【完結】ドグマ

大塚波

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第五章 偽る。

第五話 二日間④

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 小燕こつばめ向葵あおいの声に背中を押されるようにして、本殿に転がり込んだ。そこは既に異界である。錆殻さびがら家が滅亡した後、すべてを片付けるために足を踏み入れたほたる神社の本殿ではない。

 水が腐る。
 水が腐る。
 水が腐る。
 腐った水が押し寄せてくる。

 ちくしょう、と吐き捨てて、ヘドロにも似た水の中に足を突っ込む。前へ、前へ進むしかない。
 あの穢れた寝所はいったいどこにあった? 錆殻の人間たちを骨までしゃぶり尽くした神の寝所。廊下が歪んでいる。壁が溶けている。ヘドロに包まれた足に鈍い痛みが走る。
 虫だ。
 発光する幼虫が、ヘドロの中から這い上がってくる。

「クソッ!」

 足元の虫たちに浄め塩を撒いて追い払いながら、錆殻さびがら光臣みつおみは辺りを見回す。銃弾はあと残り三発だと──あの刑事は言っていたか。光臣が任務を全うしなければ、善性の塊のような人間がひとり、命を落とすことになる。

(弟だけでなく?)

 冗談じゃない。そんな展開は絶対にごめんだった。
 だが、錆殻光臣は決して心の清らかな男ではない。小燕向葵のために自らの命を捧げるつもりなど、毛頭ない。

 ふたりで生き延びて、帰るのだ。目標はそれだけ。ただひとつだけ。

 ヘドロの中から足を引き抜いて、目の前のヘドロを踏み潰す。前進。その先に何があるのかを、光臣は知らない。あの頃と同じ光景があるのか、それとも。
 ──声が聞こえた。
 押し寄せる水を払い退け、気付けば全身ずぶ濡れになっていた光臣は、大きく瞬きをして顔を上げる。

 声が聞こえた。

 その声は確かに「兄さん」と言った。
 そこにいるのか。
 おまえが。

「──兄さん」

 耳慣れた声。喪われた声。嘗て錆殻一族の光であった男の──声。

「戻ってきたの」

 手を伸ばす。そこには光がある。

「待ってたよ、僕は、ずっと」

 光臣と名付けられたのは長兄だったが、本当に光を纏っていたのはその弟だった。
 押し寄せる穢れた水が、尻込みするように動きを止める。
 千年にひとりの逸材。
 錆殻──

「なあ、おい、おまえ」
「どうしたの、兄さん」
。不愉快だぜ、その声」
「兄さん」

 兄さん。
 兄さん。
 どうしたの、兄さん。
 待ってたよ、僕は、兄さん、あなたの、ことを、ずっと、ここで。

 大きく息を吐く。
 化け物にしてはうまくやってみせた方だろう、だが。

「いいこと教えてやるよ、俺の弟は──那由多なゆたはな」

 ここまで来るあいだに、もうほとんど使い切ってしまった菅原すがわら謹製の浄め塩。
 最後の一掴みを手に、光臣は吠える。

「あいつは俺のことを、『兄貴』って呼んでたんだよ」
「──にいさん」

 瞬間──ヘドロが、弟、那由多の最期の姿を作り上げる。
 清流が濁流に。まるで龍のように──いや、違う。アレは化け物だった。神の化身でもなんでもない、ただの、化け物。それが牙を剥き、水遊びをしていた那由多の息子に襲い掛かった。

「この子を頼む」

 那由多が遺した最後の言葉。

 光臣は今も呪われている。

 那由多の死後、那由多の妻はひとり息子を置いて逐電した。生まれ故郷に戻ったという話だったが、光臣が東京での仕事の合間に彼女の行方を追ったところ、私立探偵にも、警察官にも、那由多の妻を見付けることはできなかった。彼女が生きているのか死んでいるのか、誰にも分からない。
 錆殻家は崩壊した。千年にひとりの逸材。那由多はたしかにそれだった。だが彼は、自身の息子を救うために命を投げ出した。蛍川の流れがいちばん激しい場所で発見された那由多の遺体は傷だらけで、傷口は発光していた。思えば、誰もが気付いていたのだろう。もうおしまいだと。錆殻という一族が生き永らえる術は、どこにも残されていないのだと。

「にいさん」
「事前チェックが甘いぜ神様。言っただろう、抱き潰してやるって」

 ヘドロが。
 弟の姿をした穢れた水が、体に纏わり付く。
 両手を伸ばす。抱き締めてやる。呼吸ができない。
 ああ、くたばる。
 そう思った──刹那。

浄化ジョーカ制限セーゲン破壊ブッコワス

 そうだ、思い出した。
 那由多は煩雑な呪禁を好まなかった。
 単純な言葉の組み合わせで、祓いを行った。
 建物の外で、銃声が響き渡る。
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