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98. 空の上、隔たるもの(後編)
しおりを挟む「……あんた達も、俺たちを止めに来たんだろ?」
青年の声は怒気と絶望に濡れていた。
メリィたちが踏み入った粗末な家の中、そこには数名の翼を持たぬ人々が身を寄せていた。彼らの瞳には、痛みと疲弊、そして深い怨嗟が宿っている。
「違います。止めに来たんじゃ──」
言いかけたメリィの言葉を遮るように、青年は赤く脈打つ結晶の入った瓶を掴み、床へと叩きつけた。
「もう遅いんだよ!!!」
瓶が砕けた瞬間、黒煙のような瘴気が床を這い、触れた者の皮膚にしみ込んでいく。
青年の体が震え、呻き声とともに異形へと変わっていく。
「う……あ、あああアアアッ!」
地を震わすような、獣のような叫びが響く。隣にいた老人も、少女も、巻き込まれ、悲鳴の中で肉体が捻れ、牙と爪が伸びる。
「お前達が来なケレバ……!」
ひとり、最後に取り込まれた女が、血走った目でそう呟いた。
「逃げるぞ!」
ネロの声に促され、メリィたちは家を飛び出す。直後、壁をぶち破って現れたのは、蠢く異形の怪物だった。
複数の頭がのたうち、嘶くような咆哮を上げる。口からは黒煙と瘴気が絶え間なく漏れ、膨れ上がった体を地ズルズルと引き摺るように、怪物はゆっくりと街の中心へと進み出した。
「吸わないで下さい!あの瘴気、気を抜けば命を奪いますヨ!」
袖で口元を押さえながら叫ぶタカチホ。
双子は顔を引きつらせながらシーダを抱きしめている。
「シーダ、大丈夫です!こわくないですよ!」
「見ててください!パパがやっつけてくれますから!」
シーダの紫の瞳が、じっと前線に立つズメウを見つめていた。
メリィは唇を噛みしめていた。
「早く止めなきゃ……!」
そう呟いた時だった。
──本当に、止めるべきなのか?
誰のものとも知れない、けれどどこか深く響く声が、メリィの脳裏に届いた。
周囲の仲間たちには聞こえていないようだった。ネロも、タカチホも、ズメウすら、怪訝そうな素振りは見せていない。
「……誰?」
メリィが声に出しても、返事はなかった。
──この街の者を守る価値があるのか?
再び、頭の中に響く声。
その問いは、まるで心の奥底を突くような静けさと、鋭さを持っていた。
確かに、この街の人たちは──冷たかった。
翼がないというだけで蔑み、排除しようとした。
それでも、とメリィは思う。
「……この街の人たちが、皆そうなわけじゃない。
きっかけさえあれば、優しくなれる人もいるかもしれない。
それを、何も知らずに潰すなんて、わたしは……したくない」
──それが、お前の在り方か。
その言葉を最後に、声はすっと消えた。
不思議と、心の内は静かだった。恐怖も怒りもない。ただ、やるべきことがはっきりしていた。
「くっそ……再生しやがる!」
ワノツキが大槌で怪物の足を叩き潰すも、潰れた肉がズルリと蠢き、元通りに戻っていく。
「結晶は……内部か。皮膚が厚すぎて刃が通らない!」
ネロが舌打ちする。
「ズメウ!街の被害は抑えられそうか!?」
「問題ない。」
街へ被害が出ないよう加減された力で振り下ろされたハルバードの一閃が、怪物の腹部を深く抉る。
黒い血が噴き出し、肉が裂け、怪物は悲鳴を上げる。内部に埋め込まれた不気味な結晶が露わになった。
ネロが疾走し、刃を振りかざす。だが──
「ッ……かってぇッッ!!」
鋼のような防御力。ネロの剣が弾かれる。
その間にも、怪物の肉はズムズムと音を立てて結晶をネロごと再び包み込もうとしていた。
「ネロ!!」
飛び込んだのはメリィ。
その手にあったのは、鈍く光る大鉈。渾身の力を込めて、結晶へと叩きつける。
「やあぁぁぁあ!!」
ビキィッと音を立て、結晶に亀裂が走る。
だが、その一撃を最後に、メリィとネロは崩れかけた肉の中に呑み込まれていった。
「メリィ!ネロ!!」
ワノツキが叫ぶ。
「落ち着いて下さい。もう、終わってますヨ。」
タカチホの静かな声が響いた。
次の瞬間、怪物の身体が震え──ズルリと崩れ、黒い霧となって霧散する。
メリィとネロは、その中央に無事でいた。だが──
「出て行け!!」
怒声が飛ぶ。広場にいた街の人間たちが、石を投げた。
「無翼どもが来たから災いが起きたんだ!!」
「この街を穢すな!!出て行けェ!!」
怒りと恐怖に飲まれた群衆の声。
「なっ……あいつら……」
ワノツキが怒りに顔を歪めるが、ズメウが手を挙げて制する。
ズメウは無言のまま、咆哮と共に竜の姿へと変貌する。
その巨躯が、広場に降り立つと、群衆は声を失い、ただ立ち尽くす。
「短きもの共よ──」
ズメウの声が広場を震わせた。
「お前達はいつか、その傲慢さゆえに、自らを滅ぼすだろう。」
その言葉を最後に、ズメウは翼を広げ、空へと舞い上がった。
仲間たちを背に乗せ、浮島の街から、離れていく。
空は澄み、雲が流れていた。
だが、彼らの胸には澱のように重たいものが沈んでいた。
誰もが言葉を選んでいるように、しばらくは沈黙が続く。
ただ風の音と羽ばたきの響きだけが、耳に残る。
ようやく、ぽつりと、タカチホの声が響いた。
「怪我は無いですカ?」
シーダを腕に抱きながら、後ろを振り返る。
「わたしは平気だよ」
「オレも、無傷だ。ありがとな」
メリィとネロが順に答えると、タカチホは微笑みを浮かべる。
「それは何より……。ですが、心の傷の方は──まだ癒えそうにありませんネ」
ネロは軽く目を伏せた。
ワノツキが歯噛みするように呟く。
「街を助けようとしたってのに、何で俺たちがあんな事言われなきゃならねぇんだ。
石まで投げやがって……」
その拳が小刻みに震えているのを見て、マヌルがそっと尻尾で包む。
「やな感じでしたよね……」
「いくらなんでも、あれは酷すぎます!」
双子はぴたっとメリィの両脇に寄り添い、怒りをあらわにする。
その中で、メリィは静かに空を見上げる。
星がちらほらと瞬いていた。下界の光よりも遥かにまっすぐで、揺るぎない光。
ぽつりと、メリィが呟く。
「……やり返せば、やり返される。恨みは増して、溝がどんどん深くなる。
でも、差別が無くならない限り、これは無くならない……」
誰もが、その言葉に耳を傾けていた。
「違う事って、そんなにいけないことなのかな?」
彼女の問いは、空へと溶けていくようだった。
やがてタカチホが小さく息をつき、答えるように言った。
「違いは……全てが悪い訳ではありません。
ですが、善を生む場合と、悪を生む場合があります。
そればかりは人の在り様……感情とは複雑なものですネ」
彼の声は静かだったが、どこか深いところに染み入るような響きがあった。
「どちらが正しく、どちらが間違っているかなんて、容易には決められませんヨ。
正義と正義がぶつかることもある。悪意すらも、生まれた場所が違えば形が変わる」
「……だけど」
メリィは、ズメウの背に手を添えながら言った。
「それでも、誰かが変わろうとするきっかけになるかもしれない。
優しくなろうとする心を、わたしは信じたいな…」
その目には涙は無く、ただ確かな意志の光が宿っていた。
「わたしは、そういう“芽”を潰したくない。
それが、わたしの……夢守りとしての在り方だから」
その言葉に、誰も異を唱えなかった。
タカチホがそっと笑う。
「そうですネ。ならば小生は、それを支える補佐として、せいぜい善処させていただきますヨ」
「強くなったな、オマエは……」
ワノツキの呟きは、小さな賞賛に変わっていた。
ネロは、隣でそっとメリィの手を握った。
「じゃあ、オレは傍にいるだけだ。
お前が信じたいって思う限り、その隣に」
ズメウの翼が、大空を切り裂いて進む。
その背には、悩み、怒り、苦しみながらも、諦めない者たちの姿。
それぞれが、それぞれの“違い”を抱えながら、次の旅路へと向かっていく。
そう──夢は、まだ終わらない。
夜が深まろうとも、旅は続いていく。
きっとまた、誰かの夢に出会うために。
──フェザリア。
そこは、翼ある者たちが平和に暮らしている、美しい高原の街。
今もその空気は澄み、空を滑る雲と風の匂いは変わらず人々の頬を撫でていた。
街角の奥、石畳に沿って並ぶ店の一角。
ひっそりと掲げられた看板の先に、小さな診療所があった。
その扉を、ひとりの男が開ける。
優雅な身のこなし。上質な生地のコートとスーツに身を包み、片手には中折れ帽。
その人物──ボア教授は、診療所のカウンターに立つ医師に、穏やかな笑みで語りかけた。
「彼は、私が引き取りましてね。……話を聞くと、彼の姉がこちらにいる、と」
教授の隣には、ひとりの少年。
翡翠色の翼を背に揺らし、年齢はメリィたちとそう変わらないほどに見える。
だがその瞳は、まるで何も映していなかった。
無音の空を眺めるように、焦点の合わない目をただ前へと向けている。
医師は眉根を寄せ、記憶を辿るように言葉を返した。
「確かに……お話を伺うような少女を、お預かりしています。
ただ……あの子はずっと意識が戻らず、もう一年が経とうとしているんです」
「構いませんよ」
ボア教授は静かに笑った。
「彼らを離れ離れにしたくないのです。彼も……一緒にいることを、望んでいますからね」
翡翠の翼の少年──フィズは、返事をすることも、顔を動かすこともなかった。
その手を、教授の手がやさしく包んでいる。
「……ああ、そうでした。こちらは、今まで彼女を診ていただいた謝礼です」
言うなり、教授は懐から布袋を取り出してカウンターに置いた。
袋の口がわずかに開き、中から金貨がこぼれ落ちる。
「……ご、ご丁寧に……っ!」
医師の目が瞬時に変わる。
彼はあわててカウンターを回り込み、診療所の奥へと小走りに消えた。
「すぐにお連れします!少々お待ちください!」
「……ええ。ゆっくりで構いませんよ」
教授は、壁際の椅子に腰を掛けることもなく、ただその場で静かに立っていた。
だがその隣で──フィズは微かに首を傾け、奥の方へと顔を向ける。
そして、足を動かした。
診療所の奥、姉の眠る部屋へと──迷いなく。
「……フィズ?」
教授が声をかけるも、少年はまるで聞こえていないかのようにそのまま歩いていく。
軽やかに、まるで誰かに呼ばれているかのように。
その直後、奥から──鋭い悲鳴があがった。
「ひっ──!?」
「何ッ!?誰か、止めて──!」
「……ああ、待ちきれませんでしたか」
ボア教授は苦笑めいた溜息を吐き、手にしていた中折れ帽を静かに頭へと被った。
目の奥に宿る光は、まるでそれを待ちわびていたように細く、暗い。
「でも、大丈夫ですよ。
すぐに……あなたの姉に、会えますから」
そのまま、教授もまた、診療所の奥へとゆっくり歩を進めた。
扉が静かに閉じる音が、通りに溶けて消える。
──そして、その静寂の裏で何が起こったのかを、知る者はまだいない。
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