おにいちゃんはやんでる

あた

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ご褒美

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「ひかりの散歩行ってきて。身体がなまってるでしょ」

 学校から帰宅して、リビングで雑誌を開くなり、美月にそう言われた。誠司は義妹を見上げながら尋ねる。
「お前は何を?」
「夕飯作るのよ。今日母さんいないから」
 エプロン姿の美月はそう言って、腰に手を当てた。

「僕は受験生なんだが」
「雑誌読んでたじゃない」
 美月はにべもなく言い、台所に消えた。誠司はため息をついて、ソファから立ち上がる。

 玄関先につながれている犬を見下ろして言う。
「結局、ずっといるんだな、お前」
 犬はわん、と鳴いて誠司にすり寄ってくる。一年前なら容赦なく蹴り上げてやったが、美月が激怒するのでやめておく。


 リードを首輪につなぎ、三十分ほどの散歩に出た。道すがら、単語帳を見ながら歩く。犬が勝手なコースを取ろうとするたび、目で制した。

 河原で汚いボールをくわえようとしているのを引っ張って軌道修正し、自宅に帰る頃には、単語帳の語彙は完璧に覚えていた。動きながら記憶するといいと聞いたことはあるが、本当だったらしい。

 戻ってきた誠司を見て美月が口にしたのは、お帰りなさい、ではなく、「ひかりに変なことしなかった?」だった。
「してない」
「あっそ。ごはんもうすぐできるから、座ってて」

 美月はそっけなくそう言い、皿を並べ始める。別段スタイルがいいわけではないが、すらっとした後ろ姿はなかなかだ。
「お前はエプロンが似合うな」
 そう言うと、怪訝な顔をする。
「何言ってんの、気持ち悪い」
「可愛げのない」
「ふん、可愛くなくて結構よ」
 美月はそっぽを向いて、席につく。

「いただきます」
 もくもくと食べる美月を横目に、新しい単語帳を開く。
 ふと視線を感じて顔をあげたら、美月が不満げにこちらを見ていた。

「なんだ」
「……食事中くらい勉強やめたら」
「別にいいだろう」
「朝食で新聞読むおじさんみたい」
 要するに、単語帳なんか見てないで会話をしろと言いたいのだろう。いつもはお互い無言で食べるのに、珍しいこともあるものだ。

「何か話でもあるのか?」
「あんた、なんで京大行きたいの?」

 思わぬ話を振られ、誠司は目を瞬く。
「は?」
「東大じゃだめ、みたいなこと言ってたじゃない」
「ああ、京大の教授が書いた本、面白かったから、興味を持った」
「それだけ?」
「何か問題でも?」
「だって、四年も向こうにいるんでしょ」

 誠司はじっと美月を見た。
「ふうん」
「なによ」
「寂しいんだろ?」
「ち、ちがうわよ」
「たまには帰ってくるさ」
 美月はあからさまにホッとしたあと、つん、とそっぽを向いた。
「別に、こなくていいけど」

 誠司が笑うと、彼女はむっとしたように眉をしかめた。
「それ、自分で片付けてよ」
 そう言って立ち上がる。台所から水音がし始めた。
 誠司は食器を持ってそちらに向かう。

「美月」
「なによ、自分で片付けてって言ったでしょ」
「産婦人科には行ったか?」
 美月は皿を洗っていた手を止めた。
「……行ってない」
「行けと言ったろ」
「なんであんたの言うこと聞かなきゃならないのよ」
「お前が辛いだけだぞ」

 美月はしばらく黙っていたが、顔を赤らめて呟いた。
「だって、恥ずかしい。見られたり、触られたりするんでしょ。それに、えっちしたことあるかどうかとか、聞かれるんだって」
「それの何が恥ずかしいんだ」
「っ恥ずかしいに決まってるでしょ!」
 きっ、とこちらを睨んだ美月に、紙を差し出す。

「この産婦人科、女医らしい。ただ、そのぶん混んでるみたいだから、診察を受けるなら早めに予約しろ」
 美月は紙を受け取り、視線をさまよわせた。
「病気、だったらどうしよう」
「一緒に行ってやる。心配するな」
 誠司はそう言って美月を抱き寄せた。頭を撫でて、髪をそっと梳く。美月は拒絶するでもなく、固まっている。顔を覗き込むと、真っ赤になっていた。

「美月?」
「ひ、ひとりで行けるわよ、子供じゃないんだから」
「そうか」
「あんたが来たいなら、ついてきてもいいけど」
 これはついてこい、ということだろう。彼女が素直でないのは、多分自分のせいなのだろうな、と誠司は思った。


 二週間後、誠司と美月は産婦人科に来ていた。がちがちに固くなっている美月の手を引いて、中に入る。ビル郡には様々な医療機関が入っており、産婦人科は三階にあった。受付はかなり混んでいたので、外のベンチに掛け、待つ。

「こ、この格好で、よかったかな」
 美月は自分の格好を見下ろして言う。白いキャミソールにカーディガンを羽織っている。ショートパンツを履いているので、素足が晒されていた。キャスケットを目深に被っているのは、知り合いに見られたくないからだろう。

「どうせ脱ぐのは下だけだろう」
「なんでそんなこと知ってるのよ」
「その手のAVがある」
「さいってー」
 美月が冷たい目で誠司を見る。

「何が最低なんだ」
「そういうこと言わないでしょ、普通」
「じゃあお前で抜いてると言ったほうがいいか」
 誠司の言葉に、美月が真っ赤になった。
「もっと最低よ!この変態!」
「大声を出すな。病院だぞ」
「誰のせいよ」
 美月は憤慨しながらつぶやき、ちら、と誠司を見た。

「……してるの?」
「なにが」
「その、私で」
「当たり前だ」
「なんで、そんな堂々としてるわけ?」
 美月は赤くなり、誠司から少し距離を取る。

「藍川美月さーん」
 美月はびく、と震え、不安げに誠司を見た。誠司は美月の肩を押して言う。
「行ってこい」
「そこに、いてよ」
「わかってる」

 美月の細い背中がドアにすいこまれた。誠司は彼女を待つ間、単語帳を開く。目で文字を追っていると、お腹の大きな女性が出てきた。愛おしそうに腹を撫でている。

 誠司はそれを目で追い、再び単語帳に視線を戻す。妊娠。少子化だなんだと騒ぎ立てるマスコミのおかげで、妊娠イコール無条件で喜ぶべきこと、のようになっているが、例えば美月のように、無理やり抱かれた女は、できた子供を産みたいと思うだろうか。

うまれてくるのは、憎むべき相手の血をついでいると言うのに。

 そうだ、美月は妊娠しなかった。何か卵巣に異常があるからなのだろうか。もしくは本当に、誠司のせいで。

 ドアがきい、と開き、美月が出てきた。誠司を見て、ほっとした表情を見せる。片手には、処方薬らしき袋をもっていた。
「どうだった」
「大したことじゃ、ないんだけど」

 美月は誠司の隣に腰掛け、キャスケットをとる。茶色い髪が、柔らかく揺れた。
「子宮の壁が、他の人より分厚いから生理が重いんだって。薬飲んで、基礎体温測りなさいって。あ、と」
 えっちした時も、そのこと書きなさいって。

 ごにょごにょ言って、美月は赤くなる。
「するなとは言われなかったのか?」
「う、ん。しないけどね!」
「薬を飲んでれば、改善するのか」
「そうみたい。夏休みにまた来なさいって」
「そうか。よかった」
「う、ん」
 美月は袋を握りしめ、つぶやく。

「でも、すっごく高かった……」
 お小遣いが、とかなんとか言っている美月が微笑ましく思え、誠司は言う。
「何か食べて帰るか?奢ってやる」
「ほんと!?」
 ぱ、と顔を明るくし、美月は言う。
「じゃあ、さっきあった喫茶店がいい!」

「喫茶店?あったか?そんなもの」
「あったじゃない、可愛いお店。あんたどこ見て歩いてんの?」
「おまえを見てる」
 そう言うと、美月が口をパクパクさせながら真っ赤になった。 

「ば、ばかじゃないの。怖いっつーの」
 美月はぎくしゃくしながら立ち上がり、スタスタ歩いていく。誠司も立ち上がり、その後を追った。

「なににしようかなあ」
 美月はそう言いながら、喫茶店のメニューを開く。
「あんた、なににする?」
「コーヒー」
「食べないの?」
「ああ」

 誠司は単語帳ではなく数学の問題集を片手に、問題を解いていた。美月が不満げな声を出す。
「一人だけ食べるとか嫌なんだけど」
「別にいいだろう、早く頼め」
 美月はむ、と眉を寄せ、店員を呼ぶ。店員がこちらに来て、あ、と声をあげた。

「藍川くん?」
 誠司は顔を上げ、ああ、とつぶやいた。ポニーテールに、可愛らしい顔立ち。中学の時の同級生だ。顔はわかるが、名前が出てこない。

「久しぶり、川崎さん」
 ネームプレートを見て言うと、川崎は顔を明るくした。
「やだ、覚えててくれたの?うれしー」
「当たり前だよ、クラスメートなんだから」
 そう言って笑顔になる。
「藍川くんって完璧超人じゃない?なんか取っ付きにくいっていうかさー、ほとんど喋ったことなかったから、忘れられてると思ってたー」

 実際、忘れていたわけだが、わざわざ言うことでもないと思い、誠司は笑顔を維持する。美月はこの店を気に入っているようだし、店員に悪い印象を持たれたら次来にくい。嘘も方便だ。

「あの」
 不機嫌な声を発した美月に、川崎が目をやる。
「あ、やだ、ごめんなさい。盛り上がっちゃって。彼女さん?」
「いもうとです。注文していいですか」
「妹さん?えー、妹いたの? 藍川くん」
「親が再婚したんだ」
「義理の妹ってやつ?やだー、ドラマみたーい。恋に落ちちゃったり?」

 美月が即座に否定する。
「するわけないでしょう、こんなやつ。言っときますけど、この人全然完璧じゃないですから。裏表激しいし、機嫌悪いと私に当たるし、動物に冷たいし、興味ありませんみたいな顔してAVがどうとか言うし」
「そ、そうなんだ」

 川崎が曖昧な笑みを浮かべる。美月はバツが悪そうに、ボソボソ言う。
「コーヒーと、オムライス、ください」
 川崎はそそくさと裏に引っ込む。美月は自己嫌悪でもしているのか、キャスケットを握りしめて唸っている。 

「うー……なに言ってんの、私」
「僕が気を遣って愛想よくしてやったのに、何をしてるんだ」
「何が愛想よくしてやった、よ。相手が美人だからってでれでれしちゃって」
「確かに美人だな。スタイルもいいし」
 そう言うと、美月がむっとした。

「ふーん、じゃあ付き合えば?」
「は?」
「タイプなんでしょ。どうせ私は美人じゃないわよ」
「何を僻んでるんだ」
「ひ、僻んでなんかないもん」

 美月はそう言って、メニューを盾に顔を隠した。
 誠司はため息をついて、問題集に目を落とす。しばらく沈黙が落ちて、美月が口を開いた。
「あの、受験の、こと、なんだけど」
「ああ」
「もし落ちたら、どうするの?」
「僕が落ちると思うのか?」
「何よ、その自信……思わないけど」
 思わないのか。珍しく素直だ。

「どうするのかな、って」
「なるほど、落ちて東京の大学に行ってほしいのか。僕がいないとさみしいから」
「な、違うわよ!」
「あのう、オムライスとコーヒー、お待たせしました」

 注文の品を運んできた川崎が、遠慮がちに言う。
「あ、ありがとうございます。わあ、美味しそう」
 美月が目を輝かせ、スプーンを手に取る。
「ごゆっくり~」
 そう言いながら、川崎はため息まじりに裏に戻る。

 オムライスを嬉しそうに食べる美月を、誠司はじっと見る。小さな唇が、時折ケチャップを舌でなめとる。
「なによ」
「いや?美味そうだな」
 そう言うと、美月がスプーンを差し出してきた。
「はい」

 誠司がスプーンをじっと見ていると、食べないの?と尋ねる。誠司はスプーンを口に入れたあと、言う。
「間接キス」
「!」

 それ以上のことをしているというのに、美月は真っ赤になってスプーンを紙で拭く。
「もうあげないから」
「わかってる」
 誠司は赤い顔のままオムライスを咀嚼する美月を見て、目を細めた。


 美月が外で待っている間、会計を済ます。
「ごちそうさま」
 そう言うと、レジに立つ川崎がにこりと笑った。釣りを渡され、こう言われる。
「付き合ってるでしょ、あの子と」
「いや? いもうとだからね」
「つ、付き合ってないのにあんなにいちゃいちゃしてたの?恐ろしい……」

「美月は僕が嫌いだから」
「そんな風には見えなかったよ。だって、私と藍川くんが喋ってるとき、やきもち焼いてたでしょ」
「腹が減ってただけじゃないか?」
「いやいや。あーあ、誠司くん歳下好きか。残念」
「そんなことはないけどね」
「じゃあ、今度デートする?」
「やめとくよ。いもうとがすねるからね」

 誠司はそう言って、ガラス越しにちらちらこっちを見ている美月に視線をやる。美月はハッとして、ふい、と顔をそらした。

「はいはい。完璧超人藍川くんは残念なシスコンだったってみんなに言っとくね」
 川崎はそう言って、またのお越しをお待ちしております、と笑顔を作った。

 日曜だというのにやけに混んでいる電車に揺られ、帰途につく。美月はなぜかずっと不服げで、誠司から離れたところに立っている。誠司は人の間から美月を眺めていた。すると、その顔が強張ったことに気づいた。

「──?」
 美月の後ろにいる男が不審な動きをしている。ぴったり美月にくっついて、身体を揺らしていた。一瞬で事態を把握した誠司は、人混みを押しのけ、その男に近づいた。

 思った通り、男は下半身を光のショートパンツに押し付けている。美月は怯えた顔でつり革を握りしめている。誠司はポケットから取り出したものを、男の背中に押し付けた。男がびくりとする。

「──今すぐその女から離れないと刺す」
 男はひ、と悲鳴をもらし、開いたドアから逃げるように出て行く。美月が驚いたように誠司を見ていた。

「せ、せいじ」
「なんで抵抗しない」
「だ、って、混んでるから、気のせいかも、って思って、でも、なんかかたくなって、こわくて」
 美月の瞳が潤み、唇が震えた。──あの男、今度会ったら殺す。

「っていうか、刺す、ってなに」
「これだ」
 誠司は鍵をちゃり、と鳴らした。
「なんだ、てっきり……」
「てっきり?」
「ついに殺人計画でも思いついたのかと思った」
「なんでこの大事な時期に殺人なんて面倒なことしなきゃならないんだ」
「面倒じゃなきゃするわけ?」
 美月はため息をついて、誠司の袖を掴んだ。

「あ、りがと、助けてくれて」
「そんな格好するから痴漢にあうんだ」
「別に、普通の格好だよ」
「お前の足は見てると触りたくなる」
「なにさらっと変態発言してんのよ」

 誠司は美月の後ろに立ち、ガードする。茶色い髪から、甘い匂いがした。すらっとした後ろ姿。ショートパンツに包まれた尻は形がいい。あの変態の気持ちも、わからないではなかった。


 その夜、自室で勉強していた誠司は、時計を見てノートを閉じた。もう11時だ。伸びをしながら階下に降り、風呂に入る。浴室から出ると、歯を磨いていた美月と目があった。
「っ!」
 美月は真っ赤になって目をそらす。
「ご、ごめん」

 誠司は特に気にせず、下着をつけ、服を着た。
「あんた、なんでそんな堂々としてんのよ」
「何回も見てるだろう」
「だからって、か、隠すとかしなさいよ」
 歯を磨き終え、脱衣所から出ようとした美月を呼び止める。

「薬は飲んだか」
「うん、まずかった」
「漢方と、ピルだったか?」
「うん。毎日飲まなきゃいけないの。やだなあ」

 誠司は美月に近づいて、髪を撫でた。そっと唇をあわせると、びくりと震える。
「っ」
 こわばった身体を宥めるように背中を撫でながら、口付けを深くした。
「っ……ん、ふ」

 美月の目がぼんやり蕩け、頰が紅潮する。誠司の髪から滴った水滴が、美月の頰に落ちた。唇を舐め、開けさせた唇に、舌をいれる。ミントの香りがした。

  ──美月に触っていいのは僕だけだ。

 無意識なのか、舌を絡めてきた美月が、誠司のシャツを掴む。唇を離したら、糸がつ、と引いた。茫洋とした顔の美月に、誠司は囁く。

「毎日薬を飲んだら、ご褒美をやる」
「な、にがご褒美よ」
 馬鹿じゃないの。そういいながら、美月は誠司の腕を弱々しく押しのけた。
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