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砂の都で出会った男
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人外、精霊、年の差、おじと青年。
後半は青年視点。
―――――――――――――――――
旅というものは、いつも唐突に始まるものでもあった。
それは地図の端から忍び寄る風のようでもあり、気づいたときには、足元の土が見知らぬ色に変わっていた。
四十を過ぎた今も、私はそのような理由のない移動をやめられずにいた。
私の仕事は、翻訳とその記録。
言葉を別の形へと移し替えることこそが、私の生き甲斐でもあったのだ。
だが本当は、言葉にできなかったものを探し続けているだけなのかもしれない。
砂漠の縁にあるその都は、白い石と青い影でできていた。
昼は太陽の光に焼かれ、夜は月の光に洗われる。昼と夜が曖昧であり、まるで時間そのものがゆっくりと溶けていくような場所でもあったのだ。
彼と初めて出会ったのは、そのような黄昏時。
香辛料と古い紙の匂いが混ざり合う市場で、私は迷っていた。
それは決して、方角ではない。この人生を、見失っていたのだ。
「迷いました?」
投げかけられた爽やかな声に振り向けば、そこには若い男が立っていた。
年の頃は、二十代前半であろうか。
艶のある黒い髪と、夜明け前の空のような瞳。
異国の衣をその身にまとうものの、不思議と違和感はなかった。
むしろこの都の一部のようでもあり、私は神聖さを感じていた。
「……ええ、少し」
そう答えた私に、彼はにこやかに微笑んだ。
それは親切というよりも、懐かしさに近いような笑でもあった。
「よかったら、うちに寄っていきませんか?」
彼の名は、ユスフといった。
市場の裏手にある古書店で働いているようだ。
私は翻訳の資料を探していたために、自然と彼の後を追っていた。
古書店は、一つの迷宮のようでもあった。
天井まで積まれた書物、擦り切れた絨毯。壁に描かれた、何やら星の動きを記したかのような奇妙な図面。
時間が堆積した空間で、ユスフは軽やかに先を歩く。
「あなたは、旅人ですね?」
彼は、棚から一冊の本を抜きながらこう言った。
「なぜ、そう思うんだい?」
「目が、遠くを見ているので。ここにいながらも、別の場所を見つめているような……」
その言葉は、私の胸の奥に静かに広がっていく。
四十年余りの時を生きてきて、決して誰にも見抜かれることがなかったその部分を。
それ以来、私は毎日古書店に通いつめた。
資料を探すという口実を使い、あの不思議な彼に会うために。
ユスフは、多くを語らなかった。
だが語らないことそのものが、まるで一つの物語のようでもあったのだ。
彼の沈黙には、遥か遠くの砂嵐や、古代の月明かり。時には、遠い旅路が含まれているようにも感じられていた。
夜になると、彼は屋上へと私を誘う。
平らな屋根の上で、甘い茶を飲みながら星々を眺める。
そのひとときが、何よりも心落ち着く時間でもあった。
「この星は、旅人の星です」
そう彼が指差した空は、深い藍色をしていた。その中央に一つ、銀の輝きを放つ大きな星があった。
「迷った者を、別の場所へ連れていくとも言われています」
「別の場所、……とは?」
私が尋ねると、ユスフはわずかに眉を寄せて微笑んだ。
「行くべき場所、です……」
その言葉は、なぜだか別れの予感を含んでいるかのように感じられた。
いつしか私は、心から彼に惹かれていた。
見た目はまだ年若い青年であるというのに、まるで私以上に年を重ねているかのようなその口振り。
全てを知るような、その瞳。月の光に照らされて、その黒髪は妖しい魅力を放っていたのだから。
それは恋と呼ぶには穏やかで、執着と呼ぶには柔らかすぎるほどの感情でもあったのだ。
突然、強い風が吹きつけた。
かすかに震えたその肩を、気付けば私は強く抱き寄せていた。
自らの外套を彼の肩へとかけ、その瞳を静かに見つめた。
「ありがとうございます。……あたたかい……」
年齢の差を、意識しなかったわけではない。
だが彼の前では、四十年余りの時が呆気なくその意味を失ってしまうようでもあったのだ。
「風邪を引いては、君も困るだろう……」
「優しいんですね……」
その言葉に、私の胸は強く脈を打っていた。
ある夜、ユスフは唐突にこう告げた。
「旅に、出ます」
「……どこへ?」
「決まっていません。でも、行かなければならないのです」
私は、引き留めることができずにいた。
いや、引き留める権利が私にあるとは思えなかったからだ。
「……あなたは?」
彼が、澄んだ瞳をして私のほうを見た。
「私は……、ここに残るつもりだ」
それは事実でもあり、嘘でもあった。
すでに私のこの心の一部は、彼と共に旅立っていたのだから。
「ありがとうございました」
別れの言葉は、驚くほど簡単なものであった。
抱きしめることも、約束を交わすこともできなかった。
ただ、彼の指先が一瞬、私の手に触れた。
その控えめな温度だけが、この記憶に深く刻まれていく。
翌日、ユスフは消えていた。
あの古書店も、屋上も、まるで初めから存在していなかったかのように。
誰に尋ねても、彼の名を知る者はいなかった。
市場の喧騒だけが、いつも通りに続いていた。
私は数日後に、都を離れた。
仕事は終わり、ここに留まる理由もなかったからだ。
だが、旅は終わらなかった。
それから何年も、私は似たような都を訪ね続けている。
砂の匂い、星の配置、古書の温もり。そのどこかに、あの彼がいるような気がしてしまうのだ。
年を重ねるにつれ、私の時間は加速した。
だがあの数日間だけは、今も私の中で思い出として静止していた。
宿の窓から星空を見上げるときに、私は思う。
彼は、本当に消えたのだろうか。
それとも、別の場所へと移っただけであるのだろうか。
幻想とは、実在しないもののことではない。
現実の中に、確かに触れたはずなのに、証明できないもののことをいうのではないのか。
ユスフは、私の幻想だったのかもしれない。
しかし幻想であったとしても、確かに彼は私の人生を変えていた。
今日もまた、私は荷物をまとめていた。
地図にないその場所へと、向かうために。
砂の都で、年若い黒髪の青年がある一つの星を指差している。
そのような予感だけを、この胸に抱いて。
そして私自身が消えるその日まで、この旅は続くのだ。
***
私はもともと、名を持たぬただの風であった。
砂漠と都との境目に生まれ、夜と昼の間を住処とする。
人間で言うなれば、精霊と呼ばれるもでもあったのだ。
私の役目は、悪戯に旅人を惑わせること。
地図を狂わせ、記憶を曖昧にし、帰るべき場所をも見失わせる。
彼らが迷い、立ち止まり、この私に心を預けたとき。
その感情を糧として、私はこの存在を永らえていたのだ。
恋慕、郷愁、焦燥。
甘いものほど、よく燃えた。
だから私は、いつも少しだけ優しく接することを心掛けていた。
助けるふりをして、深く入り込ませる。決して、最後までは与えない。
それが、私という存在の作法でもあったのだから。
しかしそれは、ある一人の男に出会うまでの話なのだが。
市場でその男の姿を目に入れたとき、私はすぐさま笑みを浮かべた。
確かに、その男は迷っていた。
だが他の旅人とは違い、それは恐れなどではなく、悟りのようなものを抱えているようにも見えたのだ。
その人生の時間が、男の背には積もっていたのだから。
「迷いました?」
そう声をかけたのは、いつもの始まりの言葉でもあった。
けれど男が振り向いたその瞬間、私はわずかな戸惑いをおぼえていた。
その瞳は、惑わされる者の瞳ではなかったのだ。
すでに何かを知り得ており、それでも踏み込む者の瞳。
古書店へ案内したのは、罠のつもりでもあった。
書物は、人間の心を緩める。言葉を愛する者ほど、物語の世界へと深く迷う。
しかし男は、棚を眺めながらこう言った。
「ここは、時が積もっているような場所だ……」
私は、驚いた。
誰も、この場所をそのように表現したことはなかったのだ。
男は書物を単なる情報としてではなく、まるで息をする生き物であるかのように扱った。
丁寧に触れ、時には匂いを嗅ぎ、その大きな手で黙って滲んだ文字を撫でる。
その仕草が、ひどく優しいものであるかのように見えていた。
夜、屋上で星を見せたのも、本来なら禁じ手であるものでもあった。
星は、精霊の領域だ。あれを見せれば、旅人は戻れなくなってしまう。
「この星は、旅人の星です」
そう説明しながら、私は輝く星を指差した。
しかし男は星ではなく、ただ私だけをその目に入れていた。
突風が、吹き抜けた。
肩に触れた大きな手の温もり、かけられた外套の重さに、やがて私は表現しがたい想いを抱えてしまうことになる。
それから私は、男を弄ぶことができなくなってしまう。
距離を保つはずが、わずかに近づいてしまう。嘘を重ねるはずが、沈黙を選んでしまう。
しかし男は、私に何も求めはしなかった。
ただ、私の顔を目に入れて穏やかな笑みを浮かべるだけであったのだ。
精霊にとって、それは致命的でもあった。
私は男の感情を糧にする代わりに、この男そのものを強く欲してしまったのだから。
――愛してしまったのだ。人間である、この男のことを。
精霊が人間を愛すれば、この存在は歪んでしまう。
私は夜ごと、この身が透けていくのを感じていた。
そのため、旅に出ると告げていた。
「決まっていません。でも、行かなければならないのです」
それは、嘘ではなかった。
向かう先は、役目を果たせなくなった精霊が静かに消える場所であった。
男は、引き留めるような素振りさえみせなかった。
その優しさが、何よりも残酷なものであるかのように感じられた。
別れのとき、私は男の手に触れた。
人間の温度はこのようにも確かなものであるのだと、私は決して忘れまいと誓った。
翌朝、私は都から痕跡を消した。
古書店も、屋上も、私の名も。何もかもを全て。
それが、男を守る唯一の方法でもあったのだから。
今、私は砂の果てにいる。
風も星も届かぬその場所で、静かに終わりを迎えようとしていた。
消える前に、私は男のことを強く思う。
今もなお旅を続けていることを、私は知っていた。
もしあの男が夜空を見上げて、ふと、懐かしさを覚えたのなら。
それは恐らく、私であるのだろう。
あの男を愛したことは、誇らしいことでもあった。
それだけで、罰を受ける価値はあった。
END
後半は青年視点。
―――――――――――――――――
旅というものは、いつも唐突に始まるものでもあった。
それは地図の端から忍び寄る風のようでもあり、気づいたときには、足元の土が見知らぬ色に変わっていた。
四十を過ぎた今も、私はそのような理由のない移動をやめられずにいた。
私の仕事は、翻訳とその記録。
言葉を別の形へと移し替えることこそが、私の生き甲斐でもあったのだ。
だが本当は、言葉にできなかったものを探し続けているだけなのかもしれない。
砂漠の縁にあるその都は、白い石と青い影でできていた。
昼は太陽の光に焼かれ、夜は月の光に洗われる。昼と夜が曖昧であり、まるで時間そのものがゆっくりと溶けていくような場所でもあったのだ。
彼と初めて出会ったのは、そのような黄昏時。
香辛料と古い紙の匂いが混ざり合う市場で、私は迷っていた。
それは決して、方角ではない。この人生を、見失っていたのだ。
「迷いました?」
投げかけられた爽やかな声に振り向けば、そこには若い男が立っていた。
年の頃は、二十代前半であろうか。
艶のある黒い髪と、夜明け前の空のような瞳。
異国の衣をその身にまとうものの、不思議と違和感はなかった。
むしろこの都の一部のようでもあり、私は神聖さを感じていた。
「……ええ、少し」
そう答えた私に、彼はにこやかに微笑んだ。
それは親切というよりも、懐かしさに近いような笑でもあった。
「よかったら、うちに寄っていきませんか?」
彼の名は、ユスフといった。
市場の裏手にある古書店で働いているようだ。
私は翻訳の資料を探していたために、自然と彼の後を追っていた。
古書店は、一つの迷宮のようでもあった。
天井まで積まれた書物、擦り切れた絨毯。壁に描かれた、何やら星の動きを記したかのような奇妙な図面。
時間が堆積した空間で、ユスフは軽やかに先を歩く。
「あなたは、旅人ですね?」
彼は、棚から一冊の本を抜きながらこう言った。
「なぜ、そう思うんだい?」
「目が、遠くを見ているので。ここにいながらも、別の場所を見つめているような……」
その言葉は、私の胸の奥に静かに広がっていく。
四十年余りの時を生きてきて、決して誰にも見抜かれることがなかったその部分を。
それ以来、私は毎日古書店に通いつめた。
資料を探すという口実を使い、あの不思議な彼に会うために。
ユスフは、多くを語らなかった。
だが語らないことそのものが、まるで一つの物語のようでもあったのだ。
彼の沈黙には、遥か遠くの砂嵐や、古代の月明かり。時には、遠い旅路が含まれているようにも感じられていた。
夜になると、彼は屋上へと私を誘う。
平らな屋根の上で、甘い茶を飲みながら星々を眺める。
そのひとときが、何よりも心落ち着く時間でもあった。
「この星は、旅人の星です」
そう彼が指差した空は、深い藍色をしていた。その中央に一つ、銀の輝きを放つ大きな星があった。
「迷った者を、別の場所へ連れていくとも言われています」
「別の場所、……とは?」
私が尋ねると、ユスフはわずかに眉を寄せて微笑んだ。
「行くべき場所、です……」
その言葉は、なぜだか別れの予感を含んでいるかのように感じられた。
いつしか私は、心から彼に惹かれていた。
見た目はまだ年若い青年であるというのに、まるで私以上に年を重ねているかのようなその口振り。
全てを知るような、その瞳。月の光に照らされて、その黒髪は妖しい魅力を放っていたのだから。
それは恋と呼ぶには穏やかで、執着と呼ぶには柔らかすぎるほどの感情でもあったのだ。
突然、強い風が吹きつけた。
かすかに震えたその肩を、気付けば私は強く抱き寄せていた。
自らの外套を彼の肩へとかけ、その瞳を静かに見つめた。
「ありがとうございます。……あたたかい……」
年齢の差を、意識しなかったわけではない。
だが彼の前では、四十年余りの時が呆気なくその意味を失ってしまうようでもあったのだ。
「風邪を引いては、君も困るだろう……」
「優しいんですね……」
その言葉に、私の胸は強く脈を打っていた。
ある夜、ユスフは唐突にこう告げた。
「旅に、出ます」
「……どこへ?」
「決まっていません。でも、行かなければならないのです」
私は、引き留めることができずにいた。
いや、引き留める権利が私にあるとは思えなかったからだ。
「……あなたは?」
彼が、澄んだ瞳をして私のほうを見た。
「私は……、ここに残るつもりだ」
それは事実でもあり、嘘でもあった。
すでに私のこの心の一部は、彼と共に旅立っていたのだから。
「ありがとうございました」
別れの言葉は、驚くほど簡単なものであった。
抱きしめることも、約束を交わすこともできなかった。
ただ、彼の指先が一瞬、私の手に触れた。
その控えめな温度だけが、この記憶に深く刻まれていく。
翌日、ユスフは消えていた。
あの古書店も、屋上も、まるで初めから存在していなかったかのように。
誰に尋ねても、彼の名を知る者はいなかった。
市場の喧騒だけが、いつも通りに続いていた。
私は数日後に、都を離れた。
仕事は終わり、ここに留まる理由もなかったからだ。
だが、旅は終わらなかった。
それから何年も、私は似たような都を訪ね続けている。
砂の匂い、星の配置、古書の温もり。そのどこかに、あの彼がいるような気がしてしまうのだ。
年を重ねるにつれ、私の時間は加速した。
だがあの数日間だけは、今も私の中で思い出として静止していた。
宿の窓から星空を見上げるときに、私は思う。
彼は、本当に消えたのだろうか。
それとも、別の場所へと移っただけであるのだろうか。
幻想とは、実在しないもののことではない。
現実の中に、確かに触れたはずなのに、証明できないもののことをいうのではないのか。
ユスフは、私の幻想だったのかもしれない。
しかし幻想であったとしても、確かに彼は私の人生を変えていた。
今日もまた、私は荷物をまとめていた。
地図にないその場所へと、向かうために。
砂の都で、年若い黒髪の青年がある一つの星を指差している。
そのような予感だけを、この胸に抱いて。
そして私自身が消えるその日まで、この旅は続くのだ。
***
私はもともと、名を持たぬただの風であった。
砂漠と都との境目に生まれ、夜と昼の間を住処とする。
人間で言うなれば、精霊と呼ばれるもでもあったのだ。
私の役目は、悪戯に旅人を惑わせること。
地図を狂わせ、記憶を曖昧にし、帰るべき場所をも見失わせる。
彼らが迷い、立ち止まり、この私に心を預けたとき。
その感情を糧として、私はこの存在を永らえていたのだ。
恋慕、郷愁、焦燥。
甘いものほど、よく燃えた。
だから私は、いつも少しだけ優しく接することを心掛けていた。
助けるふりをして、深く入り込ませる。決して、最後までは与えない。
それが、私という存在の作法でもあったのだから。
しかしそれは、ある一人の男に出会うまでの話なのだが。
市場でその男の姿を目に入れたとき、私はすぐさま笑みを浮かべた。
確かに、その男は迷っていた。
だが他の旅人とは違い、それは恐れなどではなく、悟りのようなものを抱えているようにも見えたのだ。
その人生の時間が、男の背には積もっていたのだから。
「迷いました?」
そう声をかけたのは、いつもの始まりの言葉でもあった。
けれど男が振り向いたその瞬間、私はわずかな戸惑いをおぼえていた。
その瞳は、惑わされる者の瞳ではなかったのだ。
すでに何かを知り得ており、それでも踏み込む者の瞳。
古書店へ案内したのは、罠のつもりでもあった。
書物は、人間の心を緩める。言葉を愛する者ほど、物語の世界へと深く迷う。
しかし男は、棚を眺めながらこう言った。
「ここは、時が積もっているような場所だ……」
私は、驚いた。
誰も、この場所をそのように表現したことはなかったのだ。
男は書物を単なる情報としてではなく、まるで息をする生き物であるかのように扱った。
丁寧に触れ、時には匂いを嗅ぎ、その大きな手で黙って滲んだ文字を撫でる。
その仕草が、ひどく優しいものであるかのように見えていた。
夜、屋上で星を見せたのも、本来なら禁じ手であるものでもあった。
星は、精霊の領域だ。あれを見せれば、旅人は戻れなくなってしまう。
「この星は、旅人の星です」
そう説明しながら、私は輝く星を指差した。
しかし男は星ではなく、ただ私だけをその目に入れていた。
突風が、吹き抜けた。
肩に触れた大きな手の温もり、かけられた外套の重さに、やがて私は表現しがたい想いを抱えてしまうことになる。
それから私は、男を弄ぶことができなくなってしまう。
距離を保つはずが、わずかに近づいてしまう。嘘を重ねるはずが、沈黙を選んでしまう。
しかし男は、私に何も求めはしなかった。
ただ、私の顔を目に入れて穏やかな笑みを浮かべるだけであったのだ。
精霊にとって、それは致命的でもあった。
私は男の感情を糧にする代わりに、この男そのものを強く欲してしまったのだから。
――愛してしまったのだ。人間である、この男のことを。
精霊が人間を愛すれば、この存在は歪んでしまう。
私は夜ごと、この身が透けていくのを感じていた。
そのため、旅に出ると告げていた。
「決まっていません。でも、行かなければならないのです」
それは、嘘ではなかった。
向かう先は、役目を果たせなくなった精霊が静かに消える場所であった。
男は、引き留めるような素振りさえみせなかった。
その優しさが、何よりも残酷なものであるかのように感じられた。
別れのとき、私は男の手に触れた。
人間の温度はこのようにも確かなものであるのだと、私は決して忘れまいと誓った。
翌朝、私は都から痕跡を消した。
古書店も、屋上も、私の名も。何もかもを全て。
それが、男を守る唯一の方法でもあったのだから。
今、私は砂の果てにいる。
風も星も届かぬその場所で、静かに終わりを迎えようとしていた。
消える前に、私は男のことを強く思う。
今もなお旅を続けていることを、私は知っていた。
もしあの男が夜空を見上げて、ふと、懐かしさを覚えたのなら。
それは恐らく、私であるのだろう。
あの男を愛したことは、誇らしいことでもあった。
それだけで、罰を受ける価値はあった。
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