Candy pop〜Bitter&Sweet

義井 映日

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Count 0 ――若葉のとき――

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​ ーバチーン!!ー
 
 振り上げられた利き手は、見事に狙い通りヒットした。
 左の頬は、ヒリヒリと痛み熱を持ち、「彼女」の怒りの程度を直に伝えてくる。
​ それは快晴の青空の初夏の、爽やかな風が気持ちがいい高い空の、公園の片隅。
​「私に飽きたんでしょ!? もう少しマシな言い訳できないの!? 安達君最低!! 二度と近寄らないで!!」
​「マシな言い訳」か、何言ってるんだ。
 
(目の前の君よりも、好きになった人が現れたってだけの話だよ?)
​ 心の中で、そう毒づきながら、雑音に心底ウンザリする自分がいた。
 ヒステリックにまくしたてる金切声に、その場にいた親子連れや、のんびり公園散策に来ていたお年寄り、ベンチで昼寝をしてたであろうサラリーマンの視線が一気に集中した。
 自分たちは今、痴情のもつれのカップルそのものなのだ。
​ ハイ、近寄りませんので、安心してください。
 君から見たら俺って、ただの困惑する「変な人」だ。
 同性に恋愛感情を持ってしまった俺は、いくら理解が進んできた時代でも、一般的には「変わった人」か「理解できない」「近寄りがたい」人物に認定されてしまう時代だしな。
 ……なんて。そんな世間体なんて正直どうでもいい。
 そんな自問自答など、とうの昔に放棄した。
 そんな「元彼女」だった茜は、綺麗な顔に涙を散らして、走り去っていった。
 
 あ~あ、割と長く付き合ってた子なのに…。
 俺たちは、誰もが羨むカップルだったのだ。
 才色兼備な「彼女」に完璧な「彼氏」。
 そう、順風満帆に上手くいっていたのだ。
 何よりも、彼女は自分を好きでいてくれたじゃないか…。
 自分だって彼女のことが「好きだった」。
 ――けれど、その「好き」は、型にはめた量産型の感情で、姿を見るだけで心拍が上がるような、近づけば体温がブワッと上昇するような、そんな「恋」ではなかった。
 
 俺は、お付き合いしていた彼女から最後に――盛大なビンタというプレゼントを頂いた。
 女の子のビンタだって的確なポイントに入れば、それはそれなりに痛い!! 喰らった左頬は、ジンジンと熱を持ち、真っ赤に腫れ上がっている。
 今まで、何度かお別れの経験があっても、ビンタ喰らうような別れ方したのは初めてだった。
 頬に手を当てたまま立ち尽くす俺は、周りが見れば情けない男なのだろう。
 それでも、この痛みが、今までの「品行方正な安達大介」からの脱却の証だと思えた。
 茜には、とんでもない「元カレ」になっただろうが、――これで堂々と「想い人」彼と向き合えるじゃないか、と清々しさすら感じられたから不思議だ。 
 そんなことを思いながら、現在進行形で恋焦がれているであろう「後輩」の姿が頭をよぎった。
​「ごめん、君より、好きな人ができたんだ。
 俺は『彼』が好きなんだ」
​ 誰にも届かない告白を、俺は熱を持つ口の中で小さく転がした。
​ 
 講義が終わった、いつもと何ら変わり映えのない放課後。
 俺、一之瀬功《こう》は、(今日は何人集まって、どの曲仕上げるのかな)なんて思いながら、ガチャリと部室のドアを開けた。
 そこには、備え付けのソファに座り缶コーヒーを片手に、それはそれは誰もが見惚れる長い脚を組み、のんびりとファッション雑誌を眺めてる安達先輩の姿があった。
 西日の差し込む、コーヒー独特の苦味の香りが広がる、少し埃っぽい部室で、雑誌のページをめくる先輩は、まるでそこだけ時間が切り取られたかのように、整っている。
 
 大学一のモテ男。
 わがサークルの看板。
 女の子が羨む「理想の彼氏」
​ そんな先輩に、同じ「男」としての憧れを、ずっと抱いていた。
 ……いや、綺麗な「憧れ」なんかじゃない。
 きっと、俺は先輩にそれ以上の感情を抱いているのだ。……ずっと見ないふりをしていたけれど……。
 その、頬にある「赤」
 誰かに引っ叩かれた跡……。
 その跡を目の当たりにして、自分の中の何かが、――ガラガラと、音を立てて崩れ落ちたのだ。
 それは、俺が勝手に作り上げた、「理想の安達先輩」。
 彼が、誰か俺の知らない女性と、争った痕跡……。
 不躾に、自分などが立ち入っていい領域ではないのだろう……。
 先輩は、いつも「完璧」で、俺はただの「後輩」で。しかも当たり前に「男」だ。
 可愛い女の子なら、もっと素直に「憧れ」をぶつけられたのかもしれない……。
 その境界線は、いつでもハッキリと自分に「現実」を突きつけてくる。 
 それなのに、その真っ赤な頬を見ると、思わずにはいられないのだ。
 
 ……誰がそんな先輩を傷つけたの?
 先輩の傷になれたのはどんな女の子?
 完璧な「彼氏」の仮面を剥ぎ取ったのは誰なの?
​ 悲しいかな、そんな醜い嫉妬心が、俺の理性の壁を、いとも簡単にボロボロと崩していく。
​「……お疲れ様です、安達先輩」
 
 喉に張り付いたような声で、ようやく挨拶を絞り出す。
 
「ああ、お疲れ様。……なんだ? どうした?」
​ 安達先輩は、俺の態度が異様なことに気づいた。
 いつもに増して、心配そうにコチラを伺ってくる。
 こんな時まで「完璧」であろうとする、その視線が痛かった。
 いつもなら、その視線が合うだけで、舞い上がるほど嬉しいはずなのに……。
 その「瞳」で、俺の醜い独占欲を見透かされてるようで、一刻も早くこの場を去りたかった。
​「一之瀬?……あっ、悪い、この顔に引いたよな? なんかカッコ悪いとこ見せちゃったな」
​ そう言うと、安達は苦笑いを浮かべた。「カッコ悪いよな」なんて卑下するように。
 それは、自分が初めて目にする安達の人間臭さだ。
 ……違う、そうじゃない!
 俺が引いたのは……その顔の腫れになんかじゃない。
 先輩が、その頬に甘んじてビンタを受けたというのなら、「傷」を残すような相手を羨ましいと思った。憎いと思った。
 自分はそんな存在にすらなれないのだから……。
 あなたのその優しさは、「凶器」だなんて思いもしないでしょ?
​「一之瀬?……どうした?」
​ 黙り込んでしまった俺に、不安な顔を隠さず、動揺し心配そうに伺ってくる。
​「俺、ちょっと買い物に行ってきます! 何か必要なモノありますか? お使いしてきますよ?」
 俺の声は、自分でも驚くほど冷たく、鋭く響いた。
 優しさが、真綿のようにジリジリと俺の喉元を締め付ける。
 先輩は誰にでも優しい。期待なんかしちゃいけないんだ。
 
「えっ?……いや、悪いな。俺はいいよ、ありがとな。買い物って今来たばかりだろ?」
​ 俺は、この顔に笑顔を貼り付けてこう言った。
 今できる精一杯の笑顔。
 (悲鳴なんて聞こえない……聞こえない!!)
 憧れるあなたに、この醜い心を気づかれてはいけない!!
 心配する後輩の顔で、俺は言う。
 
「先輩……ここで待っててくださいね? その顔、冷やさないと腫れ引かないですよ?」
​ 俺はいつもの「後輩」の顔をして、部室を後にした。
 扉を背にした途端、「ふぅ……」と全身の力が抜けた気がした。
 誰とも知れない相手に向かう嫉妬など……なんて醜いのだろう。
 (ああ……俺はあなたがこんなにも好きなんだ……)
​ 廊下に出て、通路の全開の窓から、グラウンドで練習するサークルの生徒の賑やかな声が聞こえる。
 夕方の涼しい空気に触れた思考は、少しずつクリアに晴れ渡っていく。
 (あんな人間臭い先輩見られたのなんて、ちょっとレアじゃない?)
 そう思えるくらいには、落ち着きを取り戻していた。
 「完璧」な姿。女の子にビンタを喰らって、「カッコ悪いよな」なんて苦笑いする先輩を見る日が来るなど、想像もしていなかった。
 それを知るのは、この校内で自分だけなのだろう。そんな優越感に浸ったっていいじゃないか。
 眩い照明で煌々と照らされる自販機を前に、少しばかり意地の悪い「優越感」に苦笑いする。
 ――ガチャン、滑り落ちてきた冷たい2本のアルミ缶。
 (早く戻って冷やしてあげないと! 待ってて下さい!! なんて言ったけど、本当に待っててくれてるのかな?)
 ヒンヤリとした缶の冷たさが、俺に冷静さを取り戻させて、先輩が待つであろう部室へと向かったのだった。
​ 廊下を歩く足取りは、先ほどより軽い。
 西日はさっきよりも傾き、廊下はオレンジ色に染まっている。
 6月の暑さも、少しずつ肌に心地よいものに変化していた。
 さっき聞こえてきたサークルの練習風景も、気づけばすっかり姿を消していた。
 手の中には冷たいアルミ缶が2本。
 「理由」がしっかりと握り込まれている。
 (……本当に待っててくれてるかな……)
 もし……誰かと一緒だったら、呆れられて帰ってしまっていたら……俺はこの2本のアルミ缶をどう処分すればいいのだろう?
 そんな不安を振り払うように、ガチャッ――静かに部室のドアノブを回した。
​「おかえり。……本当に買い出しだったんだ? 遅かったな」
​ ソファに座ったまま、西日に縁取られる先輩のシルエット。窓から注ぐ強すぎるオレンジ色が、先輩の輪郭を白く飛ばし、細かな埃が光の粒となってその周りを漂っている。逆光で表情が目視できないため、儚さを感じる。
 誰かの帰りをずっと待ってた、なにか幼い子供みたいだな、なんて思ったのだ。
 (ちゃんと、待っててくれたんだ)
 光に溶けそうなその背中に、俺だけの影が重なる。
 今まで渦巻いてた醜い感情も、先輩の「存在」に綺麗に上書きされていく。
 
「遅くなってすみません。ちょっと自販機迷っちゃって」
 
 そんなの嘘だ。
 迷ってたのは俺の心。でも、ちゃんと先輩の元へ辿り着いた。
​「そっか。……あの自販機そんな迷うほど種類あったっけ?」
​ 仕方ないなぁ、って顔して笑う先輩は、ちゃんと俺の帰還を待っててくれたのだと思えた。
​「はい、ちゃんと冷やさないと腫れ引きませんよ? モテ男も台無しじゃないですか」
​ ごく当たり前に先輩の隣に腰掛けると、ヒンヤリとした結露の付いた缶を頬に押し当ててやる。
​「うわっ、冷たっ! 一之瀬君痛い~」
​ ちょっと大袈裟にふざけた笑いを浮かべる先輩にドキドキしたのは内緒だ。
 さっきまでの儚い姿はどこに隠れたのか、俺をからかいながらも掴まれた手首を離そうとはしなかった。
 押し当てたアルミ缶の結露が掴まれた手首を伝って互いの触れ合った箇所を濡らしていく。
 それは、ここには存在しない「誰か」の存在を上書きしていくかのように。
​「……一之瀬」
​ 掴まれた手首にグッと、力が入った。
 軽い痛みが走る。
​「悪いな、手濡らしちゃったな」
​ すまなそうに見上げてくる瞳に、吸い込まれるんじゃないかと思った。
 結露で濡れた手首を、先輩は静かに撫でる。
 「すまないな」なんて言いながら、俺の手を離そうとしないじゃないか。
 ゆっくりと、握り込んだ濡れているアルミ缶を取り払う。その濡れたままの手を自分の頬に押し当てた。
​「……ひんやりしてお前の手気持ちいいな」
​ そう言うと、くすくす笑って小首を傾げてみせる。
 押し当てられた先輩の頬の熱と、自分の想いの熱が重ねられたようで、どうしていいのかわからなくなる。
​ (ズルいよ安達さん……)
​ 掴まれたままの手は、耳の裏、髪の生え際に触れたままだ。
 本人にはその気はないにしても、あまりにも無防備じゃないか。
 心拍数はどんどん跳ね上がり、ドキドキと頬から伝わっているんじゃないだろうか心配になる。
​「先輩……そうやって女の子と仲良くなってるんですか? 俺、男なんですけど」
​ 精一杯、冗談に聞こえるようにあえて茶化してみる。……成功したかわからない。
 喉の奥がカラカラに渇いて、言葉がひどく不自然に浮いている気がした。
 
 けれど、安達先輩は「何言ってるんだ」と笑い飛ばすことはしなかった。
 
「……女の子に、こんなことしないよ」
​ (お前だから……そう言えたら、どんなに楽なんだろうな)
 安達は、心の中だけで、そう毒づいた。
 茜を傷つけてまで、欲しいと思った「彼」が目の前にいて、こんなにも近い距離にいる。
 欲しくて欲しくて……。いつしか目が離せなくなった後輩。
​「一之瀬の手は、ヒンヤリして気持ちいいね。でもね、早く治れの『おまじない』してくれたら、もっと早く治るかも?」
​ その顔は、いたずらを仕掛ける子供みたいな、でもどこか怯えた瞳をしていた。
 自分には、何か痛いほどの覚悟を感じたのだ。
 まるで……先輩も同じ気持ちでいてくれてるんじゃないかなんて……夢のような期待を抱かせる。
 (そんな期待させないで。ただの勘違いなら、俺は生きていけないよ)
​「おまじない……どんなことですか?」
 
 絞り出すように漏れた声は、よくよく聞かないと聞き取れないのではないかと思うほどに小さかった。
 先輩は、はにかむように小さな笑みを口元に浮かべると
​「一之瀬……わかってて聞いてるよね? 帰国子女のお前なら挨拶かな? でも、俺には『特別』だよ?」
​ 掴まれたままの手は、先輩の大きな手に包まれたまま自分の口元に寄せられていく。
​ ちゅっ――微かに触れるだけの口づけが捧げられた。
 心臓は早鐘を打って、一瞬時が止まった。
 先輩は、「挨拶」なんて言ったけど、そんなの嘘だ。
 指先から伝わってくる、先輩の唇の微かな震えも、伏せられてフルフルと揺れる濃いまつげの影も、何もかもが、先輩の緊張を直に伝えてくる。
 (この人は、ほんとにズルい……逃げ場も用意してくれない)
 先輩の瞳の中の「俺」は、これ以上ないほど真っ赤になって、どうしていいのかわからないで立ち尽くしている。
​ 先輩は、手を離すことなく、ゆっくりと俺の瞳を見上げてきた。――逃さない、そう言わんとばかりに。
​「一之瀬……おまじないは? してくれるの?」
​ 左頬には、赤い跡。
 誰かが彼に残した跡。
 これで、俺に上書きされることを祈って。
​ ちゅっ――静かに腫れた頬に一瞬触れるだけのキスをした。
​「……っ、」
 ひどく驚いた顔をした先輩が、なんだか自分よりも幼く見えたのだ。
​「これで……これでいいんでしょ? お大事にしてください!」
​ そう言うだけで精一杯で、先輩の手を振り払って俺は部室を逃げるように後にしたのだった。
​ 背後で重たいドアが閉まる音が、静かな廊下に響き渡る。
 全速力で階段を駆け下りる俺の心臓は、全力疾走のそれよりもずっと速く、うるさく脈打っていた。
(……馬鹿だ、俺。何を……何をあんな……!)
 頬に残る先輩の肌の熱と、唇に触れた微かな感触が、今さら猛烈な恥ずかしさとなって襲ってくる。
 夕闇が降り始めたキャンパスの風は、熱くなった俺の頬を冷やすにはあまりにも生ぬるかった。
 一方、一人取り残された部室。
 安達は、一之瀬が触れた左頬にそっと手を当てたまま、動けずにいた。
 
 窓から差し込んでいたオレンジ色の光は、いつの間にか紫がかった夜の色へと溶け落ちている。
 一之瀬の手を掴んでいた手のひらには、まだ結露の湿り気がわずかに残っていて。
 
「……あいつ、……逃げるなんて、卑怯だろ」
 
 ぽつりとこぼれた独白は、苦笑混じりだった。
 茜につけられたヒリつくような痛みは、もうどこにもない。
 代わりに、心臓の奥が、今まで知らなかった種類の熱で支配されていた。
 安達は、自分用のアルミ缶――もうすっかりぬるくなったそれを手に取り、暗くなった部室で一人、静かに笑った。
 「完璧な先輩」が完全に壊されるまで、カウントはもう、とっくに「0」を過ぎていた。
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