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第五章 偽る。
第六話 二日間⑤
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道が開ける。
ヘドロが消えて、廊下の色が見えるようになる。水浸しだ。
あんなに何度も燃やそうとしたのは本当に無駄だったのだな──と、ヘドロから解放され、全身ずぶ濡れになった光臣は小さく咳き込みながら内心呟く。かといって、放火以外の手段があの頃の光臣の中には存在しなかった。錆殻のすべてを破壊した腐った場所を灰にすることでしか、自分を自由にしてやることができなかったのだ。
足を踏み出す。変色し、ギシギシと軋む廊下を踏み締めて進む。この廊下のいちばん奥に──あの寝所はあったはずだ。
歩き続けたその先に、寝所は、あった。
記憶の中に引っかかっていたほど豪奢ではなかったし、敷き詰められた布団は腐っていた。途方に暮れそうになる自分自身を叱咤して、部屋の中をじっくりと観察する。
ここにあるはずなのだ。堕ちた神にとどめを刺すための何かが。
「──骨壷」
声が。
驚くほどに掠れた声が、喉の奥から落ちた。
寝所の壁を埋め尽くす、無数の骨壷。すべてに『錆殻』の文字が──いや──骨壷には、いったい何と書かれている?
あれは、錆殻の一族の骨が納められた骨壷ではないのか?
「サビガラなんて一族は存在しない」
「は……」
木蓮だ。
腐った布団を踏み締め、骨壷の前に膝を付いた光臣の傍らに、藍色のスカジャンに白いショートパンツ姿の木蓮が立っていた。
「アンタが吐いたウソの一族、それが、サビガラ」
「木蓮……どうして……」
「秋の言う通りだね。アンタ、自分のウソに飲み込まれてる」
──秋。
横浜中華街に事務所を構える情報屋。外で孤軍奮闘している小燕向葵に祓いの力を持つ銃弾を作ることができる人間、或いは化け物を紹介した──地獄の人材派遣業のトップ。
「木蓮、誰かがおまえに、依頼をしたのか?」
「今回の依頼人は、秋。アンタのことはどっちでもいいけど、外にいる刑事がしぬのはアトアジ悪いって」
「そう……小燕を……」
「それよりアンタ、目は見えている?」
木蓮の長い指が、光臣の後頭部をがっしりと掴む。
目の前の骨壷をどんなに凝視しても、それがいったい誰のものなのか、光臣には分からない。
「ナユタ」
木蓮が、平坦な声で言った。
「ナユタのことも、分からない?」
「那由多は──俺の弟だ。水の怪異に食われて死んだ」
「ああ~」
平たい声のまま、木蓮が呆れたように息を吐く。
「それもウソだ。思い出しな。アンタの弟はナユタじゃない」
アンタの弟の女房、それがナユタ。
耳元で囁かれ、光臣の心臓は大きく跳ねる。
死んだ弟の名前は、那由多ではない? 行方を晦ましている弟の妻の名が──那由多?
「そんな馬鹿な……」
「バカなウソを積み上げたのはアンタだ。でもまあムダじゃあなかった。アンタはウソの煙幕で蛍のコウゲキから弟の子どもを守った。そうだろ」
「俺は」
「でもそのウソにアンタは飲み込まれた。まあ、べつに、アタシにはカンケイない。サビガラっていうウソの一族の評価が高まれば高まるほど、蛍たちは動けなくなる」
ぱ、っと木蓮の手が光臣の後頭部を解放する。
がくりとその場に頭を垂れる光臣の目の前で、木蓮が無造作に骨壷の蓋を開ける。
中には。
なにもなかった。
白い骨の欠片はもちろん、骨を模した石ころさえも入っていなかった。
文字通り、錆殻は食い尽くされたのだ。
(俺の──弟は?)
弟の名前が思い出せない。弟の名前は那由多ではなかった。
弟は──千年に一度の逸材、錆殻の一族の光であったあの男の、
なま、
え、
は、
「……どうでもいい」
「ン?」
自暴自棄になったわけではない。本心からの言葉だった。
弟の名前は分からない。自分が嘗て──何という名前の一族に属していたのかも、もはやどうでも良かった。
骨壷の中は空で、だが、もう光臣を追い立てる奇妙な水の存在はない。蛍の気配すらも。
だから。
「行くぞ、木蓮」
「アンタ、もう立ち直ったのか。スゴイな」
「立ち直るも何も、俺はそもそもこんなこと……こんな場所、どうでも良かった」
「それじゃあどうして、イライを引き受けた?」
「さあ、なんでだろうな。おまえ、浄めの塩持ってるか?」
「ああ、あるよ。ナユタに作ってもらったんだ」
と、スカジャンのポケットから小瓶を取り出す木蓮の顔を、光臣はじっと見据える。
この小娘は、今──何と言った?
「那由多……?」
「ナユタは今……ああ、場所は言っちゃダメなんだった。とにかく、生きてる。秋と連絡を取り合っている。刑事のために銃弾を作ったのもナユタだ」
木蓮から受け取った小瓶の中身を、光臣は骨壷すべての上に振りかけて回る。
骨壷が溶けていく。中に封じられていた何かを巻き込んで、消えていく。
誰か──知っている者がいるなら教えてほしい。
俺の弟は、いったい何という名前だった?
そもそも、弟なんて本当に存在したのか?
ヘドロが消えて、廊下の色が見えるようになる。水浸しだ。
あんなに何度も燃やそうとしたのは本当に無駄だったのだな──と、ヘドロから解放され、全身ずぶ濡れになった光臣は小さく咳き込みながら内心呟く。かといって、放火以外の手段があの頃の光臣の中には存在しなかった。錆殻のすべてを破壊した腐った場所を灰にすることでしか、自分を自由にしてやることができなかったのだ。
足を踏み出す。変色し、ギシギシと軋む廊下を踏み締めて進む。この廊下のいちばん奥に──あの寝所はあったはずだ。
歩き続けたその先に、寝所は、あった。
記憶の中に引っかかっていたほど豪奢ではなかったし、敷き詰められた布団は腐っていた。途方に暮れそうになる自分自身を叱咤して、部屋の中をじっくりと観察する。
ここにあるはずなのだ。堕ちた神にとどめを刺すための何かが。
「──骨壷」
声が。
驚くほどに掠れた声が、喉の奥から落ちた。
寝所の壁を埋め尽くす、無数の骨壷。すべてに『錆殻』の文字が──いや──骨壷には、いったい何と書かれている?
あれは、錆殻の一族の骨が納められた骨壷ではないのか?
「サビガラなんて一族は存在しない」
「は……」
木蓮だ。
腐った布団を踏み締め、骨壷の前に膝を付いた光臣の傍らに、藍色のスカジャンに白いショートパンツ姿の木蓮が立っていた。
「アンタが吐いたウソの一族、それが、サビガラ」
「木蓮……どうして……」
「秋の言う通りだね。アンタ、自分のウソに飲み込まれてる」
──秋。
横浜中華街に事務所を構える情報屋。外で孤軍奮闘している小燕向葵に祓いの力を持つ銃弾を作ることができる人間、或いは化け物を紹介した──地獄の人材派遣業のトップ。
「木蓮、誰かがおまえに、依頼をしたのか?」
「今回の依頼人は、秋。アンタのことはどっちでもいいけど、外にいる刑事がしぬのはアトアジ悪いって」
「そう……小燕を……」
「それよりアンタ、目は見えている?」
木蓮の長い指が、光臣の後頭部をがっしりと掴む。
目の前の骨壷をどんなに凝視しても、それがいったい誰のものなのか、光臣には分からない。
「ナユタ」
木蓮が、平坦な声で言った。
「ナユタのことも、分からない?」
「那由多は──俺の弟だ。水の怪異に食われて死んだ」
「ああ~」
平たい声のまま、木蓮が呆れたように息を吐く。
「それもウソだ。思い出しな。アンタの弟はナユタじゃない」
アンタの弟の女房、それがナユタ。
耳元で囁かれ、光臣の心臓は大きく跳ねる。
死んだ弟の名前は、那由多ではない? 行方を晦ましている弟の妻の名が──那由多?
「そんな馬鹿な……」
「バカなウソを積み上げたのはアンタだ。でもまあムダじゃあなかった。アンタはウソの煙幕で蛍のコウゲキから弟の子どもを守った。そうだろ」
「俺は」
「でもそのウソにアンタは飲み込まれた。まあ、べつに、アタシにはカンケイない。サビガラっていうウソの一族の評価が高まれば高まるほど、蛍たちは動けなくなる」
ぱ、っと木蓮の手が光臣の後頭部を解放する。
がくりとその場に頭を垂れる光臣の目の前で、木蓮が無造作に骨壷の蓋を開ける。
中には。
なにもなかった。
白い骨の欠片はもちろん、骨を模した石ころさえも入っていなかった。
文字通り、錆殻は食い尽くされたのだ。
(俺の──弟は?)
弟の名前が思い出せない。弟の名前は那由多ではなかった。
弟は──千年に一度の逸材、錆殻の一族の光であったあの男の、
なま、
え、
は、
「……どうでもいい」
「ン?」
自暴自棄になったわけではない。本心からの言葉だった。
弟の名前は分からない。自分が嘗て──何という名前の一族に属していたのかも、もはやどうでも良かった。
骨壷の中は空で、だが、もう光臣を追い立てる奇妙な水の存在はない。蛍の気配すらも。
だから。
「行くぞ、木蓮」
「アンタ、もう立ち直ったのか。スゴイな」
「立ち直るも何も、俺はそもそもこんなこと……こんな場所、どうでも良かった」
「それじゃあどうして、イライを引き受けた?」
「さあ、なんでだろうな。おまえ、浄めの塩持ってるか?」
「ああ、あるよ。ナユタに作ってもらったんだ」
と、スカジャンのポケットから小瓶を取り出す木蓮の顔を、光臣はじっと見据える。
この小娘は、今──何と言った?
「那由多……?」
「ナユタは今……ああ、場所は言っちゃダメなんだった。とにかく、生きてる。秋と連絡を取り合っている。刑事のために銃弾を作ったのもナユタだ」
木蓮から受け取った小瓶の中身を、光臣は骨壷すべての上に振りかけて回る。
骨壷が溶けていく。中に封じられていた何かを巻き込んで、消えていく。
誰か──知っている者がいるなら教えてほしい。
俺の弟は、いったい何という名前だった?
そもそも、弟なんて本当に存在したのか?
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