27 / 36
26.
しおりを挟む
朝の環七は仕事場へと急ぐ車でいっぱいだ。早い時間のうちはいいが、時間が経つに連れて、どこからともなく台数が増えていく。健一も先輩が運転するトラックで現場の大学を目指して環七を走っていた。揺れるトラックの助手席の窓から、数多の乗用車の流れる様を見下ろしていと、何かの生き物の群れのように思えてくる。そして、自分もその群れの一部になる。
追いついたり、追い抜かれたり、ウインカーの瞬きと共に目の前に滑り込んだり、左に折れたり。健一の目には、すっかり馴染んだ当たり前の風景が、視神経を通して脳に心地よい刺激を与える。
「がんばったって、どうにもならないことって、世の中多いよなあ」
いかにもガテン系の先輩がそうつぶやいた。
先輩のつぶやきはたいてい、車の進み方が遅いとか、前の車のブレーキの踏み方が悪いとか、独り言のようなものばかりだったから、いつもは大半を聞き流している。しかし、今回は健一に向けて発せられた言葉だとすぐにわかった。カーステレオから流れるラジオの音に紛れて、聞き流してしまいそうなほどのつぶやきであったが、その言葉は健一の頭にずきんと響いていた。
昨日、急に飲みたいと言い出した早苗もそんな思いだったのではないか。
横目で見る先輩の横顔と早苗の表情は同じ種類の憂いを称えているように思えた。
「何がいけないんだろうなあ?真面目にやってたって、ダメな時はダメなんだよな」
「何が?」と聞きながら、それに対する答えなどないということをわかっている口調だった。先輩は自分の兄が勤める工場が経営不振で、辞めざる得ない状況だということをポツリポツリと話した。
「兄貴は俺と違って、真面目なやつでさ、区内の工業高校出たら、すぐに地元で働き口みつけて働きはじめてさ。俺は、この仕事に就くまでは、ほんといい加減な人間でさ、ぶらぶら好きなことしてたっていうのによ。今は一人で定年迎えた親父とお袋の面倒までみていやがる」
先輩は結婚していて、子供もいるのだから、未婚の兄が親と暮らして生活を支えるのも自然なように思えたが、どうやらそのことも自分が兄に感じている負い目の一つであるようだった。
「毎日毎日、自宅と工場を行ったり来たりで。仕事は相当誠実にやってたと思うぜ。それを、不景気だからって、いきなりクビになるって、どういうことだよな」
兄のことを本気で尊敬していて、その兄が不当な扱いを受けていることが堪らなく許せないという思いが伝わってきた。
「兄貴、足立区からでたこともないんじゃないかな?そんな人生ありかよ?こんなことなら、真面目なんてほどほどにして、もっと好きなことして暮らせばよかったのに」
そうですね、ひどいですね、と健一が相槌を打つと、先輩はそうだよと乱暴に言い、ハンドルをパシリと叩いた。
早苗は今頃どうしているだろうか?表情に虚しさを漂わせながら、区民相手の窓口に出て働いているのだろうか。
それから、先輩の兄のことを思った。足立区からでたこともない真面目な兄は、どうにもならない現実をどう受け入れるのだろうか?毎日足を運んだ仕事場へ、もう明日から来なくてよいと通告されることはあまりに残酷なことに思えた。年老いた両親を両方の肩に背負い、狭い世界の中で生きる道を探すのだろうか?
「仕事があるだけでありがたい」とは同僚の言葉だった。何も悪いことをしたわけではないのに、突然職を失うなんていう馬鹿げていると思えるほど不条理に思える。しかし、事態は深刻で、馬鹿げていると言い飛ばせるような雰囲気にはない。
これは抗いようのない大波のようだ。考えても打開策も何も浮かばない。早苗がメールしてきたような、虚しい気分に襲われた。その虚しさに心を覆われてしまわないように、深く息を吸い込む。
ふいにフロントミラーにぶら下がった交通安全祈願のお守りが目に入る。健一は膝の上に掴んでいたかばんのポケットの部分に手を当てた。そこには健一の大事なお守りの感触があった。
追いついたり、追い抜かれたり、ウインカーの瞬きと共に目の前に滑り込んだり、左に折れたり。健一の目には、すっかり馴染んだ当たり前の風景が、視神経を通して脳に心地よい刺激を与える。
「がんばったって、どうにもならないことって、世の中多いよなあ」
いかにもガテン系の先輩がそうつぶやいた。
先輩のつぶやきはたいてい、車の進み方が遅いとか、前の車のブレーキの踏み方が悪いとか、独り言のようなものばかりだったから、いつもは大半を聞き流している。しかし、今回は健一に向けて発せられた言葉だとすぐにわかった。カーステレオから流れるラジオの音に紛れて、聞き流してしまいそうなほどのつぶやきであったが、その言葉は健一の頭にずきんと響いていた。
昨日、急に飲みたいと言い出した早苗もそんな思いだったのではないか。
横目で見る先輩の横顔と早苗の表情は同じ種類の憂いを称えているように思えた。
「何がいけないんだろうなあ?真面目にやってたって、ダメな時はダメなんだよな」
「何が?」と聞きながら、それに対する答えなどないということをわかっている口調だった。先輩は自分の兄が勤める工場が経営不振で、辞めざる得ない状況だということをポツリポツリと話した。
「兄貴は俺と違って、真面目なやつでさ、区内の工業高校出たら、すぐに地元で働き口みつけて働きはじめてさ。俺は、この仕事に就くまでは、ほんといい加減な人間でさ、ぶらぶら好きなことしてたっていうのによ。今は一人で定年迎えた親父とお袋の面倒までみていやがる」
先輩は結婚していて、子供もいるのだから、未婚の兄が親と暮らして生活を支えるのも自然なように思えたが、どうやらそのことも自分が兄に感じている負い目の一つであるようだった。
「毎日毎日、自宅と工場を行ったり来たりで。仕事は相当誠実にやってたと思うぜ。それを、不景気だからって、いきなりクビになるって、どういうことだよな」
兄のことを本気で尊敬していて、その兄が不当な扱いを受けていることが堪らなく許せないという思いが伝わってきた。
「兄貴、足立区からでたこともないんじゃないかな?そんな人生ありかよ?こんなことなら、真面目なんてほどほどにして、もっと好きなことして暮らせばよかったのに」
そうですね、ひどいですね、と健一が相槌を打つと、先輩はそうだよと乱暴に言い、ハンドルをパシリと叩いた。
早苗は今頃どうしているだろうか?表情に虚しさを漂わせながら、区民相手の窓口に出て働いているのだろうか。
それから、先輩の兄のことを思った。足立区からでたこともない真面目な兄は、どうにもならない現実をどう受け入れるのだろうか?毎日足を運んだ仕事場へ、もう明日から来なくてよいと通告されることはあまりに残酷なことに思えた。年老いた両親を両方の肩に背負い、狭い世界の中で生きる道を探すのだろうか?
「仕事があるだけでありがたい」とは同僚の言葉だった。何も悪いことをしたわけではないのに、突然職を失うなんていう馬鹿げていると思えるほど不条理に思える。しかし、事態は深刻で、馬鹿げていると言い飛ばせるような雰囲気にはない。
これは抗いようのない大波のようだ。考えても打開策も何も浮かばない。早苗がメールしてきたような、虚しい気分に襲われた。その虚しさに心を覆われてしまわないように、深く息を吸い込む。
ふいにフロントミラーにぶら下がった交通安全祈願のお守りが目に入る。健一は膝の上に掴んでいたかばんのポケットの部分に手を当てた。そこには健一の大事なお守りの感触があった。
0
あなたにおすすめの小説
鷹鷲高校執事科
三石成
青春
経済社会が崩壊した後に、貴族制度が生まれた近未来。
東京都内に広大な敷地を持つ全寮制の鷹鷲高校には、貴族の子息が所属する帝王科と、そんな貴族に仕える、優秀な執事を育成するための執事科が設立されている。
物語の中心となるのは、鷹鷲高校男子部の三年生。
各々に悩みや望みを抱えた彼らは、高校三年生という貴重な一年間で、学校の行事や事件を通して、生涯の主人と執事を見つけていく。
表紙イラスト:燈実 黙(@off_the_lamp)
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
むっつり金持ち高校生、巨乳美少女たちに囲まれて学園ハーレム
ピコサイクス
青春
顔は普通、性格も地味。
けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。
学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!?
大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。
真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。
真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。
引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。
偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。
ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。
優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。
大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
偽夫婦お家騒動始末記
紫紺
歴史・時代
【第10回歴史時代大賞、奨励賞受賞しました!】
故郷を捨て、江戸で寺子屋の先生を生業として暮らす篠宮隼(しのみやはやて)は、ある夜、茶屋から足抜けしてきた陰間と出会う。
紫音(しおん)という若い男との奇妙な共同生活が始まるのだが。
隼には胸に秘めた決意があり、紫音との生活はそれを遂げるための策の一つだ。だが、紫音の方にも実は裏があって……。
江戸を舞台に様々な陰謀が駆け巡る。敢えて裏街道を走る隼に、念願を叶える日はくるのだろうか。
そして、拾った陰間、紫音の正体は。
活劇と謎解き、そして恋心の長編エンタメ時代小説です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる