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第五章 偽る。
第四話 二日間③
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弟が死に、錆殻家が滅び、しばらく経って光臣はひとり、真夜中に、蛍神社の本殿に火を放つために帰郷した。
その頃はまだ清流も流れていて、しかし宮司らは荒ぶる神を恐れて神社にはほとんど近付かず、今ほどではないがそれなりに荒れている神社の境内に足を踏み入れる光臣を止める者はいなかった。
その日光臣は、初めて本殿の中に足を踏み入れた。臭い──水の腐ったような匂い。それに精液の匂いが漂う、じっとりとした、厭な空間だった。
本殿の最奥に、その部屋はあった。
鼻で笑いたくなるほどに豪奢な寝室。敷き詰められた布団の上には人間が横たわった跡が残されており、ここが儀式の場所、道化たちの勤めの場所だったのだとようやく知る。
光臣には、神が見えない。
布団の上に持ち込んだ灯油を撒き、火を放つ。
放ったはずだった。
火は一瞬で消えた。
いちいち驚くほど、青くはない。何せここは蛍神社。傍には蛍川も流れている。水の場所だ。ただの炎など、敵ではないという話なのだろう。
光臣と『神』の攻防はしばらく続いた。先に折れたのは光臣だった。
折れたというよりも、馬鹿馬鹿しくなったのだ。こんな──神と呼ぶにはあまりにも世俗に塗れた存在に、父も母も、叔父も叔母も、従兄弟らも、人生を狂わされたのか。
「俺の名前を教えてやる」
自身の名刺を取り出し、布団の上に放り投げながら光臣は言った。
「次は俺のところに来い。抱き潰してやるからよ」
勝算はあった。光臣には『嘘』で作った盾があった。
神が光臣を追って来ることはなかった──雑誌記者鈴谷が、この土地に足を踏み入れるまでは。雑誌記者鈴谷の上司・大村は錆殻光臣との繋がりを持っていた。また、雑誌記者鈴谷と同じ会社で働いていた男、秋元慎也にはその力はなかったが、彼の恋人である政岡涼子には才能があった──錆殻家の人間たちが背負った業に良く似た才能が。
蛍神社の神は、大勢を踏み付けて錆殻光臣に近付いた。
(抱き潰してやる、か)
若かったな、と光臣はひっそりと苦笑する。あんなこと言わなければ良かった、とは特に思わない。今も蛍神社への憎しみはある。いつか、見えない自分の元にあの『神』がやって来たら、正面から挑む覚悟は常にしていた。
恐ろしかったのは、『神』の矛先が甥に向かうことだった。
甥には才能がある。弟と同じ才能が。弟よりも強い才能が。だが、弟ほど甥は強くない。あまりにもお人好しで、若すぎる。何の能力もない伯父──光臣に、弟の置き土産を守る自信がなかった。
だが今は違う。菅原がいる。
菅原は本物だ。そして化け物だ。甥に忠誠を誓う、化け物だ。
自分が死んでも、菅原がきちんと繋いでくれる。
だから来た。
「……」
小燕向葵が、掴まれている手首をくっと引く。黙って振り返った光臣に、小燕は屋根に穴の開いた本殿を指で示す。
何かがいる──のだろうか。
光臣には相変わらず見えないので、分からない。小燕も見える人ではないと思っていたが、光臣よりは部分的に敏感なのかもしれない。
燃やし尽くせなかった本殿。後日人を雇って、廃車予定の車を何台か突っ込ませておいた。車を運転した人間は皆死んだが、罪悪感は特にない。もしかしたら自分には能力以外にも大切な感性が欠けているのかもしれないと思ったが──それはそれで、構わない。
黒い水が降ってくる。
「っと……!!」
小燕を背にしてふところから取り出した塩を撒く。実質、光臣にはこれしか武器がない。菅原が拵えた浄め塩。水が滴った足元が、どろりと溶けていく。小燕が息を呑むのが分かる。なぜこの男をここまで連れてきてしまったのだろう。不意に自問する。
(──善良な、)
そうだ、とても善良で、清らかで、真っ当な。
錆殻光臣とは正反対の存在。小燕向葵。
守刀のように胸に抱いていたかった。
弟との関係がそうであったように。
黒い水は執拗に押し寄せてくる。光臣を本殿に近付けまいという強く、黒い意志が、ひたひたと地面を溶かしていく。
弟が死んでから──錆殻が滅びてから10年。10年分の恨みを抱えているのは光臣だけではない。堕ちた『神』も同じように、最後の錆殻を呑み干そうとしている。
(どうする?)
小燕には申し訳ないが、ここから先には連れて行けない。彼を鳥居の外に逃し、それから──
瞬間。
耳元で、破裂音が響いた。
鼓膜が破れるかと思い振り返ると、
「小燕……!」
眉根を厳しく寄せた小燕向葵が、拳銃を構えている。
水に銃弾を撃ち込んだところで何の効果も──そう思った矢先。
「は……?」
黒い水が、大きくのたうつ。苦しんでいる。
どういうことだ。意味が分からない。
「よもつひらさか」
小燕が唸った。声を出すなと言っていたはずだ──と文句を口にする余裕もない光臣の左肩を強く掴み、右手で拳銃を構えた小燕は続けた。
「迷宮先生が言っていたんだろう? 私も調べてみた。この場所が、この世とあの世の境目だとするならば」
流れているのは三途の川。
小燕向葵の声は、少しだけ笑っていた。
「勘違いするなよ錆殻光臣。私だって、何の覚悟もなくここまで来たわけじゃない」
「どういう意味だよ」
「心中するぐらいの覚悟はある。鹿野迷宮先生の紹介で──横浜の秋とかいう名前の情報屋に会い、秋の手引きで出会った霊能者に祓いのための銃弾を作ってもらった」
黒い水が津波のように大きく盛り上がる。そこに、小燕が新しい銃弾を打ち込む。水がまたしても苦悶する。
「横浜の? 秋? 俺は絶対会えないのに?」
「人間性が腐っている男は嫌いだと言っていたな」
「なんだそれ!? おまえの人間性はまともだっていう自慢か!?」
「下がれ光臣、銃弾は残り三つ!」
私があの水の気を引くから──と小燕はマスクを外し、にやりと笑った。
「光臣、おまえは本殿で片を付けて来い!」
その頃はまだ清流も流れていて、しかし宮司らは荒ぶる神を恐れて神社にはほとんど近付かず、今ほどではないがそれなりに荒れている神社の境内に足を踏み入れる光臣を止める者はいなかった。
その日光臣は、初めて本殿の中に足を踏み入れた。臭い──水の腐ったような匂い。それに精液の匂いが漂う、じっとりとした、厭な空間だった。
本殿の最奥に、その部屋はあった。
鼻で笑いたくなるほどに豪奢な寝室。敷き詰められた布団の上には人間が横たわった跡が残されており、ここが儀式の場所、道化たちの勤めの場所だったのだとようやく知る。
光臣には、神が見えない。
布団の上に持ち込んだ灯油を撒き、火を放つ。
放ったはずだった。
火は一瞬で消えた。
いちいち驚くほど、青くはない。何せここは蛍神社。傍には蛍川も流れている。水の場所だ。ただの炎など、敵ではないという話なのだろう。
光臣と『神』の攻防はしばらく続いた。先に折れたのは光臣だった。
折れたというよりも、馬鹿馬鹿しくなったのだ。こんな──神と呼ぶにはあまりにも世俗に塗れた存在に、父も母も、叔父も叔母も、従兄弟らも、人生を狂わされたのか。
「俺の名前を教えてやる」
自身の名刺を取り出し、布団の上に放り投げながら光臣は言った。
「次は俺のところに来い。抱き潰してやるからよ」
勝算はあった。光臣には『嘘』で作った盾があった。
神が光臣を追って来ることはなかった──雑誌記者鈴谷が、この土地に足を踏み入れるまでは。雑誌記者鈴谷の上司・大村は錆殻光臣との繋がりを持っていた。また、雑誌記者鈴谷と同じ会社で働いていた男、秋元慎也にはその力はなかったが、彼の恋人である政岡涼子には才能があった──錆殻家の人間たちが背負った業に良く似た才能が。
蛍神社の神は、大勢を踏み付けて錆殻光臣に近付いた。
(抱き潰してやる、か)
若かったな、と光臣はひっそりと苦笑する。あんなこと言わなければ良かった、とは特に思わない。今も蛍神社への憎しみはある。いつか、見えない自分の元にあの『神』がやって来たら、正面から挑む覚悟は常にしていた。
恐ろしかったのは、『神』の矛先が甥に向かうことだった。
甥には才能がある。弟と同じ才能が。弟よりも強い才能が。だが、弟ほど甥は強くない。あまりにもお人好しで、若すぎる。何の能力もない伯父──光臣に、弟の置き土産を守る自信がなかった。
だが今は違う。菅原がいる。
菅原は本物だ。そして化け物だ。甥に忠誠を誓う、化け物だ。
自分が死んでも、菅原がきちんと繋いでくれる。
だから来た。
「……」
小燕向葵が、掴まれている手首をくっと引く。黙って振り返った光臣に、小燕は屋根に穴の開いた本殿を指で示す。
何かがいる──のだろうか。
光臣には相変わらず見えないので、分からない。小燕も見える人ではないと思っていたが、光臣よりは部分的に敏感なのかもしれない。
燃やし尽くせなかった本殿。後日人を雇って、廃車予定の車を何台か突っ込ませておいた。車を運転した人間は皆死んだが、罪悪感は特にない。もしかしたら自分には能力以外にも大切な感性が欠けているのかもしれないと思ったが──それはそれで、構わない。
黒い水が降ってくる。
「っと……!!」
小燕を背にしてふところから取り出した塩を撒く。実質、光臣にはこれしか武器がない。菅原が拵えた浄め塩。水が滴った足元が、どろりと溶けていく。小燕が息を呑むのが分かる。なぜこの男をここまで連れてきてしまったのだろう。不意に自問する。
(──善良な、)
そうだ、とても善良で、清らかで、真っ当な。
錆殻光臣とは正反対の存在。小燕向葵。
守刀のように胸に抱いていたかった。
弟との関係がそうであったように。
黒い水は執拗に押し寄せてくる。光臣を本殿に近付けまいという強く、黒い意志が、ひたひたと地面を溶かしていく。
弟が死んでから──錆殻が滅びてから10年。10年分の恨みを抱えているのは光臣だけではない。堕ちた『神』も同じように、最後の錆殻を呑み干そうとしている。
(どうする?)
小燕には申し訳ないが、ここから先には連れて行けない。彼を鳥居の外に逃し、それから──
瞬間。
耳元で、破裂音が響いた。
鼓膜が破れるかと思い振り返ると、
「小燕……!」
眉根を厳しく寄せた小燕向葵が、拳銃を構えている。
水に銃弾を撃ち込んだところで何の効果も──そう思った矢先。
「は……?」
黒い水が、大きくのたうつ。苦しんでいる。
どういうことだ。意味が分からない。
「よもつひらさか」
小燕が唸った。声を出すなと言っていたはずだ──と文句を口にする余裕もない光臣の左肩を強く掴み、右手で拳銃を構えた小燕は続けた。
「迷宮先生が言っていたんだろう? 私も調べてみた。この場所が、この世とあの世の境目だとするならば」
流れているのは三途の川。
小燕向葵の声は、少しだけ笑っていた。
「勘違いするなよ錆殻光臣。私だって、何の覚悟もなくここまで来たわけじゃない」
「どういう意味だよ」
「心中するぐらいの覚悟はある。鹿野迷宮先生の紹介で──横浜の秋とかいう名前の情報屋に会い、秋の手引きで出会った霊能者に祓いのための銃弾を作ってもらった」
黒い水が津波のように大きく盛り上がる。そこに、小燕が新しい銃弾を打ち込む。水がまたしても苦悶する。
「横浜の? 秋? 俺は絶対会えないのに?」
「人間性が腐っている男は嫌いだと言っていたな」
「なんだそれ!? おまえの人間性はまともだっていう自慢か!?」
「下がれ光臣、銃弾は残り三つ!」
私があの水の気を引くから──と小燕はマスクを外し、にやりと笑った。
「光臣、おまえは本殿で片を付けて来い!」
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