不眠症のウィンドソックス (44,372文字/1時間14分)

奈々川わかな

文字の大きさ
10 / 29

第九話 満たされて

「濡れてないといえば濡れてないけど」

「濡れてるといえば濡れてますね。シャワー先どうぞ」

「いいの?」

「飯の御礼です。洗濯はさすがに間に合わなさそうなんで、そのへんにかけといて自然乾燥に期待するしかないですけど」

「ぜんぜん大丈夫。泊めてもらっといておまけに洗濯なんて厚かましいこと言わない」

 そう言うと佳樹は横たえたスーツケースのロックを解除して、うーんとひとつ伸びをした。いきおいついでにアンダーシャツもろとも上衣を脱ぎ捨てたとき、ふと凌介の鼻孔にさっきの芋焼酎の湯気みたいな甘ったるい香りが漂った。

「うわ、いいからだですね。ジムとか行ってるんですか?」

 思わずそう訊ねたほど、そそる。身をかがめてあれこれ荷物を漁っても揺れるような贅肉はないのに、筋肉質というわけでもない。柔らかで優しげなボディラインはウェストで一度内側にへこみ、腰骨のところでまたうっすら外側にカーブを描いていた。

「ジムとかそんな時間あるわけないでしょ。でもまぁ調査のおかげかも。機材担いで山道を歩くから。じゃあ、お言葉に甘えてお先にシャワー借ります」

「あ、はい。タオル自由に使ってください。ドライヤーは鏡の裏にかかってます」

 凌介がハンガーを差し出すと、佳樹は脱ぎ捨てた衣類をひっかけてよこした。布地に宿る彼のぬくもりも、礼を述べながら浴室に消えていく後ろ姿の残像も消えない。消えてほしくないと凌介は思った。

「やば……」

 ロフト梯子に腰掛け、また立ち上がり、うろうろと冷蔵庫に行きついた果てに、気づけば凌介は缶ビールのプルタブに指をかけていた。別に飲み足りないわけじゃない。でも、今夜は酔っぱらって寝てしまわないといけない。そう思っていた。

「いや、でも、なんていうかな、セックスじゃなくて……」

 その続きはうまく言葉にならなかった。凌介の葛藤などおかまいなしに1Kを仕切るアコーディオンカーテンが開いたのは、缶が半分ほど空になった頃だった。

「あ、中井くん、なに自分だけ飲んでんの」

「いや、まぁちょっと、せっかくもらったから……。飲みます……?」

「ううん。私はもういいや」

「そうですか。アイスは?」

 三十九歳の准教授は迷うことなく「食べる」と答えた。新商品のストロベリーチーズケーキ味とミルクティー味は、宿の礼とは言いながらも、自分が食べたくて購入したとしか思えなかった。

「じゃあ僕も飲み終わったらもらうので、お好きなほうどうぞ」

「いいの?うーん、ストロベリーチーズケーキかな」

「……半分こすればいいんじゃないですか」

「それもそうね」

 そう答えた佳樹はもうカップアイスに夢中で、めくった内蓋をねぶろうとしてハッとして動きを止めるまで、凌介がすぐそばにいることさえ忘れていたようだった。

「あ、ごめん、行儀悪いね」

「いえいえ、僕もそれやりたい派ですよ。なんか妙に美味いよね、蓋についたやつって」

 凌介のフォローに佳樹は照れくさそうにうつむくと、ちろりと薄い舌を出しそっと内蓋の上を滑らせた。なんとなく居心地が悪くて身じろいだ後、凌介は残ったビールを飲み干し、自らも氷菓に手を伸ばした。佳樹の真似をして内蓋にうっすら舌を這わしたとき、柔らかく緩んだ瞳がこちらを見つめているのに気づいた。

「なんですか?」

「……私も凌介って呼んでいい?」

「……もちろんです。年齢からいっても順当」

「うるさい。ねぇ、ミルクティー美味い?」

「美味いですよ。食べます?」

 シャンプーの匂いをさせた黒い頭が上下に揺れ、半開きの唇の向こうに整った歯列がのぞき、黒い瞳は凌介が乳脂肪の塊をかきとる様子をキラキラした様子で追いかけていた。

「じゃあ、はい、佳樹先生、アーン?」

 もちろんただの冗談だ。幼児相手でもあるまいし。目の前で薄い唇があんぐり開いても、まだ凌介自身そう思っていた。スプーンをUターンさせ自分の口に運んだのだってほんのいたずらだ。口に含んだアイスは上品でひやっこくて甘かった。佳樹は恨めしそうに「アーン」したままだった。ややあって、凌介の舌先に熱く柔らかなものが触れた。

「ふっ、ん……」

「んっ……ふ……あ……」

 体温で溶け始めたクリームが舌から舌へ甘みを伝える。凌介からそうしたような気もするし、佳樹のほうから食らいついてきた気もする。どちらにせよ内蓋まで舐める二人は、口端からこぼすようなもったいない真似もするはずなかった。

「んむ……んっ……はぁ……」

「ん、……っ、もう……びっくりした……。どっちが美味しかったですか?」

「……凌介も、食べてみれば?」

 照れ臭いのか、佳樹は視線を逸らしながら言った。照れ臭いのは凌介だって同じだ。だから意趣返しとばかりに今度は凌介のほうから味見をねだった。

「アーンってやってくださいよ」

 素直に頷いた目元はうっすら赤い。けっこう酔っているのかもしれない。だいたいそうでもなければ、いい大人がさっそくアイスをかきとって舌ったらずに「アーン」なんて言うはずない。そして気づけば凌介の口内も甘酸っぱいベリーソースで溢れていた。

「ん、あっま……いけど、美味いですね」

「もうひとくちいる?」

 その問いに答える代わりに凌介は大きく口を開いた。

「んっ」

「んむ……っはぁ……」

 はじめは赤と白のマーブル模様だった口内は、次第に色の境界もぼやけ、紅茶のベージュも加わればもう苺なんだかチーズなんだかわからない。乳臭くて、けれど甘いキスをふたりはカップの底が尽きるまで続けた。

「よし、じゃあ僕もシャワー浴びてきます」

「え……?」

「いや、変な意味じゃないから。ロフト狭いですけど先に布団入っててください」

 あっさり立ち上がった凌介を佳樹の呆けたまなざしが追いかけた。しかし佳樹の目はすぐに正気を取り戻し、くっついていた肩と肩が離れた。

「……ロフトの梯子、滑りやすいんで気をつけてくださいね」

「別に床でいいのに」

「それで風邪ひいたらフライト辛いですよ。あ、あと歯磨き、台所のシンクでしてもらっていいんで」

「あ、そうだった、歯磨き……」

 そう呟いて再びバックパックをガサゴソやりだした背中を尻目に、凌介は何事もなかったかのようにバスルームのガラス戸をひいた。

 でも、決して何事もなくはなかった。だってそうじゃなければキスだけでこんなに昂ぶるもんか。今にも悲鳴を上げそうな凌介の下肢に佳樹が気づいたかどうかはわからない。けれど凌介の見間違いでなければ佳樹のそこもわずかに兆していた。
感想 0

あなたにおすすめの小説

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

BL 男達の性事情

蔵屋
BL
 漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。 漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。  漁師の仕事は多岐にわたる。 例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。  陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、 多彩だ。  漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。  漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。  養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。  陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。  漁業の種類と言われる仕事がある。 漁師の仕事だ。  仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。  沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。  日本の漁師の多くがこの形態なのだ。  沖合(近海)漁業という仕事もある。 沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。  遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。  内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。  漁師の働き方は、さまざま。 漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。  出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。  休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。  個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。  漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。  専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。  資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。  漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。  食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。  地域との連携も必要である。 沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。  この物語の主人公は極楽翔太。18歳。 翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。  もう一人の主人公は木下英二。28歳。 地元で料理旅館を経営するオーナー。  翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。 この物語の始まりである。  この物語はフィクションです。 この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。