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第十六章 最終学年

92、お忍び

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夕方に家に帰ってきて、今日は仕事も家庭教師もないとある日であった。

望月の車に乗って帰ってきて、食事の時間まで自主学習をしようと櫻は思っていた。

机に座って、外国語の勉強ノートを開いたところでノックされた。

「どうかしました?」
櫻が尋ねた。

ナカがこう言った。
「あの櫻お嬢様、辻様がお見えで。」
「え?先生が?」

気をつけるために平日は来ないことになっている。

リビングに行くと、ハンチング帽を被った辻が立っていた。
「先生、今日は洋装なんですね。」
「ああ、今日は探偵気取りでね。」
「冗談ですか?」
「うん。その通り。」

どうやら、坂本の車もつけられてると感じた辻は途中で車を降り、電車で望月洋装店に預けているスーツを着てきたとのことだった。

「あの。」
「ん?」
「テラスで話しませんか?」
「いいね。」

夕暮れ時だった。
「オレンジ色だね。」
「オレンジ?」
「ああ、外国のみかんさ。」
「じゃあ、橙みたいな?」
「そう。色鉛筆だと橙色って書いてあるね。」
「私、どちらの言い方も好きです。」
「日本の良さは外国語も柔軟に取り入れるところだね。」

二人はテラスから見える空と庭を眺めていた。
「ああ、今ある雲が龍みたいです。」
「あの雲が時速100キロで地球を一周してきてここに戻ってくるとしたらどうする?」
「時速100キロ?」
「曇ってさ、毎回違うようで、どこかで見たような気がする不思議な存在だよね。」
「先生って詩人みたい。」
「詩人だよ。」
「え?」
「僕は詩を読むよ。」
「詩を読むんですか?」
「今はちょっとお休みしてるけどね。」
「望月さんから、先生の作品借りました。」
「稚拙だろ。」
「その逆。」
「面白みはないよ。」
「私、難しいとは思いました。でも、先生らしいなとも思いました。」
「こんなふうにいうと櫻くんが重荷になるかもだけど。前にも言ったけど、将来は君を詩にしたいよ。」
「恐縮です。」
「探偵がいうことじゃないね。」
「先生の表現好きです。」
「僕は感情がこんなに自分にあることに驚いてるよ。」
「どういうことですか?」
「櫻くんと出会ってね、自由に表現することを枷にしなくなったんだ。」
「ちょっと難しいかも。」
「いや、わかりにくいけど、君といると世界が広がる。」
「それは私の方が。」
「お互いに補ってるんだね。」
「そうですね。」

ふふふと二人で笑った。
少しの時間でも会えたこと、心に触れられたことが櫻は嬉しかった。
二人の時間は穏やかに過ぎていった。
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