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第五章 新たなる世界へ

4、叔父との再会

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櫻は洋装店での仕事をしていた。
辻と会わなくなって二日が経った。
喪失感というのはある。でも、あの愛おしい電報が自分を支えていた。
愛というものを教えてくれた辻をもう一度思い返していた。

「ちょっといいかしら」
事務室にアグリが入ってきた。
「今日、辻百貨店の群馬支店から支店長さんがお見えになることになったの。それで、江藤さん、洋菓子屋さんにケーキを買いに行ってくれないかしら?」
「はい。でも、もしよければ私の叔父の和菓子はいかがでしょうか?」
「そうね。もう顔をお見せしなくなってしばらく経ってしまったものね。支店長がお見えになるのは15時だから、14時半までには買ってきてくれる?」
「はい、わかりました。省線で行ってきます。」
支度を済ませると、櫻は上野に向けて出発した。

銀座から30分ほどして田中菓子店に着いた。
「しばらくしてます、櫻です。」
「あら、櫻じゃないの。今日はどうしたの?」
女中仲間だったスエが喜んだ。
「アグリ先生のところにお客様が来るので、田中菓子店のお菓子を買いに来ました。あと、おじにも挨拶も。」
「あら、じゃあきちんとしたお菓子がいるわね。最近流行ってる、水菓子なんてとてもいいわよ。私の方で選んでおくから社長に会ってきたら?」
「スエさんありがとうございます。ではお言葉に甘えて。」

櫻は店内の奥に入って、社長室にむかう。
「櫻です。お忙しいところ失礼します。よろしいでしょうか?」
「櫻か。ああ、入っていいよ。」
「この間は父が失礼しました。私もこちらの家に頻繁に顔を出すべきでした。」
「いや、いいんだよ。あの後、百貨店の人がやってきてことを収めてくれたとこま遣いが言っていたよ。正直俺もね、兄さんのやり方には疑問があるんだ。」
「疑問?」
「櫻が生きたいように生きることは難しいことは知っている。でもね、兄さんは自分の欲が娘の幸せより上の気がしてね。」
「そうですよね。おじさまは野枝のこと第一に考えていらっしゃいますものね。」
「お前は小さな頃から、奉公に出ていただろ。だから、家族というものの感覚が違うのかもしれない。」
櫻も小さい頃から思っていた。みな、休みがあると実家に帰るが、奉公先から家に帰りたくなかった。

「櫻が私にいうことはないと思うけど、私はお前の能力を認めているよ。言葉にするのは初めてかもしれないが。職業婦人も夢じゃないかもしれない。しかし、そこには兄さんをどうにかしないとだね。」

「私も独り立ちできるように生きたいです。人生が色づき出したんです。」
「それはよかった。顔を見せられる時は、こちらによってくれ。」
「はい、よろしくお願いします。」

帰りにスエが選んでくれた菓子を手にして田中菓子店を後にした。
一緒に住んでいた時に見れなかった叔父の思いを思った。

そこまでしてくれたのは辻だ。
上野菓子店からの坂を降りる時、何度も辻と愛し合ったことを思い出した。
触れたい。でも、心の中にいる辻が私を温かくしてくれている。
あと、何日で帰ってくるかわからないが、成長した自分を辻に見せることを楽しみにした櫻だった。




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