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38.全然、分かってない
「これからは、何事もみんなに相談して、慎重に……」
と、神妙な顔をするわたしに、
カタリン様は、また、ため息を吐かれた。
「なんだ。全然、分かってないじゃない」
「……えっ?」
カタリン様は、王宮に押し寄せた数万の群衆に、わたしがひとりで突っ込んで行ったことに対し、ご諫言くださっているのだとばかり思っていた。
夕闇から宵闇に移りゆく貴賓室。
窓辺の椅子にわたしとカタリン様、それにエルジェーベト様が腰かけ、入口にはリリが控えてくれている。
侍女長になったイロナに、カタリン様が「4人で話すから誰も近づけるな」と、きつくお言い付けになられた。
カタリン様が、つまらなさそうな表情で口を開かれた。
「こういうの、エルジェーベトの役目じゃなくって?」
「あら? この間のカタリン様がお見せになられてきた、慈愛に満ちたお振る舞い。私などより、カタリン様の方が適役ですわ」
「……私の性分に合わないんだけど?」
「ふふふっ。ご謙遜を」
おふたりが目の前で交わされる会話の意味が、わたしには解らない。
どちらがわたしにご説諭くださるか、押し付け合われている、……のか?
……申し訳ない限りだ。
エルジェーベト様が、目を険しくほそめられた。
「此度のアルパード殿下のご受難。カールマーン公爵家のふる舞いには、まだ……、疑義が残ります」
「……まあ、そうだけど」
「すべてが詳らかにならぬ限り、私には資格がございませんわ。……とても、残念ですけれど」
と、エルジェーベト様が眉をたらし、寂しげに微笑まれると、カタリン様は大きなため息を吐かれた。
そして、カタリン様は立ち上がられ、わたしの真正面へと回られた。
きつい言葉を浴びせられるのだと、奥歯を噛みしめて、すこし顔をさげたとき、
ふわっと、上品な香水の香りがした。
あたたかな感触がわたしの背中にやさしく添えられ、二の腕にもかすかな感触があった。
薄暗い宵闇に包まれたお部屋の中で、わたしがカタリン様に抱き締められたのだと気付くのに、すこし時間がかかった。
「……リリもおいで。エルジェーベトも」
と、これまで耳にした中で、最もやわらかなカタリン様のお声がして、
わたしが、リリとエルジェーベト様のふたりに、後ろから抱き締められたのだと分かった。
カタリン様の腕に力がこもり、わたしの額がカタリン様のお腹に触れた。
「偉いね、ガブリエラは」
「……え?」
「……恐いね」
カタリン様が、わたしに囁かれる声。
やわらかで透んだ綺麗な声音。
なのに、
なぜか、
わたしの耳が弾いてしまう。
「……悲しいね、アルパード殿下に会えなくって」
刹那。息が止まる。呼吸ができない。
なにか熱い、得体のしれないなにかが、わたしの肚から込み上がってくる。
「うっ……、ぐふっ、……うぇ」
「不安でたまらないね……。恐くて、恐くて、寂しくて。悲しくて……」
「お、ごっ……、ぶっ、ご……」
「たまらないよね、……もう会えないんじゃないかって、不安でたまらないよね」
わたしの吐き出したものが、
自分の泣き声なのだと……、
なかなか自分では認識できなかった。
気付けば、わたしはカタリン様のお腹の上で号泣していた。
「……恐い時には恐がって、悲しい時には悲しまないと、いつか悲しみも不安も、自分じゃ耐えられないような大きさになってしまうわよ?」
「ガダリンざまぁ~~~~~……」
「いいこと、ガブリエラ?」
「ばい……」
「ガブリエラは賢くて、強くて、気高く美しい……。責任感にも正義感にも溢れてて、ほんと悔しいくらいよ?」
「……ばい」
「だけど、優秀な分、自分の気持ちより先に動けてしまうところが難点ね」
気持ちより……、先に?
「自分の気持ちを置き去りにして、はるか遠くまで行けちゃうのよ」
「……ぞう……なん……でじょうか?」
「私もね……、もう。……言うわよ?」
「……ばい」
「ガブリエラが、花乙女宮入りした日の晩は、夜通し泣き続けたのよ?」
「べ……」
「夜通し泣いて、泣いて、スッキリしてから前を向いたの」
「ガダリンざま……」
「な、なによ?」
「……いい、ヴぉんな……でずね」
「バカ……」
カタリン様が、わたしを抱く手にギュッと力を込めてくださった。
「知ってるわよ」
「ばい……」
「ごめんな、ガブ……」
と、リリのすすり泣く声がした。
後ろから抱き締めるリリの腕が、わたしをギュウッと締めつける。
「私が、……私が、気付いてやらないと」
「リリ様……」
と、エルジェーベト様のお声がした。
「リリ様はガブリエラ様の無二のご親友。そうではありませんか?」
「は、……はい」
「ふふっ。なにもかも置き去りにして、ガブリエラ様とご一緒に突っ走ってさし上げられるのは、リリ様しかおられませんわ」
「え……」
「私たちでは付いて行けませんもの」
「ガブリエラが走れば一緒に走り、泣けば一緒に泣く」
と、カタリン様が、すこし笑われた。
「それでこそ親友ってもんでしょ?」
「ばい~~~っ!!」
と、リリも決壊した。
そして、しばらくの間、カタリン様はお腹の上でわたしを号泣させてくださる。
「泣け泣け。不安も恐怖も苛立ちも、ぜ~んぶ、ガブリエラのなかにあるんだから」
「ばい~」
「不安だから立ち上がれて、恐いから前を向ける。ガブリエラったら、そういうカッコイイ女でしょ?」
光栄だ。
そんなお言葉を、カタリン様からかけていただくなんて、光栄極まりない。
すっかり夜が更けても、カタリン様とエルジェーベト様はずっとわたしを抱き締めつづけてくださり、
リリはずっと一緒に泣き続けてくれた。
Ψ
翌朝。
自分の中から、なにもかもが流れ出てしまったような感覚がして、
ポケッとする。
「もう。私たちも臣下の務めを果たすわ」
と、カタリン様とエルジェーベト様が、花乙女宮に、しばらく泊まり込んでくださることになって、
普段なら、心躍らせたり、恐縮したりするはずなのに、どこか他人事のように聞こえる。
騎士たちは帝国に飛んだし、内廷女官に任じた花衣伯爵家のご令嬢方は、近衛兵からの聴取を再開してくださっている。
日々の政務上の雑事は、カタリン様とエルジェーベト様が片付けてくださった。
脱け殻とも違う、経験のない自分を感じながら、花乙女宮の最上階の小部屋で花壇を眺め、数日を過ごす。
アルパード殿下がいない。
もう会えないかもしれない。だけど、確かにわたしの心のど真ん中にいらっしゃる。
ニコニコと、わたしに微笑みかけてくださっている。
支えられていたのは、わたしだ。
理屈ではなく、そう思った。
これが……、カタリン様の仰られた、
わたしが置き去りにしてきた、わたしの気持ちなのだろうか?
ふと、花壇に、栗毛と赤毛の、以前、わたしが声をかけた庭師の女の子を見付けた。
チリリ――……、
と、メジロの鳴く声。
花の蜜を好むメジロは、ときどき花乙女宮で姿を見かける。
立ち上がって窓辺に寄り、花壇のなかにメジロを探す。
不意に、身体がビクッと強張った。
――探しても、見付からなかったら……。
と、考えた。
その時、パササッとメジロが飛び上がり、フッと息が抜けた。
――わたしは、こんなにも恐がっていたのか……。
はるか遠く、東の彼方で消息を断たれ、
手がかりは言葉の通じにくい、異民族の者がひとりだけ。
わたしは、その者に直接会ってもいない。
真っ暗闇の真夜中に、さらに深い霧の向こうに目を凝らし、お姿を探すようなもの。
庭師の女の子ふたりが、汗をぬぐった。
合わせた両手を鼻先に置いて口元を覆う。
目をほそめて、はるか東を睨んだ。
――いまこの時、救けを待たれるアルパード殿下とわたしは……、先の見えない恐怖を共有している……。
口の端があがった。
どうしても理屈っぽくなる、自分への苦笑いだ。
だけど、それもわたしだ。
わたしが小部屋から降りると、
カタリン様が、つまらなさそうな表情で小首をかしげられた。
「あら? いいお顔になられましたわよ? ……ガブリエラ陛下」
おそらく、わたしは生まれてから最も力の抜けた自然な所作でうなずき、カタリン様に微笑みを返した。
「わたしは大丈夫ではないので、もう大丈夫です」
「ん。……では、仕事が山積みですわよ? ガブリエラ陛下」
つまらなさそうな表情を崩されないカタリン様の、口元だけがすこし緩んで見えた。
Ψ
わたしがポケッとして過ごした数日の間に、優秀な花衣伯爵家のご令嬢、内廷女官のみな様は、
アルパード殿下が捕囚された、おおよその地点を割り出してくださっていた。
「……飛び地領」
「はい。……おそらくですが、ワルデン公国の東の飛び地領、そちらで捕囚されたものと思われます」
内廷女官のおひとり、グリザンテーム伯爵家のゲルトルード様が険しい表情で地図を指された。
黒縁の丸眼鏡。ちいさな頭に凛々しい眉、ゆるやかにウェーブした色の薄い金髪を、反対の手で耳にかけられる。
「植物の固有名詞が通じず、図鑑を持ち込んでひとつずつ確認してもらいました」
「そう……、手間をかけました」
「いえ。むしろ、最後まで付き合ってくれたバヤルサイハン殿をお褒めください」
バヤルサイハン・オゲデイ。
アルパード殿下が心服させ臣従させた、異民族の近衛兵の名だ。
わが国では聞き慣れない発音。
初老で浅黒い肌に、ずんぐりむっくりな体型で、いかにも戦士といった風貌をしているらしいけど、
いまはまだ、王妃宮殿で療養中だ。
機会があれば引見し、わたしからも礼を述べたい旨、ゲルトルード様に伝える。
そして、ふたたび地図を見詰める。
「それにしても……、ワルデン公国」
領有権の入り乱れたエルハーベン帝国では、領邦が遠く離れた場所に飛び地を持つことは珍しくはない。
ただ、ワルデン公国が主城を置く本領は、わが国に国境が接する、いわば隣国だ。
そして、今回の東方出兵の盟主――、
ゲルトルード様が黒縁眼鏡を、クイッと上げられた。
「……ひとつの仮説ですが」
「はい」
「ワルデン公はアルパード殿下を〈保護〉してくださった……、とも考えられます」
「……そうね」
「通常速度の馬車で護送してくださっていると考えれば、もう間もなく、ワルデン公国の本領に到着される頃合い……、ということになります」
「なるほど……」
「……もっとも、わが国に報せる急使が来ないのは何故か? という謎は残りますが」
外交に明るいエミリー殿下にも相談し、
――こちらから、問い合わせはしない。
と、決めた。
ゲルトルード様の分析が正しいなら、ワルデン公の意図が読めなさ過ぎる。
まずは潜入させた騎士の報告を待ちたい。
ただ、打てない手がない訳でもない。
わたしは、カールマーン女公爵エルジェーベト閣下のお母君、そして、ワルデン公の妹君であられるブリギッタ様を召喚した。
王政とは別で、ワルデン公国と交誼を結んでいたカールマーン公爵家。
やはり、そこになにかが隠されている。
やがて、エルジェーベト様に伴われ、ブリギッタ様が花乙女宮におみえになられた。
きれいな菱形を描く切れ長の瞳。
ハーフアップにまとめられたブロンドの髪は、肩から柔らかく流れ、まるで絹糸のよう。耳元には、小さな白い花を模した銀の髪飾りがあしらわれている。
ただ、目元には小皺も見られて年齢相応のお美しさ。
全体的なお顔立ちこそエルジェーベト様の雰囲気に似ておられるけれど、より繊細で、神経質な印象を受ける。
もっとも――、
「……わが夫ガーボルには、よくしてもらいました」
と、その夫が突然、罪に問われて尖塔に幽閉されたのだ。
焦燥もしようというもの。
「ですが……、私には、ガブリエラ陛下にお伝えせねばならないことがございます」
と、神妙な顔をするわたしに、
カタリン様は、また、ため息を吐かれた。
「なんだ。全然、分かってないじゃない」
「……えっ?」
カタリン様は、王宮に押し寄せた数万の群衆に、わたしがひとりで突っ込んで行ったことに対し、ご諫言くださっているのだとばかり思っていた。
夕闇から宵闇に移りゆく貴賓室。
窓辺の椅子にわたしとカタリン様、それにエルジェーベト様が腰かけ、入口にはリリが控えてくれている。
侍女長になったイロナに、カタリン様が「4人で話すから誰も近づけるな」と、きつくお言い付けになられた。
カタリン様が、つまらなさそうな表情で口を開かれた。
「こういうの、エルジェーベトの役目じゃなくって?」
「あら? この間のカタリン様がお見せになられてきた、慈愛に満ちたお振る舞い。私などより、カタリン様の方が適役ですわ」
「……私の性分に合わないんだけど?」
「ふふふっ。ご謙遜を」
おふたりが目の前で交わされる会話の意味が、わたしには解らない。
どちらがわたしにご説諭くださるか、押し付け合われている、……のか?
……申し訳ない限りだ。
エルジェーベト様が、目を険しくほそめられた。
「此度のアルパード殿下のご受難。カールマーン公爵家のふる舞いには、まだ……、疑義が残ります」
「……まあ、そうだけど」
「すべてが詳らかにならぬ限り、私には資格がございませんわ。……とても、残念ですけれど」
と、エルジェーベト様が眉をたらし、寂しげに微笑まれると、カタリン様は大きなため息を吐かれた。
そして、カタリン様は立ち上がられ、わたしの真正面へと回られた。
きつい言葉を浴びせられるのだと、奥歯を噛みしめて、すこし顔をさげたとき、
ふわっと、上品な香水の香りがした。
あたたかな感触がわたしの背中にやさしく添えられ、二の腕にもかすかな感触があった。
薄暗い宵闇に包まれたお部屋の中で、わたしがカタリン様に抱き締められたのだと気付くのに、すこし時間がかかった。
「……リリもおいで。エルジェーベトも」
と、これまで耳にした中で、最もやわらかなカタリン様のお声がして、
わたしが、リリとエルジェーベト様のふたりに、後ろから抱き締められたのだと分かった。
カタリン様の腕に力がこもり、わたしの額がカタリン様のお腹に触れた。
「偉いね、ガブリエラは」
「……え?」
「……恐いね」
カタリン様が、わたしに囁かれる声。
やわらかで透んだ綺麗な声音。
なのに、
なぜか、
わたしの耳が弾いてしまう。
「……悲しいね、アルパード殿下に会えなくって」
刹那。息が止まる。呼吸ができない。
なにか熱い、得体のしれないなにかが、わたしの肚から込み上がってくる。
「うっ……、ぐふっ、……うぇ」
「不安でたまらないね……。恐くて、恐くて、寂しくて。悲しくて……」
「お、ごっ……、ぶっ、ご……」
「たまらないよね、……もう会えないんじゃないかって、不安でたまらないよね」
わたしの吐き出したものが、
自分の泣き声なのだと……、
なかなか自分では認識できなかった。
気付けば、わたしはカタリン様のお腹の上で号泣していた。
「……恐い時には恐がって、悲しい時には悲しまないと、いつか悲しみも不安も、自分じゃ耐えられないような大きさになってしまうわよ?」
「ガダリンざまぁ~~~~~……」
「いいこと、ガブリエラ?」
「ばい……」
「ガブリエラは賢くて、強くて、気高く美しい……。責任感にも正義感にも溢れてて、ほんと悔しいくらいよ?」
「……ばい」
「だけど、優秀な分、自分の気持ちより先に動けてしまうところが難点ね」
気持ちより……、先に?
「自分の気持ちを置き去りにして、はるか遠くまで行けちゃうのよ」
「……ぞう……なん……でじょうか?」
「私もね……、もう。……言うわよ?」
「……ばい」
「ガブリエラが、花乙女宮入りした日の晩は、夜通し泣き続けたのよ?」
「べ……」
「夜通し泣いて、泣いて、スッキリしてから前を向いたの」
「ガダリンざま……」
「な、なによ?」
「……いい、ヴぉんな……でずね」
「バカ……」
カタリン様が、わたしを抱く手にギュッと力を込めてくださった。
「知ってるわよ」
「ばい……」
「ごめんな、ガブ……」
と、リリのすすり泣く声がした。
後ろから抱き締めるリリの腕が、わたしをギュウッと締めつける。
「私が、……私が、気付いてやらないと」
「リリ様……」
と、エルジェーベト様のお声がした。
「リリ様はガブリエラ様の無二のご親友。そうではありませんか?」
「は、……はい」
「ふふっ。なにもかも置き去りにして、ガブリエラ様とご一緒に突っ走ってさし上げられるのは、リリ様しかおられませんわ」
「え……」
「私たちでは付いて行けませんもの」
「ガブリエラが走れば一緒に走り、泣けば一緒に泣く」
と、カタリン様が、すこし笑われた。
「それでこそ親友ってもんでしょ?」
「ばい~~~っ!!」
と、リリも決壊した。
そして、しばらくの間、カタリン様はお腹の上でわたしを号泣させてくださる。
「泣け泣け。不安も恐怖も苛立ちも、ぜ~んぶ、ガブリエラのなかにあるんだから」
「ばい~」
「不安だから立ち上がれて、恐いから前を向ける。ガブリエラったら、そういうカッコイイ女でしょ?」
光栄だ。
そんなお言葉を、カタリン様からかけていただくなんて、光栄極まりない。
すっかり夜が更けても、カタリン様とエルジェーベト様はずっとわたしを抱き締めつづけてくださり、
リリはずっと一緒に泣き続けてくれた。
Ψ
翌朝。
自分の中から、なにもかもが流れ出てしまったような感覚がして、
ポケッとする。
「もう。私たちも臣下の務めを果たすわ」
と、カタリン様とエルジェーベト様が、花乙女宮に、しばらく泊まり込んでくださることになって、
普段なら、心躍らせたり、恐縮したりするはずなのに、どこか他人事のように聞こえる。
騎士たちは帝国に飛んだし、内廷女官に任じた花衣伯爵家のご令嬢方は、近衛兵からの聴取を再開してくださっている。
日々の政務上の雑事は、カタリン様とエルジェーベト様が片付けてくださった。
脱け殻とも違う、経験のない自分を感じながら、花乙女宮の最上階の小部屋で花壇を眺め、数日を過ごす。
アルパード殿下がいない。
もう会えないかもしれない。だけど、確かにわたしの心のど真ん中にいらっしゃる。
ニコニコと、わたしに微笑みかけてくださっている。
支えられていたのは、わたしだ。
理屈ではなく、そう思った。
これが……、カタリン様の仰られた、
わたしが置き去りにしてきた、わたしの気持ちなのだろうか?
ふと、花壇に、栗毛と赤毛の、以前、わたしが声をかけた庭師の女の子を見付けた。
チリリ――……、
と、メジロの鳴く声。
花の蜜を好むメジロは、ときどき花乙女宮で姿を見かける。
立ち上がって窓辺に寄り、花壇のなかにメジロを探す。
不意に、身体がビクッと強張った。
――探しても、見付からなかったら……。
と、考えた。
その時、パササッとメジロが飛び上がり、フッと息が抜けた。
――わたしは、こんなにも恐がっていたのか……。
はるか遠く、東の彼方で消息を断たれ、
手がかりは言葉の通じにくい、異民族の者がひとりだけ。
わたしは、その者に直接会ってもいない。
真っ暗闇の真夜中に、さらに深い霧の向こうに目を凝らし、お姿を探すようなもの。
庭師の女の子ふたりが、汗をぬぐった。
合わせた両手を鼻先に置いて口元を覆う。
目をほそめて、はるか東を睨んだ。
――いまこの時、救けを待たれるアルパード殿下とわたしは……、先の見えない恐怖を共有している……。
口の端があがった。
どうしても理屈っぽくなる、自分への苦笑いだ。
だけど、それもわたしだ。
わたしが小部屋から降りると、
カタリン様が、つまらなさそうな表情で小首をかしげられた。
「あら? いいお顔になられましたわよ? ……ガブリエラ陛下」
おそらく、わたしは生まれてから最も力の抜けた自然な所作でうなずき、カタリン様に微笑みを返した。
「わたしは大丈夫ではないので、もう大丈夫です」
「ん。……では、仕事が山積みですわよ? ガブリエラ陛下」
つまらなさそうな表情を崩されないカタリン様の、口元だけがすこし緩んで見えた。
Ψ
わたしがポケッとして過ごした数日の間に、優秀な花衣伯爵家のご令嬢、内廷女官のみな様は、
アルパード殿下が捕囚された、おおよその地点を割り出してくださっていた。
「……飛び地領」
「はい。……おそらくですが、ワルデン公国の東の飛び地領、そちらで捕囚されたものと思われます」
内廷女官のおひとり、グリザンテーム伯爵家のゲルトルード様が険しい表情で地図を指された。
黒縁の丸眼鏡。ちいさな頭に凛々しい眉、ゆるやかにウェーブした色の薄い金髪を、反対の手で耳にかけられる。
「植物の固有名詞が通じず、図鑑を持ち込んでひとつずつ確認してもらいました」
「そう……、手間をかけました」
「いえ。むしろ、最後まで付き合ってくれたバヤルサイハン殿をお褒めください」
バヤルサイハン・オゲデイ。
アルパード殿下が心服させ臣従させた、異民族の近衛兵の名だ。
わが国では聞き慣れない発音。
初老で浅黒い肌に、ずんぐりむっくりな体型で、いかにも戦士といった風貌をしているらしいけど、
いまはまだ、王妃宮殿で療養中だ。
機会があれば引見し、わたしからも礼を述べたい旨、ゲルトルード様に伝える。
そして、ふたたび地図を見詰める。
「それにしても……、ワルデン公国」
領有権の入り乱れたエルハーベン帝国では、領邦が遠く離れた場所に飛び地を持つことは珍しくはない。
ただ、ワルデン公国が主城を置く本領は、わが国に国境が接する、いわば隣国だ。
そして、今回の東方出兵の盟主――、
ゲルトルード様が黒縁眼鏡を、クイッと上げられた。
「……ひとつの仮説ですが」
「はい」
「ワルデン公はアルパード殿下を〈保護〉してくださった……、とも考えられます」
「……そうね」
「通常速度の馬車で護送してくださっていると考えれば、もう間もなく、ワルデン公国の本領に到着される頃合い……、ということになります」
「なるほど……」
「……もっとも、わが国に報せる急使が来ないのは何故か? という謎は残りますが」
外交に明るいエミリー殿下にも相談し、
――こちらから、問い合わせはしない。
と、決めた。
ゲルトルード様の分析が正しいなら、ワルデン公の意図が読めなさ過ぎる。
まずは潜入させた騎士の報告を待ちたい。
ただ、打てない手がない訳でもない。
わたしは、カールマーン女公爵エルジェーベト閣下のお母君、そして、ワルデン公の妹君であられるブリギッタ様を召喚した。
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やはり、そこになにかが隠されている。
やがて、エルジェーベト様に伴われ、ブリギッタ様が花乙女宮におみえになられた。
きれいな菱形を描く切れ長の瞳。
ハーフアップにまとめられたブロンドの髪は、肩から柔らかく流れ、まるで絹糸のよう。耳元には、小さな白い花を模した銀の髪飾りがあしらわれている。
ただ、目元には小皺も見られて年齢相応のお美しさ。
全体的なお顔立ちこそエルジェーベト様の雰囲気に似ておられるけれど、より繊細で、神経質な印象を受ける。
もっとも――、
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月日は流れ、カレンとローランが婚姻して三年目の冬の日。
カレンはひとつの決意と想いを胸に、北へ向かう汽車に乗った。
※微さまぁか、もしくはざまぁになっていないかもしれないです。
※舞台は近世・産業革命初頭を基にした架空世界だと思っていただけましたら有難いです。
稚拙な作品ではありますがご覧くださいましたら凄く嬉しいです。よろしくお願い致します。
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