不眠症のウィンドソックス (44,372文字/1時間14分)

奈々川わかな

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第一話 南ウィング

勤務先のトイレで拾った紙切れがそんなに大事なものだなんて、凌介は知らなかった。凌介のような空港スタッフにはあまりに見慣れたその紙片は、重要度でいえばコンビニのレシートや使う見込みのない割引券とそれほど変わらなかったからだ。だからまさかそれが夕飯に化けるなんて想像もしていなかった。

 今、凌介の目の前でサンドイッチをかじった男は、愛嬌のあるえくぼとすっきり通った鼻筋に小さなほくろがポツンと主張する端麗な二枚目だった。そのちょっと褐色がかった肌色が生まれついたものなのか、それともただの日焼けかは知らない。その肌と比べてハムとチーズをのぞかせた柔らかいパンはひときわ白く見えた。

 凌介が彼から受け取った名刺には、「陽京工業大学建築学部 都市工学研究コース 准教授 長本佳樹」と書かれていた。

 がぶり。ひとくち、ふたくち。サンドイッチを咀嚼した長本准教授はビールグラスを傾け、そして大いに息を吸ってひとこと、こう言った。

「ああ、おいしいー、最高。それにしてもほんっとうに助かりました」

 その謝辞をもう何度聞いただろう。だいたい大学の准教授ってこんなに若いものか?それが凌介が彼に抱いた第一印象だった。

「いや、こちらこそ、大したこともしてないのにごちそうになっちゃってすいません。トイレでいきなり自己紹介はびっくりしましたけどね」

 言葉尻に思わず笑みがにじんだのは、奇妙な二人の出会いを思い出したからだ。それは三十分ほど前のこと。昼夜かまわず稼働する国際空港で、凌介がようやく休憩にありついた直後だった。

 作業ジャンパーを脱いで私服のパーカーを羽織る。バックオフィスから旅客ターミナルに出て自販機で缶コーヒーを買う。トイレで用を足し手を洗う。濡れた手をドライヤーで乾かす。そんなルーチン作業の途中に洗面台の隅でしわくちゃの紙切れを見つけた。

【イスタンブール 東京成田 
TK0052便 エコノミーYクラス】

 TK、つまりターキッシュ・エアラインズの搭乗券だ。ターキッシュはたしか一日一便、成田とトルコのイスタンブールを就航し、本日便も一時間前に到着済。となればこの搭乗半券もただのゴミである可能性が高かった。だって搭乗券は旅客機に搭乗するためのものなんだから。そんなことを考えながら凌介が紙切れをつまんだとき、無人だったはずの手洗いに叫び声が響いた。

「すいません、長本です!」

「え?」

 そう名乗りながら飛び込んできた男の悲壮とも安堵ともつかぬ表情と手元の紙片を見比べて、凌介はようやく合点がいった。さっき見た発着地と座席クラスの下に【NAGAMOTO YOSHIKIMR】なんて印字が読めたのだ。長本です、か。つまりこの男が半券の持ち主。

「でも半券なんか要ります?」

 自分のサンドイッチをかじりながら凌介は率直な疑問を述べた。だって使い終わった搭乗券にそこまで執着する意味がわからない。すると男はわざとらしく神妙な表情をつくったが、口もとの白い泡が二枚目を台無しにしていた。

「なんかって、だってこれがないと出張費全額自腹になるんですよ、叫びますよ、そりゃ」

「え、そんな職場あるんですか?超ブラック。つってもイスタンブール往復って十五万円くらいですよね?大学の先生なら……」

「だから御礼にサンドイッチ奢ってます」

 そう言って、彼、もとい長本佳樹准教授はナプキンで口端の泡を拭った。そのしぐさといいファッションといい、さっきから彼のイメージは大学教員とは程遠い。紺のコットンジャケットはよれて皺だらけだし、ボトムスなんか中学生みたいな砂色のチノパンツだ。そういえば座席もエコノミーのいちばん安いクラスだった。それなのにわりと高級なサンドイッチを奢らせてしまった。

 しかしそんな罪悪感はすぐ消えた。本当にお金のない人間は追加で生ビールを頼まない。

「ところで中井さんってグラウンドスタッフなんですか?」

 またグラスをあおって今度は長本准教授が凌介に訊ねた。まず第一に、パーカーの襟元から名札とネクタイを覗かせた旅行者はいない。第二に空港スタッフと聞けば普通はみんなグラウンドスタッフを想像するから、その質問は凌介にとって別段珍しいことじゃなかった。

「うーん、まぁ、地上で働いてはいますけど、僕はエンジニアのほうで、いちおう整備士ですけど、ちょっと体を壊して今は事務方です」

「あ、そうなんだ。それは失礼しました。整備士ってかっこいいですね。そういうドラマあったよね。GOOD LUCK‼」

 長本准教授はそう言ってこぶしを握り親指を立てた。そのハンドサインが「幸運を祈る」という意味なのは凌介も知っている。でもそれは整備士ではなく機長のサインだ。とはいえなんとなく指摘するのは憚られて、結局、女子社員が化粧品や生理痛の話で盛り上がるのを聞いているときのようにただあいまいに頷いた。

「ごちそうさまでした。僕、ここいっぺん来てみたかったんですよね」

「それはよかったです」

 半券を拾ってもらった御礼に何かごちそうしますと言われ、真っ先に浮かんだのがこのダイナーだった。分厚いローストビーフ・サンドイッチが看板メニューで、駐機場を見渡す無料見学デッキの隣。初めて食べた名物サンドは空腹と物珍しさを差し引いてもなお美味に感じられた。

「また成田に来ることがあれば連絡くださいね。あ、いや別に、また奢ってもらおうとかそういうんじゃないですけど」

「あはは、大丈夫、わかってます。しょっちゅう来ますよ、海外出張多いんで。飯行きましょう」

 長本准教授はそう言っていたずらっぽく笑った。片方だけ上がった口元と、いかにもロングフライト明けっぽい無精ひげにドキッとした。このまま社交辞令の別れで終わるのが惜しくて、凌介は散会を切り出すついでスマートフォンを左右に振った。そんなに焦ってアカウントを交換する必要なんてなかったと気づいたのはロッカーに戻ってからだ。パーカーのポケットから現れた名刺を凌介は大切に引き出しにしまった。
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