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第五章 偽る。
第二話 二日間②
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翌朝。
布団の中で薄く目を開いた錆殻光臣は、まず、傍らに敷かれているもう一組の布団を確認した。果たして、小燕向葵はそこにいた。彼は、引き返すことを選ばなかった。最後まで見届けるつもりなのだ、この事件を。厄介な男だ、と光臣は思う。生真面目で、実直で、正義感に溢れ、そして秘密を抱えている男。心中するには最悪な相手。光臣の側で小燕だけが命を落とすようなことになったら、彼の仲間──刑事たちから、どれほど激しく糾弾されることか。想像するだけでうんざりする。身を起こし、洗面所の生臭さの残る水で顔を洗い、無精髭はそのままに小燕が寝息をたてているはずの部屋に戻る。小燕は目を覚ましていた。てきぱきと布団を畳み、
「髭は剃らないのか?」
「あんな水を使ってそこまでする気になれない」
「そうか。私には……ただの水だとしか思えないんだがな」
「そのままでいろ」
言い捨てた光臣に小燕は一瞬虚を突かれたような表情をし、
「ああ、そうする」
相変わらず生真面目な口調で、そんな風に応じた。
錆殻の秘密は既に告げた。あれがすべてではないが、光臣以外に錆殻の秘密を知る者がこの世でひとりからふたりに増えた──ひとり目は、マネージャーの長田だ。彼女は錆殻について詳しい。だから様々なことを安心して任せることができる。たとえば錆殻光臣がこの土地から生きて帰れなかったとしても、甥と菅原については長田がどうにかしてくれることだろう。
小燕が顔を洗っているあいだに光臣は着替え、寝巻き代わりに使用していたTシャツとジャージ、更には昨日身に付けていた服一式をスマートフォンを封じた麻袋の中に放り込んだ。袋の口を開いた一瞬、中からキイキイという耳障りな鳴き声が響いた気がしたが、無視した。見てはいけない。聞いてはいけない。無視するのが正解だ。堕ちた神を慰める義理など、錆殻光臣にはない。奴らは既に神でもなんでもない。
化け物だ。
「光臣」
「おう。あんたの服もくれ。袋に入れる」
「その……塩漬けにするのか?」
「そうだ。まあなんだ……あんたは部外者だが、ここまで付いてきたし、見なくて良いものも目にしているからな。念には念をって話だ」
「分かった」
淡いグレーの襟付きシャツにブラックデニムに着替えた小燕は、寝巻きと、昨日着ていた服をすべて光臣に差し出した。麻袋の中から再び鳴き声が響いたが、小燕には届いていないようだった。
それで良い。
「行くか」
麻袋を部屋の隅に蹴飛ばして、光臣は言った。
「この店の……店主には何も伝えなくて良いのか?」
小燕が尋ねる。光臣は僅かに笑う。この男はどこまでも善人だ。あの老婆に、昨晩、死を予告されたというのに。
「昨日言っただろ」
小燕を伴って小さな部屋を出る。木製の軋む階段を降りると、そこには誰もいない小料理屋。のれんが壁に立てかけてある。老婆はもう戻るまい。
「錆柄の一族は、猿回し──嘗てこの土地で祀られていた神を慰めるために存在した、道化の一族」
「……それは、聞いたが」
引き戸に手を掛けて気付く。そういえば昨晩、老婆が外から鍵をかけていたか。面倒臭い。口の中で舌打ちを噛み殺し、右足を大きく振りかぶる。
大した力を込めているわけでもない一撃で、引き戸は壊れた。外の空気は、澱んでいた。
「光臣!」
「うるせえなあ。ていうかあんた、いつから俺を下の名前で呼べるほど仲良くなった? 俺とあんたは友達じゃねえぞ、刑事さん」
「それは、まあ……では、私のことも、向葵と呼んでもらって構わない」
「呼ばない」
光臣は即答し、壊れた扉を踏み越えて店を出る。ため息を吐きながら小燕が付いてくるのが分かる。
「錆殻が猿回しなら、俺たちをこの店に置き去りにして逃げたあのクソババアはいったい何者なのか、という話になるよな」
「ああ……え? 逃げた?」
「あんた昨日、俺を訳の分からんものから守ってくれただろうが」
黒い影。
明らかに光臣を狙っていた不穏な存在から、小燕は身を挺して光臣を守った。
「あれは……あれと、この店の店主と何か関係が……」
「あの婆さんは蛍神社最後の宮司だ」
小燕は、素っ頓狂な声を上げなかった。光臣が吐き出す真実を、黙って噛み締めているようだった。
「宮司──神職のトップか」
「そう。蛍神社がここまで堕ちる一因は、婆さんとその一族にもあった。とはいえ、向こうは向こうで錆殻に全責任を押し付けたいんだろうがな。堂々巡りだよ。正解なんてどこにもない」
喋りながら、歩く。左手首の時計に視線を落とすと、長針と短信が凄まじい勢いで左回りに回転していた。もう、始まっている。
「刑事さん、時計持ってるか?」
「持ってる」
「捨てろ」
「……どこに? 麻袋はあの部屋に置いてきただろう」
「ポイ捨てでいいよ。持ってるだけで良くないことが起きる」
「ポイ捨て……」
職業柄、といった声音で唸った小燕はしかし、光臣の言葉に従った。小燕が投げ捨てた時計の上に、光臣は上着のポケットから取り出したビニール袋の中に入っている塩をかけた。
「それで、光臣、私たちは今──」
「ああ、やめろ、名前を呼ぶな」
「ぐ」
振り返り、手のひらで小燕の口を塞ぐ。目を白黒させる小燕に、個包装の白いマスクを突きつける。
「雑面を準備する時間がなかった。とりあえずはこれで誤魔化す」
「ぞうめん、ってなんだ……」
「いいか刑事さん。あんたは今、この瞬間から俺が良いと許可するまでのあいだ、口を開いてはいけない。何も喋るな。疑問に感じることや、違和感を覚えても、腹ん中にしまっておけ。後で俺が全部説明してやる」
「……」
「何を見ても、何も言うな。俺を信じられるか? 難しいのであれば──」
一瞬言葉を切り、辺りを見廻す。
今ならまだ。まだ。
「あんただけ立ち去ることもできる。どうする」
「……」
奥歯をぎゅっと食い締めた小燕が、乱暴な手付きでマスクを包む袋を破る。真っ白いマスクを身に付けた小燕は、どんなに説得してもこの場を離れてくれそうにはなかった。
光臣は、薄く笑う。
錆殻光臣は、嘘を吐いている。
布団の中で薄く目を開いた錆殻光臣は、まず、傍らに敷かれているもう一組の布団を確認した。果たして、小燕向葵はそこにいた。彼は、引き返すことを選ばなかった。最後まで見届けるつもりなのだ、この事件を。厄介な男だ、と光臣は思う。生真面目で、実直で、正義感に溢れ、そして秘密を抱えている男。心中するには最悪な相手。光臣の側で小燕だけが命を落とすようなことになったら、彼の仲間──刑事たちから、どれほど激しく糾弾されることか。想像するだけでうんざりする。身を起こし、洗面所の生臭さの残る水で顔を洗い、無精髭はそのままに小燕が寝息をたてているはずの部屋に戻る。小燕は目を覚ましていた。てきぱきと布団を畳み、
「髭は剃らないのか?」
「あんな水を使ってそこまでする気になれない」
「そうか。私には……ただの水だとしか思えないんだがな」
「そのままでいろ」
言い捨てた光臣に小燕は一瞬虚を突かれたような表情をし、
「ああ、そうする」
相変わらず生真面目な口調で、そんな風に応じた。
錆殻の秘密は既に告げた。あれがすべてではないが、光臣以外に錆殻の秘密を知る者がこの世でひとりからふたりに増えた──ひとり目は、マネージャーの長田だ。彼女は錆殻について詳しい。だから様々なことを安心して任せることができる。たとえば錆殻光臣がこの土地から生きて帰れなかったとしても、甥と菅原については長田がどうにかしてくれることだろう。
小燕が顔を洗っているあいだに光臣は着替え、寝巻き代わりに使用していたTシャツとジャージ、更には昨日身に付けていた服一式をスマートフォンを封じた麻袋の中に放り込んだ。袋の口を開いた一瞬、中からキイキイという耳障りな鳴き声が響いた気がしたが、無視した。見てはいけない。聞いてはいけない。無視するのが正解だ。堕ちた神を慰める義理など、錆殻光臣にはない。奴らは既に神でもなんでもない。
化け物だ。
「光臣」
「おう。あんたの服もくれ。袋に入れる」
「その……塩漬けにするのか?」
「そうだ。まあなんだ……あんたは部外者だが、ここまで付いてきたし、見なくて良いものも目にしているからな。念には念をって話だ」
「分かった」
淡いグレーの襟付きシャツにブラックデニムに着替えた小燕は、寝巻きと、昨日着ていた服をすべて光臣に差し出した。麻袋の中から再び鳴き声が響いたが、小燕には届いていないようだった。
それで良い。
「行くか」
麻袋を部屋の隅に蹴飛ばして、光臣は言った。
「この店の……店主には何も伝えなくて良いのか?」
小燕が尋ねる。光臣は僅かに笑う。この男はどこまでも善人だ。あの老婆に、昨晩、死を予告されたというのに。
「昨日言っただろ」
小燕を伴って小さな部屋を出る。木製の軋む階段を降りると、そこには誰もいない小料理屋。のれんが壁に立てかけてある。老婆はもう戻るまい。
「錆柄の一族は、猿回し──嘗てこの土地で祀られていた神を慰めるために存在した、道化の一族」
「……それは、聞いたが」
引き戸に手を掛けて気付く。そういえば昨晩、老婆が外から鍵をかけていたか。面倒臭い。口の中で舌打ちを噛み殺し、右足を大きく振りかぶる。
大した力を込めているわけでもない一撃で、引き戸は壊れた。外の空気は、澱んでいた。
「光臣!」
「うるせえなあ。ていうかあんた、いつから俺を下の名前で呼べるほど仲良くなった? 俺とあんたは友達じゃねえぞ、刑事さん」
「それは、まあ……では、私のことも、向葵と呼んでもらって構わない」
「呼ばない」
光臣は即答し、壊れた扉を踏み越えて店を出る。ため息を吐きながら小燕が付いてくるのが分かる。
「錆殻が猿回しなら、俺たちをこの店に置き去りにして逃げたあのクソババアはいったい何者なのか、という話になるよな」
「ああ……え? 逃げた?」
「あんた昨日、俺を訳の分からんものから守ってくれただろうが」
黒い影。
明らかに光臣を狙っていた不穏な存在から、小燕は身を挺して光臣を守った。
「あれは……あれと、この店の店主と何か関係が……」
「あの婆さんは蛍神社最後の宮司だ」
小燕は、素っ頓狂な声を上げなかった。光臣が吐き出す真実を、黙って噛み締めているようだった。
「宮司──神職のトップか」
「そう。蛍神社がここまで堕ちる一因は、婆さんとその一族にもあった。とはいえ、向こうは向こうで錆殻に全責任を押し付けたいんだろうがな。堂々巡りだよ。正解なんてどこにもない」
喋りながら、歩く。左手首の時計に視線を落とすと、長針と短信が凄まじい勢いで左回りに回転していた。もう、始まっている。
「刑事さん、時計持ってるか?」
「持ってる」
「捨てろ」
「……どこに? 麻袋はあの部屋に置いてきただろう」
「ポイ捨てでいいよ。持ってるだけで良くないことが起きる」
「ポイ捨て……」
職業柄、といった声音で唸った小燕はしかし、光臣の言葉に従った。小燕が投げ捨てた時計の上に、光臣は上着のポケットから取り出したビニール袋の中に入っている塩をかけた。
「それで、光臣、私たちは今──」
「ああ、やめろ、名前を呼ぶな」
「ぐ」
振り返り、手のひらで小燕の口を塞ぐ。目を白黒させる小燕に、個包装の白いマスクを突きつける。
「雑面を準備する時間がなかった。とりあえずはこれで誤魔化す」
「ぞうめん、ってなんだ……」
「いいか刑事さん。あんたは今、この瞬間から俺が良いと許可するまでのあいだ、口を開いてはいけない。何も喋るな。疑問に感じることや、違和感を覚えても、腹ん中にしまっておけ。後で俺が全部説明してやる」
「……」
「何を見ても、何も言うな。俺を信じられるか? 難しいのであれば──」
一瞬言葉を切り、辺りを見廻す。
今ならまだ。まだ。
「あんただけ立ち去ることもできる。どうする」
「……」
奥歯をぎゅっと食い締めた小燕が、乱暴な手付きでマスクを包む袋を破る。真っ白いマスクを身に付けた小燕は、どんなに説得してもこの場を離れてくれそうにはなかった。
光臣は、薄く笑う。
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