健全な男同士の短編集

陽花紫

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腹部に大きな傷痕がある俺が異世界転移をした話

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異世界転移、シリアス、ほのぼの
―――――――――――――――――

 目を開けたとき、ミノルは見慣れぬ空の下にいた。
 霞んだ光がやわらかく降り注ぎ、空気はどこかほのかな甘さを秘めていた。
 辺り一面に木々が生い茂り、爽やかな風が若葉を揺らす。

 見上げれば、二つの太陽が空に滲んでいた。
 昼と夕暮れとが、溶け合うような不思議な光景。
 
 ――なんだ、夢か。

 そう思ったのも束の間、頬をなぞった風の感触があまりにも現実的で、ミノルは思わず頬をつねる。
 鈍い痛みが走り、これが現実であることを知ったのだ。

 思わず衣服に手を入れて、胸から下にかけて、腹部に大きく残る手術痕を無意識のうちに押さえつけた。
 指先に触れたその感触はまだ固く、淡い痛みを宿していた。

「……やっぱり、あるんだな」

 ぼんやりと呟いた声は、森へと深く吸い込まれていく。
 異世界転移、というありふれた言葉が頭をよぎるものの、その現実味は非常に薄くもあったのだ。

 それからの数日、ミノルは必死にこの世界の言葉と習慣を覚えていく。
 運よく、森の外れにある村で助けられ、寝床と仕事を与えられていたのだ。

 村人たちは皆、一様に穏やかであり、誰も彼の過去を詮索するようなことはしなかった。

 それでも、夜になるとミノルの手は腹部の傷に触れてしまう。
 何度も、治癒魔法を試みた。
 しかし、いかなる術者の手を借りても、その傷は薄くなることすら叶わない。

「こっちでも、治らないか……」

 この世界では、魔法で腕を生やすこともできるという。
 けれど、自らのこの傷だけは、まるで別の世界の法則に縛られているかのように、いつまでも残り続けていたのである。
 その事実は、ミノルを静かに蝕んでいく。

 そのような彼に、最初に声をかけたのがリイウであった。

 リイウは隣の家に住む青年で、金色がかった淡い髪と、少し眠たげな灰色の瞳を持っていた。
 猫のように秘めやかな足取りで、気づくといつも傍にいた。
「ミノル、また考えごとしてた?」
「えっ……?」
「顔に、出てる。……たぶん、寂しそうな顔」
 そう言って笑う彼の声は、春風のように柔らかなものでもあったのだ。
 初めて耳にしたそのとき、そのあまりのあたたかさに、ミノルはしばらく言葉を返せずにいた。

 リイウは村では薬草師をしており、些細な怪我であっても必ず手当てを施した。

 ある日、ミノルが市場で指を切ったときも、すぐさまリイウは駆けつけた。
「ほら、見せて」
 リイウの指先は温かく、軽く光を帯びていた。
 魔力がなせる術であった。
 小さな切り傷が、あっという間に消えてしまう。
「……ありがとう」
「そんな顔しないで。治るのは、当たり前のことだよ」
 リイウのその笑みは、痛みの代わりにミノルの胸を締めつけた。

 しかし腹部の傷だけは、リイウに見せることができずにいた。
「きっとリイウも、気持ち悪いって思うよな……」
 そのような思いが、胸の奥に巣食う。

***

 季節が移り変わるように、日々は流れるように過ぎていく。

 ミノルはリイウの優しさに支えられながらも、心のどこかでその距離を置いていた。
 この傷がある限り、誰かに愛される資格はない。
 そのように、信じながら。

 ある、夕暮れのことであった。
 二つの太陽が重なり合い、世界が黄金色に染まる頃。
 リイウが、いつになく真剣な表情でこう言った。

「ミノル。俺、君のことが好きなんだ……」

 その言葉が、わずかに空気を震わせた。
 風が止まり、時が、一瞬だけ息を潜めたように感じていた。
 ミノルは、ただ呆然とリイウの姿を見つめていた。
 告白など、これまでのミノルの人生において、無縁なものであると思っていた。

「……どうして、俺なんかを?」
 声が、掠れた。
 リイウは小さく首を傾げ、少しだけ笑っていた。

「どうしてって……。なんだか、放っておけなかったんだ。君はときどき、すごく遠くに行ってしまいそうな顔をするものだから」
 ミノルの胸が、わずかに疼く。

 しかし、伝えることなどできずにいた。
 この、傷のことを。
 それがすべての拒絶の理由になりえることが、ひどく恐ろしくもあったのだ。

「……ごめん、リイウ」

 ミノルは、目を伏せる。

「うん……。そう言うと、思ってた」

 リイウは、それ以上追及するような真似はしなかった。

 しかしそれからというもの、彼の視線はどこか強さを増していく。
 まるで、ミノルの心を見透かしていくかのように。

 やがて太陽が沈み、深い夜が訪れる。

 窓の外で、しゃらりと星が揺れる音がした。
 ミノルは眠ることができず、ぼんやりと天井を見上げていた。
 胸の奥が、ざわつく。
 リイウの言葉が、何度も蘇る。

 ――好きなんだ。

 その声が、夜気の中で確かに響く。

 翌日も、その次の日も、リイウは変わらずその笑みをミノルに向けていた。
 押しつけがましさなど一切なく、ただ傍に佇むだけである。
 しかそその穏やかさが、かえってミノルの心を追い詰めていく。

 やがて、ある雨の夜。
 ミノルはとうとう、心を決めた。
 逃げてばかりではいけない、と。
 自らのこの傷を、初めて誰かに見せてみようと。
 拒絶されてもいい、気味悪がられても構わない。

 それでも、今のままよりは、きっと前に進めるであろうと。

 リイウを家に招いたのは、その夜のことであった。
 窓の外では、なおも静かな雨が降っていた。
 部屋には、淡く揺れる灯りがひとつ。
 ミノルは深く呼吸をしてから、震える手で服の裾を持ち上げた。

***

 部屋の中に、雨の音が静かに流れ込んでいた。
 ぽつり、ぽつりと屋根を叩くその音が、まるで胸の鼓動であるかのように響いていた。

 ミノルはランプの灯りを少しだけ弱め、リイウのほうへと向き直る。
 彼の灰色の瞳が、揺らめく光の中でやわらかな光を放っていた。
 いつものように笑みを浮かべているというのに、その笑みはどこか無理をしているようにも思えていた。

「……話が、あるんだ」
 ミノルは、静かに口を開く。
「うん」
 リイウは短く返事をし、椅子からそっと立ち上がる。
 彼が一歩近づくたびに、空気が静かに熱を帯びていくような気がしていた。

 ミノルは、両手で強く服の裾を握りしめていた。
 ランプの灯りが、わずかに震えるその手元を照らしていた。
「見せたいものが、あるんだ」
 そして、ゆっくりと布をめくり上げる。

 露わになった肌の中央に、大きく湾曲した赤い傷痕がはしっていた。
 縫合の痕がうねり、古い痛みの記憶がそこに刻まれていたのだ。

「治らない傷がある」
 ミノルは、顔を伏せていく。
「この傷を、見せるのが怖かった。きっと気味が悪いと思うだろうし……。何より、俺は……人に見せられるような身体をしていない」

 雨が、少し強くなる。
 沈黙の中、リイウは一歩、また一歩とミノルのもとへ近づいた。
 そして、ためらいもなくその傷跡に手を伸ばす。

「……それで?」

 その言葉に、ミノルは息を呑む。
 リイウの手のひらが、肌の上をそっと撫でる。
 その指先はひどく優しいものであり、慈しむように赤い色へと添えられていく。
「ミノルは、頑張ったんだな」
 リイウは、穏やかな声をして告げた。
「こんなに深い傷なのに、……君は今も生きている。……それだけで、すごいよ」

 ミノルの視界が、ぼやけて滲む。
 何かが、胸の奥でほどけていくような気がしていた。
 この傷を見られることを、ずっと恐れていた。
 しかしリイウは眉ひとつ動かさず、この傷痕を受け入れたのだ。

「俺、怖かった。嫌われると思って……」
「そんなことで、嫌うわけないよ。君がここまで生きてくれたことのほうが、……ずっと嬉しい」
「……リイウ」
 呼んだその名は、震える吐息のように消えていく。

 リイウは顔を近づけ、ミノルの額に唇を落とした。
 その温度が、静かに流れ込む。
 そして頬、喉、胸元へと。
 触れられるたびに、ミノルの身は少しずつ力を失い、抗うことができなくなっていく。
 それは痛みではなく、溶けるような安堵でもあったのだ。

「君の全てが、綺麗だ」
 リイウの声が、耳元で甘く囁く。
 ミノルは言葉を失ったまま、ただその温もりにこの身を静かに預けていく。

 雨音が外で優しく混ざり合い、やがては二人を包み込む。

 わずかな衣擦れの音が響き、互いの肌と肌が静かに触れ合う。
 リイウの指が傷の縁をなぞるたびに、ミノルは小さく震えていく。
 痛みは、なかった。
 ただ、どこか懐かしいような光が流れ込んでくるようでもあったのだ。

「ここに、君が生きてきた証がある。俺にしか、見せなくていい……」

 リイウの言葉は、まるで祈りのようでもあった。
 その祈りに包まれるかのように、ミノルの心は溶けていく。

 やがて二人の呼吸だけが、部屋中に響き渡る。

 ミノルはただ、リイウに向けて微笑んでいた。

 いつしか雨は止み、窓の外では薄青い霧が漂っていた。
 朝が、きたのだ。
 ミノルが目を覚ますと、その身はリイウの腕の中にあった。
 胸元に頬を寄せれば、鼓動が優しく響いていく。

「おはよう」

 リイウの声が、夢の続きであるかのように柔らかな音へと変わる。
 ミノルは、かすかに笑いながら挨拶を返した。

「変な夢を、見たような気がする……」
「それは、……どんな?」
「俺の傷が、光ってて……。それが、空に昇っていく夢」
「……それ、夢じゃないかも」

 リイウはにこやかに微笑み、ミノルの腹部のあたりを撫でる。
 そこに確かにある傷は、昨夜よりも、わずかに淡くなっていたのだ。

「リイウ……?」
「たぶん、君が許せたんだ。……自分のことを」
 リイウはそう言って、ミノルの髪を指で梳いていく。
「魔法なんて、たいしたことないんだ……。よく癒えるのは、君の心の力だよ」

 ミノルは、その言葉に静かに目を閉じた。

 あの日、拒絶の理由にしていた傷が、今はただの模様であるかのように思えていた。
 それは痛みなどではなく、確かに、ミノルが生きてきた証でもあったのだ。

 ミノルは、静かに息を吐く。
 新たな光が、窓の外の世界を染めていく。
 二つの太陽が、また昇る。

 その光は、もう痛くはなかった。

 やがて、ミノルはリイウと共に暮らすようになる。
 その方が、互いにとって好ましくもあったのだ。
 リイウは片時も離れず、その傷痕ごとミノルのことを愛していく。
 ミノルもまた、与えられる愛を感じては穏やかな笑みを浮かべていた。
 そして、同じくらいの愛を返したいとも思っていたのだ。

***

 朝の光は、透きとおるように静かであった。
 窓の外には薄い霧がまだ残り、世界が柔らかい膜の中に包まれているようでもあったのだ。
 隣では、リイウが寝息をたてていた。

 昨夜のことを思い出せば、まだその身の奥がかすかに震える。
 けれどそれは恥といったものではなく、確かに生きているという実感でもあった。
 ふと、腹部に視線を落とす。
 そこには、まだ傷痕があった。しかし、着実にその色は薄くなっていた。
 まるで、夜の中で溶け出した痛みの残滓が、光に溶かされたかのようでもあったのだ。

「……リイウ」
 声をかければ、リイウはゆっくりと目を開ける。
 その瞳は、朝の霧と同じ色をしていた。

「起きてたの……?」
「うん。……なんか、少し眠れなかった」
「身体、平気?」
「平気。……不思議と、心のほうが楽なんだ」
 ミノルがそう微笑むと、リイウは安堵したように息をつく。

 簡単な朝食をとりながら、ミノルは何度も迷った末に口を開く。
「ねえ、リイウ。……君は、怖くなかった?」
「なにが?」
「俺の、傷を見て……。……あんなの、普通じゃないだろう?」
 リイウはスプーンを置いて、少しだけ笑っていた。
「怖くなんかないよ。むしろ、君の生きざまを見たような気がしたよ」
「生きざま?」
「うん。俺も、ずっと……欠けたものを抱えていたから」

 その言葉に、ミノルは思わず顔を上げる。
 リイウは窓を見つめながら、ゆっくりと言葉を選ぶように続けていく。

「俺、生まれつき……魔力の流れが歪んでいるんだ。本当は、薬草師なんかじゃなくて、癒やし手になりたかった。でもどれだけ努力しても、人を完全には治せなかった。……君の傷に触れたときも、正直、治せないってわかってた」

 ミノルの胸の奥に、小さな痛みがはしる。

「それで……。怖く、なかったのか?」
「ううん。むしろ、嬉しかった」
「嬉しい?」
「だって……。俺にも、届かないものがあるって……知ることができたから」

 リイウは、柔らかく微笑んだ。
 その表情には、昨夜とは違う静けさがあった。

「ずっと俺は、完全な癒しを与えられないこの力を恥じていた。でも、君の傷を見て……ようやくわかったんだ。傷は、消すためにあるんじゃない。触れて、受け入れるためにあるんだって……」

 その言葉は、ミノルの胸の奥へとまっすぐに落ちていく。
 世界が、静止する。
 二人のあいだに漂う光が、ゆっくりと揺れていくようでもあったのだ。
 気づけば、ミノルはリイウの頬に手を伸ばしていた。

「リイウ。……ありがとう」
 リイウはその手を取り、静かに唇を寄せていく。
 指先が触れ合うその瞬間、二人の間に淡い光が生まれる。
 それは魔法などではなく、もっと原初的なものでもあったのだ。

 それは、互いを赦し、受け入れる温もり。

「君の傷は、きっとこのまま残ると思う」
「うん」
 でも……、それは君の証だから。俺はそんな君を……、ずっと見ていたい……」

 ミノルは、小さく息を呑む。
 リイウの瞳はあまりにも真剣な光を帯びており、そこに嘘などひとつも感じられなかったのだから。

「俺も……。リイウのことが、好き。大好きなんだ、リイウ」

 その言葉は、雨上がりの空に放たれた光のようでもあった。
 リイウは、そっと笑った。
 
「やっと、言葉にしてくれた」
「えっ……」
「気づいてなかった……?告白の返事、もらってなかった……」

 ミノルは驚きに目を見開くものの、リイウは腕を広げてその身を包み込む。

「ごめん……」
「いいよ。だって、俺のこと……愛してくれているから……」
「リイウ、大好き。それに、愛してる。これからちゃんと言葉にするよ」
「……嬉しい」

 二人は、強く抱きしめ合う。

 もう夜のような熱ではなく、朝の光のような爽やかな温もりで。

 手のひらの下に感じる鼓動が、確かに生きていると告げていた。

 窓の外では霧が晴れ、遠くの森が黄金色に光りはじめていた。
 鳥たちの声が溶け、風がやわらかに吹き抜ける。
 この世界のどこにも、完全なものはない。
 誰もが少しずつ欠けながら、それでも誰かを想っている。

 ミノルは、リイウの胸元に顔をうずめた。
「……俺たち、似てるんだな」
「……うん。欠けたまま、ちゃんと生きている」
 その言葉に、ミノルは静かに笑っていた。

 ――この世界に来た意味を、ようやく見つけたような気がした。

 いくら薄くなっても、この傷は決して消えはしない。
 しかし、それを抱きしめてくれる愛しい人がいる。
 その事実が、何よりも温かく感じられていた。

 窓の外で、二つの太陽が重なり合う。
 その光は柔らかく、やがて二人の影をひとつに溶かしていくのであった。

END
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