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第一章 ロストサンタクロース

孤独のナイフ (1) /外ヶ浜銀次郎

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 外ヶ浜園美は、同じ言葉を繰り返した。穏やかな表情だった。寂しそうな、でも嬉しそうな、そんな矛盾しない二つの感情が見てとれる。

「あの人が迎えに来てくれた」

 と、彼女は繰り返した。

「あの人がいるなら、あそこも恐くないね。ほら、あの暗くて静かな場所ね。見えるでしょ?」

 白木作りの祖霊舎を指差し、園美は穏やかに巽を見つめていた。

 園美の体調が崩れてから、彼女は夜中に祖霊舎を指して、「あそこは怖い」と怯えることがよくあった。それが昨夜からは一変し、まるですべての覚悟が決まったような具合である。

「あの人って、じいさん?」

 桧で作られた祖霊舎には、青々とした榊がよく映えていた。祖先を祀るその壇を見つめながら、巽は亡き祖父に思いを馳せた。彼が生まれるころには、とうに亡くなっていた祖父。父の龍二でさえほとんど憶えていないらしく、巽にとっては霊代たましろと呼ばれる小さな箱である。もしくは、埋葬林にそびえる死者の木だ。

「そう、おじいちゃん。良い人よ。銀次郎がいるなら怖くないね」

 祖父の名を聞いた瞬間、巽はなにかを思い出しかけた。祖母の容態が急変した昨夜の事。しかし、涼やかな音と共に記憶にモヤがかかる。やがて思い出そうとしたことさえ忘れ、どうでもよくなった。

「ばあちゃん。もうすこししたら、優衣子と不魚住も会いに来るって……」
「そうなの。ちゃんと挨拶できるのは、嬉しいことね」

 巽の手をやさしく包み、ゆっくりとさする祖母の暖かな手。その手は、もうすぐ木の枝に変わってしまうのだと、巽は改めて実感した。彼の目頭が熱をもち、鼻の奥がつんと痛んだ。

「巽……」

 鼻をすすり、どうにか涙を堪えようとする巽に対し、園美は幼子をあやすかのように話しかける。

「腕時計のことは、気にしなくていいからね」
「えっ……?」
「巽が本当に大切にしていたこと、おばあちゃんは知ってるから。そんな顔しないで、笑っていなさい。巽の笑った顔が、いちばん好きなの」

 巽の奮戦むなしく、涙は止めどころなくこぼれてきた。

「あらら……。大丈夫。大丈夫だからね」

 横たわる布団から、すこしだけ体を起こし、園美は巽の頭をやさしく抱き寄せた。

「せっかく貰ったのに、失くしてごめん……。ごめんなさい……」

 巽が幼いころ、誕生日プレゼントとして、祖母からもらった腕時計。とても大切にしていた。宝物だった。けれど、友人たちと海に出かけた際、紛失してしまった。彼はそのことをずっと悔やみ、祖母に言い出せずにいたのだ。

「いいのいいの。物ではないし、形ではないの。おばあちゃんが巽にあげたのは、時計だけど時計ではないんだもの。おばあちゃんが嬉しいのは、形ではないの。巽は失くしてないよ。ちゃんと、いまでも大切にしてくれてるもの。だから、気にしなくていいの。大丈夫、大丈夫」

 呻き声ともとれる声で、巽は頷いた。なんども頷き、祖母の暖かな手を、これが最後と確かめていた。



 ◆



「腕時計のこと、よかったね」

 制服姿の優衣子が、巽の隣で小さく呟いた。

「そうだな」

 なにも付いていない左腕に触れ、巽は短く応じた。
 細かい傷が目立つ古めかしい腕時計。それでも、よく手入れされていて、ぴかぴかに輝いていた。無骨で、頑丈で、格好良かった。いまでも巽の脳裏に焼きついている。憧れの腕時計。

「あれ、小学校のときだよね、失くしたの? ずっと気にしてたのか」
「まあな。じいさんが着けてた時計だっていうし……。ばあちゃんだって、大事にしてた」
 と、腫れぼったいまぶたを細め、巽はすこし笑う。
「いまのいままで気にしてたなんて、おかしいよな?」
「おかしい」
 そう言って、優衣子もひかえめに吹き出す。
「お気に入りすぎて、着けたまま海に入るとか……。しかも大人用だからベルトがガバガバ。そりゃ、流されるよ」
「おかしいって、そっちかよ」
「生活防水だからなって、得意満面で……。巽はふだん海中で生活してるのか」
「う、うるせえな」
「おばあちゃんも、きっと可笑しくてたまらなかったと思う。そんな巽が可愛くて、きっと笑ってたと思う」

 巽の眉間がひしゃげる。彼は詰襟の学生服の袖で、顔を覆った。

「そうだといいな」
「きっとそうだよ」

 かすれた巽の声を、かすれた優衣子の声が肯定した。

 巽の祖母――外ヶ浜園美は、容態の急変から数日後、静かに息を引き取った。

 葬儀は岩木林宮にて執り行われており、宮司である不魚住将は凛とした立ち振る舞いを見せている。しかし、泣きはらしたであろう彼の目は、巽と優衣子同様、すこし赤みを帯びていた。

 外ヶ浜園美は、すでに棺から花壇に移されていた。埋葬林の手前に設けられているその花壇は、白く小さな花で埋め尽くされている。その花に囲われるようにして、彼女の遺木が横たえられていた。

 葬儀に参列した人々は、花壇に掘られた穴を少しずつ埋めていく。一人ずつ順番に、取っ手部分に装飾の付いたスコップを使って、遺木を土で覆っていく。参列者の中には、金髪に碧眼の女性の姿もあった。

 遺木は花壇に埋められて数日もすると、埋葬林へ取り込まれるように消えてしまう。そうやって遺木を飲み込み続ける埋葬林は、死者の数だけ広大さを増していくのだろう。

 葬儀は粛々と行われた。押し殺した静けさが、あたりを支配している。揺れる木々の葉擦れの音、参列者の歩く音、スコップが土をすくう音、明確に聞こえる音はそれだけだった。

「巽、お前の番だぞ」

 父親に呼ばれ、残すのは親族のみとなったことに気付いた巽。目の前で切なげな微笑を浮かべる外国人の女性から、巽はスコップを受け取る。おかっぱの金髪が特徴的なその人は、青い瞳を伏せ、巽と両親に丁寧に礼をして立ち去った。

 巽はどこかぼんやりとしていた頭を振り、晴天に見守られながら花壇の石畳を歩いた。遺木が安置されている花壇中央には、不魚住が装束姿で待機していた。
 不魚住と目礼を交わし、巽はスコップを土に差し入れた。

 眼下には祖母の遺木。すでにほとんど土に埋もれていた。かすかに見える首元から、青々とした若い葉を付けた枝が伸びだしている。きしきしと音を立てている枝は、普通の植物ではありえない速度で成長しているのだ。

 人は死ぬと木になる。死者の木の苗木になる。青く、若い芽を出して成長していく。そして、永劫たる死者の園へと飲み込まれ、墓守の加護を得るのだ。

「じゃあね、ばあちゃん。いままで、ありがとう。じいさんによろしく」

 その巽の言葉に、埋葬林が身じろぎをしたような奇妙なざわめきを発した。

「墓守様が迎えにいらしたのかも知れません」

 驚いていた巽の内心を読み取ったのか、傍らに立つ宮司がそう言った。

「うちのばあちゃんを頼みますって、伝えておいて」
「うん……」

 不魚住は、すこし辛そうに頷いたのだった。
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