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第23話 光と影
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誓約の儀、そして精霊会を終えたルミナス学院の教会は、ひっそりと静まり返っていた。
学院が休校となっている今、教会に足を運ぶ学生はほとんどいない。
広い礼拝堂に、アリシアの祈りの声だけが静かに響いていた。
祈りを終え、静かに目を開ける。
昨日までの華やかな宴の余韻が、まだこの空気のどこかに残っている気がした。
今日で出張と銘打った教会の手伝いも一区切りになる。
明日からは、アリシア・ハートウィルのもう一つの戦場――王都の商業区にある『アリシア商会』へと戻るのだ。
(……大変な数日間でしたね)
アリシアは内心で、この数日間の出来事を反芻する。
公爵家嫡男ユリウスが見せた、王道を征く者の輝き。それはまるで、あるべき場所に昇る太陽のように、必然の光景だった。
そして、アルトナ男爵家の子息クライスが顕現させた、規格外の力。あれは、平穏な夜空を切り裂く、凶兆にも似た流星のようだった。
そして、もう一人。
「……ふふ」
思わず小さく笑みがこぼれる。
脳裏に浮かぶのは、ディラン・ベルモンドという、奇妙な貴族の姿だった。
ベルモンド侯爵家という名家に生まれながら、飾らず、それでいて奇妙な気品を漂わせる、あの青年。
披露した力は誰よりもささやかだったのに、その存在感は、ユリウス公やクライス殿にも決して劣るものではなかった。
あるいは、それ以上だったかもしれない。
あの二人が示したのは圧倒的な「力」だったが、彼が自分に示してくれたのは、自分の生き方そのものへの、温かい「理解」だったからだ。
そして精霊会での一幕。
太陽でも、流星でもない。彼の放つ光は、あまりに小さく、頼りなかった。精霊会での、あの指先に灯っただけの小さな光は、思い出すだけで微笑ましい。
(不思議な方です)
教会で交わした、短い会話を思い出す。
「自らの手で救いの道を作る。それもまた、聖女の務めなのかもしれませんね」――彼の言葉は、教会や伝統ある貴族たちからは決して得られない、温かい肯定だった。あの言葉だけで、長年胸の内にあった重い靄が、すっと晴れていくような気がしたのだ。
アリシアは立ち上がり、祭壇に飾られた聖女神ルミナの像を静かに見上げる。
「聖女神様、どうかあの方を……」
彼が自らの力で、その道を切り開いていけますように。
「――アリシア様」
不意に、背後から遠慮がちな声がかけられた。
振り返ると、そこにいたのは子爵家の令息、ロイ・フィリベールだった。
彼もまた、一人静かに祈りを捧げていたらしい。その線の細い顔立ちには、伏せられ表情は伺えない。
「はい、何でしょうか」
アリシアは穏やかに微笑み、静かに向き直った。
「……どうしましたか?」
アリシアの声に、ロイはびくりと肩を震わせた。
彼はゆっくりと顔を上げたが、その瞳はアリシアの顔を捉えることなく、不安げに床を彷徨っている。
その手は、祈りを捧げるかのように、しかしもっと強く、自身の胸元を握りしめていた。
「何か、お悩みでも?」
聖女として、悩みを聞き、心を軽くすることもまた務めの一つ。
アリシアは一歩近づき、できるだけ優しい声色で問いかけた。
ロイの唇が微かに震える。何かを言いかけては、飲み込む。その逡巡に、彼の抱える問題の根深さが滲んでいた。
「……アリシア様は」
やがて、絞り出すような声で、彼は言った。
「……僕の名前をご存知ですか?」
あまりにも突拍子もない言葉。
しかしアリシアは冷静だった。彼もまた誓約の儀に臨んだ貴族の一人。
聖女たるアリシアは参加者の顔を全て覚えている。
「はい、ロイ・フィリベール様ですよね」
その言葉に、ロイの身体が更に縮こまるのが分かった。
「覚えていらしたのですね……では、貴方が私に……いえ、フィリベール家にしたことも覚えていらっしゃるのですね」
その声は、微かな震えと共に、抑えきれない憎悪の色を帯びていた。
アリシアは穏やかな表情を崩さぬまま、しかし内心の困惑を隠せずに問い返す。
「フィリベール家に……? 申し訳ありません、私には心当たりが……」
「心当たりがない、と……!?」
アリシアの言葉が引き金だった。ロイの表情から感情が抜け落ち、代わりに堰を切ったような激しい言葉が溢れ出す。
「あなたの商会が現れてから、全てが変わってしまった! あなたが『聖女の祝福』を謳い文句にした安価なポーションを市場に流したせいで、何代も続いてきた我が家の事業は……!」
その名を、アリシアは商売人として記憶していた。
フィルベール子爵家。薬草やポーションの製造販売を生業とする、歴史ある家。
その製品は高品質で知られていたが、同時に非常に高価でもあった。貴族や富裕層を相手にした、伝統的な商売だ。
(……なるほど、そういうことでしたか)
アリシアの脳裏に、市場の力学が冷徹な図として浮かび上がる。
高品質だが高価なフィリベール家のポーション。
品質はそれに劣るかもしれないが、聖女の祝福で効果を高め、圧倒的な低価格で大量に供給されるアリシア商会のポーション。
これまで薬に手の届かなかった平民たちが、後者に殺到するのは自明の理だった。意図せずして、アリシアは彼の家の市場を奪っていたのだ。
「ロイ様のお家のご事情、お察しいたします。ですが……」
アリシアは静かに、しかし毅然として言葉を紡ぐ。
「私のポーションは、これまで薬も買えなかった貧しい人々を救うためにあります。一杯のスープを我慢すれば手が届く価格で、一人でも多くの命を繋ぐこと。それが私の務めです。……その過程で、既存の市場に影響が出ることは、避けられなかったのかもしれません」
それは謝罪ではなかった。彼女の譲れない信念の表明だった。
その揺るぎない態度が、ロイの最後の理性を焼き切った。
「綺麗事だッ!」
彼の絶叫が、神聖な礼拝堂の空気を震わせる。
「あなたは聖女の名を使い、我々から富と誇りを奪っているだけだ! 先日、公の場で父を侮辱した件を忘れたとは言わせないぞ!」
その指摘にアリシアは困惑する。
彼女にしてみれば心当たりがなかったからだ。
「ロイ様、恐らくは何かの誤解かと存じます。私に、あなたのお父上を侮辱する意図はございません。お会いした記憶さえ、定かではないのです」
アリシアはあくまで冷静に、対話での解決を試みる。だが、その冷静さが、彼の絶望に火を注いだ。
「誤解だと……ッ! 覚えてすらいない、と! 我々フィリベール家の苦しみも、父の屈辱も、あなたにとっては道端の石ころほどの価値もないというのか!」
ロイの瞳から、理性の光が消える。
彼は懐から、赤黒い石を取り出す。
禍々しい紫色の紋様が刻まれた、見るからに不吉な品だ。
「あなたは光だと言う! ならば、その光が作り出した影の深さを、その身で味わえ!」
アリシアが制止の声を上げるより早く、ロイはその石を床の石畳に叩きつけた。
パリン、と乾いた音が響く。
直後、石の破片から魔法陣が広がり、教会の床をどす黒く覆った。
「これは……!?」
聖女であるアリシアの本能が、警鐘を鳴らす。
ただの魔力ではない。
憎悪、嫉妬、絶望――負の感情を凝縮して練り上げた、呪いの瘴気。
瘴気は瞬く間に広がり、礼拝堂の神聖な空気を汚染していく。ステンドグラスから差し込む光は色を失い、壁の聖印は黒く淀んだ。
「綺麗事だけでは、何も救えない……! 我が家の没落が、それを証明している! ならば俺も、この身を汚してでも、誇りを……!」
まるで何かに取り憑かれたかのように、狂気の言葉を発し続けるロイ。
その間にも黒い瘴気は蠢き、粘液質の塊のように隆起する。
やがて、その塊が人の形を取り始めた。
「グルゥ……」
喉の奥で、濡れたような低い唸り声が響く。
瘴気から這い出てきたのは、数体の異形の存在だった。
ずるりとした頭、ねじれた耳、濁った黄緑色の肌。
皮膚は薄汚れてひび割れ、血走った目がぎょろりとこちらを向く。
「ひ、ひひ……どうだ、アリシア様……! これが、お前の光が生んだ影だ!」
ロイが狂ったように笑う。
しかし、アリシアは絶望に顔を歪めはしなかった。
恐怖に震えもしなかった。
彼女の瞳に宿っていたのは、聖女としての、揺るぎない覚悟の光だ。
「……あなたの魂の痛み、確かに受け取りました。ですが、その痛みを罪なき人々にまで向けるというのなら――」
アリシアはすっと両手を胸の前に掲げる。
その指先から、穢れた礼拝堂には不釣り合いな、清浄な光が溢れ出した。
「私の務めは、あなたを止めることです!」
彼女の凛とした声と共に、光が爆ぜる。
瘴気から生まれた魔物たちが一瞬怯むほどの、眩い閃光。光はアリシアを中心に半球状の障壁を形成し、押し寄せる瘴気を押し返した。
「なっ……!?」
神聖魔法『聖域』。
高位の聖職者にのみ使える結界魔法だ。
邪を退け、弱き者を守るための、絶対的な守りの力である。
障壁に触れた瘴気が、じゅう、と音を立てて蒸発していく。魔物たちは苦しげな唸り声を上げ、障壁を叩くが、その度にその身を焼かれていた。
だが、ロイの顔から焦りの色はすぐに消え、歪んだ愉悦が浮かんだ。
「だが無駄だ、アリシア様!」
ロイの言う通りだった。
障壁は魔物たちの侵入を防いではいるが、アリシアの額には玉の汗が浮かび、その表情には徐々に疲労の色が濃くなっていく。
「グルゥ……オオオッ!」
喉の奥で、濡れたような低い唸り声が響く。
瘴気から這い出てきたのは、他の個体より一回りも二回りも大きな、異形の存在だった。
その巨腕が、アリシアの張った光の障壁に叩きつけられる。
ミシリ、と空間が軋む音がした。
障壁に、蜘蛛の巣のような亀裂が走る。
「くっ……!」
歯を食いしばるアリシアの額に、冷たい汗が伝った。
何度も何度もその異形の化け物は、自らの身体が傷つけようが、灼けようが、一切気にする素振りも見せずに攻撃を続ける。
障壁が砕け散るのは、もはや時間の問題だった。
巨大な魔物の腕が、再び振り上げられる。
今度こそ、障壁は砕け散るだろう。そして、その先にある無防備な聖女ごと――
その、刹那。
礼拝堂の重厚な扉が、鈍いを立てて開かれた。
逆光の中に現れた人影に、その場にいた全員の動きが止まる。
「……間に合った、か」
静かな、しかしどこか聞き覚えのある声。
残りの異形たちが一斉に新たな侵入者を威嚇する中、その人影はゆっくりと光の中へと足を踏み入れた。
夕陽に照らされたその姿に、アリシアは息を呑む。
「ディラン……様……?」
か細いアリシアの声に、青年――ディラン・ベルモンドは視線だけを向け、小さく頷いた。
「聖女様から、離れろ」
その琥珀色の瞳が、呪いの魔物たちを、そしてその奥で立ち尽くすロイを、鋭く射抜いた。
学院が休校となっている今、教会に足を運ぶ学生はほとんどいない。
広い礼拝堂に、アリシアの祈りの声だけが静かに響いていた。
祈りを終え、静かに目を開ける。
昨日までの華やかな宴の余韻が、まだこの空気のどこかに残っている気がした。
今日で出張と銘打った教会の手伝いも一区切りになる。
明日からは、アリシア・ハートウィルのもう一つの戦場――王都の商業区にある『アリシア商会』へと戻るのだ。
(……大変な数日間でしたね)
アリシアは内心で、この数日間の出来事を反芻する。
公爵家嫡男ユリウスが見せた、王道を征く者の輝き。それはまるで、あるべき場所に昇る太陽のように、必然の光景だった。
そして、アルトナ男爵家の子息クライスが顕現させた、規格外の力。あれは、平穏な夜空を切り裂く、凶兆にも似た流星のようだった。
そして、もう一人。
「……ふふ」
思わず小さく笑みがこぼれる。
脳裏に浮かぶのは、ディラン・ベルモンドという、奇妙な貴族の姿だった。
ベルモンド侯爵家という名家に生まれながら、飾らず、それでいて奇妙な気品を漂わせる、あの青年。
披露した力は誰よりもささやかだったのに、その存在感は、ユリウス公やクライス殿にも決して劣るものではなかった。
あるいは、それ以上だったかもしれない。
あの二人が示したのは圧倒的な「力」だったが、彼が自分に示してくれたのは、自分の生き方そのものへの、温かい「理解」だったからだ。
そして精霊会での一幕。
太陽でも、流星でもない。彼の放つ光は、あまりに小さく、頼りなかった。精霊会での、あの指先に灯っただけの小さな光は、思い出すだけで微笑ましい。
(不思議な方です)
教会で交わした、短い会話を思い出す。
「自らの手で救いの道を作る。それもまた、聖女の務めなのかもしれませんね」――彼の言葉は、教会や伝統ある貴族たちからは決して得られない、温かい肯定だった。あの言葉だけで、長年胸の内にあった重い靄が、すっと晴れていくような気がしたのだ。
アリシアは立ち上がり、祭壇に飾られた聖女神ルミナの像を静かに見上げる。
「聖女神様、どうかあの方を……」
彼が自らの力で、その道を切り開いていけますように。
「――アリシア様」
不意に、背後から遠慮がちな声がかけられた。
振り返ると、そこにいたのは子爵家の令息、ロイ・フィリベールだった。
彼もまた、一人静かに祈りを捧げていたらしい。その線の細い顔立ちには、伏せられ表情は伺えない。
「はい、何でしょうか」
アリシアは穏やかに微笑み、静かに向き直った。
「……どうしましたか?」
アリシアの声に、ロイはびくりと肩を震わせた。
彼はゆっくりと顔を上げたが、その瞳はアリシアの顔を捉えることなく、不安げに床を彷徨っている。
その手は、祈りを捧げるかのように、しかしもっと強く、自身の胸元を握りしめていた。
「何か、お悩みでも?」
聖女として、悩みを聞き、心を軽くすることもまた務めの一つ。
アリシアは一歩近づき、できるだけ優しい声色で問いかけた。
ロイの唇が微かに震える。何かを言いかけては、飲み込む。その逡巡に、彼の抱える問題の根深さが滲んでいた。
「……アリシア様は」
やがて、絞り出すような声で、彼は言った。
「……僕の名前をご存知ですか?」
あまりにも突拍子もない言葉。
しかしアリシアは冷静だった。彼もまた誓約の儀に臨んだ貴族の一人。
聖女たるアリシアは参加者の顔を全て覚えている。
「はい、ロイ・フィリベール様ですよね」
その言葉に、ロイの身体が更に縮こまるのが分かった。
「覚えていらしたのですね……では、貴方が私に……いえ、フィリベール家にしたことも覚えていらっしゃるのですね」
その声は、微かな震えと共に、抑えきれない憎悪の色を帯びていた。
アリシアは穏やかな表情を崩さぬまま、しかし内心の困惑を隠せずに問い返す。
「フィリベール家に……? 申し訳ありません、私には心当たりが……」
「心当たりがない、と……!?」
アリシアの言葉が引き金だった。ロイの表情から感情が抜け落ち、代わりに堰を切ったような激しい言葉が溢れ出す。
「あなたの商会が現れてから、全てが変わってしまった! あなたが『聖女の祝福』を謳い文句にした安価なポーションを市場に流したせいで、何代も続いてきた我が家の事業は……!」
その名を、アリシアは商売人として記憶していた。
フィルベール子爵家。薬草やポーションの製造販売を生業とする、歴史ある家。
その製品は高品質で知られていたが、同時に非常に高価でもあった。貴族や富裕層を相手にした、伝統的な商売だ。
(……なるほど、そういうことでしたか)
アリシアの脳裏に、市場の力学が冷徹な図として浮かび上がる。
高品質だが高価なフィリベール家のポーション。
品質はそれに劣るかもしれないが、聖女の祝福で効果を高め、圧倒的な低価格で大量に供給されるアリシア商会のポーション。
これまで薬に手の届かなかった平民たちが、後者に殺到するのは自明の理だった。意図せずして、アリシアは彼の家の市場を奪っていたのだ。
「ロイ様のお家のご事情、お察しいたします。ですが……」
アリシアは静かに、しかし毅然として言葉を紡ぐ。
「私のポーションは、これまで薬も買えなかった貧しい人々を救うためにあります。一杯のスープを我慢すれば手が届く価格で、一人でも多くの命を繋ぐこと。それが私の務めです。……その過程で、既存の市場に影響が出ることは、避けられなかったのかもしれません」
それは謝罪ではなかった。彼女の譲れない信念の表明だった。
その揺るぎない態度が、ロイの最後の理性を焼き切った。
「綺麗事だッ!」
彼の絶叫が、神聖な礼拝堂の空気を震わせる。
「あなたは聖女の名を使い、我々から富と誇りを奪っているだけだ! 先日、公の場で父を侮辱した件を忘れたとは言わせないぞ!」
その指摘にアリシアは困惑する。
彼女にしてみれば心当たりがなかったからだ。
「ロイ様、恐らくは何かの誤解かと存じます。私に、あなたのお父上を侮辱する意図はございません。お会いした記憶さえ、定かではないのです」
アリシアはあくまで冷静に、対話での解決を試みる。だが、その冷静さが、彼の絶望に火を注いだ。
「誤解だと……ッ! 覚えてすらいない、と! 我々フィリベール家の苦しみも、父の屈辱も、あなたにとっては道端の石ころほどの価値もないというのか!」
ロイの瞳から、理性の光が消える。
彼は懐から、赤黒い石を取り出す。
禍々しい紫色の紋様が刻まれた、見るからに不吉な品だ。
「あなたは光だと言う! ならば、その光が作り出した影の深さを、その身で味わえ!」
アリシアが制止の声を上げるより早く、ロイはその石を床の石畳に叩きつけた。
パリン、と乾いた音が響く。
直後、石の破片から魔法陣が広がり、教会の床をどす黒く覆った。
「これは……!?」
聖女であるアリシアの本能が、警鐘を鳴らす。
ただの魔力ではない。
憎悪、嫉妬、絶望――負の感情を凝縮して練り上げた、呪いの瘴気。
瘴気は瞬く間に広がり、礼拝堂の神聖な空気を汚染していく。ステンドグラスから差し込む光は色を失い、壁の聖印は黒く淀んだ。
「綺麗事だけでは、何も救えない……! 我が家の没落が、それを証明している! ならば俺も、この身を汚してでも、誇りを……!」
まるで何かに取り憑かれたかのように、狂気の言葉を発し続けるロイ。
その間にも黒い瘴気は蠢き、粘液質の塊のように隆起する。
やがて、その塊が人の形を取り始めた。
「グルゥ……」
喉の奥で、濡れたような低い唸り声が響く。
瘴気から這い出てきたのは、数体の異形の存在だった。
ずるりとした頭、ねじれた耳、濁った黄緑色の肌。
皮膚は薄汚れてひび割れ、血走った目がぎょろりとこちらを向く。
「ひ、ひひ……どうだ、アリシア様……! これが、お前の光が生んだ影だ!」
ロイが狂ったように笑う。
しかし、アリシアは絶望に顔を歪めはしなかった。
恐怖に震えもしなかった。
彼女の瞳に宿っていたのは、聖女としての、揺るぎない覚悟の光だ。
「……あなたの魂の痛み、確かに受け取りました。ですが、その痛みを罪なき人々にまで向けるというのなら――」
アリシアはすっと両手を胸の前に掲げる。
その指先から、穢れた礼拝堂には不釣り合いな、清浄な光が溢れ出した。
「私の務めは、あなたを止めることです!」
彼女の凛とした声と共に、光が爆ぜる。
瘴気から生まれた魔物たちが一瞬怯むほどの、眩い閃光。光はアリシアを中心に半球状の障壁を形成し、押し寄せる瘴気を押し返した。
「なっ……!?」
神聖魔法『聖域』。
高位の聖職者にのみ使える結界魔法だ。
邪を退け、弱き者を守るための、絶対的な守りの力である。
障壁に触れた瘴気が、じゅう、と音を立てて蒸発していく。魔物たちは苦しげな唸り声を上げ、障壁を叩くが、その度にその身を焼かれていた。
だが、ロイの顔から焦りの色はすぐに消え、歪んだ愉悦が浮かんだ。
「だが無駄だ、アリシア様!」
ロイの言う通りだった。
障壁は魔物たちの侵入を防いではいるが、アリシアの額には玉の汗が浮かび、その表情には徐々に疲労の色が濃くなっていく。
「グルゥ……オオオッ!」
喉の奥で、濡れたような低い唸り声が響く。
瘴気から這い出てきたのは、他の個体より一回りも二回りも大きな、異形の存在だった。
その巨腕が、アリシアの張った光の障壁に叩きつけられる。
ミシリ、と空間が軋む音がした。
障壁に、蜘蛛の巣のような亀裂が走る。
「くっ……!」
歯を食いしばるアリシアの額に、冷たい汗が伝った。
何度も何度もその異形の化け物は、自らの身体が傷つけようが、灼けようが、一切気にする素振りも見せずに攻撃を続ける。
障壁が砕け散るのは、もはや時間の問題だった。
巨大な魔物の腕が、再び振り上げられる。
今度こそ、障壁は砕け散るだろう。そして、その先にある無防備な聖女ごと――
その、刹那。
礼拝堂の重厚な扉が、鈍いを立てて開かれた。
逆光の中に現れた人影に、その場にいた全員の動きが止まる。
「……間に合った、か」
静かな、しかしどこか聞き覚えのある声。
残りの異形たちが一斉に新たな侵入者を威嚇する中、その人影はゆっくりと光の中へと足を踏み入れた。
夕陽に照らされたその姿に、アリシアは息を呑む。
「ディラン……様……?」
か細いアリシアの声に、青年――ディラン・ベルモンドは視線だけを向け、小さく頷いた。
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