理か何かに使った気配はあったが、だからといって水が──そう簡単に腐るだろうか。
小首を傾げながら手を伸ばし、浄水器付きの蛇口を捻る。グラスの中に流れ込む水は、一見ただの水でしかないが。
「……臭い」
ひとり、ぽつりと呟いた。おかしい。
水──水?
思い当たる節はひとつしかない。
蛍川だ。
今は干からび埋め立てられているあの清流で起きた水難事故。殊更封じていたわけではないが、頻繁に思い出して撫で回していたわけでもない記憶が、光臣の中に鮮明に蘇りつつある。
記憶と同時に、あの日の怪異が忍び寄っているのではないか。
そんな予感に襲われる。
馬鹿な話だ。錆殻光臣は偽物だというのに。
「水」
「はい」
明け方の薄闇に溶け込んでいた菅原が、するりと姿を現す。
「腐ってないか」
「そうですね。おかしな匂いがします」
「この水は、おまえが買ってきたんだよな?」
「はい。特売でお安かったので。昨晩食事を作る際に開封しました」
「……アレは?」
尋ねる光臣の顔を呆れたように覗き込んだ菅原が、
「坊っちゃんですか? しっかりお食事を飯上がっていましたよ」
「そうかよ」
「……あのですね、光臣さん」
「うるさい」
菅原の手にグラスを押し付け、光臣は大股で薬箱が置いてある棚の方へと向かう。鎮痛剤の瓶を取り出して、手のひらに幾つか落とし、口に放り込んで噛み砕く。苦い。だが腐った水よりはだいぶマシだ。
「光臣さん」
言い募る菅原の胸を強く叩き、光臣は唸る。
「おまえはアレの面倒だけ見ていればいい。そういう契約だったろう」
「……菅原は、経理になりたくて、資格も取ったのですが」
「ああ、そうだったな。アレが独り立ちしたらおまえが経理を担当すればいい。錆殻家の最後の生き残り、本物ってことで客が殺到するだろうよ」
嫌味ではない。皮肉でも。本心から、光臣はそう思っている。
弟の息子。甥。生き残った子ども。本物。
最後に民衆の支持を受けるのは嘘吐きではない。本物だ。
菅原の溜め息を背に受けながら、光臣は寝室に戻る。
「あなたに死んでほしいわけではないのに」
縁起でもない台詞が聞こえた気がするが、何もなかったと自分に言い聞かせて、光臣はベッドに身を横たえる。
それでいて、錆殻光臣は、嘘をほとんど吐かずに生きた人間を知っている。弟だ。遠い昔、清流の化け物に食われて死んだ、本物の弟。
(……クソ、頭痛がする)
良くない目覚めだった。弟のことを考える機会など彼が亡くなってからほとんどなかったのに、ここ数日、それこそ弟の幽霊に取り憑かれているような気がする。
寝台の上に身を起こし、壁の時計を確認する。午前四時。スマートフォンのアラームが鳴るまでには、まだ二時間以上の時間がある。
裸足で寝台を降り、リビングへと向かう。喉が渇いていた。ついでに──空腹時に良くはないと分かってはいたが、頭痛薬を飲みたかった。
冷蔵庫の扉を開ける。良く冷えた水を取り出す。グラスに注ぐ。口に運ぶ──
「……? なんだ?」
飲み込もうとした水を、ほとんど反射でシンクに吐き捨てた。腐った味がした。冷蔵庫に入っていたのは、菅原が箱買いしてきたミネラルウォーターのペットボトルだ。二リットル。甥か菅原が開栓して料理か何かに使った気配はあったが、だからといって水が──そう簡単に腐るだろうか。
小首を傾げながら手を伸ばし、浄水器付きの蛇口を捻る。グラスの中に流れ込む水は、一見ただの水でしかないが。
「……臭い」
ひとり、ぽつりと呟いた。おかしい。
水──水?
思い当たる節はひとつしかない。
蛍川だ。
今は干からび埋め立てられているあの清流で起きた水難事故。殊更封じていたわけではないが、頻繁に思い出して撫で回していたわけでもない記憶が、光臣の中に鮮明に蘇りつつある。
記憶と同時に、あの日の怪異が忍び寄っているのではないか。
そんな予感に襲われる。
馬鹿な話だ。錆殻光臣は偽物だというのに。
「水」
「はい」
明け方の薄闇に溶け込んでいた菅原が、するりと姿を現す。
「腐ってないか」
「そうですね。おかしな匂いがします」
「この水は、おまえが買ってきたんだよな?」
「はい。特売でお安かったので。昨晩食事を作る際に開封しました」
「……アレは?」
尋ねる光臣の顔を呆れたように覗き込んだ菅原が、
「坊っちゃんですか? しっかりお食事を飯上がっていましたよ」
「そうかよ」
「……あのですね、光臣さん」
「うるさい」
菅原の手にグラスを押し付け、光臣は大股で薬箱が置いてある棚の方へと向かう。鎮痛剤の瓶を取り出して、手のひらに幾つか落とし、口に放り込んで噛み砕く。苦い。だが腐った水よりはだいぶマシだ。
「光臣さん」
言い募る菅原の胸を強く叩き、光臣は唸る。
「おまえはアレの面倒だけ見ていればいい。そういう契約だったろう」
「……菅原は、経理になりたくて、資格も取ったのですが」
「ああ、そうだったな。アレが独り立ちしたらおまえが経理を担当すればいい。錆殻家の最後の生き残り、本物ってことで客が殺到するだろうよ」
嫌味ではない。皮肉でも。本心から、光臣はそう思っている。
弟の息子。甥。生き残った子ども。本物。
最後に民衆の支持を受けるのは嘘吐きではない。本物だ。
菅原の溜め息を背に受けながら、光臣は寝室に戻る。
「あなたに死んでほしいわけではないのに」
縁起でもない台詞が聞こえた気がするが、何もなかったと自分に言い聞かせて、光臣はベッドに身を横たえる。
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