貴族の次男に転生した俺はこの身分を手放して自由を求めて生きていく

陽花紫

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一年が過ぎた

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 アルの傷んでいた長い髪に、本来の艶が戻りはじめた頃のこと。
 陽の光を受けて、柔らかく色を変える茶色の髪を見つめながら、俺は鋏を手にしていた。

「……この髪を、切ってほしい」
 とても、静かな声だった。
 願掛けのために伸ばし続けていたのだと、ある日突然、アルは語った。
 それは一族に伝わる古い習わしであるものの、アルは成人してから愛する人に出会うまでこの髪を伸ばし続けることを誓っていたそうだ。
「今の俺は、もう平民だ……。それに何より、リオにも出会うことができた」
 その言葉が、胸の奥に深く沈んでいく。
「アル……」
 ほんの少しだけ、俺は寂しさを覚えていた。
 この髪に、俺は無意識に過去の日々を重ねていたからだ。失われた時間や、今となっては取り戻せないものを。
 けれどアルに促されるまま、俺は鋏を入れていく。
 しゃり、と小さな音を立てて、髪の束がはらりと落ちた。

 何度か慎重に整えた後に、ようやく鋏を置くと、アルは鏡の中で静かに笑っていた。
「ありがとう。……すっきりしたな」
 そう言って、今度は俺の髪へとその指先を伸ばしていた。
「リオは、このまま伸ばすのか?」
「うん……」
 俺の言葉が弱くなるのには、理由があった。
 兄のレオナルドが、俺のことを探している。
 そのような噂が、遠く離れたこの街にまで届いていたからだ。
 ”とある貴族の息子が、姿を消した弟を探している。茶色の短い髪に、黒い瞳を持つ弟のことを”

 そのため、俺はわざと髪を伸ばすことにしていた。
 今では、肩にかかるくらいになっていた。
「そうか、いいと思うよ。手入れは少し大変だけどな」
「アルは、手伝ってくれないの?」
「もちろん、手伝うさ」
 くすりと笑って、アルは俺を抱きしめた。
 いつものようにその胸に額を預けると、確かな温もりが伝わった。

***

 俺たちが身分を捨ててから、一年が経とうとしていた。
 隣近所には、遠い親戚同士だと話してある。
 親を亡くし、互いに支え合って生きている同じ年頃の男同士。人々はその話を疑いもせず、微笑ましく俺たちのことを見守ってくれていた。

 俺とアルは、小さな雑貨屋の裏方として働いていた。
 たまたま募集の紙を見かけれ、俺がアルを誘ったんだ。
 読み書き計算ができる者は重宝されて、重要な賃金も悪くはなかった。
 店の奥で行う荷運びや品物の整頓が中心で、表に立つようなこともほとんどなかった。

 時折、帳簿の数字に不自然な動きを見つけることがあった。
 明らかに、おかしい。何か不正が行われているのではないのかと。
 けれど眉を寄せる俺の手を、決まってアルは止めていた。
「俺たちは、ただの働き手だ。リオ、難しいことは考えなくていいんだ……」
「……それも、そうだな」
 そうして俺は、目を伏せる。

 アルと一緒に、長い時間を過ごせる。それが、何よりの幸せでもあったのだから。

 ある、開店前のこと。
 静かな店内で、俺は一人で作業をしていた。
 しかし不意に、扉が開く音と静かな足音がした。

「すみません、まだ開店前なので……」
 そう言いかけて、言葉を失った。
「それは失礼しました。……また、出直します」
 しかし俺は、慌ててその身を呼び止めてしまっていた。
「待ってください!」
 間違えるはずがない。
 黒い髪に、茶色の瞳。
 その顔には哀愁が滲み出ていたものの、痩せ細ったその身に鼻先を掠める懐かしい香り。

「……フラン?」

 その名前を呼んだ瞬間、男は驚いたように目を見開いていた。

「いえ、違いますが……フランは、私の父の名前です」

 ――フランに、息子がいた。

 その事実に、俺は衝撃を受けていた。
 けれど短く息を吐いて、まじまじとその姿を眺めた。
 見れば見るほど、フランによく似ていた。
「すみません、間違えてしまって……。その、あまりにも……」
 あの頃と同じ、穏やかな笑みを浮かべてその人は笑っていた。
「よく言われます。父に、似ていると」
「……ちなみに、お父様は?」
「もう、亡くなりました……」
 その言葉に、俺は静かに息を吐くことしかできなかった。
「……そうでしたか、それは…………」
 何か言わなければと思うのに、悔やむ言葉が何一つとして浮かばない。

 そのとき、店主の大きな声が響き渡る。
「リオ、もう開けてもいいぞ!……っと、お客人か。いらっしゃい、今日は何をお探しで?」

 その人は、落ち着いた様子で欲しいものを告げていた。
 俺もまた頭を下げて、手早く作業を終えて店の奥へと下がった。

「遅かったじゃないか。……何か、あったのか?」
 心配そうに眉を寄せたアルにそう聞かれても、もう何から話せばいいのかわからなかった。
「ううん、何でも。開店前にお客さんが来ちゃってさ……」
 しかしその言葉を口にした瞬間、アルの顔色が変わっていく。
「誰だったんだ?君のことを、知っているような人か?」
「……いや、まったく。大丈夫だよ」
「そうか……」
 静かに作業に戻るものの、俺の頭の中はあの人のことでいっぱいだった。

 フランは、亡くなった。
 それは、俺のせいなのだろうか。
 けれど、息子がいたくらいだ。誰かと結婚して、子供も生まれて。

 ――フランは、幸せだったのだろうか。

 仕事を終えて家に戻っても、俺はアルに心配されるくらい様子がおかしかったらしい。

 いよいよ眠ろうとしたその時、俺の身は強く抱き寄せられていた。

「リオ。何かあったのなら言ってほしい」
 アルにしては、珍しく低い声だった。
 どこか焦っているような、それでいて案じているような。
「それとも、そんなに俺は頼りないのか?」
 その言葉に首を振って、俺もまたアルを強く抱きしめた。
「そんなことない。ただ……」
「ただ?」
 アルは急かすようなこともせず、俺の言葉を待っていた。

「悔やんでも、悔やみきれないこがあるんだ」
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