誰か俺をケアしてくれよ

陽花紫

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異世界にいこう

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 レンはソファに深く沈み込み、目の前に広がる景色にうんざりしながら大きくため息をついた。

 テレビの音が、部屋中に響いていた。隣で彼氏が、リモコンを片手にアニメを見ながらぼりぼりとお菓子を口に運んでいる。
 以前までは細かったその手も、今ではクリームパンのように丸みを帯びていた。
「……もう少し、自分の体気にしろよな」
 レンは、小さな声で呟いた。
 その言葉が耳まで届いたのか、彼氏は目を丸くしながらレンを見た。
「えっ、俺?お前がもうちょっと管理してくれれば、よかったんだけどな」
 その一言に、レンの中で何かが切れるような音がした。
「は?なんで俺が?」
 思わず声に出してしまいそうになるのを、必死で堪えた。

 付き合う前は、いつも真面目で、しっかり者であるかのように見えていた。メールのやり取りも丁寧で、約束を守る人だった。だからこそ、レンは勢いで一緒に住もうと思ったのだ。
 しかし今、目の前の男はただのぐうたらなダメ人間に過ぎなかった。
 掃除もろくにできず、洗濯物は部屋の隅に山積み。料理はほとんど作らないし、おまけにレンが作った食事には一言も感謝の言葉もなく、食べ終わるとすぐにスマホを手に取ってゲームに没頭する。
 最近は体重が増えてきたのも気になるらしく、少しでも痩せる努力をするどころか「栄養管理はお前がやれ」と押し付けてくる。

 レンは、歯を食いしばった。
「どうして俺が、お前なんかの面倒をみなきゃいけないんだ。俺だって、甘やかされたいくらいなんだぞ!」
 心の奥底から湧き上がる怒りと苛立ちを、どこにもぶつけられずに胸に押し込めるしかなかった。
 最初のころは、惚れた弱みもあって我慢をしていた。それでも、我慢をすればするほどダメ人間は悪化していく一方だった。

 夜になり、レンはベッドに横になり、天井をぼんやりと見つめながら思った。
「もう、無理だ。耐えられない」
 彼氏と過ごす甘い同棲生活は、思っていた夢とは程遠い悪夢になっていた。

 レンには、誰にも話していない秘密があった。
 実は、前世の記憶を持っていたのだ。遥か昔、レンは大魔法使いだったことがある。知識と力に満ち、未来を予知できる存在でもあった。
 しかし、これまで今世ではその記憶を封印して生きてきた。
 前世で得た知識や経験は、今のこの時代では何も役に立たなかったからだ。むしろ、前世のほうが窮屈だった。同性を愛することすら禁じられて、前世のレンは鬱憤を抱えながら生きていた。それに比べたら、今のこの自由な時代はとてもありがたいものだった。気ままに恋をして、ようやく幸せを手に入れようとしていたところだった。

 だが今、この生活における疲弊と失望は封印を破るには十分すぎるほどだった。
 レンはそっとベッドサイドに隠していたノートを取り出す。そこには、前世で使っていた魔法陣の設計図が精巧に描かれていた。眠れぬ夜に、何度も書き写してきたものだった。
「どこか遠い場所に……、そうだ。異世界に行こう」
 レンの胸に、小さな決意が芽生えた瞬間でもあった。


 レンは起き上がると、ノートを見ながら床に魔法陣を描き始めた。これまた隠し持っていたチョークで線を引き、文字を一つ一つ丁寧に刻む。驚くほど、するすると手が動く。手を動かすたびに、身体の奥底に眠る力が静かに目を覚ますような気がした。

「……これで、完成か?」

 描き終えた瞬間、レンの体が白い光に包まれる。
 空間が渦を巻き、目の前の景色がぐるぐると回る。耳元で、遠い昔に聞いたことがあるような幾重もの呪文の響きが包み込む。


 目を開けると、レンは見知らぬ森の中に立っていた。
 空気は湿り、草木の匂いが鼻をくすぐる。目の前には小さな建物があり、柔らかな光が窓から漏れていた。

「成功したのか?」
 建物の扉を開け、恐る恐る足を踏み入れてみると中には柔らかな笑みを浮かべた一人の青年がレンを出迎えた。

「ようこそ、レン様。ここではもう、何の心配もいりません。さあ、こちらへ」

 その声はどこか懐かしく、胸の奥を穏やかに揺さぶった。
 レンは初めて、肩の力を抜くことができたような気がした。
「……ありがとう」
「私は、スイと申します。どうぞレン様のお好きなように、この場所で心と体を休めてください」
 スイは金色の長い髪をなびかせながら、優雅な動作でレンの手を取った。その瞳は髪色よりも淡い金色で、レンは彼の姿を天使と錯覚するほどだった。
 それくらい、レンは疲れ切っていたのだ。
 心の奥底からあふれ出る疲労が少しずつ溶けていくのを感じながら、レンは美丈夫の後を追った。

 スイは、疲れた人々を癒すために存在するケア人だと説明をした。レンはその整った横顔を見つめながら、知らず知らずのうちに胸の奥の高鳴りを感じていた。


 異世界での癒しの日々が、はじまろうとしていた。

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