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腹部に大きな傷痕がある俺が異世界転移をした話
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異世界転移、シリアス、ほのぼの
―――――――――――――――――
目を開けたとき、ミノルは見慣れぬ空の下にいた。
霞んだ光がやわらかく降り注ぎ、空気はどこかほのかな甘さを秘めていた。
辺り一面に木々が生い茂り、爽やかな風が若葉を揺らす。
見上げれば、二つの太陽が空に滲んでいた。
昼と夕暮れとが、溶け合うような不思議な光景。
――なんだ、夢か。
そう思ったのも束の間、頬をなぞった風の感触があまりにも現実的で、ミノルは思わず頬をつねる。
鈍い痛みが走り、これが現実であることを知ったのだ。
思わず衣服に手を入れて、胸から下にかけて、腹部に大きく残る手術痕を無意識のうちに押さえつけた。
指先に触れたその感触はまだ固く、淡い痛みを宿していた。
「……やっぱり、あるんだな」
ぼんやりと呟いた声は、森へと深く吸い込まれていく。
異世界転移、というありふれた言葉が頭をよぎるものの、その現実味は非常に薄くもあったのだ。
それからの数日、ミノルは必死にこの世界の言葉と習慣を覚えていく。
運よく、森の外れにある村で助けられ、寝床と仕事を与えられていたのだ。
村人たちは皆、一様に穏やかであり、誰も彼の過去を詮索するようなことはしなかった。
それでも、夜になるとミノルの手は腹部の傷に触れてしまう。
何度も、治癒魔法を試みた。
しかし、いかなる術者の手を借りても、その傷は薄くなることすら叶わない。
「こっちでも、治らないか……」
この世界では、魔法で腕を生やすこともできるという。
けれど、自らのこの傷だけは、まるで別の世界の法則に縛られているかのように、いつまでも残り続けていたのである。
その事実は、ミノルを静かに蝕んでいく。
そのような彼に、最初に声をかけたのがリイウであった。
リイウは隣の家に住む青年で、金色がかった淡い髪と、少し眠たげな灰色の瞳を持っていた。
猫のように秘めやかな足取りで、気づくといつも傍にいた。
「ミノル、また考えごとしてた?」
「えっ……?」
「顔に、出てる。……たぶん、寂しそうな顔」
そう言って笑う彼の声は、春風のように柔らかなものでもあったのだ。
初めて耳にしたそのとき、そのあまりのあたたかさに、ミノルはしばらく言葉を返せずにいた。
リイウは村では薬草師をしており、些細な怪我であっても必ず手当てを施した。
ある日、ミノルが市場で指を切ったときも、すぐさまリイウは駆けつけた。
「ほら、見せて」
リイウの指先は温かく、軽く光を帯びていた。
魔力がなせる術であった。
小さな切り傷が、あっという間に消えてしまう。
「……ありがとう」
「そんな顔しないで。治るのは、当たり前のことだよ」
リイウのその笑みは、痛みの代わりにミノルの胸を締めつけた。
しかし腹部の傷だけは、リイウに見せることができずにいた。
「きっとリイウも、気持ち悪いって思うよな……」
そのような思いが、胸の奥に巣食う。
***
季節が移り変わるように、日々は流れるように過ぎていく。
ミノルはリイウの優しさに支えられながらも、心のどこかでその距離を置いていた。
この傷がある限り、誰かに愛される資格はない。
そのように、信じながら。
ある、夕暮れのことであった。
二つの太陽が重なり合い、世界が黄金色に染まる頃。
リイウが、いつになく真剣な表情でこう言った。
「ミノル。俺、君のことが好きなんだ……」
その言葉が、わずかに空気を震わせた。
風が止まり、時が、一瞬だけ息を潜めたように感じていた。
ミノルは、ただ呆然とリイウの姿を見つめていた。
告白など、これまでのミノルの人生において、無縁なものであると思っていた。
「……どうして、俺なんかを?」
声が、掠れた。
リイウは小さく首を傾げ、少しだけ笑っていた。
「どうしてって……。なんだか、放っておけなかったんだ。君はときどき、すごく遠くに行ってしまいそうな顔をするものだから」
ミノルの胸が、わずかに疼く。
しかし、伝えることなどできずにいた。
この、傷のことを。
それがすべての拒絶の理由になりえることが、ひどく恐ろしくもあったのだ。
「……ごめん、リイウ」
ミノルは、目を伏せる。
「うん……。そう言うと、思ってた」
リイウは、それ以上追及するような真似はしなかった。
しかしそれからというもの、彼の視線はどこか強さを増していく。
まるで、ミノルの心を見透かしていくかのように。
やがて太陽が沈み、深い夜が訪れる。
窓の外で、しゃらりと星が揺れる音がした。
ミノルは眠ることができず、ぼんやりと天井を見上げていた。
胸の奥が、ざわつく。
リイウの言葉が、何度も蘇る。
――好きなんだ。
その声が、夜気の中で確かに響く。
翌日も、その次の日も、リイウは変わらずその笑みをミノルに向けていた。
押しつけがましさなど一切なく、ただ傍に佇むだけである。
しかそその穏やかさが、かえってミノルの心を追い詰めていく。
やがて、ある雨の夜。
ミノルはとうとう、心を決めた。
逃げてばかりではいけない、と。
自らのこの傷を、初めて誰かに見せてみようと。
拒絶されてもいい、気味悪がられても構わない。
それでも、今のままよりは、きっと前に進めるであろうと。
リイウを家に招いたのは、その夜のことであった。
窓の外では、なおも静かな雨が降っていた。
部屋には、淡く揺れる灯りがひとつ。
ミノルは深く呼吸をしてから、震える手で服の裾を持ち上げた。
***
部屋の中に、雨の音が静かに流れ込んでいた。
ぽつり、ぽつりと屋根を叩くその音が、まるで胸の鼓動であるかのように響いていた。
ミノルはランプの灯りを少しだけ弱め、リイウのほうへと向き直る。
彼の灰色の瞳が、揺らめく光の中でやわらかな光を放っていた。
いつものように笑みを浮かべているというのに、その笑みはどこか無理をしているようにも思えていた。
「……話が、あるんだ」
ミノルは、静かに口を開く。
「うん」
リイウは短く返事をし、椅子からそっと立ち上がる。
彼が一歩近づくたびに、空気が静かに熱を帯びていくような気がしていた。
ミノルは、両手で強く服の裾を握りしめていた。
ランプの灯りが、わずかに震えるその手元を照らしていた。
「見せたいものが、あるんだ」
そして、ゆっくりと布をめくり上げる。
露わになった肌の中央に、大きく湾曲した赤い傷痕がはしっていた。
縫合の痕がうねり、古い痛みの記憶がそこに刻まれていたのだ。
「治らない傷がある」
ミノルは、顔を伏せていく。
「この傷を、見せるのが怖かった。きっと気味が悪いと思うだろうし……。何より、俺は……人に見せられるような身体をしていない」
雨が、少し強くなる。
沈黙の中、リイウは一歩、また一歩とミノルのもとへ近づいた。
そして、ためらいもなくその傷跡に手を伸ばす。
「……それで?」
その言葉に、ミノルは息を呑む。
リイウの手のひらが、肌の上をそっと撫でる。
その指先はひどく優しいものであり、慈しむように赤い色へと添えられていく。
「ミノルは、頑張ったんだな」
リイウは、穏やかな声をして告げた。
「こんなに深い傷なのに、……君は今も生きている。……それだけで、すごいよ」
ミノルの視界が、ぼやけて滲む。
何かが、胸の奥でほどけていくような気がしていた。
この傷を見られることを、ずっと恐れていた。
しかしリイウは眉ひとつ動かさず、この傷痕を受け入れたのだ。
「俺、怖かった。嫌われると思って……」
「そんなことで、嫌うわけないよ。君がここまで生きてくれたことのほうが、……ずっと嬉しい」
「……リイウ」
呼んだその名は、震える吐息のように消えていく。
リイウは顔を近づけ、ミノルの額に唇を落とした。
その温度が、静かに流れ込む。
そして頬、喉、胸元へと。
触れられるたびに、ミノルの身は少しずつ力を失い、抗うことができなくなっていく。
それは痛みではなく、溶けるような安堵でもあったのだ。
「君の全てが、綺麗だ」
リイウの声が、耳元で甘く囁く。
ミノルは言葉を失ったまま、ただその温もりにこの身を静かに預けていく。
雨音が外で優しく混ざり合い、やがては二人を包み込む。
わずかな衣擦れの音が響き、互いの肌と肌が静かに触れ合う。
リイウの指が傷の縁をなぞるたびに、ミノルは小さく震えていく。
痛みは、なかった。
ただ、どこか懐かしいような光が流れ込んでくるようでもあったのだ。
「ここに、君が生きてきた証がある。俺にしか、見せなくていい……」
リイウの言葉は、まるで祈りのようでもあった。
その祈りに包まれるかのように、ミノルの心は溶けていく。
やがて二人の呼吸だけが、部屋中に響き渡る。
ミノルはただ、リイウに向けて微笑んでいた。
いつしか雨は止み、窓の外では薄青い霧が漂っていた。
朝が、きたのだ。
ミノルが目を覚ますと、その身はリイウの腕の中にあった。
胸元に頬を寄せれば、鼓動が優しく響いていく。
「おはよう」
リイウの声が、夢の続きであるかのように柔らかな音へと変わる。
ミノルは、かすかに笑いながら挨拶を返した。
「変な夢を、見たような気がする……」
「それは、……どんな?」
「俺の傷が、光ってて……。それが、空に昇っていく夢」
「……それ、夢じゃないかも」
リイウはにこやかに微笑み、ミノルの腹部のあたりを撫でる。
そこに確かにある傷は、昨夜よりも、わずかに淡くなっていたのだ。
「リイウ……?」
「たぶん、君が許せたんだ。……自分のことを」
リイウはそう言って、ミノルの髪を指で梳いていく。
「魔法なんて、たいしたことないんだ……。よく癒えるのは、君の心の力だよ」
ミノルは、その言葉に静かに目を閉じた。
あの日、拒絶の理由にしていた傷が、今はただの模様であるかのように思えていた。
それは痛みなどではなく、確かに、ミノルが生きてきた証でもあったのだ。
ミノルは、静かに息を吐く。
新たな光が、窓の外の世界を染めていく。
二つの太陽が、また昇る。
その光は、もう痛くはなかった。
やがて、ミノルはリイウと共に暮らすようになる。
その方が、互いにとって好ましくもあったのだ。
リイウは片時も離れず、その傷痕ごとミノルのことを愛していく。
ミノルもまた、与えられる愛を感じては穏やかな笑みを浮かべていた。
そして、同じくらいの愛を返したいとも思っていたのだ。
***
朝の光は、透きとおるように静かであった。
窓の外には薄い霧がまだ残り、世界が柔らかい膜の中に包まれているようでもあったのだ。
隣では、リイウが寝息をたてていた。
昨夜のことを思い出せば、まだその身の奥がかすかに震える。
けれどそれは恥といったものではなく、確かに生きているという実感でもあった。
ふと、腹部に視線を落とす。
そこには、まだ傷痕があった。しかし、着実にその色は薄くなっていた。
まるで、夜の中で溶け出した痛みの残滓が、光に溶かされたかのようでもあったのだ。
「……リイウ」
声をかければ、リイウはゆっくりと目を開ける。
その瞳は、朝の霧と同じ色をしていた。
「起きてたの……?」
「うん。……なんか、少し眠れなかった」
「身体、平気?」
「平気。……不思議と、心のほうが楽なんだ」
ミノルがそう微笑むと、リイウは安堵したように息をつく。
簡単な朝食をとりながら、ミノルは何度も迷った末に口を開く。
「ねえ、リイウ。……君は、怖くなかった?」
「なにが?」
「俺の、傷を見て……。……あんなの、普通じゃないだろう?」
リイウはスプーンを置いて、少しだけ笑っていた。
「怖くなんかないよ。むしろ、君の生きざまを見たような気がしたよ」
「生きざま?」
「うん。俺も、ずっと……欠けたものを抱えていたから」
その言葉に、ミノルは思わず顔を上げる。
リイウは窓を見つめながら、ゆっくりと言葉を選ぶように続けていく。
「俺、生まれつき……魔力の流れが歪んでいるんだ。本当は、薬草師なんかじゃなくて、癒やし手になりたかった。でもどれだけ努力しても、人を完全には治せなかった。……君の傷に触れたときも、正直、治せないってわかってた」
ミノルの胸の奥に、小さな痛みがはしる。
「それで……。怖く、なかったのか?」
「ううん。むしろ、嬉しかった」
「嬉しい?」
「だって……。俺にも、届かないものがあるって……知ることができたから」
リイウは、柔らかく微笑んだ。
その表情には、昨夜とは違う静けさがあった。
「ずっと俺は、完全な癒しを与えられないこの力を恥じていた。でも、君の傷を見て……ようやくわかったんだ。傷は、消すためにあるんじゃない。触れて、受け入れるためにあるんだって……」
その言葉は、ミノルの胸の奥へとまっすぐに落ちていく。
世界が、静止する。
二人のあいだに漂う光が、ゆっくりと揺れていくようでもあったのだ。
気づけば、ミノルはリイウの頬に手を伸ばしていた。
「リイウ。……ありがとう」
リイウはその手を取り、静かに唇を寄せていく。
指先が触れ合うその瞬間、二人の間に淡い光が生まれる。
それは魔法などではなく、もっと原初的なものでもあったのだ。
それは、互いを赦し、受け入れる温もり。
「君の傷は、きっとこのまま残ると思う」
「うん」
でも……、それは君の証だから。俺はそんな君を……、ずっと見ていたい……」
ミノルは、小さく息を呑む。
リイウの瞳はあまりにも真剣な光を帯びており、そこに嘘などひとつも感じられなかったのだから。
「俺も……。リイウのことが、好き。大好きなんだ、リイウ」
その言葉は、雨上がりの空に放たれた光のようでもあった。
リイウは、そっと笑った。
「やっと、言葉にしてくれた」
「えっ……」
「気づいてなかった……?告白の返事、もらってなかった……」
ミノルは驚きに目を見開くものの、リイウは腕を広げてその身を包み込む。
「ごめん……」
「いいよ。だって、俺のこと……愛してくれているから……」
「リイウ、大好き。それに、愛してる。これからちゃんと言葉にするよ」
「……嬉しい」
二人は、強く抱きしめ合う。
もう夜のような熱ではなく、朝の光のような爽やかな温もりで。
手のひらの下に感じる鼓動が、確かに生きていると告げていた。
窓の外では霧が晴れ、遠くの森が黄金色に光りはじめていた。
鳥たちの声が溶け、風がやわらかに吹き抜ける。
この世界のどこにも、完全なものはない。
誰もが少しずつ欠けながら、それでも誰かを想っている。
ミノルは、リイウの胸元に顔をうずめた。
「……俺たち、似てるんだな」
「……うん。欠けたまま、ちゃんと生きている」
その言葉に、ミノルは静かに笑っていた。
――この世界に来た意味を、ようやく見つけたような気がした。
いくら薄くなっても、この傷は決して消えはしない。
しかし、それを抱きしめてくれる愛しい人がいる。
その事実が、何よりも温かく感じられていた。
窓の外で、二つの太陽が重なり合う。
その光は柔らかく、やがて二人の影をひとつに溶かしていくのであった。
END
―――――――――――――――――
目を開けたとき、ミノルは見慣れぬ空の下にいた。
霞んだ光がやわらかく降り注ぎ、空気はどこかほのかな甘さを秘めていた。
辺り一面に木々が生い茂り、爽やかな風が若葉を揺らす。
見上げれば、二つの太陽が空に滲んでいた。
昼と夕暮れとが、溶け合うような不思議な光景。
――なんだ、夢か。
そう思ったのも束の間、頬をなぞった風の感触があまりにも現実的で、ミノルは思わず頬をつねる。
鈍い痛みが走り、これが現実であることを知ったのだ。
思わず衣服に手を入れて、胸から下にかけて、腹部に大きく残る手術痕を無意識のうちに押さえつけた。
指先に触れたその感触はまだ固く、淡い痛みを宿していた。
「……やっぱり、あるんだな」
ぼんやりと呟いた声は、森へと深く吸い込まれていく。
異世界転移、というありふれた言葉が頭をよぎるものの、その現実味は非常に薄くもあったのだ。
それからの数日、ミノルは必死にこの世界の言葉と習慣を覚えていく。
運よく、森の外れにある村で助けられ、寝床と仕事を与えられていたのだ。
村人たちは皆、一様に穏やかであり、誰も彼の過去を詮索するようなことはしなかった。
それでも、夜になるとミノルの手は腹部の傷に触れてしまう。
何度も、治癒魔法を試みた。
しかし、いかなる術者の手を借りても、その傷は薄くなることすら叶わない。
「こっちでも、治らないか……」
この世界では、魔法で腕を生やすこともできるという。
けれど、自らのこの傷だけは、まるで別の世界の法則に縛られているかのように、いつまでも残り続けていたのである。
その事実は、ミノルを静かに蝕んでいく。
そのような彼に、最初に声をかけたのがリイウであった。
リイウは隣の家に住む青年で、金色がかった淡い髪と、少し眠たげな灰色の瞳を持っていた。
猫のように秘めやかな足取りで、気づくといつも傍にいた。
「ミノル、また考えごとしてた?」
「えっ……?」
「顔に、出てる。……たぶん、寂しそうな顔」
そう言って笑う彼の声は、春風のように柔らかなものでもあったのだ。
初めて耳にしたそのとき、そのあまりのあたたかさに、ミノルはしばらく言葉を返せずにいた。
リイウは村では薬草師をしており、些細な怪我であっても必ず手当てを施した。
ある日、ミノルが市場で指を切ったときも、すぐさまリイウは駆けつけた。
「ほら、見せて」
リイウの指先は温かく、軽く光を帯びていた。
魔力がなせる術であった。
小さな切り傷が、あっという間に消えてしまう。
「……ありがとう」
「そんな顔しないで。治るのは、当たり前のことだよ」
リイウのその笑みは、痛みの代わりにミノルの胸を締めつけた。
しかし腹部の傷だけは、リイウに見せることができずにいた。
「きっとリイウも、気持ち悪いって思うよな……」
そのような思いが、胸の奥に巣食う。
***
季節が移り変わるように、日々は流れるように過ぎていく。
ミノルはリイウの優しさに支えられながらも、心のどこかでその距離を置いていた。
この傷がある限り、誰かに愛される資格はない。
そのように、信じながら。
ある、夕暮れのことであった。
二つの太陽が重なり合い、世界が黄金色に染まる頃。
リイウが、いつになく真剣な表情でこう言った。
「ミノル。俺、君のことが好きなんだ……」
その言葉が、わずかに空気を震わせた。
風が止まり、時が、一瞬だけ息を潜めたように感じていた。
ミノルは、ただ呆然とリイウの姿を見つめていた。
告白など、これまでのミノルの人生において、無縁なものであると思っていた。
「……どうして、俺なんかを?」
声が、掠れた。
リイウは小さく首を傾げ、少しだけ笑っていた。
「どうしてって……。なんだか、放っておけなかったんだ。君はときどき、すごく遠くに行ってしまいそうな顔をするものだから」
ミノルの胸が、わずかに疼く。
しかし、伝えることなどできずにいた。
この、傷のことを。
それがすべての拒絶の理由になりえることが、ひどく恐ろしくもあったのだ。
「……ごめん、リイウ」
ミノルは、目を伏せる。
「うん……。そう言うと、思ってた」
リイウは、それ以上追及するような真似はしなかった。
しかしそれからというもの、彼の視線はどこか強さを増していく。
まるで、ミノルの心を見透かしていくかのように。
やがて太陽が沈み、深い夜が訪れる。
窓の外で、しゃらりと星が揺れる音がした。
ミノルは眠ることができず、ぼんやりと天井を見上げていた。
胸の奥が、ざわつく。
リイウの言葉が、何度も蘇る。
――好きなんだ。
その声が、夜気の中で確かに響く。
翌日も、その次の日も、リイウは変わらずその笑みをミノルに向けていた。
押しつけがましさなど一切なく、ただ傍に佇むだけである。
しかそその穏やかさが、かえってミノルの心を追い詰めていく。
やがて、ある雨の夜。
ミノルはとうとう、心を決めた。
逃げてばかりではいけない、と。
自らのこの傷を、初めて誰かに見せてみようと。
拒絶されてもいい、気味悪がられても構わない。
それでも、今のままよりは、きっと前に進めるであろうと。
リイウを家に招いたのは、その夜のことであった。
窓の外では、なおも静かな雨が降っていた。
部屋には、淡く揺れる灯りがひとつ。
ミノルは深く呼吸をしてから、震える手で服の裾を持ち上げた。
***
部屋の中に、雨の音が静かに流れ込んでいた。
ぽつり、ぽつりと屋根を叩くその音が、まるで胸の鼓動であるかのように響いていた。
ミノルはランプの灯りを少しだけ弱め、リイウのほうへと向き直る。
彼の灰色の瞳が、揺らめく光の中でやわらかな光を放っていた。
いつものように笑みを浮かべているというのに、その笑みはどこか無理をしているようにも思えていた。
「……話が、あるんだ」
ミノルは、静かに口を開く。
「うん」
リイウは短く返事をし、椅子からそっと立ち上がる。
彼が一歩近づくたびに、空気が静かに熱を帯びていくような気がしていた。
ミノルは、両手で強く服の裾を握りしめていた。
ランプの灯りが、わずかに震えるその手元を照らしていた。
「見せたいものが、あるんだ」
そして、ゆっくりと布をめくり上げる。
露わになった肌の中央に、大きく湾曲した赤い傷痕がはしっていた。
縫合の痕がうねり、古い痛みの記憶がそこに刻まれていたのだ。
「治らない傷がある」
ミノルは、顔を伏せていく。
「この傷を、見せるのが怖かった。きっと気味が悪いと思うだろうし……。何より、俺は……人に見せられるような身体をしていない」
雨が、少し強くなる。
沈黙の中、リイウは一歩、また一歩とミノルのもとへ近づいた。
そして、ためらいもなくその傷跡に手を伸ばす。
「……それで?」
その言葉に、ミノルは息を呑む。
リイウの手のひらが、肌の上をそっと撫でる。
その指先はひどく優しいものであり、慈しむように赤い色へと添えられていく。
「ミノルは、頑張ったんだな」
リイウは、穏やかな声をして告げた。
「こんなに深い傷なのに、……君は今も生きている。……それだけで、すごいよ」
ミノルの視界が、ぼやけて滲む。
何かが、胸の奥でほどけていくような気がしていた。
この傷を見られることを、ずっと恐れていた。
しかしリイウは眉ひとつ動かさず、この傷痕を受け入れたのだ。
「俺、怖かった。嫌われると思って……」
「そんなことで、嫌うわけないよ。君がここまで生きてくれたことのほうが、……ずっと嬉しい」
「……リイウ」
呼んだその名は、震える吐息のように消えていく。
リイウは顔を近づけ、ミノルの額に唇を落とした。
その温度が、静かに流れ込む。
そして頬、喉、胸元へと。
触れられるたびに、ミノルの身は少しずつ力を失い、抗うことができなくなっていく。
それは痛みではなく、溶けるような安堵でもあったのだ。
「君の全てが、綺麗だ」
リイウの声が、耳元で甘く囁く。
ミノルは言葉を失ったまま、ただその温もりにこの身を静かに預けていく。
雨音が外で優しく混ざり合い、やがては二人を包み込む。
わずかな衣擦れの音が響き、互いの肌と肌が静かに触れ合う。
リイウの指が傷の縁をなぞるたびに、ミノルは小さく震えていく。
痛みは、なかった。
ただ、どこか懐かしいような光が流れ込んでくるようでもあったのだ。
「ここに、君が生きてきた証がある。俺にしか、見せなくていい……」
リイウの言葉は、まるで祈りのようでもあった。
その祈りに包まれるかのように、ミノルの心は溶けていく。
やがて二人の呼吸だけが、部屋中に響き渡る。
ミノルはただ、リイウに向けて微笑んでいた。
いつしか雨は止み、窓の外では薄青い霧が漂っていた。
朝が、きたのだ。
ミノルが目を覚ますと、その身はリイウの腕の中にあった。
胸元に頬を寄せれば、鼓動が優しく響いていく。
「おはよう」
リイウの声が、夢の続きであるかのように柔らかな音へと変わる。
ミノルは、かすかに笑いながら挨拶を返した。
「変な夢を、見たような気がする……」
「それは、……どんな?」
「俺の傷が、光ってて……。それが、空に昇っていく夢」
「……それ、夢じゃないかも」
リイウはにこやかに微笑み、ミノルの腹部のあたりを撫でる。
そこに確かにある傷は、昨夜よりも、わずかに淡くなっていたのだ。
「リイウ……?」
「たぶん、君が許せたんだ。……自分のことを」
リイウはそう言って、ミノルの髪を指で梳いていく。
「魔法なんて、たいしたことないんだ……。よく癒えるのは、君の心の力だよ」
ミノルは、その言葉に静かに目を閉じた。
あの日、拒絶の理由にしていた傷が、今はただの模様であるかのように思えていた。
それは痛みなどではなく、確かに、ミノルが生きてきた証でもあったのだ。
ミノルは、静かに息を吐く。
新たな光が、窓の外の世界を染めていく。
二つの太陽が、また昇る。
その光は、もう痛くはなかった。
やがて、ミノルはリイウと共に暮らすようになる。
その方が、互いにとって好ましくもあったのだ。
リイウは片時も離れず、その傷痕ごとミノルのことを愛していく。
ミノルもまた、与えられる愛を感じては穏やかな笑みを浮かべていた。
そして、同じくらいの愛を返したいとも思っていたのだ。
***
朝の光は、透きとおるように静かであった。
窓の外には薄い霧がまだ残り、世界が柔らかい膜の中に包まれているようでもあったのだ。
隣では、リイウが寝息をたてていた。
昨夜のことを思い出せば、まだその身の奥がかすかに震える。
けれどそれは恥といったものではなく、確かに生きているという実感でもあった。
ふと、腹部に視線を落とす。
そこには、まだ傷痕があった。しかし、着実にその色は薄くなっていた。
まるで、夜の中で溶け出した痛みの残滓が、光に溶かされたかのようでもあったのだ。
「……リイウ」
声をかければ、リイウはゆっくりと目を開ける。
その瞳は、朝の霧と同じ色をしていた。
「起きてたの……?」
「うん。……なんか、少し眠れなかった」
「身体、平気?」
「平気。……不思議と、心のほうが楽なんだ」
ミノルがそう微笑むと、リイウは安堵したように息をつく。
簡単な朝食をとりながら、ミノルは何度も迷った末に口を開く。
「ねえ、リイウ。……君は、怖くなかった?」
「なにが?」
「俺の、傷を見て……。……あんなの、普通じゃないだろう?」
リイウはスプーンを置いて、少しだけ笑っていた。
「怖くなんかないよ。むしろ、君の生きざまを見たような気がしたよ」
「生きざま?」
「うん。俺も、ずっと……欠けたものを抱えていたから」
その言葉に、ミノルは思わず顔を上げる。
リイウは窓を見つめながら、ゆっくりと言葉を選ぶように続けていく。
「俺、生まれつき……魔力の流れが歪んでいるんだ。本当は、薬草師なんかじゃなくて、癒やし手になりたかった。でもどれだけ努力しても、人を完全には治せなかった。……君の傷に触れたときも、正直、治せないってわかってた」
ミノルの胸の奥に、小さな痛みがはしる。
「それで……。怖く、なかったのか?」
「ううん。むしろ、嬉しかった」
「嬉しい?」
「だって……。俺にも、届かないものがあるって……知ることができたから」
リイウは、柔らかく微笑んだ。
その表情には、昨夜とは違う静けさがあった。
「ずっと俺は、完全な癒しを与えられないこの力を恥じていた。でも、君の傷を見て……ようやくわかったんだ。傷は、消すためにあるんじゃない。触れて、受け入れるためにあるんだって……」
その言葉は、ミノルの胸の奥へとまっすぐに落ちていく。
世界が、静止する。
二人のあいだに漂う光が、ゆっくりと揺れていくようでもあったのだ。
気づけば、ミノルはリイウの頬に手を伸ばしていた。
「リイウ。……ありがとう」
リイウはその手を取り、静かに唇を寄せていく。
指先が触れ合うその瞬間、二人の間に淡い光が生まれる。
それは魔法などではなく、もっと原初的なものでもあったのだ。
それは、互いを赦し、受け入れる温もり。
「君の傷は、きっとこのまま残ると思う」
「うん」
でも……、それは君の証だから。俺はそんな君を……、ずっと見ていたい……」
ミノルは、小さく息を呑む。
リイウの瞳はあまりにも真剣な光を帯びており、そこに嘘などひとつも感じられなかったのだから。
「俺も……。リイウのことが、好き。大好きなんだ、リイウ」
その言葉は、雨上がりの空に放たれた光のようでもあった。
リイウは、そっと笑った。
「やっと、言葉にしてくれた」
「えっ……」
「気づいてなかった……?告白の返事、もらってなかった……」
ミノルは驚きに目を見開くものの、リイウは腕を広げてその身を包み込む。
「ごめん……」
「いいよ。だって、俺のこと……愛してくれているから……」
「リイウ、大好き。それに、愛してる。これからちゃんと言葉にするよ」
「……嬉しい」
二人は、強く抱きしめ合う。
もう夜のような熱ではなく、朝の光のような爽やかな温もりで。
手のひらの下に感じる鼓動が、確かに生きていると告げていた。
窓の外では霧が晴れ、遠くの森が黄金色に光りはじめていた。
鳥たちの声が溶け、風がやわらかに吹き抜ける。
この世界のどこにも、完全なものはない。
誰もが少しずつ欠けながら、それでも誰かを想っている。
ミノルは、リイウの胸元に顔をうずめた。
「……俺たち、似てるんだな」
「……うん。欠けたまま、ちゃんと生きている」
その言葉に、ミノルは静かに笑っていた。
――この世界に来た意味を、ようやく見つけたような気がした。
いくら薄くなっても、この傷は決して消えはしない。
しかし、それを抱きしめてくれる愛しい人がいる。
その事実が、何よりも温かく感じられていた。
窓の外で、二つの太陽が重なり合う。
その光は柔らかく、やがて二人の影をひとつに溶かしていくのであった。
END
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