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35.恋に恥じらう乙女のように
しおりを挟む――おおきな誤解。
刹那の時間に、ダニエルの言葉とこれまで交わした密議の内容があたまを駆けめぐる。
そして、ダニエルのおおきな顔のおおきな唇が、ちいさく開いた。
「レトキ族は、弱くはありません」
「……え?」
「むしろ、最強」
最強――……、
わたしが部族に抱くイメージと、かけ離れた言葉に、目が泳ぐ。
――敗けたではないか……。
――いつも、山野を逃げ惑っていたではないか……。
――幼い子どもまで衛生兵のように、数多くの負傷兵の手当てをさせられていたではないか……。
――わたしと姉を、人質に差し出したではないか……。
幼い日々の記憶が、一度に押し寄せる。
わたしの困惑をよそに、ダニエルは落ち着いた口調でつづけた。
「あの14ヶ国を平らげた武神オロフ・ギレンシュテット王をして、9年におよぶ泥沼の戦争に引きずり込んだのです」
「あ…………」
「わが祖国スコグベール王国など10日で全土を制圧され、王宮を焼き落とされたというのにです」
思考が停止するとは、このことだった。
わたしの世界を一変させる言葉だった。呆然とさえしていない。ただ、停まった。
「蛮族と見下し、ひと月で覆滅すると宣して出陣されながら、9年もの歳月をいたずらに費やし、最終的には無残な撤兵」
「無残……」
「テオドール殿下が奔走され、長老に賂を握らせて調略。継戦を主張されるニクラス殿下を抑え、オロフ王の体面を立てるため人質を出してもらうよう交渉し……」
唐突に、姉がテオドール殿下を怨んだ根源に触れてしまった。
泥沼の戦争を終戦に導いたテオドール殿下は正しい。人格者のテオドール殿下らしい慈悲深い行いだ。たくさんの兵士が命を落とさずに済んだことだろう。
だけど、姉の婚約者ペッカは殺されることになった。
そしてきっと、テオドール殿下はペッカのことをご存じないままに、冥府に旅立たれた――、
――もしも、テオドール殿下がペッカのことを知れば、姉様にひれ伏し涙ながらに謝られたに違いない……。そうしたら姉様もあるいは今のようには……、
感傷に流れそうになる心をグッと押さえ込んで、ダニエルの言葉に集中する。
「総督の設置を呑んでもらい、形ばかりは勝利の体裁を整えたものの……」
「……勝利の……体裁」
「はい……。みな口には出せませんが、最強無比の英雄オロフ王にとって間違いなく……、唯一の敗戦です」
「敗戦……」
「事実……、ギレンシュテット王国は国力を大きく減じ、オロフ王はその後二度と他国侵略の兵を挙げることができずに、この世を去られたのです」
あれは……、勝利だったのか。
わたしと姉が人質に出されたのは、部族が弱かったからではなく、強かったから……、暴虐の王をしても攻略できない最強の部族だったから……。
「……それを、トゥイッカ陛下が巧みに利用された」
「え?」
「名目職でしかなかった総督を使嗾し、徐々に徐々に、レトキ族を締め上げていかれた」
いや、だけど――、
断定はできないけれど、族長の父が「王国に勝った」と考えていたとは、とても思えない。
ながく続く戦争に疲弊し、兄たちの戦死に心は折れかけていた。
のこった娘ふたりを人質に出すことに、忸怩たる思いを抱いていたはずだ。
わたしたちを見送る、父の眼差し。
ツラくて切なくて、とても思い出したくはないけど、……勝者の視線ではなかった。
そして、戦争が終って安堵しなかった部族の者は、いなかったはずだ……。
――その心の隙と認識のズレを、姉は逆手にとり、悪用したのだ……。もう、戦争は嫌でしょう? と……。
恐らく……、10歳だったわたしと、18歳だった姉とでは、見える世界が異なっていたのだ。
ダニエルが言葉に力を込めた。
「レトキ族は心穏やかで争いごとを好まず、好戦的でもありません。ですが、戦えば最強。われらが敵に回したくない理由です……」
「……なるほど、よく分かりました」
「……ヴェーラ陛下を女王に戴き、国としてまとまれば、必ずや強国となりましょう。われらが新王政を打ち立てた後には、ぜひ、盟約を結んでいただきたいほどの」
わたしは、顔に微笑をつくり、優雅にうなずいて見せた。
なにも言質を与えられる状況ではない。
ただ、10歳のわたしが、オロフ王から謁見の間で賜った言葉と、アーヴィド王子から中庭でかけていただいた言葉とが、交互にわたしの耳のなかで鳴り響いていた。
――さすがは、誇り高きレトキの族長の娘であるな。
――ボクたちが仲良くしてれば、もう戦争は起きないよ。
Ψ
ダニエルたちを先に帰し、エルンストと窓辺にならんで夕陽を眺めた。
ふたりで話す時間を、階下の前庭で控えるシモンに見せておく必要がある。
それでなくては、シモンが姉トゥイッカに報告できることがなくなるだろう。
――ふたりは仲睦まじく語らっていた。
と、シモンに報告させる必要がある。
きっと、夕陽に照らされ、わたしの頬も紅く見えているはずだ。
まるで、恋に恥じらう乙女のように……。
「エルンスト……、今日はとても楽しかったです」
「はっ、光栄にございます」
唇の動きをハッキリとシモンに見せておく。
ただ、チラッと窺い見るフレイヤの眉が寄っている理由は分からない。シモンとふたりにしたことが不満なのか。
いや……。わたしの日焼けを気にしているのか。なんか、ごめん。
「エルンストの思わぬ逞しき姿を目にし、……驚きましたわ」
「いえ、しょせんは準々決勝敗退の身。お恥ずかしいかぎり……」
「そんなことありませんわ。とても凛々しくて、つい見惚れて……、あら、いやだわ。妾としたことが……」
と、照れたように扇で顔を覆う。
「……エルンスト。次の新月の晩、妾の離宮の裏庭にひとりで来てくれませんか?」
「……承知いたしました」
「夜目にも目立たぬいでたちで、離宮の侍従騎士たちの目にも決して触れてはいけません」
ニクラス殿下は、きっとハーヴェッツ王国で焦れている。
西方貴族はいまも姉トゥイッカの圧政にあえいでいる。
――決起は、いつ訪れるのか。
わたしが完全にコントロールすることは出来ないだろう。
部族を中立に置き、王国の内乱に巻き込まないため、時を急ぐ必要があった――。
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