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38.絵画の街②
しおりを挟む朝の陽ざしが差し込む宿の食堂に、湯気の立つ豆のスープの香りと、焼きたてのパンの匂いが広がっていた。
木造の床を歩く人々の足音、窓の外では、どこかの画家がキャンバスに向かう筆の音。街のどこを切り取っても「絵」に包まれたような、そんな朝だった。
「……やっぱり、この街は空気まで絵の具みたいな匂いがしますね」
マヌルがパンをかじりながら呟く。
「わかります!石畳からも絵の具の匂いがして、変な感じ……」とメルル。
「壁も、窓も、ぜんぶ絵画か装飾だ。色彩過剰ってやつだな」とワノツキが苦笑する。
「わたし、ちょっと楽しいな」
メリィが湯気の立つスープをすくいながら微笑む。
「いろんな絵が並んでる街って、なんか夢の中みたい」
「……油断するなよ。夢と現は簡単に入れ替わるもんだ」
ネロはパンをちぎりながら、ちらりと窓の外を見やった。遠くに見える、アルセント最大のミュージアム。その古びた屋根が、どこか影のように揺れていた。
そんな折、食堂の扉が控えめにノックされた。
「失礼、よろしいでしょうか」
顔を覗かせたのは、昨夜訪ねてきた男——オルゲンだった。支配人らしい落ち着いた態度だが、目の下の隈は昨日より濃くなっている。
「おはようございます。……お約束どおり、ミュージアムをご案内いたします。どうか……どうかお気をつけて」
食事を終え、荷をまとめた一行は、オルゲンの案内でミュージアムへ向かった。
街の中心——絵画の殿堂と呼ばれるその建物は、朝日に染まり、奇妙な静けさを漂わせている。
「こちらが問題の絵画です……」
ミュージアム内部。広々とした展示室の奥、赤い布で囲われた区画の前で、オルゲンが立ち止まる。
空間の空気がひやりと変わった。
「『赤い間者』……だったか」
ズメウが無表情に呟く。
かつてこの街で名を馳せた画家、アデルの晩年作……
「そう。ですが、この絵のせいで……警備員たちが消えました。誰も、戻っていません。囲いをしても……血の跡は続き……」
オルゲンの声が震える。
「閉館中でも、夜になると……この部屋から声が聞こえると……。昨日も、誰もいないのに足音だけが響いた、と……」
タカチホが目を細め、絵を見据える。
「これは……間違いなく、悪夢の力が染み出していますねェ」
「ふわっ……」
双子が同時に肩をすくめた。
「今……聞こえました?」
「……うん。誰か、呼んだような……」
メリィがじっと絵を見つめる。
「……生きてる。誰か、まだあの中で……生きてる気配がする」
「ふむ……」
ズメウの目が細められる。
「かすかにだが……悪夢とは違う、人の気配が残っている。……行方不明の者たちか」
「ちょっと待て」
ネロが囲いの向こうを見据えた。
「……なんだ、あの絵……。人影、増えてないか?」
「「……っ!?増えてる……!」」
双子が同時に声を上げた。
「今さっき見た時は、絵には一人しか描かれてなかったはずだよな……」とワノツキ。
確かにそこには、一人だけ——暗いコートの人物が、赤い壁を背に立っている絵だった。だが今、その人物の後ろに……薄ぼんやりと、人影がもう一つ、また一つと増えていく。
「まるで……こっちに近づいてるみたい……!」
マヌルが小さく叫ぶ。
ズル……ズル……。
音がした。
絵の中で、足音が鳴った——と錯覚する。
「離れろ!」
弾かれたようにネロが叫んだ次の瞬間。
絵画から、無数の赤黒い腕が伸びた。囲いを最も簡単に突き破り、まるで生き物のように、絡みつくように、こちらへ。
「くっ……!」
一行はそれぞれ武器に手を伸ばす——が、その前に、視界が歪んだ。赤い霧、血のような空気。足元が沈む。
——あれ?ここは……
ネロが、ふと呟いた。
「……ここは……ウールネスト……?」
見覚えのある森、懐かしい匂い。
「……おかしい……こんなはず……」
視界の隅で、仲間たちが、次々に霧の中へと消えていく。
「!!」
「おい、待て!メリィ!ズメウ!ワノツキ!!」
声は届かない。霧が深くなる。空間は割れ、一行は一人、また一人と、孤立させられていく——。
視界が砂嵐に塗りつぶされた。
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