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外れた仮面
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変化は、いつも突然訪れる。
それは物語の都合だとか演出だとか、そういった便利な言葉で片づけられる類のようなものではなく。
ただ静かに、しかし確実に日常の継ぎ目を裂いて現れるものでもあったのだ。
その朝も、私はいつも通りであった。
夜明け前、木造の小屋の中は薄青い静寂に包まれており、窓の外では鳥が鳴き始めていた。
ハミダクはというと、まだ穏やかに眠っていた。
私は習慣のように、壁に掛けられた小さな鏡の前に立つ。
この仮面を、正すためだ。
私にとって仮面は顔であり、境界であり、私という存在を定義する唯一の輪郭でもあったのだ。
しかしその日、この仮面が、わずかに浮いた。
最初は、気のせいだと思った。
木の歪みか、留め具の緩みか。だが鏡に映る仮面の縁と肌の間に、確かに隙間があったのだ。
心臓が、強く音を立てていく。
恐る恐る、私は指先を伸ばしていた。
自らの意思でこの仮面を外すことなど、これまでに一度も考えたこともなかった。
いや、考える必要がなかったのだ。
けれどその朝、私は抗うことができずにいた。
静かな音すら立てずに、それは離れた。
鏡の向こうにいたのは、やけに整った容姿をした、ある一人の男であった。
白い肌に、青い瞳。高い鼻梁に、血色のいい薄い唇。
それらが私のものであると理解をするまでに、数秒を要した。
その姿は、あまりにも美しくあったのだ。
私は、もはや誰を見ているのかわからなくなってしまう。
自らなのか、それとも、誰かが勝手に与えた顔であるのか。
慌てて、仮面をつけ直す。
呼吸が浅くなっていることに、その時ようやく気づいたのだ。
見慣れていたはずのこの青い瞳も、仮面越しでなければ、まるで別物であるかのように思えてしまう。
私は震えながら、今の出来事を記憶の奥に押し込めた。
──見なかったことにしよう。
そうしなければ、私は私でいられなくなってしまうような気がしたのだ。
「ノクス、おはよう」
背後から、いつもの声がした。
「おはよう」
声が、かすかに揺れた気がした。
「うん……なんか、元気ない?どうしたの?」
「いや、変わりない。……仕事に、行ってくる」
「そう?無理しないでね、行ってらっしゃい」
私は、ハミダクの顔を見ることができなかった。
もし、この仮面の下の素顔を彼が知ったら、どう思うのだろうか。
距離を取るのか。それとも、優しく微笑んで受け入れてしまうのか。
そのどちらとも、恐ろしいものであるかのように思えてしまう。
だから私はその朝、誓った。
二度と、この仮面は外さないと。
その日は、奇妙なほど相談客が多かった。
痴情のもつれ、未来への不安、破局の兆し。占い師としての私の言葉は、いつも通り彼らの答えでしかないはずであるとのに、やけに重くのしかかる。
ようやく人波が途切れた頃、ある一人の男が私の前で足を止めた。
「お前、ノクスか?」
その名を聞いた瞬間、私は思わず首を傾げた。
その名前は、ハミダクにしか告げていないはずのものであったのだから。
茶色の長い巻き毛を揺らしたその男は、自らを指差してこう言った。
「俺だよ、俺。ベルナルドだ……」
見知らぬ人物であった。
「失礼ですが、人違いでは?」
だが男は、どこか懐かしむように笑っていた。
「ひどいな。……師匠のことも忘れちまったのか?変わってないな、お前は」
師匠。
その言葉に、背筋が冷えた。
それは、私が勝手に作った設定であった。
孤児の私を救い、占いを教え、ある日忽然と消えた男。
──現実が、あの設定に追いついてきているとでもいうのか?
「どうだ、これも何かの巡り合わせだ。俺のことを、占ってくれないか?」
「なぜ……」
「弟子の力を、見に来たんだよ。俺の未来を占ってくれ」
抗うことが、できずにいた。
不思議とこの手はいつものように動き、やがて水晶玉を覗き込む。
そこに映っていたのは、わずかに年を取ったベルナルドと、今朝見たばかりの素顔の私。
あろうことか、仮面のない私が彼と肩を並べて笑っていたのだ。
「……っ、」
恐怖で、息が詰まる。
「どうだ、見えたか?」
指先が、強く震えた。
「いいえ。……何も」
「そうかぁ?」
その声が近づいた瞬間、不思議なことにベルナルドは跡形もなく消えてしまう。
「あれは、一体……」
世界が、何事もなかったかのように続いているのが、何よりも恐ろしく思えていた。
気付けば、仕事用具一式を抱えて家へと戻った。
もはや、仕事どころではなかったのだ。
そして、嫌な予感が駆け巡る。
ハミダクもまた、私が勝手に生み出した想像にしか過ぎないのではないのかと。
勢いよく、扉を開けた。
するとそこには、目を丸くしたハミダクの姿があった。
「おかえり……。どうした?今日はやけに早いんだね」
安堵のあまり、私は強くその身を抱きしめていた。
「えっ、ノクス……!どうしたの?」
「すまない。……今は、このまま……」
ハミダクは困惑していたものの、やがて短く息をついて私の背にあたたかな腕を回していた。
「……わかったよ。お疲れさま、ノクス……」
しばらく、私はこの心が落ち着きを取り戻すまで、ハミダクの匂いを吸っていた。
それは物語の都合だとか演出だとか、そういった便利な言葉で片づけられる類のようなものではなく。
ただ静かに、しかし確実に日常の継ぎ目を裂いて現れるものでもあったのだ。
その朝も、私はいつも通りであった。
夜明け前、木造の小屋の中は薄青い静寂に包まれており、窓の外では鳥が鳴き始めていた。
ハミダクはというと、まだ穏やかに眠っていた。
私は習慣のように、壁に掛けられた小さな鏡の前に立つ。
この仮面を、正すためだ。
私にとって仮面は顔であり、境界であり、私という存在を定義する唯一の輪郭でもあったのだ。
しかしその日、この仮面が、わずかに浮いた。
最初は、気のせいだと思った。
木の歪みか、留め具の緩みか。だが鏡に映る仮面の縁と肌の間に、確かに隙間があったのだ。
心臓が、強く音を立てていく。
恐る恐る、私は指先を伸ばしていた。
自らの意思でこの仮面を外すことなど、これまでに一度も考えたこともなかった。
いや、考える必要がなかったのだ。
けれどその朝、私は抗うことができずにいた。
静かな音すら立てずに、それは離れた。
鏡の向こうにいたのは、やけに整った容姿をした、ある一人の男であった。
白い肌に、青い瞳。高い鼻梁に、血色のいい薄い唇。
それらが私のものであると理解をするまでに、数秒を要した。
その姿は、あまりにも美しくあったのだ。
私は、もはや誰を見ているのかわからなくなってしまう。
自らなのか、それとも、誰かが勝手に与えた顔であるのか。
慌てて、仮面をつけ直す。
呼吸が浅くなっていることに、その時ようやく気づいたのだ。
見慣れていたはずのこの青い瞳も、仮面越しでなければ、まるで別物であるかのように思えてしまう。
私は震えながら、今の出来事を記憶の奥に押し込めた。
──見なかったことにしよう。
そうしなければ、私は私でいられなくなってしまうような気がしたのだ。
「ノクス、おはよう」
背後から、いつもの声がした。
「おはよう」
声が、かすかに揺れた気がした。
「うん……なんか、元気ない?どうしたの?」
「いや、変わりない。……仕事に、行ってくる」
「そう?無理しないでね、行ってらっしゃい」
私は、ハミダクの顔を見ることができなかった。
もし、この仮面の下の素顔を彼が知ったら、どう思うのだろうか。
距離を取るのか。それとも、優しく微笑んで受け入れてしまうのか。
そのどちらとも、恐ろしいものであるかのように思えてしまう。
だから私はその朝、誓った。
二度と、この仮面は外さないと。
その日は、奇妙なほど相談客が多かった。
痴情のもつれ、未来への不安、破局の兆し。占い師としての私の言葉は、いつも通り彼らの答えでしかないはずであるとのに、やけに重くのしかかる。
ようやく人波が途切れた頃、ある一人の男が私の前で足を止めた。
「お前、ノクスか?」
その名を聞いた瞬間、私は思わず首を傾げた。
その名前は、ハミダクにしか告げていないはずのものであったのだから。
茶色の長い巻き毛を揺らしたその男は、自らを指差してこう言った。
「俺だよ、俺。ベルナルドだ……」
見知らぬ人物であった。
「失礼ですが、人違いでは?」
だが男は、どこか懐かしむように笑っていた。
「ひどいな。……師匠のことも忘れちまったのか?変わってないな、お前は」
師匠。
その言葉に、背筋が冷えた。
それは、私が勝手に作った設定であった。
孤児の私を救い、占いを教え、ある日忽然と消えた男。
──現実が、あの設定に追いついてきているとでもいうのか?
「どうだ、これも何かの巡り合わせだ。俺のことを、占ってくれないか?」
「なぜ……」
「弟子の力を、見に来たんだよ。俺の未来を占ってくれ」
抗うことが、できずにいた。
不思議とこの手はいつものように動き、やがて水晶玉を覗き込む。
そこに映っていたのは、わずかに年を取ったベルナルドと、今朝見たばかりの素顔の私。
あろうことか、仮面のない私が彼と肩を並べて笑っていたのだ。
「……っ、」
恐怖で、息が詰まる。
「どうだ、見えたか?」
指先が、強く震えた。
「いいえ。……何も」
「そうかぁ?」
その声が近づいた瞬間、不思議なことにベルナルドは跡形もなく消えてしまう。
「あれは、一体……」
世界が、何事もなかったかのように続いているのが、何よりも恐ろしく思えていた。
気付けば、仕事用具一式を抱えて家へと戻った。
もはや、仕事どころではなかったのだ。
そして、嫌な予感が駆け巡る。
ハミダクもまた、私が勝手に生み出した想像にしか過ぎないのではないのかと。
勢いよく、扉を開けた。
するとそこには、目を丸くしたハミダクの姿があった。
「おかえり……。どうした?今日はやけに早いんだね」
安堵のあまり、私は強くその身を抱きしめていた。
「えっ、ノクス……!どうしたの?」
「すまない。……今は、このまま……」
ハミダクは困惑していたものの、やがて短く息をついて私の背にあたたかな腕を回していた。
「……わかったよ。お疲れさま、ノクス……」
しばらく、私はこの心が落ち着きを取り戻すまで、ハミダクの匂いを吸っていた。
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