乙女の涙と悪魔の声

あた

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漆黒

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 テムズ川を、船が渡っていく。
 街の中心部、川のすぐそばに建っているロンドン塔は、かつて要塞として使われていた。それを示すように、外壁は強固で、建設から何百年とたった今も、敵の侵入を拒むようにそびえている。内壁には十一の塔が存在し、光の柱は、一番初めに竣工されたという、ホワイト・タワーにまっすぐ注いでいる。

 テムズ川に面したところにある門の前には、一目光の柱を見ようと集まった人々によって埋め尽くされていた。レイチェルはトランクを地面に置いて、群衆たちの合間から顔を出す。光はこの位置からでは見えなかった。

 なんとか中に入れないだろうかと思案するが、塔の前にはヨーマン・ウォーダーと呼ばれる兵士が立っていて、こちらに厳しい目を光らせている。どうやら、近づくことも難しそうだった。

 ――早く、二人の無事を確かめたいのに。
 せめてもっと近くまで行こうと足を踏み出したレイチェルは、前にいた野次馬にぶつかってしまい、よろめく。
 倒れそうになったレイチェルを、後ろから伸びてきた腕が支えた。
「大丈夫か?」

 こちらを見下ろしているのは、金髪碧眼の青年だった。
「ありがとう」
 レイチェルは礼を言い、焦りを落ち着けようと、息を吐いた。
「ずいぶんと人が集まっているから、誰か処刑されたのかと思ったのだが」
 青年は手をかざして塔を見上げ、
「あの光はなんだ?」
「わからないんです。あなたは光を見に来たんじゃないんですか?」
「私はカラスたちに餌をやりに来たのだ」

 青年は、そう言って袋を振る。ずいぶんと古びたしゃべり方だが、貴族か何かだろうか……。カア、という声が聞こえて、レイチェルは顔を上げた。門の上に、大きなワタリガラスがとまっている。

 ロンドン塔には、なぜかカラスが多く住み着いているのだ。しかし、カラスに餌をやるとは。変わったひとだ。
「私はアルトという。おぬしは?」
 おぬし……。その呼び方に面喰いながらも、レイチェルは返事をする。
「れ、レイチェルです」
「しかし物々しい警備だな。あれでは城壁内にも入れぬではないか」

 彼はそう言って眉をしかめる。あなたのしゃべり方もだいぶ物々しいけど……。
「ええ」
 ため息をついたレイチェルを見て、彼が首を傾げた。
「む? おぬしも塔に入りたいのか」
「はい。助けたい人がいて」
「なるほど、義のこころだな。よし、私に任せろ」
「え?」
 レイチェルが聞き返した次の瞬間、青年が急に指笛を吹いた。
「!」

 門にとまっていたカラスがばっ、と飛び立ち、門番を襲う。
「うわっ、なんだこいつ!」
 門番が慌てて手を動かした。もう一羽カラスが飛んできて、もう一人の門番に襲いかかる。
「いまだ」

 青年がそう言って、レイチェルの手を引く。レイチェルはトランクを掴み、慌てて駆け出した。
「待て!」
 追いかけてくる門番たちから、レイチェルたちは必死に逃げる。いくつも門を抜けると、ちょうど右手に外壁を漆喰で塗り固めた、白い塔が見えてきた。ホワイト・タワーだ。光の柱も見えている。

 再びアルトが指笛を吹くと、数十羽のカラスたちが集まってきて、門番たちを攻撃した。門番たちが叫ぶ声と同時に、黒い羽根がひらひら舞う。
 レイチェルは、異界で見た頭部が二つの鳥を思い出した。あの鳥に負けず劣らず、この塔に住むカラスたちは恐ろしい。
 耳をつんざくような悲鳴に背筋が凍る。どうなっているのか、恐ろしくて振り向けない。

 レイチェルは走りながら、悲鳴に近い声をあげる。
「こんなの無謀すぎるわ、相手は銃を持ってるのに!」
 アルトはハハハ、と笑った。
「銃など怖くないわ! どうせ当たらぬ」

 いや、兵士なのだから銃は当然扱えるだろう。謎の自信を持った青年である。怖いもの知らずというやつだろうか。
 カラスを銃身で払いのけ、こちらに走ってきた兵士に、レイチェルは持っていたトランクを投げつけた。兵士はまともにトランクを顔に受け、悶絶している。

「ごめんなさい!」
「謝りつつ容赦ないな、おぬし」
 仕方ない、捕まったら牢屋行きなのだ。そうしたらバビロンに行くことができなくなってしまう。二度と二人に会えなくなってしまうかもしれない。

「で、どこへ行く」
「ホワイトタワーに!」
 レイチェルとアルトは光の柱を帯びたホワイト・タワーに駆け込み、二階へと螺旋階段を上がった。チャペルの扉を閉めて、鍵をかけた。
 息をつくレイチェルと対照的に、アルトはけろっとしている。
「あなた、こういうことよくやるの?」
「む? まあ、今の時代は平和ゆえ必要ないが、昔は多少な」

 昔って、レイチェルとそう変わらない歳に見えるのだが。息を整えたレイチェルは、チャペルの中を見回した。時代を感じさせる、くすんだ漆喰の壁。ひやりとしていて、薄暗い。中央の壁には掲げられた十字架があり、その前に椅子が並んでいた。

「ところで、友人はここにいるのか? もしや人ではないものか」
 同じくきょろきょろあたりを見回すアルトの言葉に、レイチェルは頷く。
「ええ」
「ほう、そうか。確かにおぬしからは、人でないものの匂いがする」
「匂い……?」
 くんくん匂いをかがれ、レイチェルは身を引いた。
「あの?」
「何か、異界のものを持っているな?」

 レイチェルは、懐に入れていたバラムの帽子を見せる。
「すごいところに入れておるな、おぬし」
「なくすといけないと思って……大事なものなの」
 アルトはそれを受けとり、匂いをかいだ。なぜ匂いを嗅ぐのだろう……。レイチェルがそう思っていると、アルトが眉を上げた。
「ふむ。これは悪魔の持ち物か?」

 驚いて、レイチェルはアルトを凝視する。彼は恥ずかし気に手を振って、レイチェルの視線を避けた。
「そんなにじっと見るな。照れるではないか」
「どうしてわかるの?」
「うむ。昔からそういったものに縁がある。知り合いに魔法使いがいてな」
 聞きなれない単語に、レイチェルは虚を突かれた。
「魔法使い?」

 アルトは口を開きかけ、む、とつぐんだ。
「まあ、私のことはいい。友人を助けるのだろう?」
 レイチェルは頷いた。
「この塔に注いでいる光の柱……異界でみたものと似ているんです。だからもしかしたら、ここが異界とつながっているんじゃないかって思って」
「ふむ」
 アルトは顎に手を当て、
「悪魔のすむ世界と教会がつながっているというのも、おかしな話だが」

 レイチェルはそうおかしいとは思わなかった。ロンドン塔には、いろいろといわくがあるのだ。たとえばなぜ凶暴なワタリガラスを野放しにしているのか、だとか……。
 と、チャペルのドアを激しくたたく音が響いた。
「今すぐ開けて、出てきなさい! さもなくばこちらからこじ開けて撃つ!」
 はっとしたレイチェルをちら、とみて、
「まあ、やってみる価値はあるな」
「え……?」
「私が足止めする故、おぬしは頑張れ」
 そう言った瞬間、アルトの姿が真っ黒に染まった。

「!」
 彼はレイチェルの背丈を超すくらいの、巨大なカラスになったのだ。ぽかんとしながら見上げる。

「あ、あなた……アルトなの?」
「いかにも。件の魔法使いにカラスにされたことがあってな。最初は微妙な気分だったが、このようにいろいろと役に立つのだ」
 カラスはそう言って、レイチェルの体を翼で包む。ばさりと音がしたあと、視界が陰った。
「あまり長くはもたぬゆえ、なるべく早くな」
「はい」

 つい先日まで悪魔と過ごしていたせいか、信じがたいことも即座に受け入れてしまう。でも……
「あの、頑張るってどうすればいいのかしら?」
「む、おぬし算段があってここに来たのではないのか?」
 アルトが怪訝な声を出す。無策でやってきたのを責められているようだった。

 だって、とにかく早く二人に会いたかったのだ。こうしている間にも、扉をこじ開けようとする音や出てこい、という怒声が、外から聞こえている。レイチェルは眉を下げて、正面に掲げられている十字架に目をやる。

「とりあえず、祈ってみるわ」
 息を吸い込んで、手を組み合わせ、祈る。
 かみさま、どうか。
 どうかバビロンに、連れて行ってください。
 どうか、あの人のところに──。
 二人に合わせて――。
 レイチェルは、手を解いて、ふ、と息を吐いた。

 なにも起こらない。解いた手が、ぶらりと下がる。レイチェルは膝から崩れ落ち、ぺたん、と座り込んだ。
「レイチェル?」
 アルトに返事をする気力がない。
 膝の上に置いた拳を、ぎゅ、と握りしめる。やっぱり、バベルの塔が壊れてしまったから、もうバビロンには行けないのだろうか。
  風が吹いて、レイチェルの金髪を優しく揺らす。

 ──あの時、黄昏の庭で、バアルがネモフィラをくれた、あの時。ううん、もっと前。もしかしたら、出会った瞬間から、私はあの人のことが、好きだった。

 がちゃん、と鍵が破壊される音が響いた。アルトが緊迫した声音でいう。
「レイチェル、早くせよ」
 巨大なカラスを見て、兵士たちは一瞬ひるんだようだった。

「な、なんだあれは……」
「化け物だ、撃てえ!」
 銃撃の音が響く。びくりとしたレイチェルに、
「大丈夫だ、早く、友のところへ」
 早くしないと、アルトの協力が無駄になってしまう。レイチェルは、切羽つまった声を出した。

「バアル」
 バアル、よんで。
 バビロンに召喚したときのように、私を呼んで。あのきれいな声で、私の名前を呼んで。
「バラム」

 会いたい。二人に、会いたい。かみさまにお願いしても会えないのなら、悪魔に祈ろう。ソロモンに仕えた、七十二体の悪魔たち。みんなに祈ろう。
 お願い、呼んで。

「お願い……!」
 レイチェルの瞳が潤んで、涙がこぼれ落ちた。その涙が、チャペルの床に、落ちて跳ねる。
 次の瞬間、レイチェルの身体が光に包まれた。

「……え」
 レイチェルは自分の身体を見下ろす。ハッとして地面を見たら、魔法陣が出ていた。バビロンへ引きずり込まれた時と同じ、あの魔法陣が。アルトがおお、と感嘆する。 
「なんとも美しい。これが異界へのとびらか」
「助けてくれてありがとう、アルト」

 銃撃はやまない。もし捕えられたら、アルトはきっとひどい目にあわされる。
「あなたも一緒に」
「いや、私はいけない。カラスの世話をせねば」
「でも」
 大きなカラスが、かあ、と鳴いた。
「心配ご無用! 銃弾で死ぬようなたまではないのだ。我が名はアルトリウス」

 思い出した。なぜ、このロンドン塔には多くのカラスが住んでいるのか。あまりにカラスが増えたので、十七世紀、チャールズ二世が駆除を考えた。しかし、占い師が言ったのだ。カラスを殺すと、不吉なことが起きると――なぜならカラスは、とある伝説の主人公が、姿を変えたものだから。

 アルトはカラスの姿で不敵にほほ笑む。
「魔術師マーリンは私をこうよんだ。『キング・アーサー』とな」

 行け、レイチェル。義の心を果たせ。そうささやいたアルトの体から、ぶわっと羽が散る。それは兵士たちが持っていた銃を詰まらせ、発砲できなくした。
 カチカチと引き金を引いていた兵士たちが、こちらに向かってくる。

「アーサー王!」
 レイチェルがそう呼んだ次の瞬間、ぐんっ、と身体が引っ張られる感覚がして、視界がぶれる。落ちて行く感覚。あの時と同じ。だけど、怖くはなかった。きっとこの先で、バアルとバラムが待っているから。レイチェルはどんどん、落ちて行く。

 それから、視界が真っ黒に染まった。
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