11 / 30
利用
しおりを挟む
◆
はじめは、混沌だった。光も闇も、すべてが混ざり合い、曖昧だった。そのなかで漂っているのが、とてもここちよかった。
だがある日、いきなり光と闇がわかれた。そしてバアルは、闇の方へ落ちていった。暗闇で、名前もないまま、ずっと過ごしていた。そうして、呼ばれたのだ。
ソロモンに。
沈んでいた意識が、徐々に浮上していく。
バアルは、ゆっくり目を開いた。背もたれの感触。膝には開いたままの本。
どうやら本を読んでいて、腰掛けたまま寝てしまったようだ。悪魔の眠りは浅い。寝なくても死にはしないが、どんな生き物にも意識がない時間というのは必要なのだろうと、バアルは思う。
カーテンを引くと、日差しが注いだ。まぶしさに顔をしかめる。悪魔の街であるバビロンにも、朝は来るのだ。
ふと、手元をみて、ソロモンの指輪をしていないことに気付いた。ああ、そうだ。レイチェルに貸したんだった。
なぜ彼女にあれを貸す気になったのだろう、とバアルは考える。人間は欲が深い。あの指輪をめぐって、いくつもの争いが起きてきたのだ。所有者である。ソロモンはそれを御するだけの精神力があった。
レイチェルはすぐに泣くし、情緒が安定しているとは思えない。今の指輪は不完全なものだから、渡しても大丈夫だと思ったのだろうか。
──わからない。
あれをはめるのに相応しい人間は、ソロモンだけだと思っていたのに。
バアルは自室から出て、キッチンに向かった。いつもキッチンに立っているバラムの姿がない。煮炊きをしていて中座した雰囲気でもなかった。新聞もポストに入ったまま。まだ寝ているのだろうか。
「バラム」
名前を呼びながら、キッチンを出る。バラムはいつも階段下のちいさなソファに収まって寝ているのだが、ソファにこぐまの姿はなく、毛布が丸まっているだけだった。まさか、と二階を見上げる。階段を上がっていき、角を曲がる。
レイチェルの部屋のドアが、少しだけ開いていた。そこから、中の様子が見える。シーツの上に、金髪が広がっていた。
バラムを抱きしめて、レイチェルがすやすやと寝ていた。
「……」
バアルは戸口にもたれてそれを見た。レイチェルは安らかな顔で寝ている。
──バアル、おいで。ソロモンの声を思い出す。
まるで似ていないのに、なぜレイチェルの姿にソロモンが重なったのだろう。
ふっと緑色の瞳が開く。レイチェルがぼんやりとした目でバアルを見て、慌てて起き上がった。
「バアル」
「おはよう」
レイチェルが真っ赤になって、枕をぎゅっと抱きしめた。
「まさか、ずっとそこにいたの!?」
「いいや。そのくまに用があるんだが」
レイチェルはすやすや寝ているバラムを見下ろした。
「よく寝てるみたいだし……寝かせておいてあげましょうよ。朝ごはんなら、私が作るわ」
「君が?」
「英国の朝食は美味しいのよ。それ以外の食事はあんまり評判がよくないみたいだけど……」
彼女は着替えをするから下で待っていてと言った。バアルは食堂に戻り、席について新聞を開く。しばらくして現れたレイチェルは、ずいぶん晴れやかな顔をしている。
「クマをだっこして寝たせいか?」
「え? 何の話?」
「別に」
「待っていて。すぐ作るからね」
レイチェルは厨房に向かい、鼻歌を歌いながら朝食の準備を始めた。ナイフで野菜を切り、サラダを作る。バターをとかすために鍋を振り、溶き卵をつけたトーストを焼いて、皿にのせる。バアルはじ、と料理を作るレイチェルを見た。今まで見たなかで、一番いきいきしている。
「できたわ」
そう言ってお盆を運んできたレイチェルは、「あなたはコーヒーよね」と言って、バアルの前にカップを置く。
「バラムを呼んでくるわ」
「起きてきたら食べればいい」
バアルがそういうと、そうね、と言って椅子に座った。レイチェルは紅茶を一口飲み、おいしい、と言ってほほ笑む。
バアルは彼女をじっと見た。ずいぶんリラックスしているようだ。本当に、バラムを抱きしめて憑き物でも落ちたのだろうか。
悪魔と少女の恋? その言葉を連想し、バアルはすぐに打ち消す。
たぶん、くまのぬいぐるみを抱いて眠る少女の物語だ。
「バラムがあんなにぐっすり寝ているのを、初めて見た」
「そうなの?」
「臆病だから、誰か近づいて来たらすぐ起きるんだ」
レイチェルはその言葉に眉を下げた。バラムの生い立ちを思い出して、同情しているようだ。
「君に心を許してるんだろう」
そう言うと、嬉しそうにはにかむ。悪魔に好かれて喜ぶとは、変わっている。
「ところで、あなたは寝るの?」
「多少は。別に眠らなくても死にはしないけど」
「じゃあ、どうして?」
バアルは「ソロモンの影響だ」と答えた。
「ソロモンって……指輪の持ち主の?」
レイチェルが、自分の指に光る指輪を見下ろした。これを目にして、我を忘れた人間を、バアルは何人も見てきた。──彼女は違うとでも?
「そう。ソロモンが言っていた。眠りは重要だと。必要でなくても眠らなければならない。新しい朝を迎えることは成長だ、新しい何かを始めるために人は眠るのだと」
「新しい朝……」
「悪魔は混沌から生まれ、闇を好む。それは悪いことではない。だが朝を知っておいて損はない。そう言っていた」
悪魔にむかって「悪いことではない」などという人間は、ソロモンだけだろう、とバアルは思う。
「ソロモンは、どんな人だったの?」
バアルの脳裏に、彼の姿がよみがえる。伝説などではない、生身の彼が。
「動物が好きで、悪魔に動物の姿をとらせて、そばに置いていた」
バアルは犬の姿をとっていた。人間は犬が一番好きだと聞いていたから。だからなのか、ソロモンはバアルをそばに置きたがった。
「その指輪をつけると、動物や植物の言葉を理解できる。ソロモンはよく、森に行って動物たちと話してた。王なのに共もつけずによくふらついているから、臣下にしかられていたな」
「そうなんだ」
「ある日、僕は聞いた。動物の話なんか聞いてなんになる? って。ソロモンはこう答えた。『傲慢さを忘れられる』って。人間だけが言葉を持ってるわけじゃないとわかるから」
王とは傲慢であろうとするものだと、バアルは思っていた。そして、ソロモンの言葉はしょせんきれいごとだと思った。ソロモンは王だ。そして、指輪の持ち主だ。彼の言葉には、他者を隷属させる力がある。
「悪魔を使役しているくせに何を言ってるんだ、と思っていたら、ソロモンが言った。『おまえの声はどんな生き物より美しい』」
空をかける鳥より、野をかける馬より、川を泳ぐ魚より、風に揺れる草花より。彼は歌うようにそう言った。全ての生き物の声を聞くソロモンゆえの言葉だ。
「悪魔の声を美しいなんてばかげてる。そう言ったら、ソロモンは笑った」
よく笑う男だった。彼が泣いていたことがあっただろうか、とバアルは思う。
それとも、ただ泣く姿を見せていなかっただけなのだろうか。だとしたら、あの男は孤独だったのだろう。いくら悪魔を従えても、臣下を持っていても、真の理解者を持ち得ない。王とはそういうものなのかもしれない。
ある日、とバアルは続ける。
「ソロモンが妻を娶った。彼はその女に言った。おまえの声は誰より美しいと」
ふ、と笑う。
「調子のいい男だ。僕の機嫌を取るためにあんなことを言った」
「そんなことないわ。あなたの声は、本当に素敵だもの」
「まだ年端も行かない息子たちにも同じことを言っていた。バラムの鳴き声を聞いたことがある?」
「いいえ」
「ひどい嗄れ声なんだ。なのにソロモンは美しい声だ、と言った。全ての悪魔にそう言っていた」
気配りを忘れない人だったのね、とレイチェルは言う。バアルは肩を竦めた。気配りといえば聞こえはいいが、彼は誰にでもいい顔をする。計算でなのか、そういう性分なのかはわからない。おそらくは両方だろう。そのバランスが絶妙なのだ。だからみなソロモンに惹かれてしまう。
「そういう男だ」
「あなたは、ソロモンの特別になりたかったのね」
「隷属していたからだ。臣下たちも、彼の妻も、ソロモンの意のまま。彼を嫌う人間も、心の底ではソロモンに囚われていた。──ある日、彼の臣下が『悪魔を傍に置くのは危険だ』と言った。重臣だったが、ソロモンに不満を持ってる男だった。自分の発言がどれだけ重んじられるか知りたかったんだろう。彼の思惑を見て取って、ソロモンは悪魔たちを指輪に戻した。そして二度と呼び出さなかった」
ソロモンは、バアルを一番最初に封印した。すまないな、と彼は言った。寂しそうな顔をしていたから、僕が文句を言う人間を殺してやる、と言った。そしたらソロモンは言った。
『なにがあろうと、けして人を殺してはならない』
再会したのは、死に顔とだった。
「結局ソロモンは部下を統率するために悪魔を利用していただけだった」
「恨んでるの?」
「いいや。──ソロモンには、一人孫娘がいた。彼女は指輪の継承者だったが、この指輪を悪用する人間が多すぎて、指輪の魔力を消す方法を考え付いた」
レイチェルは指輪を見下ろした。
「指輪に封印された七十二体の悪魔を解放すること。彼女は命をかけて、それをやり遂げた。悪魔たちはバビロンに散り、指輪に力はなくなった」
「なのにどうして──」
「僕が拾った」
指輪から解放された瞬間、バアルは全身が引き裂かれるような痛みを味わった。今まで知らなかった、喪失感を味わった。
おいで、バアル。自分を呼ぶ声と、頭を撫でる手と、その眼差しと。指輪から離れたら、それらすべてが消えてしまうような気がした。二度とソロモンには、会えない気がした。指輪から離れたくなかった。
「ソロモンの指輪には、死者をもよみがえらせる力がある」
レイチェルがはっとしたようにこちらを見た。
「あなた、まさか」
「ソロモンは神の国に行ったはずだ。正しい人だったから」
もう会う手段はこれしかない。
「指輪を使って、ソロモンを復活させる」
初めて会ったとき、ソロモンは言った。
『人間を食べてはならない』
それが最初の命令だった。人を食べてはならないし、殺してはならない。だが彼は言わなかった。
『人間を利用してはならない』とは、言わなかったのだ。
バアルはレイチェルの手に触れた。びくりとしたレイチェルが、グリーンの瞳を揺らす。椅子からゆっくり立ち上がって、彼女の背後に立つ。
「レイチェル、僕に協力してくれ。君の涙が必要なんだ」
耳元で囁くと、レイチェルが震えた。
「何か、悲しいことを思い出して」
ちいさな肩が縮こまる。
「バアル、やめて」
「両親が死んだときのことは?」
レイチェルが目を見開いてバアルを見上げた。まさに、悪魔を見たような顔だ。緑の瞳に映っている自分は、ひどく冷たい顔をしていた。
「悲しくないのか」
「そんな……」
そんなわけないじゃない。レイチェルが声を震わせる。口元が震える。眉根が寄る。苦しそうに、唇をかむ。泣くまいとしているようだった。
なぜ人は涙をこらえるのだろう。泣いてしまえば楽なのに。バアルは冷淡に問いかける。
「どうして両親は死んだんだ」
「私の、誕生日プレゼントを」
「買いに行った途中で?」
「そうよ。注文の品を取りに行く途中で……事故だったの」
レイチェルの声がふるえた。
「プレゼントはなんだった? 受け取ったんだろう」
「開けてない」
「どうして?」
「私は、プレゼントが欲しかったんじゃない。二人が生きててくれたら、それでよかった」
緑色の瞳が涙でにじむ。白い肌が紅潮する。まだだ。
まだ泣かない。
「葬式の時は? 君は泣いたのか」
「泣いてないわ」
レイチェルは気丈に答える。
「ひどいな」
「だからって、悲しくなかったわけじゃない」
「でも、泣かない娘を、天国の両親はどう思ったかな」
天国など本当にあるのだろうか。神の国。そこにソロモンもいるのだろうか。バアルにはけして入れない、エデンの園。
「せっかく買ったプレゼントも見ないなんて、両親も浮かばれないな」
君のせいで死んだも同然なのに。
その言葉が、決定打だった。
緑色の瞳が涙に沈んで、決壊した。そのまま、水滴がレイチェルの頬をつうっと流れ落ちていく。バアルは指先を伸ばして、涙をすくいとる。それを、懐から出した瓶に落とした。
「レイチェル」
俯いたレイチェルの肩に触れようとすると、潤んだグリーンアイズがこちらを睨みつけた。
「あなたはやっぱり、悪魔だわ」
金の髪が揺れて、レイチェルが走り去った。
瓶にたまった涙を、バアルはじっと見る。少女を利用するバアルを見たら、ソロモンは何と言うだろう。
はじめは、混沌だった。光も闇も、すべてが混ざり合い、曖昧だった。そのなかで漂っているのが、とてもここちよかった。
だがある日、いきなり光と闇がわかれた。そしてバアルは、闇の方へ落ちていった。暗闇で、名前もないまま、ずっと過ごしていた。そうして、呼ばれたのだ。
ソロモンに。
沈んでいた意識が、徐々に浮上していく。
バアルは、ゆっくり目を開いた。背もたれの感触。膝には開いたままの本。
どうやら本を読んでいて、腰掛けたまま寝てしまったようだ。悪魔の眠りは浅い。寝なくても死にはしないが、どんな生き物にも意識がない時間というのは必要なのだろうと、バアルは思う。
カーテンを引くと、日差しが注いだ。まぶしさに顔をしかめる。悪魔の街であるバビロンにも、朝は来るのだ。
ふと、手元をみて、ソロモンの指輪をしていないことに気付いた。ああ、そうだ。レイチェルに貸したんだった。
なぜ彼女にあれを貸す気になったのだろう、とバアルは考える。人間は欲が深い。あの指輪をめぐって、いくつもの争いが起きてきたのだ。所有者である。ソロモンはそれを御するだけの精神力があった。
レイチェルはすぐに泣くし、情緒が安定しているとは思えない。今の指輪は不完全なものだから、渡しても大丈夫だと思ったのだろうか。
──わからない。
あれをはめるのに相応しい人間は、ソロモンだけだと思っていたのに。
バアルは自室から出て、キッチンに向かった。いつもキッチンに立っているバラムの姿がない。煮炊きをしていて中座した雰囲気でもなかった。新聞もポストに入ったまま。まだ寝ているのだろうか。
「バラム」
名前を呼びながら、キッチンを出る。バラムはいつも階段下のちいさなソファに収まって寝ているのだが、ソファにこぐまの姿はなく、毛布が丸まっているだけだった。まさか、と二階を見上げる。階段を上がっていき、角を曲がる。
レイチェルの部屋のドアが、少しだけ開いていた。そこから、中の様子が見える。シーツの上に、金髪が広がっていた。
バラムを抱きしめて、レイチェルがすやすやと寝ていた。
「……」
バアルは戸口にもたれてそれを見た。レイチェルは安らかな顔で寝ている。
──バアル、おいで。ソロモンの声を思い出す。
まるで似ていないのに、なぜレイチェルの姿にソロモンが重なったのだろう。
ふっと緑色の瞳が開く。レイチェルがぼんやりとした目でバアルを見て、慌てて起き上がった。
「バアル」
「おはよう」
レイチェルが真っ赤になって、枕をぎゅっと抱きしめた。
「まさか、ずっとそこにいたの!?」
「いいや。そのくまに用があるんだが」
レイチェルはすやすや寝ているバラムを見下ろした。
「よく寝てるみたいだし……寝かせておいてあげましょうよ。朝ごはんなら、私が作るわ」
「君が?」
「英国の朝食は美味しいのよ。それ以外の食事はあんまり評判がよくないみたいだけど……」
彼女は着替えをするから下で待っていてと言った。バアルは食堂に戻り、席について新聞を開く。しばらくして現れたレイチェルは、ずいぶん晴れやかな顔をしている。
「クマをだっこして寝たせいか?」
「え? 何の話?」
「別に」
「待っていて。すぐ作るからね」
レイチェルは厨房に向かい、鼻歌を歌いながら朝食の準備を始めた。ナイフで野菜を切り、サラダを作る。バターをとかすために鍋を振り、溶き卵をつけたトーストを焼いて、皿にのせる。バアルはじ、と料理を作るレイチェルを見た。今まで見たなかで、一番いきいきしている。
「できたわ」
そう言ってお盆を運んできたレイチェルは、「あなたはコーヒーよね」と言って、バアルの前にカップを置く。
「バラムを呼んでくるわ」
「起きてきたら食べればいい」
バアルがそういうと、そうね、と言って椅子に座った。レイチェルは紅茶を一口飲み、おいしい、と言ってほほ笑む。
バアルは彼女をじっと見た。ずいぶんリラックスしているようだ。本当に、バラムを抱きしめて憑き物でも落ちたのだろうか。
悪魔と少女の恋? その言葉を連想し、バアルはすぐに打ち消す。
たぶん、くまのぬいぐるみを抱いて眠る少女の物語だ。
「バラムがあんなにぐっすり寝ているのを、初めて見た」
「そうなの?」
「臆病だから、誰か近づいて来たらすぐ起きるんだ」
レイチェルはその言葉に眉を下げた。バラムの生い立ちを思い出して、同情しているようだ。
「君に心を許してるんだろう」
そう言うと、嬉しそうにはにかむ。悪魔に好かれて喜ぶとは、変わっている。
「ところで、あなたは寝るの?」
「多少は。別に眠らなくても死にはしないけど」
「じゃあ、どうして?」
バアルは「ソロモンの影響だ」と答えた。
「ソロモンって……指輪の持ち主の?」
レイチェルが、自分の指に光る指輪を見下ろした。これを目にして、我を忘れた人間を、バアルは何人も見てきた。──彼女は違うとでも?
「そう。ソロモンが言っていた。眠りは重要だと。必要でなくても眠らなければならない。新しい朝を迎えることは成長だ、新しい何かを始めるために人は眠るのだと」
「新しい朝……」
「悪魔は混沌から生まれ、闇を好む。それは悪いことではない。だが朝を知っておいて損はない。そう言っていた」
悪魔にむかって「悪いことではない」などという人間は、ソロモンだけだろう、とバアルは思う。
「ソロモンは、どんな人だったの?」
バアルの脳裏に、彼の姿がよみがえる。伝説などではない、生身の彼が。
「動物が好きで、悪魔に動物の姿をとらせて、そばに置いていた」
バアルは犬の姿をとっていた。人間は犬が一番好きだと聞いていたから。だからなのか、ソロモンはバアルをそばに置きたがった。
「その指輪をつけると、動物や植物の言葉を理解できる。ソロモンはよく、森に行って動物たちと話してた。王なのに共もつけずによくふらついているから、臣下にしかられていたな」
「そうなんだ」
「ある日、僕は聞いた。動物の話なんか聞いてなんになる? って。ソロモンはこう答えた。『傲慢さを忘れられる』って。人間だけが言葉を持ってるわけじゃないとわかるから」
王とは傲慢であろうとするものだと、バアルは思っていた。そして、ソロモンの言葉はしょせんきれいごとだと思った。ソロモンは王だ。そして、指輪の持ち主だ。彼の言葉には、他者を隷属させる力がある。
「悪魔を使役しているくせに何を言ってるんだ、と思っていたら、ソロモンが言った。『おまえの声はどんな生き物より美しい』」
空をかける鳥より、野をかける馬より、川を泳ぐ魚より、風に揺れる草花より。彼は歌うようにそう言った。全ての生き物の声を聞くソロモンゆえの言葉だ。
「悪魔の声を美しいなんてばかげてる。そう言ったら、ソロモンは笑った」
よく笑う男だった。彼が泣いていたことがあっただろうか、とバアルは思う。
それとも、ただ泣く姿を見せていなかっただけなのだろうか。だとしたら、あの男は孤独だったのだろう。いくら悪魔を従えても、臣下を持っていても、真の理解者を持ち得ない。王とはそういうものなのかもしれない。
ある日、とバアルは続ける。
「ソロモンが妻を娶った。彼はその女に言った。おまえの声は誰より美しいと」
ふ、と笑う。
「調子のいい男だ。僕の機嫌を取るためにあんなことを言った」
「そんなことないわ。あなたの声は、本当に素敵だもの」
「まだ年端も行かない息子たちにも同じことを言っていた。バラムの鳴き声を聞いたことがある?」
「いいえ」
「ひどい嗄れ声なんだ。なのにソロモンは美しい声だ、と言った。全ての悪魔にそう言っていた」
気配りを忘れない人だったのね、とレイチェルは言う。バアルは肩を竦めた。気配りといえば聞こえはいいが、彼は誰にでもいい顔をする。計算でなのか、そういう性分なのかはわからない。おそらくは両方だろう。そのバランスが絶妙なのだ。だからみなソロモンに惹かれてしまう。
「そういう男だ」
「あなたは、ソロモンの特別になりたかったのね」
「隷属していたからだ。臣下たちも、彼の妻も、ソロモンの意のまま。彼を嫌う人間も、心の底ではソロモンに囚われていた。──ある日、彼の臣下が『悪魔を傍に置くのは危険だ』と言った。重臣だったが、ソロモンに不満を持ってる男だった。自分の発言がどれだけ重んじられるか知りたかったんだろう。彼の思惑を見て取って、ソロモンは悪魔たちを指輪に戻した。そして二度と呼び出さなかった」
ソロモンは、バアルを一番最初に封印した。すまないな、と彼は言った。寂しそうな顔をしていたから、僕が文句を言う人間を殺してやる、と言った。そしたらソロモンは言った。
『なにがあろうと、けして人を殺してはならない』
再会したのは、死に顔とだった。
「結局ソロモンは部下を統率するために悪魔を利用していただけだった」
「恨んでるの?」
「いいや。──ソロモンには、一人孫娘がいた。彼女は指輪の継承者だったが、この指輪を悪用する人間が多すぎて、指輪の魔力を消す方法を考え付いた」
レイチェルは指輪を見下ろした。
「指輪に封印された七十二体の悪魔を解放すること。彼女は命をかけて、それをやり遂げた。悪魔たちはバビロンに散り、指輪に力はなくなった」
「なのにどうして──」
「僕が拾った」
指輪から解放された瞬間、バアルは全身が引き裂かれるような痛みを味わった。今まで知らなかった、喪失感を味わった。
おいで、バアル。自分を呼ぶ声と、頭を撫でる手と、その眼差しと。指輪から離れたら、それらすべてが消えてしまうような気がした。二度とソロモンには、会えない気がした。指輪から離れたくなかった。
「ソロモンの指輪には、死者をもよみがえらせる力がある」
レイチェルがはっとしたようにこちらを見た。
「あなた、まさか」
「ソロモンは神の国に行ったはずだ。正しい人だったから」
もう会う手段はこれしかない。
「指輪を使って、ソロモンを復活させる」
初めて会ったとき、ソロモンは言った。
『人間を食べてはならない』
それが最初の命令だった。人を食べてはならないし、殺してはならない。だが彼は言わなかった。
『人間を利用してはならない』とは、言わなかったのだ。
バアルはレイチェルの手に触れた。びくりとしたレイチェルが、グリーンの瞳を揺らす。椅子からゆっくり立ち上がって、彼女の背後に立つ。
「レイチェル、僕に協力してくれ。君の涙が必要なんだ」
耳元で囁くと、レイチェルが震えた。
「何か、悲しいことを思い出して」
ちいさな肩が縮こまる。
「バアル、やめて」
「両親が死んだときのことは?」
レイチェルが目を見開いてバアルを見上げた。まさに、悪魔を見たような顔だ。緑の瞳に映っている自分は、ひどく冷たい顔をしていた。
「悲しくないのか」
「そんな……」
そんなわけないじゃない。レイチェルが声を震わせる。口元が震える。眉根が寄る。苦しそうに、唇をかむ。泣くまいとしているようだった。
なぜ人は涙をこらえるのだろう。泣いてしまえば楽なのに。バアルは冷淡に問いかける。
「どうして両親は死んだんだ」
「私の、誕生日プレゼントを」
「買いに行った途中で?」
「そうよ。注文の品を取りに行く途中で……事故だったの」
レイチェルの声がふるえた。
「プレゼントはなんだった? 受け取ったんだろう」
「開けてない」
「どうして?」
「私は、プレゼントが欲しかったんじゃない。二人が生きててくれたら、それでよかった」
緑色の瞳が涙でにじむ。白い肌が紅潮する。まだだ。
まだ泣かない。
「葬式の時は? 君は泣いたのか」
「泣いてないわ」
レイチェルは気丈に答える。
「ひどいな」
「だからって、悲しくなかったわけじゃない」
「でも、泣かない娘を、天国の両親はどう思ったかな」
天国など本当にあるのだろうか。神の国。そこにソロモンもいるのだろうか。バアルにはけして入れない、エデンの園。
「せっかく買ったプレゼントも見ないなんて、両親も浮かばれないな」
君のせいで死んだも同然なのに。
その言葉が、決定打だった。
緑色の瞳が涙に沈んで、決壊した。そのまま、水滴がレイチェルの頬をつうっと流れ落ちていく。バアルは指先を伸ばして、涙をすくいとる。それを、懐から出した瓶に落とした。
「レイチェル」
俯いたレイチェルの肩に触れようとすると、潤んだグリーンアイズがこちらを睨みつけた。
「あなたはやっぱり、悪魔だわ」
金の髪が揺れて、レイチェルが走り去った。
瓶にたまった涙を、バアルはじっと見る。少女を利用するバアルを見たら、ソロモンは何と言うだろう。
0
あなたにおすすめの小説
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
エリート警察官の溺愛は甘く切ない
日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。
両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる