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お互いに遠い存在
しおりを挟む宵さまと、博弥さん。二人は、とてもよく似ている。世の全てを憎むように、睨みつける目をしている。それは、単に彼らの将来を知っているから、先入観でそう思うのかな。
「お早いお帰りですね」
「……あぁ」
なぜ、宵さまが博弥さんを?
そう、聞きかけて、いや息子なんだから、抱いて現れても少しもおかしくないか、と思い直した。
「あっ、ちょっと待ってくださいね」
博弥さんを受け取る為に、貴世実さんを抱っこした。
絹子の筋肉は育たない。
多分、胃腸が弱いのだ。食事中に食事に疲れるという経験を初めてした。美味しい食事が並んでいるのに、いっぱい食べられない不幸。
健康的な我が肉体か、華奢で美貌を誇る絹子か。
選べるとしたら悩ましい問題だ。
若いころなら絹子一択だが、年々、価値観が変わってくる。
絹子に二人は重いから、宵さまが居なくなったら、ソファに沈んで、すぐに人を呼ぼう。
まったく、洋館に住んで子育って難しい。畳ならハイハイし放題なのに。靴履いたままの暮らしに慣れない。つい、畳張りの客間に籠りがちになる。
そんな事を考えていると、宵さまが近寄ってきた。
「今すぐに……」
博弥さんを渡されるのかと思って、構えた。
「あ、あれ」
私の腕から貴世実さんが奪われていった。
「あー!」
当の本人は、目線が高くなって、喜んでいる。
宵さまが、両腕に赤子を抱いている。
尊い。
正直、似合わないのだが、良い。
子供を攫う悪魔役みたいだ。
「……宵さま」
ニヤニヤしそうになる口元をぐっと手で押さえて見上げた。宵さまは、眉間に皴を寄せて、不機嫌そうな顔をしている。
博弥さんの手が、宵さまのオールバックをつまんで乱し、彼の癖毛が散らかり始めた。
なんと、色気ましまし。
堪らない。
もっとやりなさい、博弥さん。
「……大して持たない」
「へ?」
「私では、こいつらを制御できない」
「?」
宵さまが何を言いたいのか分からず、じゃあ受け取りますけど、と腕を広げた。
「……」
すると、宵さまは、なおも手を伸ばしてくる博弥さんから顔を反らしながら、ピアノを顎でしゃくった。
あぁ、練習しろってことですね。
それは、美しい絹子の音色を取り戻すために?
「……」
私は、微笑んだ。
多分、不機嫌が顔に出た。
良い年なのに。社会人、長いのに。
「……」
宵さまは、感じ取った。
平静を装った風だけど、瞼が少し下がった。
「あーう」
博弥さんが、宵さまの髪をかきむしって、貴世実さんがスーツに涎を擦りつけている。
宵さまは、動かない。何も、言わない。
私は、理不尽な怒りと、それを自覚する反省の心で、気持ちを切り替える為に大きく息を吐きながら、ピアノの椅子に座った。
最近、練習していた曲の楽譜を開き、弾き始めた。
いつもより、もっと下手くそだった。
イライラする。自分に。
コントロールできない感情に。
「あぎゃー」
怒った博弥さんの声で振り返ると、抱っこから降ろされたことを宵さまに抗議している。
腕を伸ばして、とても、怒っている。
それを見下ろした宵さまは、眉がもっと寄っている。
二人のにらみ合いが続き、宵さまは「少しの間、待っていろ」とつぶやいた。
そして、私の隣に立った。
大きな手が伸びてきて。
「っ!」
怒られる!?
咄嗟に目をつぶったけど、本が閉じる音で目を開いた。
譜面台に置いた教則本は、閉じられて、ピアノの上に投げ出された。
そして、宵さまは、博弥さんを再び抱き上げた。
「……聞くに堪えないですよね、前と全然違って……」
「君は以前より下手になった」
「……」
思わず自嘲してしまった。
そんな事ないとでも言われたかったのか。
「しかし、そもそも……君のピアノは、遠くで一度聞いたきりだ」
「そう、なんですか?」
絹子のピアノを囲む、二人っきりのロマンチックな場面を勝手に想像していた。
絹子にも宵さまを好ましく思う瞬間ぐらいあったのだと。
「忘れたのか」
「……」
ぐうの音もでず、目を反らした。
「君は、ここでピアノを弾く事などなかった。そもそも、顔を合わすことすら珍しい……」
「そ、そういえば、そうでしたね……」
「君は、私をおぞましいく、気味の悪い男だと……」
「そ、そんなことは」
絹子よ。
どうしてくれるのだ。
私の顔は、どんどん傾いていった。
もはや足を見ている。
「私は――下手な音が嫌いじゃない」
思わず顔を上げたら、宵さまと目が合った。
どきりと、鼓動が跳ねた。
「音楽など遠い世界だと思っていた。だが、楽器には練習が必要だと、改めて知った」
宵さまの口は饒舌だ。
それは、そうだ。実業家だ。
外では、自信に満ち溢れ、夢を語り、人々を導いている。
だけど、家では寡黙だった。映画の中でも。
家では、殆ど話していなかった。
博弥さんにも、厳しくするばかりだった。その意味すら語らず。
「君が、必死に練習する姿をみて……驚いた」
「がっかりしたのでは?」
私の質問に、宵さまが首を振り、その動いた毛を博弥さんが捕まえた。
宵さまは、嫌そうに眼をつぶったが、諦めた顔をした。
「先ほど、君が弾いた曲は聞いたことがある……とても、懐かしい気分になった」
「あぁ、子守歌ですね」
「それに――私は、君を下手だと言うが、自分は音すら分からない。楽譜なんて読めない」
宵さまは、顔色が変わった。嫌な事でも考えているのだろうか。
神をずっと見つめて来たからわかる些細な変化だけど。
そうだ――宵さまは、自分の生まれを卑下していた。
痩せた土地の寒村。
辛うじて雪に潰されていない、茅葺屋根の家。
冬は、他所の家で貰う風呂に数日に1回はいれるか否か。藁を詰めた布団は、吐息で凍る。
人の命は軽く、食うにも困り、子供を売る地域だ。
幼いころから、ガリガリに痩せた背の高い子供。
きつい眼差しばかり目立って、同年代の子供たちからも、大人からも気味悪がられ、何の理由もなく憂さ晴らしに殴られたり、真冬に水をかけられたり、川に落とされたり、ギリギリのところで生きていた。
母親が他所の男と作った私生児を守ってくれる家族は居なかった。
毎日、朝から晩まで働かされていた。
手も足もヒビ切れて、霜焼けになり、凍傷になりかけたことも。
ほんの数分のシーンだったけれど、凄く印象的だった。
奉公に出された場所は、宵さまにとっては生活のアップグレードだった。
寒さに閉じ込められることもなく、食べるものがある。機転を利かせ働き回れば、重宝された。
もちろん、やっかみも多かったが。
「君も、音楽も、遠い世界のものだと、そう思っていた――」
私も、そうだ。
宵さま――神は、遠い世界の存在だった。
凄く憧れているけど、近づいてはいけない存在で。身近に感じてはいけない。距離を取り、親しみを感じてはいけない。
宵さまは、絹子に同じように感じていたのだろうか。輝かしくて、美しい世界に住む人。
「絹子は、裕福な家に生まれた性格が悪い、ただの綺麗な女です」
「……」
ごめん絹子。
映画見てて、自業自得すぎると思ってた。
確かに、鬱々とする気持ちは、ちょっとわかるけど。
「すごいのは宵さまの方ですよ。ご自身の力だけで、そこまで昇ったんですから……その道のりは、きっと、努力や苦労なんて軽いことばじゃ表せない」
受験もそうだ。狭い門には、通過できる人数が決まっている。
頭のいい親から生まれた、地頭のいい子が、幼いころから十分なお金をかけた教育を受けてくる。
それに対して、ぽんと生まれた頭のいい子もいるけれど、その他は、様々な状況の中、努力した人たちだ。努力すらさせてもらえない子もいる。
もちろん、その戦いに勝ったから幸せとは限らない。
ただ、その戦いに臨むのに、重要な要素は「本人の意思、欲望の強さ」はあるなと感じていた。
自らを突き動かすほどの、欲。誰に応援されずとも、何としても、と突き進む意思。
「宵さまには、強い意志や欲がありますよね。凄いなぁと私は思います」
私には無かった。
規定範囲くらいの努力はしてきたけど、壁は超えてない。そこまでして欲しいと手を伸ばしたことがない。
宵さまは、沈黙している。
何を偉そうに小娘が、とでも思っているのだろうか。それもそう。
「私、宵さまが、絹子の音色は美しかった、なんていうから、昔の絹子に嫉妬したんだと思います」
嫉妬も欲だ。
絹子より、気に入られたいとでも思ってるのだろう。自分が恐ろしい。
「でも、諦めたくなってきました。ピアノの練習、楽しくないです」
「……」
「だから、私が割と好きな事します」
宵さまは、不審げに眉を寄せた。
「君たちは少し待っててくださいね」
「あうあー」
博弥さんと貴世実さんに話しかけたら、博弥さんが答えてくれた。
「ちょっと下ろしてください、二人とも」
「……」
宵さまは、博弥さんを座らせ、貴世実さんを抱きながら上手にスーツの上着を脱ぐと、それを床にひいた。
そして、そこに貴世実さんを寝かせた。
し、紳士!
私が衝撃を受けていると、どうするんだ、という顔で見下ろされた。
「あ、ここに座ってください。教師ごっこをします」
宵さまに、ピアノの前に座ってもらって、自分は横に立った。
すごい。
足が長い高身長、すごい。
椅子に座ると、背が高くない。
うわぁ、椅子そんなに遠くに置いても、腕届くんだ。
どうでも良いことに感動していると、間近で不審な目をむけられた。
目を反らすために、博弥さんと貴世実さんを確認したら、二人がコラボしてた。
「宵さま、見てください!二人が見つめ合ってます」
仰向けで首を回した貴世実さんが、近くにお座りしている博弥さんと見つめ合っている。
「可愛いが過ぎる!」
「……」
「写真が撮れたら良いのにぃ、この奇跡の瞬間がぁ」
「……」
つい、バシバシ、宵さまの肩を叩いてしまった。
「あっ、すいません」
「……」
宵さまの顔から感情は読み取れないけど、怒ってはいなそう。一度、咳ばらいをして気を取り戻し、ピアノに向き合った。
「いいですか、宵さま。このピアノのお臍みたいな鍵穴があるじゃないですか、その上の所がド、Cです」
鍵盤の出っ張っている所にある鍵穴を指さし、指をあげていってドの音をだした。
「あぁ」
「すいません、ちょっと話が変わりますが、きぬ……私の謎の鍵これかなぁ?」
あいにく鍵を持ち歩いていないけど、確かめるように、鍵穴を覗いた。
「おい……」
「あっ、すいません」
宵さまのお腹あたりまで頭を持って行って、慌てて引いた。近かった。うっかり凄い近かった。
「この鍵は違う。使用人が保管している」
「そうなんですね」
じゃあ、どこの鍵なのだろう。
今度、色々さがしてみようかな。
ぼけっとしていると、宵さまが鍵盤を押した。
キーボードを一本指で押すみたいに、人差し指だけ伸ばして、鍵盤を押す宵さまが愛くるしい。
「……なんだ」
顔を押さえて、愛くるしさに耐える私を宵さまが睨んでいる。
「いえ、大変、可愛らしくて」
「は?」
「ですから、とても愛らしくて」
宵さまが、後ろを向いて子供たちに目線を送った。
か、かわいい。
可愛いの自覚がなくて、子供のことかと思っちゃう宵さまが可愛い。
でも、いいや。
今日は、話が進まないから、置いておこう。
「この、ドから右に行くのが音が高くなっていく階段です、ドレミファソラシドです」
宵さまは学校に行っていない。
音楽教育は受けていないだろうけど、読み書きだって算術だって英語だって独学で学んでいる。
ドレミくらい知ってるかも。
どこまで初歩から行けばいいのか。
頷いた宵さまは、一本指でドレミを弾き始めた。
かわいいよぉ。
だめ、可愛すぎる。
昇天し、思わずその肩に凭れ掛かった。すると「立ち眩みか」と腕を回され引き寄せられた。
まるで、抱きしめあう格好になった私たち二人。
宵様が椅子に座っているので、顔が近い。
ぎやああああああ!!
もう、頭の中が、サイクロン掃除機です。
何か、良い匂いする宵さま。
肩幅広い、宵さま。
胸板厚い、宵さま。
腕、逞しい、宵さま。
「あら、まぁ!」
「「っ!」」
姑さまの喜色と好奇心に溢れた声が響いた。
私たちは、一瞬で離れ、振り返った。
姑さまは、口に手を当てて、にやにやと微笑んでいた。
側には女中が、何か箱を手に立っていた。
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