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第2章

19.

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 だからこそ、キーリはずっと躊躇っていた。
 まだまだ質問は多くあるが、キーリにはサラディにどうしても聞いておきたい事があった。
 しかし、それを口にする事によって、ロードでは取り返しのつかない変化が起こってしまうのではないか。そんな恐怖感がある。その為、肝心の質問を先送りしていたのだ。
 逃げているばかりでは何もわからないと、キーリは理解している。自分を落ち着かせる為に、大きく深呼吸を繰り返す。
 臆病な心が有耶無耶にしてしまえとキーリ自身に囁くが、それは心を奮い立たせ、どうにか振り切る。
 
「……さ、サラディ。聞きたいことがある」
「何だ?」
 
 キーリの声は裏返り滑稽に響く。対してサラディは、やはりキーリを見る事はせず、何の変化もない。
 意を決して、キーリは言葉を続けた。
 
「あの時……俺がお前に跨った時、なんであんな事をしたんだよ」
 
 キーリが強張った声で口にした“あんな事”。
 それは、和解した際に強引に重ねられた唇の件だった。しっかり固定され、逃さないとばかり口内を弄られた。それを口にするとキーリの頭にはその光景がはっきりと浮かび上がり、全身がむず痒いような感覚に襲われる。
 サラディから、すぐに返答は戻ってこなかった。重い沈黙だけが二人の間に流れ続け、キーリの戸惑いが強くなった頃、サラディがようやく口を開いた。
 
「キーリは、俺の欲しいものを覚えているか?」
 
 キーリは困惑する。質問の答えではない言葉と、その意図が理解できなかった。
 そして、サラディが未だにキーリを見ない事にも、消化しきれない気持ちが心の奥に積もっていく。
 
「……ああ。自分を絶対に裏切らない相手が欲しい、だろ?」
「そうだ。たまに考えていたんだ、もしその相手が現れたとして、そいつはどんな人間だろうって」
「……」
「俺がよく考えたのは、心が清らかで、悪事に手を染める事もなければ、些細な嘘もつかない。誰をも愛して、許すような聖人」
 
 それはサラディの望みを体現した人間を語るには相応しくない、抑揚のない声だった。しかし、語る内容にキーリも同意するしかない。
 サラディに向かい、絶対に裏切らないと心の底から言える者など、愚者か聖人くらいのものだろう。そして、キーリはそのどちらにも入れなかった。
 そう自覚した際に、心臓に小さな針が刺さる。ちくりと刺さって、思わず胸を撫でた。
 
「でも違った。違うんだ」
「……サラディ?」
 
 サラディは、今まで夜空に視線を注いでいたが、ゆっくりと顔を傾ける。そこでやっとキーリに目を向けた。
 血のように赤い瞳がキーリを捉える。その瞳にあるのは、温かな光だ。
 弧を描く唇はとても柔らかく、その表情は幸せに蕩けているようだった。
 それを見たキーリの心臓が小さく跳ねる。
 
「──俺がずっと欲しかったのはお前なんだ、キーリ」
 
 そう口にしたサラディは優しい表情をしていた。それはキーリの眼前にいる男が、この貧民窟を牛耳る組織の頂点であるとは信じられない程に穏やかなものだった。
 
「え……? 俺?」
 
 キーリは口を開いたまま、暫し固まる。一瞬全ての思考が停止してから、現状にゆっくり追いつくように自分を取り戻していく。
 つまりサラディは、キーリが望んだ相手だと言っているのだ。
 人に裏切られ続け、憎み恐怖しているサラディがずっと探している、たった一人。聖人のようにサラディを裏切らない人間が、キーリだと言った。
 
「……っち、違う! 忘れたのか! 俺は、お前を裏切らないなんて言えないって言っただろ!」
 
 キーリは、心の奥から沸きあがる衝動に突き動かされるようにサラディの両肩に掴みかかった。
 キーリは決して聖人ではない。寧ろ逆に位置する人間だと自覚していた。盗みも人も騙した事もある。
 自分の為に他者を害することをする悪人。サラディがずっと求めている人間には、決してなれないと知っている。
 縋りつくようにサラディの両肩を掴んだまま、情けなく眉根を垂らした。
 
「いいや、覚えてる」
「なら!」
「良いんだ。わかったんだ。俺は絶対に裏切らない人間じゃなくて、本当は──裏切られてもいいと思える相手が欲しかったんだ」
「は? それは……」
「俺は、今日お前が裏切ったのだと言われてその可能性を一瞬考えた。その時、思ったのは怒りや恨みじゃなかった。思ったのは、お前が俺の側から去るんじゃないかという恐怖だったんだ」
 
 サラディの手がゆっくりと伸びていく。そのまま、キーリの頬へ向かい優しく触れる。
 キーリ自身の頭の中では疑問が飛び交っており、固まったままだ。
 
「やっとわかった。こういう気持ちなんだな。俺がずっと欲しくて堪らなかったのは……本当はこれだった」
 
 隣に座っているサラディは、今まで聞いた事のないような歓喜に満ちた声でキーリに囁く。じわりと、キーリの思考が現状を理解し始める。サラディは、キーリの頬に手を添え、顔の距離も近い。
 キーリにとって、唇が重なった時を思い出させるのに十分なものだった。カッと全身が燃え上がるように熱くなる。キーリは逃げるように、肩から手を離し目線を慌てて逸らした。
 そうしなければ、いけないような気がしたからだ。今のサラディに見つめ合っていると、後戻りできなくできなくなるような予感がキーリにはあった。
 
「お、大袈裟な言い方だろ。そりゃ、俺もサラディの信頼できる友達になれたなら」
「違う」
 
 サラディが被せるようにはっきりと否定を口にした。それは先程の柔らかい声とは打って変わり、鋭く刺すような言い方だった。
 その口振りに驚き、反射的にキーリの目線はサラディへと戻った。
 
「違うんだ、キーリ。友人じゃ駄目なんだ、俺は……俺は」
「さ……サラディ?」
 
 月明りが屋根の上にいる二人をただ穏やかに照らす。キーリとサラディはその瞳に互いを映し続けている。
 サラディの眉は顰められ、苦し気にも思える表情で唇は微かに震えていた。それでも数拍置くと、血で満たされたような瞳をしっかりとキーリに向けた。
 そして、世界に誰もいないような静まり返った夜の闇の中で、それは言葉となる。
 
「さっきの質問の答えだ。ああしたのは、キーリ。お前が好きなんだ──友人ではなく一人の男として、愛しているんだ」
 
 キーリは、その言葉を一つも逃すことなく、はっきりと聞き、見ていた。
 サラディには珍しい少し強張った声も、不安げに揺れる瞳も。
 
「キーリは、俺をどう思ってる? お前の、気持ちを聞かせてくれ」
 
 これが、サラディの愛の告白だという事はキーリにもわかった。
 それでも驚愕から言葉は、すぐに出てこない。何故ならキーリが告白されたのは生まれて初めてだったのだ。そして、その相手が男で、友人と信じていたサラディであるという事が、更に返答を遅らせるものとなる。
 後に災厄の王と呼ばれる非道の限りを尽くしたサラディ・トーマック。
 彼が人でいられる為の、たった一つの愛がこうしてここで始まる。
 それこそが分岐点であると、世界はそれを記憶した。
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