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幕間 - 聖女の十字架
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事件から数日後。
アリシアは王都の大聖堂に呼び出されていた。
「アリシア様、まずはご無事で何よりでした」
大司教の声は表面上は慈愛に満ちていた。
だが、その目は冷たく、まるで値踏みをするかのようにアリシアを見つめている。
「今回の事件、本当に恐ろしいことでしたね。まさか聖女である貴女が、あのような危険に晒されるとは」
「はい、ですが女神様のご加護により――」
「ええ、ええ、女神様のご加護ですとも」
大司教は優しく微笑みながら、しかし言葉を遮った。
「ただ、一点だけ気になることがございまして」
大司教は手元に持つ報告書に目を向けながら言う。
「今回襲撃してきた生徒……確か、フィリベール子爵家の子息とのこと」
「……はい」
「聞けば、彼の家は代々薬草やポーションの製造で生計を立てていたとか。それが近年、経営が傾き、家も没落寸前だったそうですね」
大司教の声は穏やかだが、その言葉には棘がある。
「実に痛ましいことです。古き良き伝統を守ってきた家が、時代の波に飲まれ、息子は道を誤る……ああ、なんと悲しいことでしょう」
それはアリシア自身の報告によって明かされたロイの動機。
大司教の言葉は同情に満ちていたが、その視線は冷たく鋭い。
アリシアはこの男が何を言いたいのか、既に察しがついていた。
そして同時にそのことについて責任すら感じている。
「もちろん、彼の行いは決して許されるものではありません。魔に手を染めるなど、言語道断です」
大司教は溜息をつき、悲しげに首を振る。
「ですが、人が道を踏み外すには、それなりの理由があるものです。絶望が人を狂わせる。それもまた、悲しい真実でございます」
「……」
アリシアは黙して聞いていた。
「さて、アリシア様。貴方様は商いによって人々を救われるとおっしゃった」
大司教は続ける。
「確かに、貴女様の商会が提供する安価なポーションは、多くの貧しい民を救ったことでしょう。それ自体は、誠に尊いことです」
「ありがとうございます」
アリシアは静かに頭を下げた。
だが、大司教の次の言葉を、彼女は予感している。
「しかし――」
案の定、大司教は言葉を続ける。
「その光が、思わぬ影を生んでしまったようですね。フィリベール家のように、伝統ある家々が、貴女様の商会によって市場を奪われ、苦境に立たされている。そしてその絶望が、今回のような悲劇を生んだ」
「……はい」
アリシアは小さく頷く。
「もちろん、貴女様に悪意があったわけではないでしょう」
大司教は両手を広げ、慈悲深げに語る。
「ですが、結果として、貴女様の善意が人を破滅させ、魔に手を染めさせてしまった。やはり忠告通り聖女である貴方様が世俗の商いに手を染めるべきではなかったのかもしれません」
大司教の言葉は、慈悲深い忠告の形を取りながら、その実は鋭い刃だった。
「聖女様の本分は、祈りを捧げ、病める者を癒し、迷える魂を導くこと。それこそが、女神様から授かった貴女様の使命のはずです」
「ですが、私の商会は――」
「ええ、ええ、分かっておりますとも」
大司教は優しく微笑みながら、またしても言葉を遮る。
「貧しき者を救いたいという、その慈愛の心。誠に尊いことです。ですが、アリシア様、お考えください」
大司教は窓の外、王都の街並みを見やりながら続けた。
「貴女様が商売に力を注いでいる間、どれだけの人々が聖女様の祈りを求めていたか。どれだけの病める者が、癒しの手を待ち望んでいたか。聖女様にしかできないことがあるのです」
その言葉には、一見すると正論があった。
だが、アリシアには分かっている。これは正論の皮を被った、巧妙な締め付けだ。
元より聖女である身で商売をすることに対して、教会から圧力にかけられていた。
しかしアリシアは聖職と商売を両立させ、その実績を盾に圧力をかわすことができていた。
だが、今回の事件は教会にとって、願ってもない口実となってしまったのだ。
「今回の事件で、多くの方々が恐怖に怯えました。そして今、彼らは聖女様の祈りを、癒しを求めています」
大司教は振り返り、慈愛に満ちた表情でアリシアを見つめた。
「どうか、彼らの期待に応えてあげてください。聖女様の本分を、全うしてあげてください。商会のことは、信頼できる者に任せればよいのです。貴女様でなくとも、商売はできます。ですが――」
大司教は一歩、アリシアに近づいた。
「聖女は、貴女様しかいないのですから」
その言葉は、温かく、優しく、そして――逃れようのない鎖のように、アリシアを縛りつけた。
「……分かりました。よく、考えさせていただきます」
アリシアは静かに頷く。
当然、大司教の言が全てが正しいとは思ってはいない。だがそれでもアリシアには自分に非があると感じていた。
「はい、賢明なご判断をしていただけると信じております」
▼
大聖堂を出たアリシアは、重い足取りで王都の街を歩いていた。
夕暮れの空は、どこまでも灰色に沈んでいる。
(私は……間違っていたのでしょうか)
大司教の言葉が、頭の中で何度も反芻される。
確かに、自分の商会がフィリベール家を追い詰めた。
その結果、ロイは魔に手を染め、多くの人が危険に晒された。
(もし、私が商売などしていなければ……)
だが――
「あ、聖女様!」
不意に、声をかけられる。
振り返ると、そこにはそこには学院の制服を着る青年が立っていた。
事件が頭を過ぎり、アリシアは思わず顔を背けたくなる。
「……はい」
努めて平静を装い、アリシアは応じた。
だが、青年はアリシアの様子など気にも留めず、満面の笑みで近づいてくる。
「ちょうど良かった、お礼を言いたかったんです!」
「お、お礼……?」
予想外の言葉に、アリシアは戸惑う。
「はい! あの事件の時、聖女様が配ってくださったポーション、本当に助かりました!」
青年は興奮気味に語り始める。
「俺、魔物と戦ってて怪我したんですけど、あのポーションのおかげでこの通り!」
青年は腕をぐるぐる回して見せる。
確かに、傷一つない。
「それに、俺の友達も! あいつ、結構酷い傷を負ってたんですけど、聖女様のポーションで命拾いしました! 本当に、ありがとうございます!」
深々と頭を下げる青年。
その純粋な感謝の言葉に、アリシアは何も言えなかった。
「あ、聖女様だ!」
別の声が届く。
振り返ると、そこには見覚えのある少年がいた。
以前、アリシア商会でポーションを買った、貧しい家の子だ。
「聖女様、ありがとうございました! 母ちゃんの熱、すぐに下がったんです!」
少年は満面の笑みで駆け寄ってくる。
その手には、小さく握りしめた銅貨が数枚。
「また、お薬買いに行きますね!」
少年はそれだけ言うと、嬉しそうに駆けていった。
アリシアは、その小さな背中を見送る。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
(……これが、間違いなのでしょうか)
彼のような子供たちが、明日を生きられる。
それは間違いなのだろうか。
「――自らの手で救いの道を作る。それもまた、聖女の務めなのかもしれませんね」
不意に、あの日の言葉が蘇る。
ディラン・ベルモンドの、あの温かな声が。
(ディラン様なら、なんとおっしゃるでしょうか)
きっと、あの方は――
「迷うことはない、と仰るでしょうか。それとも……」
アリシアは空を見上げた。
灰色の雲の隙間から、一筋の光が差し込んでいる。
(私は――)
アリシアは、胸に手を当てた。
やるべきこと、やりたいこと。
聖女として、そして一人の人間として。
大司教の言葉は正しいのかもしれない。
教会の人々の言うことも、間違ってはいないのかもしれない。
でも――
「私は……諦めたく、ない」
小さく、しかしはっきりと、アリシアは呟いた。
どちらか一つを選ぶのではない。
どちらも諦めない。
それが、自分の選ぶ道だ。
――聖女の道も、商人の道も。
どちらも自分の足で、切り拓いていくのだと。
アリシアは王都の大聖堂に呼び出されていた。
「アリシア様、まずはご無事で何よりでした」
大司教の声は表面上は慈愛に満ちていた。
だが、その目は冷たく、まるで値踏みをするかのようにアリシアを見つめている。
「今回の事件、本当に恐ろしいことでしたね。まさか聖女である貴女が、あのような危険に晒されるとは」
「はい、ですが女神様のご加護により――」
「ええ、ええ、女神様のご加護ですとも」
大司教は優しく微笑みながら、しかし言葉を遮った。
「ただ、一点だけ気になることがございまして」
大司教は手元に持つ報告書に目を向けながら言う。
「今回襲撃してきた生徒……確か、フィリベール子爵家の子息とのこと」
「……はい」
「聞けば、彼の家は代々薬草やポーションの製造で生計を立てていたとか。それが近年、経営が傾き、家も没落寸前だったそうですね」
大司教の声は穏やかだが、その言葉には棘がある。
「実に痛ましいことです。古き良き伝統を守ってきた家が、時代の波に飲まれ、息子は道を誤る……ああ、なんと悲しいことでしょう」
それはアリシア自身の報告によって明かされたロイの動機。
大司教の言葉は同情に満ちていたが、その視線は冷たく鋭い。
アリシアはこの男が何を言いたいのか、既に察しがついていた。
そして同時にそのことについて責任すら感じている。
「もちろん、彼の行いは決して許されるものではありません。魔に手を染めるなど、言語道断です」
大司教は溜息をつき、悲しげに首を振る。
「ですが、人が道を踏み外すには、それなりの理由があるものです。絶望が人を狂わせる。それもまた、悲しい真実でございます」
「……」
アリシアは黙して聞いていた。
「さて、アリシア様。貴方様は商いによって人々を救われるとおっしゃった」
大司教は続ける。
「確かに、貴女様の商会が提供する安価なポーションは、多くの貧しい民を救ったことでしょう。それ自体は、誠に尊いことです」
「ありがとうございます」
アリシアは静かに頭を下げた。
だが、大司教の次の言葉を、彼女は予感している。
「しかし――」
案の定、大司教は言葉を続ける。
「その光が、思わぬ影を生んでしまったようですね。フィリベール家のように、伝統ある家々が、貴女様の商会によって市場を奪われ、苦境に立たされている。そしてその絶望が、今回のような悲劇を生んだ」
「……はい」
アリシアは小さく頷く。
「もちろん、貴女様に悪意があったわけではないでしょう」
大司教は両手を広げ、慈悲深げに語る。
「ですが、結果として、貴女様の善意が人を破滅させ、魔に手を染めさせてしまった。やはり忠告通り聖女である貴方様が世俗の商いに手を染めるべきではなかったのかもしれません」
大司教の言葉は、慈悲深い忠告の形を取りながら、その実は鋭い刃だった。
「聖女様の本分は、祈りを捧げ、病める者を癒し、迷える魂を導くこと。それこそが、女神様から授かった貴女様の使命のはずです」
「ですが、私の商会は――」
「ええ、ええ、分かっておりますとも」
大司教は優しく微笑みながら、またしても言葉を遮る。
「貧しき者を救いたいという、その慈愛の心。誠に尊いことです。ですが、アリシア様、お考えください」
大司教は窓の外、王都の街並みを見やりながら続けた。
「貴女様が商売に力を注いでいる間、どれだけの人々が聖女様の祈りを求めていたか。どれだけの病める者が、癒しの手を待ち望んでいたか。聖女様にしかできないことがあるのです」
その言葉には、一見すると正論があった。
だが、アリシアには分かっている。これは正論の皮を被った、巧妙な締め付けだ。
元より聖女である身で商売をすることに対して、教会から圧力にかけられていた。
しかしアリシアは聖職と商売を両立させ、その実績を盾に圧力をかわすことができていた。
だが、今回の事件は教会にとって、願ってもない口実となってしまったのだ。
「今回の事件で、多くの方々が恐怖に怯えました。そして今、彼らは聖女様の祈りを、癒しを求めています」
大司教は振り返り、慈愛に満ちた表情でアリシアを見つめた。
「どうか、彼らの期待に応えてあげてください。聖女様の本分を、全うしてあげてください。商会のことは、信頼できる者に任せればよいのです。貴女様でなくとも、商売はできます。ですが――」
大司教は一歩、アリシアに近づいた。
「聖女は、貴女様しかいないのですから」
その言葉は、温かく、優しく、そして――逃れようのない鎖のように、アリシアを縛りつけた。
「……分かりました。よく、考えさせていただきます」
アリシアは静かに頷く。
当然、大司教の言が全てが正しいとは思ってはいない。だがそれでもアリシアには自分に非があると感じていた。
「はい、賢明なご判断をしていただけると信じております」
▼
大聖堂を出たアリシアは、重い足取りで王都の街を歩いていた。
夕暮れの空は、どこまでも灰色に沈んでいる。
(私は……間違っていたのでしょうか)
大司教の言葉が、頭の中で何度も反芻される。
確かに、自分の商会がフィリベール家を追い詰めた。
その結果、ロイは魔に手を染め、多くの人が危険に晒された。
(もし、私が商売などしていなければ……)
だが――
「あ、聖女様!」
不意に、声をかけられる。
振り返ると、そこにはそこには学院の制服を着る青年が立っていた。
事件が頭を過ぎり、アリシアは思わず顔を背けたくなる。
「……はい」
努めて平静を装い、アリシアは応じた。
だが、青年はアリシアの様子など気にも留めず、満面の笑みで近づいてくる。
「ちょうど良かった、お礼を言いたかったんです!」
「お、お礼……?」
予想外の言葉に、アリシアは戸惑う。
「はい! あの事件の時、聖女様が配ってくださったポーション、本当に助かりました!」
青年は興奮気味に語り始める。
「俺、魔物と戦ってて怪我したんですけど、あのポーションのおかげでこの通り!」
青年は腕をぐるぐる回して見せる。
確かに、傷一つない。
「それに、俺の友達も! あいつ、結構酷い傷を負ってたんですけど、聖女様のポーションで命拾いしました! 本当に、ありがとうございます!」
深々と頭を下げる青年。
その純粋な感謝の言葉に、アリシアは何も言えなかった。
「あ、聖女様だ!」
別の声が届く。
振り返ると、そこには見覚えのある少年がいた。
以前、アリシア商会でポーションを買った、貧しい家の子だ。
「聖女様、ありがとうございました! 母ちゃんの熱、すぐに下がったんです!」
少年は満面の笑みで駆け寄ってくる。
その手には、小さく握りしめた銅貨が数枚。
「また、お薬買いに行きますね!」
少年はそれだけ言うと、嬉しそうに駆けていった。
アリシアは、その小さな背中を見送る。
胸の奥が、じんわりと温かくなった。
(……これが、間違いなのでしょうか)
彼のような子供たちが、明日を生きられる。
それは間違いなのだろうか。
「――自らの手で救いの道を作る。それもまた、聖女の務めなのかもしれませんね」
不意に、あの日の言葉が蘇る。
ディラン・ベルモンドの、あの温かな声が。
(ディラン様なら、なんとおっしゃるでしょうか)
きっと、あの方は――
「迷うことはない、と仰るでしょうか。それとも……」
アリシアは空を見上げた。
灰色の雲の隙間から、一筋の光が差し込んでいる。
(私は――)
アリシアは、胸に手を当てた。
やるべきこと、やりたいこと。
聖女として、そして一人の人間として。
大司教の言葉は正しいのかもしれない。
教会の人々の言うことも、間違ってはいないのかもしれない。
でも――
「私は……諦めたく、ない」
小さく、しかしはっきりと、アリシアは呟いた。
どちらか一つを選ぶのではない。
どちらも諦めない。
それが、自分の選ぶ道だ。
――聖女の道も、商人の道も。
どちらも自分の足で、切り拓いていくのだと。
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