38 / 43
第五章 偽る。
第五話 二日間④
しおりを挟む
小燕向葵の声に背中を押されるようにして、本殿に転がり込んだ。そこは既に異界である。錆殻家が滅亡した後、すべてを片付けるために足を踏み入れた蛍神社の本殿ではない。
水が腐る。
水が腐る。
水が腐る。
腐った水が押し寄せてくる。
ちくしょう、と吐き捨てて、ヘドロにも似た水の中に足を突っ込む。前へ、前へ進むしかない。
あの穢れた寝所はいったいどこにあった? 錆殻の人間たちを骨までしゃぶり尽くした神の寝所。廊下が歪んでいる。壁が溶けている。ヘドロに包まれた足に鈍い痛みが走る。
虫だ。
発光する幼虫が、ヘドロの中から這い上がってくる。
「クソッ!」
足元の虫たちに浄め塩を撒いて追い払いながら、錆殻光臣は辺りを見回す。銃弾はあと残り三発だと──あの刑事は言っていたか。光臣が任務を全うしなければ、善性の塊のような人間がひとり、命を落とすことになる。
(弟だけでなく?)
冗談じゃない。そんな展開は絶対にごめんだった。
だが、錆殻光臣は決して心の清らかな男ではない。小燕向葵のために自らの命を捧げるつもりなど、毛頭ない。
ふたりで生き延びて、帰るのだ。目標はそれだけ。ただひとつだけ。
ヘドロの中から足を引き抜いて、目の前のヘドロを踏み潰す。前進。その先に何があるのかを、光臣は知らない。あの頃と同じ光景があるのか、それとも。
──声が聞こえた。
押し寄せる水を払い退け、気付けば全身ずぶ濡れになっていた光臣は、大きく瞬きをして顔を上げる。
声が聞こえた。
その声は確かに「兄さん」と言った。
そこにいるのか。
おまえが。
「──兄さん」
耳慣れた声。喪われた声。嘗て錆殻一族の光であった男の──声。
「戻ってきたの」
手を伸ばす。そこには光がある。
「待ってたよ、僕は、ずっと」
光臣と名付けられたのは長兄だったが、本当に光を纏っていたのはその弟だった。
押し寄せる穢れた水が、尻込みするように動きを止める。
千年にひとりの逸材。
錆殻──
「なあ、おい、おまえ」
「どうしたの、兄さん」
「化け物は人間の言葉を借りて喋るっていうのは本当みたいだな。不愉快だぜ、その声」
「兄さん」
兄さん。
兄さん。
どうしたの、兄さん。
待ってたよ、僕は、兄さん、あなたの、ことを、ずっと、ここで。
大きく息を吐く。
化け物にしてはうまくやってみせた方だろう、だが。
「いいこと教えてやるよ、俺の弟は──那由多はな」
ここまで来るあいだに、もうほとんど使い切ってしまった菅原謹製の浄め塩。
最後の一掴みを手に、光臣は吠える。
「あいつは俺のことを、『兄貴』って呼んでたんだよ」
「──にいさん」
瞬間──ヘドロが、弟、那由多の最期の姿を作り上げる。
清流が濁流に。まるで龍のように──いや、違う。アレは化け物だった。神の化身でもなんでもない、ただの、化け物。それが牙を剥き、水遊びをしていた那由多の息子に襲い掛かった。
「この子を頼む」
那由多が遺した最後の言葉。
光臣は今も呪われている。
那由多の死後、那由多の妻はひとり息子を置いて逐電した。生まれ故郷に戻ったという話だったが、光臣が東京での仕事の合間に彼女の行方を追ったところ、私立探偵にも、警察官にも、那由多の妻を見付けることはできなかった。彼女が生きているのか死んでいるのか、誰にも分からない。
錆殻家は崩壊した。千年にひとりの逸材。那由多はたしかにそれだった。だが彼は、自身の息子を救うために命を投げ出した。蛍川の流れがいちばん激しい場所で発見された那由多の遺体は傷だらけで、傷口は発光していた。思えば、誰もが気付いていたのだろう。もうおしまいだと。錆殻という一族が生き永らえる術は、どこにも残されていないのだと。
「にいさん」
「事前チェックが甘いぜ神様。言っただろう、抱き潰してやるって」
ヘドロが。
弟の姿をした穢れた水が、体に纏わり付く。
両手を伸ばす。抱き締めてやる。呼吸ができない。
ああ、くたばる。
そう思った──刹那。
「浄化、制限、破壊」
そうだ、思い出した。
那由多は煩雑な呪禁を好まなかった。
単純な言葉の組み合わせで、祓いを行った。
建物の外で、銃声が響き渡る。
水が腐る。
水が腐る。
水が腐る。
腐った水が押し寄せてくる。
ちくしょう、と吐き捨てて、ヘドロにも似た水の中に足を突っ込む。前へ、前へ進むしかない。
あの穢れた寝所はいったいどこにあった? 錆殻の人間たちを骨までしゃぶり尽くした神の寝所。廊下が歪んでいる。壁が溶けている。ヘドロに包まれた足に鈍い痛みが走る。
虫だ。
発光する幼虫が、ヘドロの中から這い上がってくる。
「クソッ!」
足元の虫たちに浄め塩を撒いて追い払いながら、錆殻光臣は辺りを見回す。銃弾はあと残り三発だと──あの刑事は言っていたか。光臣が任務を全うしなければ、善性の塊のような人間がひとり、命を落とすことになる。
(弟だけでなく?)
冗談じゃない。そんな展開は絶対にごめんだった。
だが、錆殻光臣は決して心の清らかな男ではない。小燕向葵のために自らの命を捧げるつもりなど、毛頭ない。
ふたりで生き延びて、帰るのだ。目標はそれだけ。ただひとつだけ。
ヘドロの中から足を引き抜いて、目の前のヘドロを踏み潰す。前進。その先に何があるのかを、光臣は知らない。あの頃と同じ光景があるのか、それとも。
──声が聞こえた。
押し寄せる水を払い退け、気付けば全身ずぶ濡れになっていた光臣は、大きく瞬きをして顔を上げる。
声が聞こえた。
その声は確かに「兄さん」と言った。
そこにいるのか。
おまえが。
「──兄さん」
耳慣れた声。喪われた声。嘗て錆殻一族の光であった男の──声。
「戻ってきたの」
手を伸ばす。そこには光がある。
「待ってたよ、僕は、ずっと」
光臣と名付けられたのは長兄だったが、本当に光を纏っていたのはその弟だった。
押し寄せる穢れた水が、尻込みするように動きを止める。
千年にひとりの逸材。
錆殻──
「なあ、おい、おまえ」
「どうしたの、兄さん」
「化け物は人間の言葉を借りて喋るっていうのは本当みたいだな。不愉快だぜ、その声」
「兄さん」
兄さん。
兄さん。
どうしたの、兄さん。
待ってたよ、僕は、兄さん、あなたの、ことを、ずっと、ここで。
大きく息を吐く。
化け物にしてはうまくやってみせた方だろう、だが。
「いいこと教えてやるよ、俺の弟は──那由多はな」
ここまで来るあいだに、もうほとんど使い切ってしまった菅原謹製の浄め塩。
最後の一掴みを手に、光臣は吠える。
「あいつは俺のことを、『兄貴』って呼んでたんだよ」
「──にいさん」
瞬間──ヘドロが、弟、那由多の最期の姿を作り上げる。
清流が濁流に。まるで龍のように──いや、違う。アレは化け物だった。神の化身でもなんでもない、ただの、化け物。それが牙を剥き、水遊びをしていた那由多の息子に襲い掛かった。
「この子を頼む」
那由多が遺した最後の言葉。
光臣は今も呪われている。
那由多の死後、那由多の妻はひとり息子を置いて逐電した。生まれ故郷に戻ったという話だったが、光臣が東京での仕事の合間に彼女の行方を追ったところ、私立探偵にも、警察官にも、那由多の妻を見付けることはできなかった。彼女が生きているのか死んでいるのか、誰にも分からない。
錆殻家は崩壊した。千年にひとりの逸材。那由多はたしかにそれだった。だが彼は、自身の息子を救うために命を投げ出した。蛍川の流れがいちばん激しい場所で発見された那由多の遺体は傷だらけで、傷口は発光していた。思えば、誰もが気付いていたのだろう。もうおしまいだと。錆殻という一族が生き永らえる術は、どこにも残されていないのだと。
「にいさん」
「事前チェックが甘いぜ神様。言っただろう、抱き潰してやるって」
ヘドロが。
弟の姿をした穢れた水が、体に纏わり付く。
両手を伸ばす。抱き締めてやる。呼吸ができない。
ああ、くたばる。
そう思った──刹那。
「浄化、制限、破壊」
そうだ、思い出した。
那由多は煩雑な呪禁を好まなかった。
単純な言葉の組み合わせで、祓いを行った。
建物の外で、銃声が響き渡る。
0
あなたにおすすめの小説
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
処刑台の皇妃、回帰して復讐を誓う ~冷酷公爵と偽りの婚約者~ おまえたちは許さない!
秦江湖
ファンタジー
皇妃エリアーナは、夫である皇帝アランと、たった一人の親友イザベラの策略により、無実の罪で処刑される。
民衆に罵られ、アランの冷酷な目とイザベラの嘲笑を「始まりの景色」として目に焼き付けながら絶命した彼女は、しかし、処刑の記憶を持ったまま三年前の過去に回帰する。
「おまえたちは許さない」
二度目の人生。
エリアーナの目的はただ一つ、自分を陥れた二人への完璧な復讐。
彼女はまず、アラン(皇太子)からの婚約内示を拒絶。そして、アラン最大の政敵である「北の冷血公爵」ルシアン・ヴァレリウスに接触する。
1周目で得た「未来の知識」を対価に、エリアーナはルシアンに持ちかける。
「貴方様には帝国の覇権を。わたくしには復讐の舞台を。そのための『契約婚約』を――」
憎悪を糧に生きる皇妃と、氷の瞳を持つ公爵。
二人の偽りの婚約の行く末は……
思いを込めてあなたに贈る
あんど もあ
ファンタジー
ファナの母が亡くなった二ヶ月後に、父は新しい妻とその妻との間に生まれた赤ん坊を家に連れて来た。義母は、お前はもうこの家の後継者では無いと母から受け継いだ家宝のネックレスを奪うが、そのネックレスは……。
【完結】婚約破棄はお受けいたしましょう~踏みにじられた恋を抱えて
ゆうぎり
恋愛
「この子がクラーラの婚約者になるんだよ」
お父様に連れられたお茶会で私は一つ年上のナディオ様に恋をした。
綺麗なお顔のナディオ様。優しく笑うナディオ様。
今はもう、私に微笑みかける事はありません。
貴方の笑顔は別の方のもの。
私には忌々しげな顔で、視線を向けても貰えません。
私は厭われ者の婚約者。社交界では評判ですよね。
ねぇナディオ様、恋は花と同じだと思いませんか?
―――水をやらなければ枯れてしまうのですよ。
※ゆるゆる設定です。
※名前変更しました。元「踏みにじられた恋ならば、婚約破棄はお受けいたしましょう」
※多分誰かの視点から見たらハッピーエンド
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる