悪役貴族の俺、破滅回避したら勇者が引きこもって世界が詰みました

根古

文字の大きさ
23 / 77

第23話 光と影

しおりを挟む
 誓約の儀、そして精霊会を終えたルミナス学院の教会は、ひっそりと静まり返っていた。

 学院が休校となっている今、教会に足を運ぶ学生はほとんどいない。
 広い礼拝堂に、アリシアの祈りの声だけが静かに響いていた。

 祈りを終え、静かに目を開ける。
 昨日までの華やかな宴の余韻が、まだこの空気のどこかに残っている気がした。

 今日で出張と銘打った教会の手伝いも一区切りになる。
 明日からは、アリシア・ハートウィルのもう一つの戦場――王都の商業区にある『アリシア商会』へと戻るのだ。

(……大変な数日間でしたね)

 アリシアは内心で、この数日間の出来事を反芻する。
 公爵家嫡男ユリウスが見せた、王道を征く者の輝き。それはまるで、あるべき場所に昇る太陽のように、必然の光景だった。
 そして、アルトナ男爵家の子息クライスが顕現させた、規格外の力。あれは、平穏な夜空を切り裂く、凶兆にも似た流星のようだった。

 そして、もう一人。

「……ふふ」

 思わず小さく笑みがこぼれる。
 脳裏に浮かぶのは、ディラン・ベルモンドという、奇妙な貴族の姿だった。
 ベルモンド侯爵家という名家に生まれながら、飾らず、それでいて奇妙な気品を漂わせる、あの青年。

 披露した力は誰よりもささやかだったのに、その存在感は、ユリウス公やクライス殿にも決して劣るものではなかった。
 あるいは、それ以上だったかもしれない。
 あの二人が示したのは圧倒的な「力」だったが、彼が自分に示してくれたのは、自分の生き方そのものへの、温かい「理解」だったからだ。

 そして精霊会での一幕。
 太陽でも、流星でもない。彼の放つ光は、あまりに小さく、頼りなかった。精霊会での、あの指先に灯っただけの小さな光は、思い出すだけで微笑ましい。

(不思議な方です)

 教会で交わした、短い会話を思い出す。
 「自らの手で救いの道を作る。それもまた、聖女の務めなのかもしれませんね」――彼の言葉は、教会や伝統ある貴族たちからは決して得られない、温かい肯定だった。あの言葉だけで、長年胸の内にあった重い靄が、すっと晴れていくような気がしたのだ。

 アリシアは立ち上がり、祭壇に飾られた聖女神ルミナの像を静かに見上げる。

「聖女神様、どうかあの方を……」

 彼が自らの力で、その道を切り開いていけますように。

「――アリシア様」

 不意に、背後から遠慮がちな声がかけられた。
 振り返ると、そこにいたのは子爵家の令息、ロイ・フィリベールだった。
 彼もまた、一人静かに祈りを捧げていたらしい。その線の細い顔立ちには、伏せられ表情は伺えない。

「はい、何でしょうか」

 アリシアは穏やかに微笑み、静かに向き直った。

「……どうしましたか?」

 アリシアの声に、ロイはびくりと肩を震わせた。
 彼はゆっくりと顔を上げたが、その瞳はアリシアの顔を捉えることなく、不安げに床を彷徨っている。
 その手は、祈りを捧げるかのように、しかしもっと強く、自身の胸元を握りしめていた。

「何か、お悩みでも?」

 聖女として、悩みを聞き、心を軽くすることもまた務めの一つ。
 アリシアは一歩近づき、できるだけ優しい声色で問いかけた。
 ロイの唇が微かに震える。何かを言いかけては、飲み込む。その逡巡に、彼の抱える問題の根深さが滲んでいた。

「……アリシア様は」

 やがて、絞り出すような声で、彼は言った。

「……僕の名前をご存知ですか?」

 あまりにも突拍子もない言葉。
 しかしアリシアは冷静だった。彼もまた誓約の儀に臨んだ貴族の一人。
 聖女たるアリシアは参加者の顔を全て覚えている。

「はい、ロイ・フィリベール様ですよね」

 その言葉に、ロイの身体が更に縮こまるのが分かった。

「覚えていらしたのですね……では、貴方が私に……いえ、フィリベール家にしたことも覚えていらっしゃるのですね」

 その声は、微かな震えと共に、抑えきれない憎悪の色を帯びていた。
 アリシアは穏やかな表情を崩さぬまま、しかし内心の困惑を隠せずに問い返す。

「フィリベール家に……? 申し訳ありません、私には心当たりが……」

「心当たりがない、と……!?」

 アリシアの言葉が引き金だった。ロイの表情から感情が抜け落ち、代わりに堰を切ったような激しい言葉が溢れ出す。

「あなたの商会が現れてから、全てが変わってしまった! あなたが『聖女の祝福』を謳い文句にした安価なポーションを市場に流したせいで、何代も続いてきた我が家の事業は……!」

 その名を、アリシアは商売人として記憶していた。
 フィルベール子爵家。薬草やポーションの製造販売を生業とする、歴史ある家。
 その製品は高品質で知られていたが、同時に非常に高価でもあった。貴族や富裕層を相手にした、伝統的な商売だ。

(……なるほど、そういうことでしたか)

 アリシアの脳裏に、市場の力学が冷徹な図として浮かび上がる。
 高品質だが高価なフィリベール家のポーション。
 品質はそれに劣るかもしれないが、聖女の祝福で効果を高め、圧倒的な低価格で大量に供給されるアリシア商会のポーション。
 これまで薬に手の届かなかった平民たちが、後者に殺到するのは自明の理だった。意図せずして、アリシアは彼の家の市場を奪っていたのだ。

「ロイ様のお家のご事情、お察しいたします。ですが……」

 アリシアは静かに、しかし毅然として言葉を紡ぐ。

「私のポーションは、これまで薬も買えなかった貧しい人々を救うためにあります。一杯のスープを我慢すれば手が届く価格で、一人でも多くの命を繋ぐこと。それが私の務めです。……その過程で、既存の市場に影響が出ることは、避けられなかったのかもしれません」

 それは謝罪ではなかった。彼女の譲れない信念の表明だった。
 その揺るぎない態度が、ロイの最後の理性を焼き切った。

「綺麗事だッ!」

 彼の絶叫が、神聖な礼拝堂の空気を震わせる。

「あなたは聖女の名を使い、我々から富と誇りを奪っているだけだ! 先日、公の場で父を侮辱した件を忘れたとは言わせないぞ!」

 その指摘にアリシアは困惑する。
 彼女にしてみれば心当たりがなかったからだ。

「ロイ様、恐らくは何かの誤解かと存じます。私に、あなたのお父上を侮辱する意図はございません。お会いした記憶さえ、定かではないのです」

 アリシアはあくまで冷静に、対話での解決を試みる。だが、その冷静さが、彼の絶望に火を注いだ。

「誤解だと……ッ! 覚えてすらいない、と! 我々フィリベール家の苦しみも、父の屈辱も、あなたにとっては道端の石ころほどの価値もないというのか!」

 ロイの瞳から、理性の光が消える。
 彼は懐から、赤黒い石を取り出す。
 禍々しい紫色の紋様が刻まれた、見るからに不吉な品だ。

「あなたは光だと言う! ならば、その光が作り出した影の深さを、その身で味わえ!」

 アリシアが制止の声を上げるより早く、ロイはその石を床の石畳に叩きつけた。
 パリン、と乾いた音が響く。
 直後、石の破片から魔法陣が広がり、教会の床をどす黒く覆った。
 
「これは……!?」

 聖女であるアリシアの本能が、警鐘を鳴らす。
 ただの魔力ではない。
 憎悪、嫉妬、絶望――負の感情を凝縮して練り上げた、呪いの瘴気。
 瘴気は瞬く間に広がり、礼拝堂の神聖な空気を汚染していく。ステンドグラスから差し込む光は色を失い、壁の聖印は黒く淀んだ。

「綺麗事だけでは、何も救えない……! 我が家の没落が、それを証明している! ならば俺も、この身を汚してでも、誇りを……!」

 まるで何かに取り憑かれたかのように、狂気の言葉を発し続けるロイ。
 その間にも黒い瘴気は蠢き、粘液質の塊のように隆起する。
 やがて、その塊が人の形を取り始めた。

「グルゥ……」

 喉の奥で、濡れたような低い唸り声が響く。
 瘴気から這い出てきたのは、数体の異形の存在だった。

 ずるりとした頭、ねじれた耳、濁った黄緑色の肌。
 皮膚は薄汚れてひび割れ、血走った目がぎょろりとこちらを向く。 

「ひ、ひひ……どうだ、アリシア様……! これが、お前の光が生んだ影だ!」

 ロイが狂ったように笑う。
 しかし、アリシアは絶望に顔を歪めはしなかった。
 恐怖に震えもしなかった。
 彼女の瞳に宿っていたのは、聖女としての、揺るぎない覚悟の光だ。

「……あなたの魂の痛み、確かに受け取りました。ですが、その痛みを罪なき人々にまで向けるというのなら――」

 アリシアはすっと両手を胸の前に掲げる。
 その指先から、穢れた礼拝堂には不釣り合いな、清浄な光が溢れ出した。

「私の務めは、あなたを止めることです!」

 彼女の凛とした声と共に、光が爆ぜる。
 瘴気から生まれた魔物たちが一瞬怯むほどの、眩い閃光。光はアリシアを中心に半球状の障壁を形成し、押し寄せる瘴気を押し返した。

「なっ……!?」

 神聖魔法『聖域』。
 高位の聖職者にのみ使える結界魔法だ。
 邪を退け、弱き者を守るための、絶対的な守りの力である。

 障壁に触れた瘴気が、じゅう、と音を立てて蒸発していく。魔物たちは苦しげな唸り声を上げ、障壁を叩くが、その度にその身を焼かれていた。

 だが、ロイの顔から焦りの色はすぐに消え、歪んだ愉悦が浮かんだ。

「だが無駄だ、アリシア様!」

 ロイの言う通りだった。
 障壁は魔物たちの侵入を防いではいるが、アリシアの額には玉の汗が浮かび、その表情には徐々に疲労の色が濃くなっていく。

「グルゥ……オオオッ!」

 喉の奥で、濡れたような低い唸り声が響く。
 瘴気から這い出てきたのは、他の個体より一回りも二回りも大きな、異形の存在だった。

 その巨腕が、アリシアの張った光の障壁に叩きつけられる。

 ミシリ、と空間が軋む音がした。
 障壁に、蜘蛛の巣のような亀裂が走る。

「くっ……!」

 歯を食いしばるアリシアの額に、冷たい汗が伝った。

 何度も何度もその異形の化け物は、自らの身体が傷つけようが、灼けようが、一切気にする素振りも見せずに攻撃を続ける。

 障壁が砕け散るのは、もはや時間の問題だった。

 巨大な魔物の腕が、再び振り上げられる。
 今度こそ、障壁は砕け散るだろう。そして、その先にある無防備な聖女ごと――

 その、刹那。

 礼拝堂の重厚な扉が、鈍いを立てて開かれた。
 逆光の中に現れた人影に、その場にいた全員の動きが止まる。

「……間に合った、か」

 静かな、しかしどこか聞き覚えのある声。
 残りの異形たちが一斉に新たな侵入者を威嚇する中、その人影はゆっくりと光の中へと足を踏み入れた。
 夕陽に照らされたその姿に、アリシアは息を呑む。

「ディラン……様……?」

 か細いアリシアの声に、青年――ディラン・ベルモンドは視線だけを向け、小さく頷いた。

「聖女様から、離れろ」

 その琥珀色の瞳が、呪いの魔物たちを、そしてその奥で立ち尽くすロイを、鋭く射抜いた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

魔法使いが無双する異世界に転移した魔法の使えない俺ですが、陰陽術とか武術とか魔法以外のことは大抵できるのでなんとか死なずにやっていけそうです

忠行
ファンタジー
魔法使いが無双するファンタジー世界に転移した魔法の使えない俺ですが、陰陽術とか武術とか忍術とか魔法以外のことは大抵できるのでなんとか死なずにやっていけそうです。むしろ前の世界よりもイケてる感じ?

攻撃魔法を使えないヒーラーの俺が、回復魔法で最強でした。 -俺は何度でも救うとそう決めた-【[完]】

水無月いい人(minazuki)
ファンタジー
【HOTランキング一位獲得作品】 【一次選考通過作品】 ---  とある剣と魔法の世界で、  ある男女の間に赤ん坊が生まれた。  名をアスフィ・シーネット。  才能が無ければ魔法が使えない、そんな世界で彼は運良く魔法の才能を持って産まれた。  だが、使用できるのは攻撃魔法ではなく回復魔法のみだった。  攻撃魔法を一切使えない彼は、冒険者達からも距離を置かれていた。 彼は誓う、俺は回復魔法で最強になると。  --------- もし気に入っていただけたら、ブクマや評価、感想をいただけると大変励みになります! #ヒラ俺 この度ついに完結しました。 1年以上書き続けた作品です。 途中迷走してました……。 今までありがとうございました! --- 追記:2025/09/20 再編、あるいは続編を書くか迷ってます。 もし気になる方は、 コメント頂けるとするかもしれないです。

異世界翻訳者の想定外な日々 ~静かに読書生活を送る筈が何故か家がハーレム化し金持ちになったあげく黒覆面の最強怪傑となってしまった~

於田縫紀
ファンタジー
 図書館の奥である本に出合った時、俺は思い出す。『そうだ、俺はかつて日本人だった』と。  その本をつい翻訳してしまった事がきっかけで俺の人生設計は狂い始める。気がつけば美少女3人に囲まれつつ仕事に追われる毎日。そして時々俺は悩む。本当に俺はこんな暮らしをしてていいのだろうかと。ハーレム状態なのだろうか。単に便利に使われているだけなのだろうかと。

最低のEランクと追放されたけど、実はEXランクの無限増殖で最強でした。

みこみこP
ファンタジー
高校2年の夏。 高木華音【男】は夏休みに入る前日のホームルーム中にクラスメイトと共に異世界にある帝国【ゼロムス】に魔王討伐の為に集団転移させれた。 地球人が異世界転移すると必ずDランクからAランクの固有スキルという世界に1人しか持てないレアスキルを授かるのだが、華音だけはEランク・【ムゲン】という存在しない最低ランクの固有スキルを授かったと、帝国により死の森へ捨てられる。 しかし、華音の授かった固有スキルはEXランクの無限増殖という最強のスキルだったが、本人は弱いと思い込み、死の森を生き抜く為に無双する。

無尽蔵の魔力で世界を救います~現実世界からやって来た俺は神より魔力が多いらしい~

甲賀流
ファンタジー
なんの特徴もない高校生の高橋 春陽はある時、異世界への繋がるダンジョンに迷い込んだ。なんだ……空気中に星屑みたいなのがキラキラしてるけど?これが全て魔力だって? そしてダンジョンを突破した先には広大な異世界があり、この世界全ての魔力を行使して神や魔族に挑んでいく。

幸福の魔法使い〜ただの転生者が史上最高の魔法使いになるまで〜

霊鬼
ファンタジー
生まれつき魔力が見えるという特異体質を持つ現代日本の会社員、草薙真はある日死んでしまう。しかし何故か目を覚ませば自分が幼い子供に戻っていて……? 生まれ直した彼の目的は、ずっと憧れていた魔法を極めること。様々な地へ訪れ、様々な人と会い、平凡な彼はやがて英雄へと成り上がっていく。 これは、ただの転生者が、やがて史上最高の魔法使いになるまでの物語である。 (小説家になろう様、カクヨム様にも掲載をしています。)

異世界転生おじさんは最強とハーレムを極める

自ら
ファンタジー
定年を半年後に控えた凡庸なサラリーマン、佐藤健一(50歳)は、不慮の交通事故で人生を終える。目覚めた先で出会ったのは、自分の魂をトラックの前に落としたというミスをした女神リナリア。 その「お詫び」として、健一は剣と魔法の異世界へと30代後半の肉体で転生することになる。チート能力の選択を迫られ、彼はあらゆる経験から無限に成長できる**【無限成長(アンリミテッド・グロース)】**を選び取る。 異世界で早速遭遇したゴブリンを一撃で倒し、チート能力を実感した健一は、くたびれた人生を捨て、最強のセカンドライフを謳歌することを決意する。 定年間際のおじさんが、女神の気まぐれチートで異世界最強への道を歩み始める、転生ファンタジーの開幕。

【改稿版】休憩スキルで異世界無双!チートを得た俺は異世界で無双し、王女と魔女を嫁にする。

ゆう
ファンタジー
剣と魔法の異世界に転生したクリス・レガード。 剣聖を輩出したことのあるレガード家において剣術スキルは必要不可欠だが12歳の儀式で手に入れたスキルは【休憩】だった。 しかしこのスキル、想像していた以上にチートだ。 休憩を使いスキルを強化、更に新しいスキルを獲得できてしまう… そして強敵と相対する中、クリスは伝説のスキルである覇王を取得する。 ルミナス初代国王が有したスキルである覇王。 その覇王発現は王国の長い歴史の中で悲願だった。 それ以降、クリスを取り巻く環境は目まぐるしく変化していく…… ※アルファポリスに投稿した作品の改稿版です。 ホットランキング最高位2位でした。 カクヨムにも別シナリオで掲載。

処理中です...